【レジリエンスとコンジリエンス】
新聞広告で、草思社が「レジリエンスの教科書」という本を出していて、「あらゆる困難はレジリエンス=<逆境力>を高めれば、必ず克服できる」というコピーを添えているのを知った。
Resilient(レジリエント)(形)は「ショック状態からの回復力のある」を意味していて、まあアリンコが外傷から急速に回復するような能力について用いるのは承知していたが、名詞的用法は初見だ。
これとよく似たコンジリエンス(Consilience)という言葉は、山下篤子訳のE.O.ウィルソン「知の挑戦:科学的知性と文化的知性の統合」(角川書店, 2002/12)でカバーに「Consilience: The Unity of Knowledge」とあるので初めて知った。
この言葉は手持ちの「英英辞典」「英和辞典」にない。それどころかWORDでは「ミススペル」であるという警告が出る。
Edward O. Wilsonの原本(Vintage, 1999)を見ると、「William Whewellが1840年に著書<演繹的科学の哲学>で最初に使った言葉で、文字どおりには研究分野を跳躍して、事実と事実に基づいた理論についての知識を<垣根越しにまとめ>説明のための共通基盤を築くこと」とある。(山下訳ではWhewellが「ヒューウェル」と標記されていて、Webster人名辞典にあたったら、確かにウェーウェルでなく、whが無声に近くて、ユーウェルないしヒューウェルと発音するのが正しいとわかった。)
山下はコンジリエンスに「統合」という訳語をあてているが、単なる統合でなく、「意味論的統合」を指すと考えるのが妥当だろう。
環境政策、倫理学、社会科学、生物学という4つの大分野について、それを達成しようとしたのが、アリ学者で知られるハーバード大生物学教授のウィルソンだった。
前に「コンジリエンス」の語源をいろいろ調べたが、見つからなかった。今回「resilience」を調べたら、簡単に見つかった。ラテン語の「resilio(リバウンドする、跳ね返る)」由来だった。
Siliens自体は、英語のSilence(沈黙、静寂)に対応する言葉であり、これ由来とすると変だ。
おそらくヒューウェルがre-silienceから思いついて、「con-silience」という造語を行い、それをウィルソンが引き継いだものと思われた。
ウィルソンの用語の意味は、「分野は違っても意味は同じ項目を、学問の垣根を超えて、引き抜いてきて、共通知としてくくること」だから、意味は「統合知」となると思われる。
一箇所、形容詞化して「consilient explanation」と使った箇所(p.258)がある。
「生物学的体制の異なったレベルにある単位は、コンジリエントな説明によって再配列できる(With consilient explanation, the units at different levels of biological organization can be reassembled.)」。
この用法を見ると多田富雄が『免疫の意味論』(青土社, 1993)で使った「意味」という言葉に近いと思われる。彼はこの本で、脳と免疫系における「自己と非自己」の共通性と違いを論じた。
どうもコンジリエンスというウィルソンの用語には、語源学的に誤用があると思われるが、この語のそのものの意味は、次の文に代表的にあらわされている。
「統合的世界観の中心にある思想は、すべての感知可能な現象は、星の誕生から社会制度の働きまで、すべて物質的な変化に基づいており、それらは長く曲がりくねった連鎖を経るとしても、最終的には物理法則に還元できる、という考え方だ」。
彼のこの思想には全面的に賛成する。それを端的にあらわす「コンジリエンス」が一般化すれば、それはそれでよいと思う。しかしなかなかそうならない。
ウィルソンと同じようなことを慶応大医学部予科から比較言語学分野に転じた鈴木隆夫が、『日本の感性が世界を変える:言語生態学的文明論』(新潮選書)で、こう書いている。
「言語学や、心理学、哲学、社会学、宗教学、文学、法学、経済学、医学、薬学などには、いわゆる自然科学の分野(数学、物理学、そして天文学や化学)におけるような時空を超えた普遍性、客観性の強い学説がなく、知見や定説が結構しばしば変わるのはなぜだろうか?
