ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【修復腎移植・再申請】難波先生より

2016-04-18 11:35:40 | 修復腎移植
【修復腎移植・再申請】
★4/15「愛媛」が一面で、「産経」が社会面トップでこの記事を報じた。本文は95%一致しているので元は「共同配信」だと私は思う。(写真1)
(写真1)

 徳州会による「再申請」は近々行われる見通しだが、これは「厚労省サイドで受理の方針を固めた」という予測記事で、厚労官僚によるゾンディレーン(英語だと「アドバルーン」)記事だろう。日本移植学会や透析医学会による、「妨害工作」の出方を見るためであろう。近々、徳州会の幹部ともお会いし、万事遺漏がないような体勢を進言したいと思っている。講談社と約束した「修復腎移植」新書本の執筆も急がなければいけない。
 全体として見ると、「米UNOS」が小径腎がんの腎臓を移植に利用する、という新方針を採択したことが、日本の流れを変えたことは間違いないだろう。WHOもEUも日本からは遠すぎる。

★★呉共済病院の泌尿器科部長光畑直喜医師の、「定年後再雇用打ち切り」問題については、病棟のナースとか元病院職員などから、詳しい内部事情の聴取を進めてきた。
 その結果、これは前事務長(3/31退職)と村上恒二院長(昭和47年、広大医卒、元整形外科医)によるパワハラと判明した。ネットによる告発は以下に、

タイトル: 約3 万7千人の「署名を燃やす」と患者と家族の前で言い放った呉共済病院幹部と病院長の炎上劇 (あおいゆきお「ライフヘルスジャーナル春夏号」)
http://humanslove.jimdo.com/2016/04/01/%E7%B4%843%E4%B8%877%E5%8D%83%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%BD%B2%E5%90%8D%E3%82%92-%E7%87%83%E3%82%84%E3%81%99-%E3%81%A8%E6%82%A3%E8%80%85%E5%AE%B6%E6%97%8F%E3%81%AE%E5%89%8D%E3%81%A7%E8%A8%80%E3%81%84%E6%94%BE%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%91%89%E5%85%B1%E6%B8%88%E7%97%85%E9%99%A2%E5%B9%B9%E9%83%A8%E3%81%A8%E7%97%85%E9%99%A2%E9%95%B7%E3%81%AE%E7%82%8E%E4%B8%8A%E5%8A%87/

 ただどんな名医でも「引き際」が肝心で、その点は光畑医師も心得ているだろう。
トールワルド, ユルゲン(白石四郎訳)「大外科医の悲劇:胸部外科の創始者ザウエルブルッフの悲劇」( 東京メディカルセンター, 1969/8)
は胃がん手術のビルロート、乳がん手術のハルステッドと並んで、有名なベルリン大教授で大外科医の「引き際」のミスによる悲劇を描いている。
 トールワルド, ユルゲン(塩月正雄訳)「外科の夜明け」(講談社文庫, 1971/12)は「冠婚葬祭入門」で有名になった塩月弥栄子の夫で、医師である塩月が訳している。著者がタイムスリップして、近代外科の誕生場面に立ち合い、直接関係者にインタビューするという面白い構造のノンフィクションである。

 医者の世界は、「暴力団の支配権争い」と大差がない。

 呉はかつて海軍の一大拠点で、将校・兵士用の「海軍病院」と造船関係の「海軍職工病院」があった。戦後、前者は国立に移管し「呉国立病院」になり、国家公務員共済組合連合会(KKR)の「直轄病院」になった。長い間、呉国立病院を支配していたのは阪大系の人材で、広島大が院長を握ったのはたった数年前だ。今は主要ポストが広大系になり、実力はかなり低下している。
 他方、後者は独立採算制の「呉共済病院」になった。ただ、系列上は「KKR」に属し、トップの人事権は東京・竹橋の国家公務員共済組合連合会本部・理事長(大蔵事務次官の天下り先)が握った。発足後しばらくは赤字続きで、給料の遅配が続いた。
 この「本部」は「ホテルKKR東京」に今もある。たまたま、理事長専用のペントハウスのスィート・ルームに泊まったことがあるが、眼下に皇居と敷地内を巡視する騎馬警官が見下ろせるとんでもない部屋だった。「うーん、高級官僚はこうやって皇居を見下ろしているのか」と驚いた。

