【小保方本・続】
2014/2/20の【鹿鳴荘便り:違和感】で以下のようなコメントを述べた。
<バカンティの仕事はハーヴァードではまったく評価されていなかった。が、2008年、小保方が留学し、研究に進展がみられた。しかし相変わらず他の幹細胞研究者はバカンティの研究を受け入れようとしない。
そこで2010年12月に、フロリダで開催された学会で女子医大の大和がバカンティと小保方に会った時に、「細胞分離の過程が幹細胞を作り出している可能性があるから、自分のラボに戻って、それを追求したらどうか」という提案を行い、小保方が帰国したとBoston Globe紙のキャロライン・ジョンソン記者は2/2付紙面に書いている。
(「小保方手記」では、大和と小保方がフロリダに行き、学会場でバカンティに会った、とある。その時バカンティは「スフェア細胞は生体内に存在しているのではなく、(人工的な操作により)できてくるんだと思う」と小保方の耳にささやいたという。)
その後、東北大震災が起こり、小保方は理研の若山と共同研究するようになり、2012年4月ネイチャー誌に論文を投稿されたが、これはリジェクトされた。
「若山のような幹細胞研究のトップにいる研究者と共同研究することは、仕事の信頼性を増す上で決定的に重要だ」と同記事で、ボストン小児病院のD.Q.ディリィ博士が述べている。
以上が、今回の論文(2013/3投稿、2013/12受理)が発表されるまでの背景である。
要するに受け入れられなかったバカンティの2001年論文では、「すべての組織に微小な<芽胞様細胞>が存在していて、これが多潜能幹細胞である」と主張していた。2008年にバカンティのラボに留学した小保方は、つぎつぎにこれを実証する実験を行った。
「抽出操作で多潜能幹細胞が活性化される」という新たな仮説を証明すべく日本に戻った小保方は、理研の若山照彦を共同研究者に巻き込み、2012/4にネイチャーに論文を投稿したが却下された。以後、クレームが付いた箇所を追加実験等で修正し、2013/3に再投稿し笹井芳樹による論文修正・再々投稿の結果、今回の発表論文になった。
これ自体は、事実経過として何も不審な点はないのだが、「天才科学者」としての小保方のひらめきのようなものがどこにもうかがえない点に違和感を覚えるのは私だけだろうか…>
今回、発売された小保方晴子の手記「あの日」を東京のあるテレビ局記者から献本を受け、3色のマーカーで索引用語に人名、事項、疑問点のしるしをつけながら何回か読んだ。別の週刊誌編集部に送った読後の感想を以下に記す。(コメントは一部が、東京圏今日発売の「週刊現代」2/20号に載るはず。ただし「小保方に同情」vs「小保方許せない」-著書が20万部のベストセラー ◆ 武田邦彦・中部大学総合工学研究所特任教授、STAP細胞: 週刊現代(2016/02/20), 頁:64、となっており、あの物理学の武田教授がトップでは、あまり期待できない。)
■ 全体の感想
「小保方さんはひっそりと社会の隅で生きて行くものと思っていたが、この手記を発表することで、自らその道を閉ざしたなあ…」というのが偽らざる感想である。
自分の弱さ、不手際は何度も強調しているが、肝心のところでは基本的主張を崩しておらず、御免なさいも述べていない。むしろキメラマウスの作製で協力してくれた若山照彦氏が「STAP細胞捏造」の真犯人であるかのような記述になっている。
これでは若山教授も反論のいとまを、割かざるを得ないだろう。
■自己顕示欲
今回『あの日』を読んで予想外に「自己誉め」の記述が多いのに気づいた。
<女子医大の大和先生は「これまで指導した中でもベスト3に入る学生だ」と私を評し、バカンティ先生にメールを送ってくれた。>(p.44)
<私が(ラボで研究の)発表を終えると、バカンティ先生は…「過去15年間で最高のプレゼンテーションだった>と満面の笑みで大げさに誉めてくださった。>(p.51)
