【韓国国旗の由来】
外国のホームパーティでのタブーは、宗教と政治の話題を持ち出すことだ。このメルマガでも、これらの話題は避けているが、歴史的事実に対する誤解の指摘は、この範疇に入らないと思うので取り上げる。
「慰安婦問題」が騒がれるようになってから、日韓問題の歴史を中心に読んだ本を数えてみたら、150冊を優に超えていた。朝鮮最古の史書「三国史記」(1145年頃成立, 東洋文庫)も読んだ。
日本の「古事記」(712年成立),「日本書紀」(720年成立)が、口述者、筆記者、編集者まで判明し、参考文献まで載っているのに、朝鮮では高句麗・百済・新羅の歴史が、日本の平安時代の末期に相当する時まで書かれなかったのは、王朝が代わる度に、前王朝の公文書を廃滅するという悪しき慣習が持続したためだ。
李氏朝鮮を樹立したのは高麗の王建だが、クーデターを起こし、王位を簒奪し「李氏朝鮮」を創設したのは新羅系の武将李成桂(1335 - 1408)である。元寇の役は、元が高麗を支配していた時代に起こったものだ。(だから高麗・元の連合軍が用いた船は、すべて朝鮮で建造された。)親明政策をとった李成桂は、明の属国となり、明の元号を用い、国号「朝鮮」を明の皇帝から下賜された。
属国の朝鮮には独自の国旗もなく、毎年朝貢使に加えて100人以上の官女を「慰安婦」として貢納していた。
1627年、朝鮮は「後金」(満州人系)の後続国「清」に、「明」に対すると同様の臣下の礼を払わなかったとして、20万の清の大軍により国土を奇襲占領された。特設された「受降檀」で清の皇帝に跪いて拝礼した朝鮮の仁祖王は、王子、王妃などを人実として連れ去られた。
以後、「日清戦争」(1894=明治27年)で清国が負け、日本との講和条約で朝鮮の独立が認められるまでの258年間、朝鮮は清の完全な属国とならざるを得なかった。
この条約で独立が認められた朝鮮は、1897(明治30)年、初めて自前の国号と国家「大韓帝国」が持てたのである。これは「明治維新」と異なり朝鮮政府が独自になしとげたものではない。日本が清に勝ったから可能になったのだ。ことに「黄海の海戦」で日本海軍が清国艦隊を全滅させたのが、戦勝に大きく寄与した。
それに先立ついわゆる「壬午軍乱」(1882=明治18年)では、ソウルの日本大使館が朝鮮軍に焼き討ちされて、日本人の死者が出ているが、清国がいち早く出兵。清は事件の黒幕だった国王高宗の父・摂政大院君を人質として天津に拉致監禁している。およそ250年前の事件とそっくりだ。
朝鮮には宗主国の中国から、自前の元号が許されていなかったので、事件の前に「十干十二支」が付くので煩わしい。これだと60年サイクルで同じ干支(えと)になる。
さて表題に掲げた韓国の国旗だが、あの大極旗は私には日本の国旗「日の丸」からヒントを得たとしか思えない。
中央に 赤と青の右巴(ともえ)が二つ組合わさり、正円になっている。それから離れて2本がペアーになった八卦の卦木が対角線状に4組配置されている。卦木を配置したのは、「易経」の思想もあるだろうが、「日章旗」との差異性を強調するためのものだと感じる。
(出典「ワールドアトラス2000年」集英社、p.153)
日章旗は初め薩摩藩が国籍識別旗として使用していたが、ペリーが浦賀に来たころから、「日本船」の標識として幕府も使うようになった。
勝海舟の咸臨丸は「日章旗」を掲げて太平洋を横断した。
1870=明治3年には海軍の旭日旗とともに、日章旗が国旗として正式に定められている。
朝鮮は若い国王の執政大院君が国政の実権を握り、日本が開国した後も、鎖国政策を続け、キリスト教徒や神父の処刑を止めなかった。朝鮮が初めて外国と修好条約(1876=明治9年)を 結んだのは日本で、軍艦雲楊号による「江華島事件」が起きた翌年である。朝鮮が国際社会に開国したのは、この条約以後のことだ。