一般に学問の研究対象が人間から遠ざかれば遠ざかるほど、その学問の持つ客観的普遍性が増し、反対に対象が人間に近くなればなるほど、学問は不確実性を増す。」
鈴木の思想は洗練されていないが「すべての感知可能な現象は、すべて物質的な変化に基づいており、最終的には物理法則に還元できる」、というウィルソンの考え方とほぼ同じことを表現しようとしているように思われる。
7/3「日経」が、<「卓越大学院」で世界へ>というキャプションで中教審(中央教育審議会)の「大学院教育のあり方」に関する答申の「まとめ素案」を報じている。読んでがっかりした。
昔は中教審会長というと、それなりに名の通った人がいた。今は誰だか名も報じられていない。
過去10年以上にわたり政府が推進した「大学院生倍増計画」に対する反省もない。
大学院は本来的には、学部教育では与えられない「コンジリエンス」を求めて、院生が知的に格闘する場である。何の役に立つのかわからない「首縊りの力学」(夏目漱石「坊ちゃん」)を研究するようなところが大学院だ。
それを「日本が国際的に優位な領域や文理融合領域、新産業の創出につながる領域など」に限定するなんて…。それこそ「日本の首縊り」であろう。
下村文科大臣が「人文社会系の学問はこれからの大学に不要」というような通達を出したと新聞が報じているが、とんでもない話だ。広い文明論的視野で現代の問題を考えることができる学者がいなくなれば、日本の将来は危ういに決まっている。「専門家集団」からなる「原子力ムラ」のようなものを、いくら作っても未来は開けないだろう。
新聞広告で、草思社が「レジリエンスの教科書」という本を出していて、「あらゆる困難はレジリエンス=<逆境力>を高めれば、必ず克服できる」というコピーを添えているのを知った。
Resilient(レジリエント)(形)は「ショック状態からの回復力のある」を意味していて、まあアリンコが外傷から急速に回復するような能力について用いるのは承知していたが、名詞的用法は初見だ。
これとよく似たコンジリエンス(Consilience)という言葉は、山下篤子訳のE.O.ウィルソン「知の挑戦:科学的知性と文化的知性の統合」(角川書店, 2002/12)でカバーに「Consilience: The Unity of Knowledge」とあるので初めて知った。
この言葉は手持ちの「英英辞典」「英和辞典」にない。それどころかWORDでは「ミススペル」であるという警告が出る。
Edward O. Wilsonの原本(Vintage, 1999)を見ると、「William Whewellが1840年に著書<演繹的科学の哲学>で最初に使った言葉で、文字どおりには研究分野を跳躍して、事実と事実に基づいた理論についての知識を<垣根越しにまとめ>説明のための共通基盤を築くこと」とある。(山下訳ではWhewellが「ヒューウェル」と標記されていて、Webster人名辞典にあたったら、確かにウェーウェルでなく、whが無声に近くて、ユーウェルないしヒューウェルと発音するのが正しいとわかった。)
山下はコンジリエンスに「統合」という訳語をあてているが、単なる統合でなく、「意味論的統合」を指すと考えるのが妥当だろう。
環境政策、倫理学、社会科学、生物学という4つの大分野について、それを達成しようとしたのが、アリ学者で知られるハーバード大生物学教授のウィルソンだった。
前に「コンジリエンス」の語源をいろいろ調べたが、見つからなかった。今回「resilience」を調べたら、簡単に見つかった。ラテン語の「resilio(リバウンドする、跳ね返る)」由来だった。
Siliens自体は、英語のSilence(沈黙、静寂)に対応する言葉であり、これ由来とすると変だ。
おそらくヒューウェルがre-silienceから思いついて、「con-silience」という造語を行い、それをウィルソンが引き継いだものと思われた。
ウィルソンの用語の意味は、「分野は違っても意味は同じ項目を、学問の垣根を超えて、引き抜いてきて、共通知としてくくること」だから、意味は「統合知」となると思われる。
一箇所、形容詞化して「consilient explanation」と使った箇所(p.258)がある。