<若山先生は私のことを「これまで見た中で最も優秀なポスドク」と何度も言ってくれた。>
(p.82)
こういうことは他人が書くことで、自分で書くものではない。
■ 内容の誇張
バカンティの研究室で発表の前に、細胞集塊である「スフェア」からOCT4遺伝子発現を初めて確認した時。
「夜中の2時をまわった頃だった。…雪がつもり、足元が凍りついていた。…人気のない道を歩く。」(p.50)
それから「コートとブーツを身につけ外に出て、時計塔のそばを歩いた」とある。彼女はアパートから電車で通勤していた。真冬のボストンで午前2時に、歩いて自宅に帰るなど危険すぎて考えられない。
「一生懸命やった」ということを示すのに「徹夜した」という表現を使うのが好きのようだ。
後に若山研に面接に行く前のプレゼンテーション資料を「徹夜で作成」(P.63)し、博士論文は「入院中の母の病床の隣で徹夜で書いた」(P.71)。とある。(規準看護の病院なら、夜間消灯になるのでありえない。)
要するに時間の配分と使い方が下手で、ぎりぎりになるまでもっとも重要なことを処理できないだけではないか。
■ 科学を目指した動機の食い違い
★ 「手記」では小学4年生の同級生に「小児リュウマチ」の友だちがいて、次第に手が歪んでゆくのを見ておられなかった、と書いている。
本当に親友だったのであれば、この子のその後のことがちゃんと書き込まれていなければおかしい。
★ 「毎日」2014/1/30根本毅、斎藤広子記者とのインタビューでは、「幼少時に親が買ってくれたエジソン、キュリー夫人、ノーベルらの偉人伝の影響を受けた」と述べている。(須田桃子「捏造の科学者」,p.33)
これは記憶力が悪くて、前に言ったことを忘れ、首尾一貫したウソを言い通せない下手な詐欺師と同様だ。
■ 行き当たりばったりの人生
★「中学の成績では…首都圏で最難関の国立大学付属高校への合格は確実だと思われていたが、たまたま滑り止めに受けた高校(注:東邦大学付属高校)以外合格できなかった。」(p.7)
「滑り止め高校だったおかげで、平均点だけは高かったので、大学は推薦入試を希望していた。」(同)
★「しかし推薦枠のある大学には、私が希望するランクの大学がなかった。担任だった化学の教師に相談すると<早稲田の応用化学科今年からAO入試を始めるので受けたらどうか>といわれた。二次試験は<エステル合成>の実技試験だったので、高校の理科室で実験の練習をさせてもらった。」(p.8) つまり事前に問題を知り担任から特訓を受けている。
これで小保方は早稲田理工学部応用化学科に入学した。
つまり小保方はAO入試で、実技試験の問題を事前に知るという「不正」を働いているのだが、そのことを不正だと思っていないのだ。
★この時の試験官には後に小保方が卒論の指導を受け、大学院修士課程に進むことになる常田聡教授がいた。(須田桃子「捏造の科学者」,p.32)
★ 大学に入ったものの「ラクロス部」に入部し、練習に明け暮れ、ろくに勉強しなかった。(p.8-9)
★ 2005年4年生になり、卒論研究をしなくてはならなくなり、旧知の常田教授の研究室に所属した。そこは水質浄化の研究をしていた。小保方が与えられたテーマは「海洋微生物の単離培養法」だった。(p.10)
★ 4年生の秋、iPS細胞と再生医療が話題となっており、常田に「大学院修士」では研究テーマを「再生医療」に変えたいと申し出ている。(p.10)
★ この頃、東京女子医大では早稲田理工学部応用化学科卒の岡野光夫が副学長になっており、早稲田大との「連携先端生命医科学研究教育施設<TWIns>」設立し、岡野が初代施設長、大和雅之が研究室教授となっていた。岡野は2001年5月、再生医療のベンチャー「セルシード社」を設立していた。(小畑峰太郎「STAP細胞に群がった悪いヤツら」, p37, 219)
★ 小保方がハーバードのバカンティ研究室にいる小島宏司のところにメールを出して、自費(学術振興会の奨学生)で留学したのが2008年9月。元もと細胞培養の経験がない小保方は、小島の実験助手として仕事を手伝っていた。
