【九段坂】10/19「産経」コラム「産経抄」が島倉千代子の「東京だョおっ母さん」が、NHK紅白歌合戦で一度も歌われていないと批判している。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131019/plc13101903250001-n1.html
昭和32(1957)年発表のこの歌は歌詞(野村俊夫)、曲(船村徹)ともによくできていると思う。この歌のことを知っているところをみると、産経抄氏も私くらいの年配なのではないか。
昭和32年というと私が田舎で中学校に進んだ年で、この歌は同年公開の東宝映画「東京だョおっ母さん」の主題歌だ。映画は見ていないので、ラジオで聞いた。この頃は中卒で就職するのが当たり前で、「集団就職」といって「金の卵」である田舎の中卒が集団で東京に就職していた。
この歌は東北の田舎から上京した母親を、東京で就職している娘が東京見物に連れて歩く光景を読み込んだものだ。頃は春、桜が咲いている。
一番では、二重橋と皇居前の風景が、
二番では、戦死した兄と彼が祭られている靖国神社につながる九段坂が、
三番では、浅草の観音様が
それぞれ歌いこまれている。
ことに二番は歌詞と曲がよくマッチしていて、時々、iTUNEでCDを再生して聞くが、
ここの歌詞は前半が、
「やさしかった兄さんが、田舎の話を聞きたいと、
桜の下でさぞかし待つだろ、おっかさん」
となっており、「ああ兄と待ち合わせしているのだな」と思ってしまう。
ところが後半は、
「あれが、あれが九段坂、
逢ったら泣くでしょ、兄さんも」
となっており、待つ兄はもうこの世の人ではないのである。「九段坂」という言葉で靖国神社を象徴している。
この頃はまだ靖国神社にA級戦犯は合祀されておらず、靖国神社に今のようなイメージはなかった。それでも作詞者野村は「靖国」という言葉を避けて、「桜の花」と「九段坂」というシンボルの使用により、戦死した若者を美事に歌っている。
私もこの歌を聴くたびに涙が流れる。やはり昭和32年という時代が生んだ名曲だと思う。
なぜ野村は「靖国」という言葉を避けたのか? 以下は私の推測。
昭和14(1939)年発売の流行歌に塩まさるが歌った「九段の母」(作詞:石松秋二、作曲:能代八郎)があるからだろう。この二番はひどい。
「空を衝くよな大鳥居、こんな立派なお社(やしろ)に
神と祀(まつ)られ、もったいなさよ、
母は泣けます、嬉しさに」
曲もノーテンキな愚作だが、当時は大ヒットだった。
戦後、二葉百合子が再唱したことがあるがヒットしなかった。当たり前だろう、息子が死んで「母は泣けます、嬉しさに」という母親があるものか…
作詞者野村俊夫はこの歌とダブってイメージされることを避けたのであろう。
作曲者の船村徹は実兄が戦死しているが、この曲についてこう書いている。
「母は私が作った曲を褒めたことがない。唯一、『いい曲だ』と言ってくれたのが<東京だョおっ母さん>。
その詞には老いた母親が娘に手を引かれて<九段坂>つまり兄もまつられている靖国神社に詣でる場面が描かれている。」
(船村徹「私の履歴書:歌は心でうたうもの」日経新聞社)
この曲が哀調をにじませているのは、船村には戦争で死んだ兄があり、昭和32年当時はまだ日本共産党のシンパだったこともあり、反戦の意識がことさら強かったからでもあろう。
産経抄氏がこの歌を賛美するのは自由だが、「九段の母」と「東京だョおっ母さん」が作られた時代背景をちゃんと調べて、Comparativeな議論をしてもらいたいと思う。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131019/plc13101903250001-n1.html
昭和32(1957)年発表のこの歌は歌詞(野村俊夫)、曲(船村徹)ともによくできていると思う。この歌のことを知っているところをみると、産経抄氏も私くらいの年配なのではないか。
昭和32年というと私が田舎で中学校に進んだ年で、この歌は同年公開の東宝映画「東京だョおっ母さん」の主題歌だ。映画は見ていないので、ラジオで聞いた。この頃は中卒で就職するのが当たり前で、「集団就職」といって「金の卵」である田舎の中卒が集団で東京に就職していた。
この歌は東北の田舎から上京した母親を、東京で就職している娘が東京見物に連れて歩く光景を読み込んだものだ。頃は春、桜が咲いている。
一番では、二重橋と皇居前の風景が、
二番では、戦死した兄と彼が祭られている靖国神社につながる九段坂が、
三番では、浅草の観音様が
それぞれ歌いこまれている。
ことに二番は歌詞と曲がよくマッチしていて、時々、iTUNEでCDを再生して聞くが、
ここの歌詞は前半が、
「やさしかった兄さんが、田舎の話を聞きたいと、
桜の下でさぞかし待つだろ、おっかさん」
となっており、「ああ兄と待ち合わせしているのだな」と思ってしまう。
ところが後半は、
「あれが、あれが九段坂、
逢ったら泣くでしょ、兄さんも」
となっており、待つ兄はもうこの世の人ではないのである。「九段坂」という言葉で靖国神社を象徴している。
この頃はまだ靖国神社にA級戦犯は合祀されておらず、靖国神社に今のようなイメージはなかった。それでも作詞者野村は「靖国」という言葉を避けて、「桜の花」と「九段坂」というシンボルの使用により、戦死した若者を美事に歌っている。
私もこの歌を聴くたびに涙が流れる。やはり昭和32年という時代が生んだ名曲だと思う。
なぜ野村は「靖国」という言葉を避けたのか? 以下は私の推測。
昭和14(1939)年発売の流行歌に塩まさるが歌った「九段の母」(作詞:石松秋二、作曲:能代八郎)があるからだろう。この二番はひどい。
「空を衝くよな大鳥居、こんな立派なお社(やしろ)に
神と祀(まつ)られ、もったいなさよ、
母は泣けます、嬉しさに」
曲もノーテンキな愚作だが、当時は大ヒットだった。
戦後、二葉百合子が再唱したことがあるがヒットしなかった。当たり前だろう、息子が死んで「母は泣けます、嬉しさに」という母親があるものか…
作詞者野村俊夫はこの歌とダブってイメージされることを避けたのであろう。
作曲者の船村徹は実兄が戦死しているが、この曲についてこう書いている。
「母は私が作った曲を褒めたことがない。唯一、『いい曲だ』と言ってくれたのが<東京だョおっ母さん>。
その詞には老いた母親が娘に手を引かれて<九段坂>つまり兄もまつられている靖国神社に詣でる場面が描かれている。」
(船村徹「私の履歴書:歌は心でうたうもの」日経新聞社)
この曲が哀調をにじませているのは、船村には戦争で死んだ兄があり、昭和32年当時はまだ日本共産党のシンパだったこともあり、反戦の意識がことさら強かったからでもあろう。
産経抄氏がこの歌を賛美するのは自由だが、「九段の母」と「東京だョおっ母さん」が作られた時代背景をちゃんと調べて、Comparativeな議論をしてもらいたいと思う。
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