日本は早くも廃藩置県の年、1871=明治4年に「岩倉欧米使節団」を派遣し、当時の閣僚の半数(岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など)が2年かけて、欧米の先進文明を視察した。また女性を含む多数の留学生を随伴し、各国に留学させた。指導者の見聞と留学により育った人たちが、日本の近代化に大きく貢献したのは間違いないだろう。
李氏朝鮮は開国後、日本に使節団を6回日本に送っている。
①(1876=明治9年):「第一次修信使」
②(1880=明治13年);「第二次修信使」
③ (1881=明治14年):「紳士遊覧団」62名の派遣(この時のリーダーが開化派官僚の朴泳考)。
④ (1881/12=明治14年):開化派官僚金玉均と徐光範の日本派遣。
⑤(1882=明治15年):「日本公使館焼き討ち・殺人事件」の謝罪使として金玉均と朴泳考が日本を訪問した。この時に行きの船中で二人が相談して考案したのが「太極旗」の原案である。
すでに日本を訪問し、福沢諭吉にも会っていた金玉均は朴泳考より約10歳年上で、「独立国には国旗が必要」ということを学んでいた。二人は「開化党」に属し、金玉均がそのリーダーだった。よって国旗デザインでも、彼が主導した可能性が高い。
諭吉が「脱亜入欧論」を唱えたのは、「大韓民国」の閔妃が、諭吉が支援していた金玉均を上海で暗殺したので、もう朝鮮はダメだと思ったからだという説もあるほどだ。
この間、韓国の朝鮮日報が読者意見を3回に亘り報じたが、「韓国政府の言い分が非常識」という意見が約7対3で多数派を占めていた。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/10/13/2018101300369.html
韓国メディアの記事は知的韓国人の本当の感情とは乖離していると思った。
要は日本の週刊誌や一部の新聞と同じことだ。
いま、Critical Readingという言葉が流行りつつあるが、一連の文章を読んですぐに自己矛盾や論理矛盾、事実誤認に気づけないようだと、日本でもSNCなどによりポピュリズムが台頭するだろうと思う。
「大極旗」の話に戻ろう。その後、「八卦」が「四卦」に減らされたり、卦木が短く分割されたりというマイナーなチェンジはあるが、中心が正円でそれが赤と青の巴の組合せからなりたっているという、基本デザインは変わっていない。
日本の「明治維新」をモデルとした開化派官僚は、なんと国旗まで模倣したのである。
済州島での観艦式に際して、韓国政府が日本の海上自衛隊に対して「旭日旗」を掲げるな、あれは「戦犯旗」だと理不尽な主張を行ったが、日本は韓国と戦争していないし、太平洋戦争での交戦国でもない。
「東京裁判」にも韓国は参加を認められていない。
よって韓国から「戦犯」呼ばわりされる理由はない。
10/13「朝日」はソウルの牧野愛博記者の署名記事で「参加10ヶ国(たった!)のうち、7ヶ国が軍艦旗を使用した」と報じている。これには韓国海軍の「李舜臣・海軍旗」も入る。
こんな自己矛盾を平気で犯す韓国政府の信用は大失墜しただろう。
李舜臣はいわれているほどの名将ではない。これは別の機会に述べたい。
第二次大戦に参加した日本の国旗は「日章旗」であり、明治憲法の規定により軍隊の「統帥権」は天皇にあった。よってもし戦犯旗があるなら、それは日本国旗のはずだ。陸海軍は法律上は天皇の命令により動いていたからだ。
韓国政府はなぜ自衛隊艦艇が、日章旗を掲揚するのにいちゃもんを付けず、海上自衛隊旗にのみ掲揚を否定したのか?これが私にはわからない。
「旭日旗」は1870(明治3)年に陸軍旗として制定され、1889(明治32)年に軍艦旗として採用された。朝日の社旗はよく似たデザインだが、1879(明治12)年の同紙創刊時に社旗として採用されている。