★ 3ヶ月ほど経った12月か2009年1月にバカンティが「宿題だ」といって、①「c-Kit陽性細胞について」、②「間葉系の幹細胞について」調べるように小保方に命じた。C-Kitは幹細胞のマーカーであり、バカンティが「すべの臓器に、多能性芽胞様細胞が存在する」という説を唱えていることは、ラボの全員がよく知っていた。
★ 小保方の記述によると調査結果はラボのゼミで発表することになっていた。期限は1週間後(実際には予定が変更され2週間後)だった。それで彼女2008年から、幹細胞研究の歴史について100年前までさかのぼって主な論文を読んだという。
★ 「古い文献を読み込むうちに、凝り固まっていた自分の思考が解放されていくのを感じた。…科学の根本にある自然の法則にもとづく研究者の発想の自由さ深遠さに触れることができたことは貴重な体験だった。」(p.45) と彼女は書いている。
★ この時の「妄想」に基づいて、小保方はバカンティの妄想である「すべの臓器に多能性芽胞様細胞が存在する」という説を、次のように修正した。
1)現在バカンティ研究室で維持されている「スフェア(培養細胞集塊)」(骨髄幹細胞由来とされていた)は芽胞様細胞に由来する。
2)芽胞様幹細胞は、確認されている既存の成体幹細胞よりも大きな分化能をもつ、
という説を提示した。これがバカンティを喜ばせ、「生活費と渡航費を出す」と言わせたのである。
この発表の前に、小保方は自分で実験を行い、「スフェア」と呼ばれていた浮遊細胞塊が、OCT4という未分化細胞に特徴的な遺伝子を発現している電気泳動の証拠写真を撮影している。
★実際に過去100年間の論文調べ→ 新仮説の形成→ 培養細胞からの遺伝子抽出と電気泳動がわずか2週間でできるはずがなく、ここで小保方の「捏造写真」の最初の1枚が撮影されと考えられる。目的は6ヶ月の滞在期間の延長であっただろう。「バカンティ教」に改宗したことも大きい。
★ところが滞在を6ヶ月延長して、やっと書き上げて、PNAS(アメリカ学士院紀要)投稿した「スフィア細胞は体細胞由来の幹細胞である」という内容の論文(以下「スフィア論文」)は「出来上がった初期化細胞が多能性を持つことの証明には、OCT4陽性だけで不十分であり、テラトーマ形成能とキメラマウスの作製が可能という証拠が必要」として却下されてしまった。マウスの胚に小保方が作製した「胚細胞」を注射して、キメラマウスを作成する技術はバカンティ研究室にはなかった。
★そこで小保方は小島とともに急遽、帰国し女子医大の大和、早稲田の常田と4人で、2010年7月20日に理研神戸CDBに若山照彦を訪問し、「共同研究」の申し入れをしている。これで小保方は女子医大の大和研究室でSTAP幹細胞を作製し、出来た細胞を新幹線で神戸CDBの若山に届けるという生活を送ることになった。
★以後は主要舞台が理研神戸CDBに移り、役者も若山照彦、笹井芳樹などと交代する。ここまでの展開で、ハーバードのバカンティ、小島、早稲田の常田、女子医大の大和、理研CDBの若山、笹井ともに完全に小保方を信じ切っているのが特筆されるべきだろう。
2012年10月に、「体細胞核の初期化」に対して英国のガードンと日本の山中伸弥にノーベル医学賞の授与が行われたこともあり、胚細胞研究者間での競争が激しかったこともあるが、関係者の誰一人「小保方の実験がおかしい!」と思わなかったのは重大な過失といえるだろう。
■ 信じられない「凡ミス」の多発
★ 2011/3の早稲田の博士号審査の時、副主査の武岡教授から、
「論文の英語のスペルが間違っているところと、引用文献の番号と末尾の文献リストの番号がずれているところがあり、(国会図書館に提出する)製本までに直せ」といわれたのに、訂正せずにそのままにしていた。(p.71-72)
普通の神経をしていたら、すぐにミスを修正した新しい論文を審査員の先生に届け、お詫びをするはずだ。
