ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【修復腎移植ものがたり(10)輸入された腎臓】難波先生より

2014-10-20 19:21:21 | 修復腎移植ものがたり
【修復腎移植ものがたり(10)輸入された腎臓】
 アメリカの移植医療費の構成は、①臓器代、②入院費、③手術費から成り立っている。これらの費用は、民間医療保険会社から支払われるか、低所得者用のメディケイドにより政府から支払われるかの違いはあるが、①の臓器代として患者は腎臓や心臓だと16000ドル(82年の外為レートで約400万円)を支払わなければならない。ポール・テラサキの「US腎」の場合は、この部分の支払いが要求された。ほかに輸送費7万円も患者負担だった。
これらの輸入された「US腎は国内9施設で移植に使用されたが、宇和島への配分はなかった。第1回目の空輸は1個だけで、81年5月31日、社会保険仙台病院で移植に使われた。腎臓1個が400万円という価格構成は、臓器採取の手間賃、臓器保存処置料、組織適合検査料を含めても明らかに高すぎる。従ってこれは病院による「臓器売買」だと思われるが、当時は「US腎」と呼ばれ美談として報道された。ベルツァー教授の「ウィスコンシン腎」は、保存液と輸送機械のテストが主目的だから無料である。但し保存装置に付き添ってくる技師の旅費と滞在費は負担しないといけない。
 第1回の腎臓一対を運んできたのは、ボブの言ったとおり、若い技師アーモンド・マカティー(37)だった。宇和島から病院庶務課長の橘武が成田まで出迎えに行き、市立宇和島病院まで案内してきた。橘が選ばれたのは慶応大文学部中退で、曲がりなりにも英語ができたからだ。マカティーはマディソン空港からシカゴのオヘア空港へ飛び、そこで成田行きの直行便に乗り換えて来日した。二人は成田空港で落ち合い羽田空港に移動した。羽田から松山までは空輸、松山—宇和島間はタクシーによる陸送となった。ふたつの腎臓が宇和島に届いたのは、1982年6月20日の午後9時半。最初のUS腎よりおよそ1年遅れていた。多くの報道陣が羽田からずっとついて来た。
 送られて来た腎臓は日本時間の19日朝、自動車事故で死亡した26歳白人女性のものだった。脳死状態で腎臓が摘出され「ベルツァー・マシーン」に保存された。病院に着いた腎臓は、レシピエントを選び移植手術がはじまる21日夕刻までに、阻血時間が60時間近くに及ぶことになる。これが生着することは従来の常識では考えられないことだった。
 はるばるとウィスコンシンから届いた2個の腎臓とその保存装置は、検査科の宮本直明技師に引き継がれた。クーラーボックスの中に砕いた氷が敷き詰めてあり、その中に腎臓2個と潅流液のタンク、潅流液を流すポンプがあり、ポンプの電源はクーラーボックスの外のバッテリーと交流電源のどちらでも利用できるように作られていた。タンク内の潅流液はチューブで一つの腎臓の腎動脈に入り、腎静脈から出て、同じくチューブでもう一つの腎臓の腎動脈に入り、腎静脈をへて別のチューブでタンクに戻るようになっていた。すでにHLA(組織適合性抗原)の検査を済ませてあり、データと末梢血のサンプルが添付してあった。
 輸送に草臥れ果てたアーモンドがホテルに入ったので、宮本が徹夜で装置を監視した。途中で氷が溶けて無くなりかけたので、院内の氷自販機の置いてあるところまで走って、百円玉をいくつか入れて氷を補充した。
 翌21日の午前中は、移植関係者はレシピエント候補に連絡し、リンパ球がクロス・マッチする患者を選び説得するのにかかりきりだった。
他方、宇和島市長菊池は市長室にマカティー技師と近藤院長を招き、午後2時、マカティー技師とボスのベルツァー教授の人道的行為に対して、感謝状と記念品を贈った。
 第1例の移植は午後4時から、2年前から透析中の38歳の女性に対して行われた。はるばるアメリカから60時間かけて届いた腎臓が、腎動脈と腎静脈をレシピエントの血管に繋いだら、即座に赤みがさし、尿管から尿が滴下し始めたのを見て、手術に立ち会った全員は涙が出るほど感動した。1例目の患者はうまく生着した。しかしこの患者は退院後、慢性拒否反応を起こし、結局せっかく移植した腎臓を摘出せざるを得なかった。
 第2例目の手術は午後8時から、34歳の男性に行われた。ところがこの患者は、「超急性拒絶反応」を起こして、術後17時間で心停止により死亡してしまった。この患者は術後排尿がなく、血中カリウム濃度が正常の2倍あり、順調な経過とはいえなかった。
 超急性拒絶反応は、ドナーのHLAクラスⅠ抗原に対する抗体を、レシピエントがあらかじめもっている場合に起こる。腎動脈を吻合すると、レシピエントの血液がドナー腎を流れはじめる。その時、血清中に含まれる抗体が腎臓の血管内皮細胞をいっせいに攻撃し始め、血管の内面がまたたく間にただれた状態になる。細い動脈(細動脈)に至るまでこれが起こり、血行不良、血栓の形成などの障害が起こり、あっという間に腎機能が喪われる。患者さんが亡くなったのは22日の午後2時だった。その夜、近藤院長は松山市内で開かれた患者の通夜に参列し、両親に詫びた。
 第1回ウィスコンシン腎の輸送が行われた1982年は、為替レートが1ドル=250円ときわめて円安に振れていた時期だった。このため旅費・滞在費などを含めた経費は100万円以上かかった。
 第2回目のウィスコンシン腎は83年の3月23日に届いた。やはり病院から橘庶務課長が迎えに行き、前回と同じマカティー技師が付き添ってきた。腎臓の入ったベルツァー・マシーンは宮本技師に引き継がれ、24日に二人の腎不全患者に移植された。
 最初に午後3時半から、愛媛県伊予郡中山町在住の46歳の女性に移植手術が行われ、無事成功し、2ヶ月後には退院できた。続いて行われた第2例目では、山口県宇部市在住の40歳の男性に移植が行われ、手術は成功した。大量の排尿が見られるようになったのは良かったのだが、長い間使われていなかった膀胱が腹壁の皮膚と癒着していて、尿圧のため膀胱皮膚瘻(ろう)ができ、尿が腹壁から漏れるようになった。このため膀胱再建術が必要になり、退院期限が延びているうちに、今度は脳梗塞を起こし5月26日に死亡した。
 結局、2回にわたり4個輸入されたウィスコンシン腎の移植結果は、死亡2例、腎摘出1例、生着1例となり、予期されたような好成績を上げることができなかった。腎臓の人種的な差に問題があったのか、腎臓の保存・輸送・取扱法に問題があったのかはわからない。
 しかし1回の輸入に伴う経費、約100万円は市立宇和島病院が負担しなくてはならない。院長の近藤俊文は、病院にはこの経費を持続的に支出する予算がなく、市議会にかける必要があるので、続行は無理だと判断した。全例生着・生存ならともかく、このような成績では市議会を説得するのも困難である。それに、成績について宇和島市内の透析専門の開業医からの批判も出ていた。こうして宇和島での「輸入腎移植」は中止されることになった。だが助け船が現れた。(続)
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