マクロビオティックな歯医者さんの食と暮らし                   食養塾 無何有庵の日々

無(む)と空(くう)の癒しの時間の中で、心食動息の一つ一つを共に考えていきたいマクロビオティックなスペース。

いまだからこそ「直耕の思想」

2020年04月10日 14時43分11秒 | 自然医食の基本食
16年前、<マクロビオティックの食と暮らし>をテーマに松見歯科に併設した食養塾 無何有庵を設立したタイミングで、
道元禅師の教えに出会うチャンスに恵まれました。
時を得て、当庵のマクロビオティック料理教室の名前は道元禅師が説いた「典座(てんぞ)教訓」の中から頂きました。

道元禅師は、修行僧だけのことをひたすら思い、毎日、来る日も、来る日も、ご飯を作るという仕事を担うお坊様のことを「飯頭(はんず)」と名付けられました。
ちなみに、おかずを作る係のお坊様は「羹頭(こうず)」と呼ばれています。
この食事を作る係の「飯頭」「羹頭」は<典座>という名を持ち、とても高い役職に位置づけられています。
「典座教訓」には飯頭、羹頭たちへの事細かい決め事と教えが綴られており、今の時代にも通じるありがたい心得でもあります。
飯頭も羹頭も、職を全うすることこそが修行であり、その修業は高職に値すると認めていたほど、道元禅師は「食」をとても大切に捉えていたのです。食は生き方そのものであると捉えていたのではないでしょうか。

とてもありがたく、基礎クラスは「飯」、応用クラスは「羹」。。道元禅師の思いを込め名付けました。

基礎クラス「飯のコース」はご飯を頂くということを中心に置きたいという願いも込めたクラスです。なので、このクラスでは、マクロビオティックで言う、5号食、4号食という段階の食事の構成で献立を組みました。
応用クラス「羹のコース」は動物性食品こそ使いませんが、サラダやデザート(砂糖不使用)までのコース仕立ての献立です。



マクロビオティックの食事法には10段階のレベルがあり、7号食というのが一番シンプルな食事の在り方で玄米ごはんだけというものです。具体的には、最低10日間、一日1合の玄米ご飯を数回にわけて頂く。それ以外は水か三年番茶を350ccから500ccくらいの範囲で許されているという食事体系の究極の在り方です。(7号食は、デトックスの効果が強く、ひ弱になった現代人では、指導者の管理のもとで実施しないと、瞑眩反応(好転反応)による排毒の対応ができない方が多いので、耳齧りでされるのはお勧めできません)

7号から数字が小さくなりマイナスに向うに連れて、動物食や、甘いものの摂取が入ってきます。
私的見解を申しますと、この段階もマクロビオティックの考えに基づいた食事法の範囲なのだと思っております。
つまり、それくらい、マクロビオティックはオールOKだということです。

そして、何をどのように選択するかは「生き方」であるのだというマクロビオティックの教えは道元禅師の教えと繋がるものがあります。
マクロビオティックを根拠なき拡大解釈することなく、ベーシックでありながら、囚われることなく、自由に自己の意思を育みながら感受できるようにありたいと思っております。
「食べることは生き方」なのです。
「生きること」には常に「選択」を突き付けられており、それぞれがそれぞれで選び、それぞれのイノチをそれぞれに生きていきます。
数えきれない選択ミスの積み重ねと、わずかな成功の積み重ねの結果です。
より良き選択を試され、自己の責任を負いながら人類は今に至っているのです。

しかし、私たちは、イノチを守る最も基本の「食べもの」についてさえ「今、自分が、何を、どのくらい食べるべきか」の正しい感覚を失ってしまい、天然の甘みと、化学合成品の判別もおぼつかなくなってしまいました。

おそらく、数万年前までの私たちの祖先の人々は、他の生物と同様に、鋭敏な体覚を持っていたに違いありません。そして、人間が他の動物から大きく進化することになった大脳皮質の発達も、その初期にはこの体覚に基づいて、つまり「アタマはココロと一体となって、イノチを守るために働く」という本来のまともな姿を保っていたはずです。

本来のまともな姿とは、自然界のすべての生物がそうしているように、本能や学習によるチエによって、自分の食べるべきものを選択し、その年の寒さや地震を予知して、安全に暮らすべき場所を定め、敵から身を守って、ふさわしい異性にめぐり合い子孫を残すということです。他の生物がいずれも備えているこのチエを、最も進化したはずの人類はどのように発達させてきたのでしょうか?

本来、科学や哲学というものは、人間の生存意欲と好奇心から出発して、自然界や人間社会の現象事象の実相を探り、その本質本性を追及して、実生活の幸福向上に奉仕しようとする学のことをさすのではないでしょうか?

実際、人間にとって最も必要なことは、自分たちの常識を健全に育成することにあります。

それによって、私たちは時々刻々起こってくる身の周りの事柄を判断し、処置し、未来を予見して、できる限り将来の仕合せをはかって、生命を全うすることができるのです。

あらゆる学問が出そろった感のある今日ですが、それら従来の学問は全て人間の側からの判断を出ないものです。神や仏を云々する場合でさえ人間の側の視野です。

要するに人類は「人間意識」の自我の伸長につれて、かつて人類が持っていた宇宙を生み出した天然と密着した一体感を喪失し、直感性能は退化し、人間の側からの視野に固定してしまったのです。

私たちはこのことを直感し、人間の側の意志やハタラキを極力抑えることにより、天然の姿を感受して、人間の社会を離れ、できるだけ人間的な欲望や関心を没却することに目覚めなくてはいけません。

それによって、生物本来の在り方を学ばなくてはいけません。

自然のここかしこに、八百万の神様を観ることができた、直観力。
潜象の物理を、もう一度取り戻すために、マクロビオティックの哲学、食事法が一役を担うのではないでしょうか。

皆さんは、どうお感じになられるでしょうか?

直耕・・・直ら耕す(てづからたがやす)、それが「自り然る(ひとりする)」にシフトし、天然の姿の感受につながる気がしています。
権力だけではなく、この世の現象潜象全てにおいて支配、被支配のない自立こそ、私たちが生き延びる道です。
「生きることは食べること」
食の選択により、あるようにある自然世への初期化となれば……。
今こそ、直耕の思想を持ち、難を乗り越える時です。