ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【自死と自殺】難波先生より

2013-09-08 12:53:31 | 難波紘二先生
【自死と自殺】
 9/1の「中国」社会面に「メンバーに自殺者遺族、政府の協働会議『自死』使用求める」という意味のよくわからない見出し記事がある。
 要するに、政府がつくった「自殺対策推進会議」に「全国自死遺族連絡会」のメンバーが委員として入り、公文書などでの「自殺」を「自死」と表記をあらためるように要求するというものだ。島根県、鳥取県はすでにそのように公文書を変えたという。


 同じ日の「毎日」書評欄に、沢田康幸他「自殺のない社会へ」(有斐閣)という本の書評が載っていた。自殺を減らすための対策を研究した社会学者たちによる本だそうだ。書評によると、この本では自殺の名称変更には触れていないらしい。


 講談社「類語大辞典」(これは珍しく左開き横書きで、使いやすい辞典だ。索引もしっかりしている。)を見ると、自殺の同義語に「生命を断つ、自害、自決、自裁、自尽、自刃、刃に伏す、生害、自刎する、腹を切る、切腹、割腹、屠腹、諫死、身を投げる、身投げする、投身する、入水する、首を吊る、首をくくる、縊死、心中、情死、殉じる、殉死」など、22個以上の言葉が載せてある。が、「自死」がない。


 「自刎」というのは、刀で自分の首を刎ねて死ぬことをいう。中国の「三国史」や「水滸伝」にはそういう例が書いてあるが、そんなことが可能だろうかと思う。
 両腕は使えないから片腕でやるしかない。青竜刀なら重いから、慣性のモーメントで切れるかな?とも思うが、あれはあまり切れ味がよくない。
 「自刎」の確実な例をご存じの方があったら、ご教示願いたいものだ。


 英語のRoget's「類語辞典」にはsuicideの同義語として、Self-murder , self-destructionのわずか2語しかない。あとは「セップク、ハラキリ」という日本語が挙げられている。自殺についての日本語表現はかくも豊富かつ多彩だが、不思議なことに「自死」という項目がない。(古語辞典をはじめ5つの大型国語辞典を調べた。)
 村松剛「死の日本文学史」(1975)、モーリス・パンゲ「自死の日本史」(1986)が出てから、20年以上経つのに、辞書編纂者は何をしているのかといいたい。



 自殺をドイツ語ではSelbstmort(ゼルプストモルト)という。Selbst=自分、Mort=死だから「自死」である。語源辞典によると、英語の「suicide(自殺)」という言葉は、17世紀以後にラテン語の「suiーcidium(自らを殺す)」という新語を受けて生まれたとある。ラテン語にも「mors voluntaria(自発的な死)」という言葉があり、パンゲの本の原題にはこれが使用されている(「La mort volontaire au Japon」)。
 
 自殺を「自己を殺すこと」と考え、徹底的に非難したのが18世紀ドイツの哲学者イマニュエル・カントだ。彼は自己の肉体を損傷することにも、「部分的自殺」として強く反対している。美容成形や生体臓器移植などもっての他だろう。(もっとも彼の論理だと修復腎移植には賛成するだろうが…)


 カントの思想は、当時のヨーロッパ社会に大きな影響を与えたから、suicidium=suicideという言葉が広まり、恐らく蘭学を介して日本に伝わり、「自殺」という訳語が作られものと思われる。「蛮社の獄」に連座して自死した渡辺崋山の遺書には「自殺する」と書いてある。遺書は4通あり、いずれにも「今晩自殺いたし候」あるいは「今般自殺いたし候」と書いてある。高野長英「蛮社遭厄小記」には友人の小関三英が「縄目の恥を逃れるために自殺した」と書いてある。天保12(1841)年に書かれた手紙である。(岩波文庫「華山・長英論集」)
 私の知るかぎりそれ以前に、日本語で「自殺」という言葉が使用された例はない。


 日本語で公用語に採用されたのは、明治15(1882)年に施行された、仏人法律家G.ボアソナード起草による、「旧刑法」に「自殺幇助罪」盛り込まれたのが最初である。この罪が明治40年施行の現行刑法にも受けつがれ、今も「刑法」202条に「自殺関与及び同意殺人罪」がある。「自殺未遂罪」がないのに、「自殺幇助罪」があるのが、なんとも不思議だ。ともかく、明治22年刊の、大槻文彦「言海」がいち早く「自殺」という項目を取り入れたのは、「旧刑法」が施行されたからであろう。


 この前から統計の基準が国によりまちまちだ、という話をしてきた。
 「自殺」あるいは「自死」の判定基準も国より異なる。キリスト教国では、警察も家族も「自殺」と認定することを嫌う。日本では他殺でなければ自殺になるから、数がずば抜けて多い。司法解剖数は微々たるものだから、正確な死因はわからない。延命措置や栄養補給を拒否しての尊厳死などは、日本では自殺の一種に入るから、「同意殺人」にされはしまいかと医者が忌避するのである。


 急激な「自死」とゆるやかな「自死」を区別すべきだろう。というのも、医学的にみたら、多くの人は生活習慣病や不摂生や過労で「緩やかな死」の道をたどっているのだから。医者にかかるから、「病死」と診断されるだけで、ほとんどの死は「緩やかな自死」である。
 「自殺のない社会」などできるわけがない。それはデュルケム「自殺論」を読めばわかることだろう。


 前に、須原一秀「自死という生き方:覚悟して逝った哲学者」(双葉新書)を紹介した。この人は自殺ではなく、「人は完全に冷静な状態で、自ら死ぬことができるか?」という問題を考え、原稿を書いて、身の回りを片づけ、計画的に神社の後で自死した。自分で自分の幕引きをやったわけだ。ローマの哲学者セネカに似た、こういう死と西洋キリスト教式の「自殺」を一緒にしてはいけない。


 死刑囚が刑場で自分でロープを首に掛け、レバーを引いて、落下したら、それは「自殺」か「他殺」か?
 赤穂浪士は、「武家諸法度」に違反したから、死罪の罪人である。「喧嘩両成敗」の原則が適用されるからだ。
 ただ武士だから「切腹による自決」が許されたにすぎない。上記の本を書いた社会学者たちはこれを「自殺」とするのか、「刑死」とするのか?


 自殺を減らすのに社会学などいらない。統計の基準を変えればよいのである。熟慮の上、他人に及ぼす迷惑を最低限度にして自死するひとまで「自殺」にカウントする必要はない。きちんとした遺書やリビング・ウイルを書いて、死後のことまで配慮している自死と、責任逃れや上司に類が及ぶのを避けての発作的「自殺」を、ちゃんと統計上区別する方がよほど自殺防止に役立つだろう。後者はもう殺人にちかい。防止すべきはこっちなのである。
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