論文の事務への提出期限日になって、あわててその日のうちに製本をしてくれるところを探した。その際、間違って修正前のヴァージョンのものをプリントして持ち込んだ、という。(p.73)
★ 「論文捏造疑惑」が浮上した2014/2以後、博士論文の全文がネットに流れ、副主査の武岡教授に「この論文は自分が審査した論文とはちがう」と指摘されて、初めて論文取り違えに気づいた。(p.152)
こんなことは、普通の注意力を保持していればありえないことだ。
■記述における内的一貫性の欠如
ところが小保方はネットで過去に雑誌に掲載した論文のPCRゲル写真をネイチャー論文に「使い回し」しているとのネット記事を知り、大学に提出した学位論文をパソコンで見ていて、ネイチャー論文のテラトーマの写真が学位論文の写真と同じものだと気づいたとしている(p.143)。写真は同じだが、両者を作成した条件は異なって記載されていた。
普通ならこの時点で、学位論文自体が「間違って提出された」と気づくはずだが、なぜか小保方は「騒ぎが広がる」のを恐れて、元指導教官の常田教授に「国会図書館の学位論文の回収」を懇願している。(p.143-145)
「学位論文」の間違いよりも、それが気づかれて「騒ぎになる」ことの方を重視している。これも普通の良心をもった研究者としては考えられないことだ。
■ 変わる呼び方
★第7章「想像をはるかに超える反響」までは、小保方の自慢話や指導者たちの名前が具体的に出てくるが、第8章「ハシゴは外された」以後、論文に捏造疑惑が浮上し、調査委員会が立ち上がり、論文撤回を求められる段階になると、ハーバードの小島、バカンティの名前が消えて、「アメリカの先生」「アメリカの先生たち」という表現になる。
全体を通じてこの部分だけが特異であり、これは彼女が小島とバカンティをかばう特別な理由があるのかもしれない。
■ 小保方の性格と事件
2012年当時、理研CDBの副所長をしており、T細胞受容体遺伝子の再構成を「分化した体細胞」のマーカーとして利用し、これから「スフィア細胞」を作ることを提案した西川伸一は、事件後、友人たちから「私なら(小保方の精神的な)異常をすぐに見抜いた。どうしてわからなかったのか?」とよく聞かれた、と書いている。(西川伸一「捏造の構造分析14」Yahooネット記事)
小保方には終始一貫した人生の目的がなく、すでに見てきたように目の前の相手、指導者に気に入られたいというところがあり、これが最も上手く発揮されたのがハーバードのバカンティ研究室での「仮説発表」だった。
しかし、これが論文として受理されるためには、バカンティ研究室でも女子医大の大和研究室でもできないキメラマウスの作成が必要であり、それには理研神戸CDBの若山の協力が必要だった。また当時の理研は「特定国立研究開発法人」を目指しており、売り物になる目玉を必要としていた。
要するにこういう複雑な背景要因があって、小保方の単純なウソがばれないまま、2014/1/30のネイチャーの論文発表に至り、その後の過剰なメディアの称賛報道がかえって、読者・視聴者の疑念をいだかせ、ネット「査読」につながったと思われる。
事件は小保方がいなければ成立していない。その意味で小保方は必要条件ではあるが、十分条件ではない、というべきだろう。
■ 藤村新一と小保方晴子
「旧石器遺跡捏造」事件を起こした藤村新一と「STAP細胞」事件の小保方晴子には類似点が多い。
1950年生まれの藤村は、仙台育英高校を卒業した後、東北電力の下請けで電気メーターをつくる計器会社で働いていた。入社4年目の1972年に宮城県古川市(現大崎市)で開かれた「考古展」で岩宿遺跡の発見者相澤忠洋の発掘物や業績に触れた。行商から身を起こした相澤に共感した藤村は東北大の考古学者グループに接近し、1974年「座散乱木遺跡」からの旧石器発見という「快挙」をなし遂げ一躍注目された。