韓国が旭日旗と朝日社旗を共に「戦犯旗」と呼ぶのなら理屈が一貫しているが、二つの軍旗と新聞社旗のうち、海上自衛隊旗だけを「戦犯旗」と呼ぶのは、道理が通らないと思う。
A級戦犯で起訴された海軍軍人は3人のみで、有罪判決後、死刑となったものはゼロである。
なのに、なぜ旭日旗が「戦犯旗」なのか?韓国人のメンタリティを疑う。
追記:台風25号の予想進路は、「読売」によると、10/6〜10/7頃、韓国の済州島と韓国本土の南部を直撃しそうだ。
(10/7追記:中央日報によると「台風25号…韓国で死亡者2人、被災者359人の被害発生」という比較的軽い被害ですんだようだ。「台風25号で釜山国際映画祭に支障」とも同紙にあった。被害が軽微でよかった。
済州島の被害は報じられないが、少なくとも暴風圏に巻き込まれたこの島、国際観艦式が予定されている、にも被害が出たであろう。)
韓国の新聞は「朝鮮日報」,「中央日報」,「東亜日報」,「ハンギョレ新聞」の四紙(日本語版)を読んでいるが、
ノーベル科学賞受賞候補が十数名だの、文学賞も出るだの、平和賞に文在寅大統領と金正恩北朝鮮委員長の共同受賞が有力だのと、まさに荒唐無稽としか思えない記事を度々載せていた。
ところがこの猛烈な台風25号の接近については、まったく予報・警戒の記事が載らない。この国の気象学・気象予報の態勢はどうなっているのかと思う。
もし台風25号が済州島や韓国南端を直撃し、甚大な被害が出たら、10/10から済州島で始まる「国際観艦式」どころでは、なくなるかも知れない。
自衛隊は「国際救助隊」だから、要請があれば救助に出向くだろうが、旭日旗を掲げて建艦式に参加するのはけしからんと言ったばかりの国は、口が裂けても救援要請はできないだろうとも思う。
外国のホームパーティでのタブーは、宗教と政治の話題を持ち出すことだ。このメルマガでも、これらの話題は避けているが、歴史的事実に対する誤解の指摘は、この範疇に入らないと思うので取り上げる。
「慰安婦問題」が騒がれるようになってから、日韓問題の歴史を中心に読んだ本を数えてみたら、150冊を優に超えていた。朝鮮最古の史書「三国史記」(1145年頃成立, 東洋文庫)も読んだ。
日本の「古事記」(712年成立),「日本書紀」(720年成立)が、口述者、筆記者、編集者まで判明し、参考文献まで載っているのに、朝鮮では高句麗・百済・新羅の歴史が、日本の平安時代の末期に相当する時まで書かれなかったのは、王朝が代わる度に、前王朝の公文書を廃滅するという悪しき慣習が持続したためだ。
李氏朝鮮を樹立したのは高麗の王建だが、クーデターを起こし、王位を簒奪し「李氏朝鮮」を創設したのは新羅系の武将李成桂(1335 - 1408)である。元寇の役は、元が高麗を支配していた時代に起こったものだ。(だから高麗・元の連合軍が用いた船は、すべて朝鮮で建造された。)親明政策をとった李成桂は、明の属国となり、明の元号を用い、国号「朝鮮」を明の皇帝から下賜された。
属国の朝鮮には独自の国旗もなく、毎年朝貢使に加えて100人以上の官女を「慰安婦」として貢納していた。
1627年、朝鮮は「後金」(満州人系)の後続国「清」に、「明」に対すると同様の臣下の礼を払わなかったとして、20万の清の大軍により国土を奇襲占領された。特設された「受降檀」で清の皇帝に跪いて拝礼した朝鮮の仁祖王は、王子、王妃などを人実として連れ去られた。
以後、「日清戦争」(1894=明治27年)で清国が負け、日本との講和条約で朝鮮の独立が認められるまでの258年間、朝鮮は清の完全な属国とならざるを得なかった。