「生物学的体制の異なったレベルにある単位は、コンジリエントな説明によって再配列できる(With consilient explanation, the units at different levels of biological organization can be reassembled.)」。
この用法を見ると多田富雄が『免疫の意味論』(青土社, 1993)で使った「意味」という言葉に近いと思われる。彼はこの本で、脳と免疫系における「自己と非自己」の共通性と違いを論じた。
どうもコンジリエンスというウィルソンの用語には、語源学的に誤用があると思われるが、この語のそのものの意味は、次の文に代表的にあらわされている。
「統合的世界観の中心にある思想は、すべての感知可能な現象は、星の誕生から社会制度の働きまで、すべて物質的な変化に基づいており、それらは長く曲がりくねった連鎖を経るとしても、最終的には物理法則に還元できる、という考え方だ」。
彼のこの思想には全面的に賛成する。それを端的にあらわす「コンジリエンス」が一般化すれば、それはそれでよいと思う。しかしなかなかそうならない。
ウィルソンと同じようなことを慶応大医学部予科から比較言語学分野に転じた鈴木隆夫が、『日本の感性が世界を変える:言語生態学的文明論』(新潮選書)で、こう書いている。
「言語学や、心理学、哲学、社会学、宗教学、文学、法学、経済学、医学、薬学などには、いわゆる自然科学の分野(数学、物理学、そして天文学や化学)におけるような時空を超えた普遍性、客観性の強い学説がなく、知見や定説が結構しばしば変わるのはなぜだろうか?
一般に学問の研究対象が人間から遠ざかれば遠ざかるほど、その学問の持つ客観的普遍性が増し、反対に対象が人間に近くなればなるほど、学問は不確実性を増す。」
鈴木の思想は洗練されていないが「すべての感知可能な現象は、すべて物質的な変化に基づいており、最終的には物理法則に還元できる」、というウィルソンの考え方とほぼ同じことを表現しようとしているように思われる。
7/3「日経」が、<「卓越大学院」で世界へ>というキャプションで中教審(中央教育審議会)の「大学院教育のあり方」に関する答申の「まとめ素案」を報じている。読んでがっかりした。
昔は中教審会長というと、それなりに名の通った人がいた。今は誰だか名も報じられていない。
過去10年以上にわたり政府が推進した「大学院生倍増計画」に対する反省もない。
大学院は本来的には、学部教育では与えられない「コンジリエンス」を求めて、院生が知的に格闘する場である。何の役に立つのかわからない「首縊りの力学」(夏目漱石「坊ちゃん」)を研究するようなところが大学院だ。
それを「日本が国際的に優位な領域や文理融合領域、新産業の創出につながる領域など」に限定するなんて…。それこそ「日本の首縊り」であろう。
下村文科大臣が「人文社会系の学問はこれからの大学に不要」というような通達を出したと新聞が報じているが、とんでもない話だ。広い文明論的視野で現代の問題を考えることができる学者がいなくなれば、日本の将来は危ういに決まっている。「専門家集団」からなる「原子力ムラ」のようなものを、いくら作っても未来は開けないだろう。
>「レジリエンスとコンジリエンス」
とあります。「レジリエンス」はまま目にしますが、「コンジリエンス」には馴染みがなかったので、少し勉強させていただきました。
私はWebの英語辞書として、Oxford dictionaries, Dictionary.com, Merriam-Webster などを重宝しています。それなりに語源の記載もあります。
ブログ後半の、文科省の人文社会科学系を軽視した教育政策、「卓越大学院」構想を批判した「日本の首縊り」論には賛成です。「ゆとり教育」政策の失敗に総括・反省のない文科省は、性懲りもなく愚民化政策を打ち出し続けるようです。
>大学院は本来的には、学部教育では与えられない「コンジリエンス」を求めて、院生が知的
>に院生が知的に格闘する場である。何の役に立つのかわからない「首縊りの力学」を研究す
>るを研究するようなところが大学院だ。
は、なかなか面白い喩えだと思います。
ただし、寒月君の「首縊りの力学」は「吾輩は猫である」での話です。うっかりミスでご本人もお気付きだとは存じますが、気になるので指摘しておきます。