トリックは簡単で、座散乱木の切り通しにある旧石器時代に相当する関東ローム層の中に、あらかじめ縄文石器を埋め、グループを案内してそこを掘らせるだけだった。「旧石器時代の地層からは旧石器が出る」と信じこんでいる、岡村道雄や鎌田俊昭は藤村の挙動を微塵も疑わなかった。
丁度ハーバードのバカンティが自説を補強してくれる小保方のプレゼンテーションを聞いて、その遺伝子解析写真がにせ物であると疑うことがなかったのと同様である。
藤村はその後も東北大学名誉教授の芹澤長介や岡村道雄(後文部省調査官)の理論に合うような地層から、ますます古い前期旧石器を発掘して見せ、「ゴッドハンド」と呼ばれた。
その捏造、つまり石器を埋めている現場がビデオで撮影され、「毎日」のスクープ報道の対象となったのが、2000/11である。一時は50万年前の前期旧石器とされ、「日本原人」の存在すら唱えられたのに、すべては28年間にわたる意識的な捏造の産物だったと間もなく明らかにされた。(上原善広「石の虚塔」新潮社, 2014/8)
それまでの28年間、メディアは研究者の発表を鵜呑みにして垂れ流すだけで、「捏造の可能性」を考慮した報道はまったく行われなかった。旧石器考古学専門家からの内部告発があったが、「毎日」東京本社は取り上げなかった。北海道支社の編集局長の判断で、北海道で藤村が指導している発掘中の「旧石器遺跡」が対象とされたが、テープの入れ忘れという凡ミスをおかし、急遽、宮城県の遺跡に取材の場所を移し、スクープ映像の撮影に成功した。
小保方の場合は、1998年にバカンティから与えられた「宿題」の発表前に、自分で実験を行い、「スフェア」と呼ばれていた浮遊細胞塊が、OCTという未分化細胞に特徴的な遺伝子を発現している電気泳動の証拠写真を撮影した、と「手記」で述べているが、これが捏造の始まりと見てよいだろう。
喜んだバカンティが滞在期間を6ヶ月延長してくれて、一流誌PNASに投稿する論文ができたが、OCT+だけでは「多能性細胞」ができた証拠にならないと却下され、テラトーマ形成能とキメラマウス形成能という追加証拠の提出を求められた。
この実験はバカンティ研究室の手にあまるものだった。そこで理研CDBが共同研究の場所として選ばれた。理研CDBの幹部は小保方の「スフェア」がインチキだとは知らなかった。
STAP細胞が途中でES細胞にすり替えられたとは露知らず、キメラマウス作製と論文の形を整えるに精力を使ったのが、若山氏と自殺した笹井氏である。
旧石器遺跡の虚構が破綻するのに28年もかかったのは、まともな検証報道がなかったことと、肝心の「知」が一部の考古学者に独占されていたからだ。ネットで話題になり、「脂肪酸分析」の問題が科学的に論じられるようになってから、「旧石器遺跡捏造」問題がネット上で決着するまで2ヶ月とかからなかった。
最初にネイチャーに拒絶されたSTAP論文の原稿を読んだ、西川伸一氏は「最終的に受理された論文と最初の論文の基本構造は変わらない」とブログで述べている。(「捏造の構造分析14」)
バカンティ研究室では「スフェア」と呼ばれていた細胞塊は、笹井が論文指導を担当するようになって「STAP細胞(Stimulus-Triggered Acquired Pluripotent Stem Cell)」と名称変更された。この細胞自体は増殖能がなく「特殊処理」(実はES細胞とのすり替え)をすると「STAP幹細胞」となり増殖能を獲得するとされた。
ネイチャー初稿から2度にわたる修正をへて、最終的に同誌に掲載された論文と基本構造は変わらないというのは、
自己増殖のないSTAP細胞から、 自己増殖能がありテラトーマとキメラマウス形成能のあるSTAP幹細胞が樹立できるという、二段階の構造は同じで、それを「もっともらしくする」写真や図表(ほとんどが捏造か使い回し)が付け加わっただけだ、ということだろう。