この条約で独立が認められた朝鮮は、1897(明治30)年、初めて自前の国号と国家「大韓帝国」が持てたのである。これは「明治維新」と異なり朝鮮政府が独自になしとげたものではない。日本が清に勝ったから可能になったのだ。ことに「黄海の海戦」で日本海軍が清国艦隊を全滅させたのが、戦勝に大きく寄与した。
それに先立ついわゆる「壬午軍乱」(1882=明治18年)では、ソウルの日本大使館が朝鮮軍に焼き討ちされて、日本人の死者が出ているが、清国がいち早く出兵。清は事件の黒幕だった国王高宗の父・摂政大院君を人質として天津に拉致監禁している。およそ250年前の事件とそっくりだ。
朝鮮には宗主国の中国から、自前の元号が許されていなかったので、事件の前に「十干十二支」が付くので煩わしい。これだと60年サイクルで同じ干支(えと)になる。
さて表題に掲げた韓国の国旗だが、あの大極旗は私には日本の国旗「日の丸」からヒントを得たとしか思えない。
中央に 赤と青の右巴(ともえ)が二つ組合わさり、正円になっている。それから離れて2本がペアーになった八卦の卦木が対角線状に4組配置されている。卦木を配置したのは、「易経」の思想もあるだろうが、「日章旗」との差異性を強調するためのものだと感じる。
(出典「ワールドアトラス2000年」集英社、p.153)
日章旗は初め薩摩藩が国籍識別旗として使用していたが、ペリーが浦賀に来たころから、「日本船」の標識として幕府も使うようになった。
勝海舟の咸臨丸は「日章旗」を掲げて太平洋を横断した。
1870=明治3年には海軍の旭日旗とともに、日章旗が国旗として正式に定められている。
朝鮮は若い国王の執政大院君が国政の実権を握り、日本が開国した後も、鎖国政策を続け、キリスト教徒や神父の処刑を止めなかった。朝鮮が初めて外国と修好条約(1876=明治9年)を 結んだのは日本で、軍艦雲楊号による「江華島事件」が起きた翌年である。朝鮮が国際社会に開国したのは、この条約以後のことだ。
日本は早くも廃藩置県の年、1871=明治4年に「岩倉欧米使節団」を派遣し、当時の閣僚の半数(岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など)が2年かけて、欧米の先進文明を視察した。また女性を含む多数の留学生を随伴し、各国に留学させた。指導者の見聞と留学により育った人たちが、日本の近代化に大きく貢献したのは間違いないだろう。
李氏朝鮮は開国後、日本に使節団を6回日本に送っている。
①(1876=明治9年):「第一次修信使」
②(1880=明治13年);「第二次修信使」
③ (1881=明治14年):「紳士遊覧団」62名の派遣(この時のリーダーが開化派官僚の朴泳考)。
④ (1881/12=明治14年):開化派官僚金玉均と徐光範の日本派遣。
⑤(1882=明治15年):「日本公使館焼き討ち・殺人事件」の謝罪使として金玉均と朴泳考が日本を訪問した。この時に行きの船中で二人が相談して考案したのが「太極旗」の原案である。
すでに日本を訪問し、福沢諭吉にも会っていた金玉均は朴泳考より約10歳年上で、「独立国には国旗が必要」ということを学んでいた。二人は「開化党」に属し、金玉均がそのリーダーだった。よって国旗デザインでも、彼が主導した可能性が高い。
諭吉が「脱亜入欧論」を唱えたのは、「大韓民国」の閔妃が、諭吉が支援していた金玉均を上海で暗殺したので、もう朝鮮はダメだと思ったからだという説もあるほどだ。
この間、韓国の朝鮮日報が読者意見を3回に亘り報じたが、「韓国政府の言い分が非常識」という意見が約7対3で多数派を占めていた。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/10/13/2018101300369.html
韓国メディアの記事は知的韓国人の本当の感情とは乖離していると思った。
要は日本の週刊誌や一部の新聞と同じことだ。
