最近詭弁に関する新書を読み始めた。
話者・文脈そして用語自体に意味があることがわかりかけてきた。
思弁そのものは伝達されなければ意味を持ちえず
話者と受け手の関係から普通詭弁と考えられる言明も
そうともいえないという立場もあることがぼんやり見えてきた。
さて川柳に立ち返り
作者・状況をはなれて言葉自体で何かを伝える
コトバの選択自体に意味を持たせると言うこと??
作品を言葉遊びとなじられる
話者・文脈そして用語自体に意味があることがわかりかけてきた。
思弁そのものは伝達されなければ意味を持ちえず
話者と受け手の関係から普通詭弁と考えられる言明も
そうともいえないという立場もあることがぼんやり見えてきた。
さて川柳に立ち返り
作者・状況をはなれて言葉自体で何かを伝える
コトバの選択自体に意味を持たせると言うこと??
作品を言葉遊びとなじられる
私の思いと重なるのではと思います。
同じではなく重なりと書いた意味
はお分かりと思います。
重なり=共感の度合い?
コトバの選択自体に意味を持たせると言うこと??<
小僧もこの??のところで迷って(足踏みして)います。小僧が川柳に入ったのは、どうしょうもない思いを抱えそれを吐き出すためだったようなのですが、自分の想い・状況を575にぶちまけている内に、そのうちそれでは川柳として自立していかなくなったのでした。自分のことを書くのなら日記にでも書いておけばいい。何も作品として人様に見せることではない。川柳として発表する以上は、単なる報告(自分のことであれ世間のことであれ)ではなく、そこに何か他人に伝えるものがないと、と思うこのごろなのですが、さてとなると、何をどうしたらいいのか、五里霧中の有り様です。ただ最近は、やっぱり言葉の力を信じて、575の中に「物語」を成立させることかなあ、とかなんとか思っているのですが……。