これが2014/1/30にネイチャー誌上に発表されてからの「ネット査読」は凄まじかった。過剰な報道合戦で読者の興味が異常に高まっていたせいもある。2/7までの約1週間で、疑問点はほとんど出尽くし、「捏造論文だ」という評価は確定したと思う。
ネットの勢いに押されて、理研がしぶしぶ調査を始め、当初「翼賛報道」をしていた小保方と同じ早稲田理工学部卒の「毎日」須田桃子が批判的スタンスに変わり、批判報道を始めた。捏造論文など世の中に沢山ある。当初の「ノーベル賞も間近!」というような「理研・メディア」合作の大報道さえなければ、「STAP細胞」論文は第三者の再現実験ができず、線香花火みたいに消えて行く運命にあった。
事件の教訓から学び、「日本版ORI」の設立に寄与したというので「科学ジャーナリスト賞」が出るのならともかく、ネットでネタを仕入れ一転して「バッシング報道」をした須田桃子がこの賞をもらうというのだから、日本という国は変な国だと思う。
藤村新一は今どうしているだろうか。上記「石の虚塔」によると、入院していた精神病院で知りあった(ということは患者らしい)女性と結婚し、改名して暮らしているという。二人とも「解離性人格障害」なので気が合った、とある。
生活面では障害者年金と30年間勤めた会社の厚生年金でかつかつの生活をしているようだ。「生活保護は受けていなのですか」と上原が質問し、「生活保護はオレみたいなものがもらったら、やっぱりダメでしょう」と藤村が答えている。その程度の倫理観はあるようだ。これは小保方よりも倫理観が高いと私は思う。
小保方晴子が10年後にどういう生活を送ることになるかは、まったく予測できない。
美容成形の高須クリニック高須克弥院長は、J-SPAにこういうコメントを発表している。
<小保方さん自身の人生を考えると、今回の出版がよかったのかどうか……。かえって追い込まれることになるんじゃないかな。>
http://joshi-spa.jp/450936
確かに印税で得た金で「美容成形」をして、別人になりすますという手はあるだろうが、姓の方はどう変えるかが問題になるだろう。
小保方は理研のPI(主任研究員)として、年俸800万円の生活を保障されていた。32歳で国立大の教授以上の年俸だ。週刊誌報道によると5万部分の印税700万円が前渡しだというが、失った年俸と比べると決して多いと本人は思っていないのではないか…
2014/2/20の【鹿鳴荘便り:違和感】で以下のようなコメントを述べた。
<バカンティの仕事はハーヴァードではまったく評価されていなかった。が、2008年、小保方が留学し、研究に進展がみられた。しかし相変わらず他の幹細胞研究者はバカンティの研究を受け入れようとしない。
そこで2010年12月に、フロリダで開催された学会で女子医大の大和がバカンティと小保方に会った時に、「細胞分離の過程が幹細胞を作り出している可能性があるから、自分のラボに戻って、それを追求したらどうか」という提案を行い、小保方が帰国したとBoston Globe紙のキャロライン・ジョンソン記者は2/2付紙面に書いている。
(「小保方手記」では、大和と小保方がフロリダに行き、学会場でバカンティに会った、とある。その時バカンティは「スフェア細胞は生体内に存在しているのではなく、(人工的な操作により)できてくるんだと思う」と小保方の耳にささやいたという。)
その後、東北大震災が起こり、小保方は理研の若山と共同研究するようになり、2012年4月ネイチャー誌に論文を投稿されたが、これはリジェクトされた。
「若山のような幹細胞研究のトップにいる研究者と共同研究することは、仕事の信頼性を増す上で決定的に重要だ」と同記事で、ボストン小児病院のD.Q.ディリィ博士が述べている。
以上が、今回の論文(2013/3投稿、2013/12受理)が発表されるまでの背景である。
要するに受け入れられなかったバカンティの2001年論文では、「すべての組織に微小な<芽胞様細胞>が存在していて、これが多潜能幹細胞である」と主張していた。2008年にバカンティのラボに留学した小保方は、つぎつぎにこれを実証する実験を行った。