いま、Critical Readingという言葉が流行りつつあるが、一連の文章を読んですぐに自己矛盾や論理矛盾、事実誤認に気づけないようだと、日本でもSNCなどによりポピュリズムが台頭するだろうと思う。
「大極旗」の話に戻ろう。その後、「八卦」が「四卦」に減らされたり、卦木が短く分割されたりというマイナーなチェンジはあるが、中心が正円でそれが赤と青の巴の組合せからなりたっているという、基本デザインは変わっていない。
日本の「明治維新」をモデルとした開化派官僚は、なんと国旗まで模倣したのである。
済州島での観艦式に際して、韓国政府が日本の海上自衛隊に対して「旭日旗」を掲げるな、あれは「戦犯旗」だと理不尽な主張を行ったが、日本は韓国と戦争していないし、太平洋戦争での交戦国でもない。
「東京裁判」にも韓国は参加を認められていない。
よって韓国から「戦犯」呼ばわりされる理由はない。
10/13「朝日」はソウルの牧野愛博記者の署名記事で「参加10ヶ国(たった!)のうち、7ヶ国が軍艦旗を使用した」と報じている。これには韓国海軍の「李舜臣・海軍旗」も入る。
こんな自己矛盾を平気で犯す韓国政府の信用は大失墜しただろう。
李舜臣はいわれているほどの名将ではない。これは別の機会に述べたい。
第二次大戦に参加した日本の国旗は「日章旗」であり、明治憲法の規定により軍隊の「統帥権」は天皇にあった。よってもし戦犯旗があるなら、それは日本国旗のはずだ。陸海軍は法律上は天皇の命令により動いていたからだ。
韓国政府はなぜ自衛隊艦艇が、日章旗を掲揚するのにいちゃもんを付けず、海上自衛隊旗にのみ掲揚を否定したのか?これが私にはわからない。
「旭日旗」は1870(明治3)年に陸軍旗として制定され、1889(明治32)年に軍艦旗として採用された。朝日の社旗はよく似たデザインだが、1879(明治12)年の同紙創刊時に社旗として採用されている。
韓国が旭日旗と朝日社旗を共に「戦犯旗」と呼ぶのなら理屈が一貫しているが、二つの軍旗と新聞社旗のうち、海上自衛隊旗だけを「戦犯旗」と呼ぶのは、道理が通らないと思う。
A級戦犯で起訴された海軍軍人は3人のみで、有罪判決後、死刑となったものはゼロである。
なのに、なぜ旭日旗が「戦犯旗」なのか?韓国人のメンタリティを疑う。
追記:台風25号の予想進路は、「読売」によると、10/6〜10/7頃、韓国の済州島と韓国本土の南部を直撃しそうだ。
(10/7追記:中央日報によると「台風25号…韓国で死亡者2人、被災者359人の被害発生」という比較的軽い被害ですんだようだ。「台風25号で釜山国際映画祭に支障」とも同紙にあった。被害が軽微でよかった。
済州島の被害は報じられないが、少なくとも暴風圏に巻き込まれたこの島、国際観艦式が予定されている、にも被害が出たであろう。)
韓国の新聞は「朝鮮日報」,「中央日報」,「東亜日報」,「ハンギョレ新聞」の四紙(日本語版)を読んでいるが、
ノーベル科学賞受賞候補が十数名だの、文学賞も出るだの、平和賞に文在寅大統領と金正恩北朝鮮委員長の共同受賞が有力だのと、まさに荒唐無稽としか思えない記事を度々載せていた。
ところがこの猛烈な台風25号の接近については、まったく予報・警戒の記事が載らない。この国の気象学・気象予報の態勢はどうなっているのかと思う。
もし台風25号が済州島や韓国南端を直撃し、甚大な被害が出たら、10/10から済州島で始まる「国際観艦式」どころでは、なくなるかも知れない。
自衛隊は「国際救助隊」だから、要請があれば救助に出向くだろうが、旭日旗を掲げて建艦式に参加するのはけしからんと言ったばかりの国は、口が裂けても救援要請はできないだろうとも思う。
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