 民営化後の最初の院長は、元海軍軍医中佐で九大眼科出身の笠潤一郎だった。呉市のロータリークラブ会長も兼ねた英国式のジェントルマンだった。彼の理解と支援がなかったら、「国家公務員共済組合」始まって以来の、私の「2年間の留学休職」はなかった。
(奨学金は全部アメリカ政府が出した。給付式だった。私は病院からは休職中に本俸の半分を支給されただけだ。その金は「アメリカ全土視察旅行」に使った。但し、年金の掛け金は中断しないように天引きしてもらった。)

 後に、その審議に課長として関わったという男が、病院事務長として赴任して来て、当時のいきさつを聞いた。
 何でも、本家本元の「虎の門病院」ですら留学休職の前例がない、というのが主な反対理由だったそうだ。前例なんて破るためにあるものだ。

 広島大に転じてからは、1ドル80円という円高に向かったので、若い人を育てるために、「留学休職」という手を使った。文科省の「海外留学」は教授優先で、しかも6ヶ月と10ヶ月のものしかない。これでは本格的な留学にならない。待っていては50代になってやっと順番が来る。
 そこで若くて独身で、見所のある助手、講師クラスには「休職してその給料を留学費にあてろ、若いうちの留学の方が、はるかにコスト・パフォーマンスが高い」と指導してきた。
 この方式で二人を留学させた。一人は学振の奨学金が出たので、2年のうち1年を留学休職にした。
 一人は30代で教授に、もう一人はいま準教授になっている。ちなみに二人とも広島大卒ではない。

 留学中に、院長が笠先生から岡山大出身の岡田啓成(内科)部長に交代した。予期していたことだった。彼は福山市の近くの寺の息子として生まれ、クリスチャンと結婚した変わった人物で、抜群に経営の才覚があった。飛行機嫌いで一度も海外に出かけたことはないが、理路整然と海外の事情を説明すると、すなおにそれを受け入れた。

 彼が受け入れなかったのは、建物の地下を2階にして、地下1階に剖検室と霊安室を容れ、地下2階にパワーステーションと医療資材・医療廃棄物などの倉庫を置き、ここから病院東側の道路に斜めに地下側道を取りつけ、トラックや霊柩車の出入りを病棟から見えないようにする、というアイデアだった。NIHはそうなっている。
 岡田院長は剖検室を新館の10階だかに設置した。病院のPRに使いたかったのだろう。

 もう一つは、正面の国道の向こうにある看護学校の隣にあった官舎を取り壊して駐車場とする際に、国道下に広い地下トンネルを設けて、その両サイドに花屋や喫茶店、菓子屋、食べ物屋、衣類・日用品雑貨(今でいうコンビニ)などの店舗を容れ、患者や見舞客が駐車場から病院に行く途中に買物ができるように、という案だった。当時は呉市に地下街がなく、一般客の利用も見込めた。
(呉市で土建会社を経営していた友人に試算してもらったら、5000万円でできる、ということだった。その程度なら店舗の賃貸料ですぐに回収できる。)
 これも実現せず、国道を横断する歩道橋になってしまった。美観は台なしだ。

 今の呉共済病院の建物、看護学校、リハビリ施設、看護師宿舎は、すべて岡田院長の時代に建て替えられた。岡山大卒の光畑医師が呉共済病院で腎移植を始めたのは、「新しいもの好き」の院長の終わり頃である。
 その岡田院長がやりすぎで失脚した後、九大系が2度院長になったが、たいしたことはできなかった。2度目の院長(内科)は、鳥取大から定年後に赴任したが、自分の冠動脈バイパス手術を、「手術適応がない」という心臓・血管外科スタッフの反対を押し切り、他大学から「名医」の教授を呼んで病院で行うという、馬鹿なことをやって手術死してしまった。腕が上手で教授になった外科医は滅多にいない。論文の数が多いだけだ。外科手術には何よりもチーム・ワークが重要、というイロハを知らなかったのだ。
 この院長は権威主義でいばり散らすだけの男で、私もきわめて不快な思いをしたことがある。死んだと聞いて「祝電を打とうか」と思ったのは、人生でこの時だけだ。

 その後が、広島大内科出身の院長となり、その時に「病腎移植」事件が発生した。「光畑懲戒免職もありえる」と発言した愚かな院長だ。
 その後岡山大出身の院長になったが、広島大が協力せず、小児科と産婦人科が閉鎖された。その次が広島大卒の現院長だ。これで「広島大の天下」になったら、こんどはこのざまだ。
 私はこの病院の初代病理部長として、ここに日本一の病院病理部を築いたつもりだが、もはやこの病院は末期症状だ。「風と共に去りぬ」になっても、いかんともしがたい。
 ちなみに「学閥」という言葉は、わたしの辞書にはない。たぶん英語にもないはずだ。
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