「抽出操作で多潜能幹細胞が活性化される」という新たな仮説を証明すべく日本に戻った小保方は、理研の若山照彦を共同研究者に巻き込み、2012/4にネイチャーに論文を投稿したが却下された。以後、クレームが付いた箇所を追加実験等で修正し、2013/3に再投稿し笹井芳樹による論文修正・再々投稿の結果、今回の発表論文になった。
これ自体は、事実経過として何も不審な点はないのだが、「天才科学者」としての小保方のひらめきのようなものがどこにもうかがえない点に違和感を覚えるのは私だけだろうか…>
今回、発売された小保方晴子の手記「あの日」を東京のあるテレビ局記者から献本を受け、3色のマーカーで索引用語に人名、事項、疑問点のしるしをつけながら何回か読んだ。別の週刊誌編集部に送った読後の感想を以下に記す。(コメントは一部が、東京圏今日発売の「週刊現代」2/20号に載るはず。ただし「小保方に同情」vs「小保方許せない」-著書が20万部のベストセラー ◆ 武田邦彦・中部大学総合工学研究所特任教授、STAP細胞: 週刊現代(2016/02/20), 頁:64、となっており、あの物理学の武田教授がトップでは、あまり期待できない。)
■ 全体の感想
「小保方さんはひっそりと社会の隅で生きて行くものと思っていたが、この手記を発表することで、自らその道を閉ざしたなあ…」というのが偽らざる感想である。
自分の弱さ、不手際は何度も強調しているが、肝心のところでは基本的主張を崩しておらず、御免なさいも述べていない。むしろキメラマウスの作製で協力してくれた若山照彦氏が「STAP細胞捏造」の真犯人であるかのような記述になっている。
これでは若山教授も反論のいとまを、割かざるを得ないだろう。
■自己顕示欲
今回『あの日』を読んで予想外に「自己誉め」の記述が多いのに気づいた。
<女子医大の大和先生は「これまで指導した中でもベスト3に入る学生だ」と私を評し、バカンティ先生にメールを送ってくれた。>(p.44)
<私が(ラボで研究の)発表を終えると、バカンティ先生は…「過去15年間で最高のプレゼンテーションだった>と満面の笑みで大げさに誉めてくださった。>(p.51)
<若山先生は私のことを「これまで見た中で最も優秀なポスドク」と何度も言ってくれた。>
(p.82)
こういうことは他人が書くことで、自分で書くものではない。
■ 内容の誇張
バカンティの研究室で発表の前に、細胞集塊である「スフェア」からOCT4遺伝子発現を初めて確認した時。
「夜中の2時をまわった頃だった。…雪がつもり、足元が凍りついていた。…人気のない道を歩く。」(p.50)
それから「コートとブーツを身につけ外に出て、時計塔のそばを歩いた」とある。彼女はアパートから電車で通勤していた。真冬のボストンで午前2時に、歩いて自宅に帰るなど危険すぎて考えられない。
「一生懸命やった」ということを示すのに「徹夜した」という表現を使うのが好きのようだ。
後に若山研に面接に行く前のプレゼンテーション資料を「徹夜で作成」(P.63)し、博士論文は「入院中の母の病床の隣で徹夜で書いた」(P.71)。とある。(規準看護の病院なら、夜間消灯になるのでありえない。)
要するに時間の配分と使い方が下手で、ぎりぎりになるまでもっとも重要なことを処理できないだけではないか。
■ 科学を目指した動機の食い違い
★ 「手記」では小学4年生の同級生に「小児リュウマチ」の友だちがいて、次第に手が歪んでゆくのを見ておられなかった、と書いている。
本当に親友だったのであれば、この子のその後のことがちゃんと書き込まれていなければおかしい。
★ 「毎日」2014/1/30根本毅、斎藤広子記者とのインタビューでは、「幼少時に親が買ってくれたエジソン、キュリー夫人、ノーベルらの偉人伝の影響を受けた」と述べている。(須田桃子「捏造の科学者」,p.33)
これは記憶力が悪くて、前に言ったことを忘れ、首尾一貫したウソを言い通せない下手な詐欺師と同様だ。
■ 行き当たりばったりの人生
★「中学の成績では…首都圏で最難関の国立大学付属高校への合格は確実だと思われていたが、たまたま滑り止めに受けた高校(注:東邦大学付属高校)以外合格できなかった。」(p.7)
「滑り止め高校だったおかげで、平均点だけは高かったので、大学は推薦入試を希望していた。」(同)
★「しかし推薦枠のある大学には、私が希望するランクの大学がなかった。担任だった化学の教師に相談すると<早稲田の応用化学科今年からAO入試を始めるので受けたらどうか>といわれた。二次試験は<エステル合成>の実技試験だったので、高校の理科室で実験の練習をさせてもらった。」(p.8) つまり事前に問題を知り担任から特訓を受けている。
これで小保方は早稲田理工学部応用化学科に入学した。
つまり小保方はAO入試で、実技試験の問題を事前に知るという「不正」を働いているのだが、そのことを不正だと思っていないのだ。
★この時の試験官には後に小保方が卒論の指導を受け、大学院修士課程に進むことになる常田聡教授がいた。(須田桃子「捏造の科学者」,p.32)
★ 大学に入ったものの「ラクロス部」に入部し、練習に明け暮れ、ろくに勉強しなかった。(p.8-9)
★ 2005年4年生になり、卒論研究をしなくてはならなくなり、旧知の常田教授の研究室に所属した。そこは水質浄化の研究をしていた。小保方が与えられたテーマは「海洋微生物の単離培養法」だった。(p.10)
★ 4年生の秋、iPS細胞と再生医療が話題となっており、常田に「大学院修士」では研究テーマを「再生医療」に変えたいと申し出ている。(p.10)
★ この頃、東京女子医大では早稲田理工学部応用化学科卒の岡野光夫が副学長になっており、早稲田大との「連携先端生命医科学研究教育施設<TWIns>」設立し、岡野が初代施設長、大和雅之が研究室教授となっていた。岡野は2001年5月、再生医療のベンチャー「セルシード社」を設立していた。(小畑峰太郎「STAP細胞に群がった悪いヤツら」, p37, 219)
★ 小保方がハーバードのバカンティ研究室にいる小島宏司のところにメールを出して、自費(学術振興会の奨学生)で留学したのが2008年9月。元もと細胞培養の経験がない小保方は、小島の実験助手として仕事を手伝っていた。
★ 3ヶ月ほど経った12月か2009年1月にバカンティが「宿題だ」といって、①「c-Kit陽性細胞について」、②「間葉系の幹細胞について」調べるように小保方に命じた。C-Kitは幹細胞のマーカーであり、バカンティが「すべの臓器に、多能性芽胞様細胞が存在する」という説を唱えていることは、ラボの全員がよく知っていた。
★ 小保方の記述によると調査結果はラボのゼミで発表することになっていた。期限は1週間後(実際には予定が変更され2週間後)だった。それで彼女2008年から、幹細胞研究の歴史について100年前までさかのぼって主な論文を読んだという。
★ 「古い文献を読み込むうちに、凝り固まっていた自分の思考が解放されていくのを感じた。…科学の根本にある自然の法則にもとづく研究者の発想の自由さ深遠さに触れることができたことは貴重な体験だった。」(p.45) と彼女は書いている。
★ この時の「妄想」に基づいて、小保方はバカンティの妄想である「すべの臓器に多能性芽胞様細胞が存在する」という説を、次のように修正した。
1)現在バカンティ研究室で維持されている「スフェア(培養細胞集塊)」(骨髄幹細胞由来とされていた)は芽胞様細胞に由来する。
2)芽胞様幹細胞は、確認されている既存の成体幹細胞よりも大きな分化能をもつ、
という説を提示した。これがバカンティを喜ばせ、「生活費と渡航費を出す」と言わせたのである。
この発表の前に、小保方は自分で実験を行い、「スフェア」と呼ばれていた浮遊細胞塊が、OCT4という未分化細胞に特徴的な遺伝子を発現している電気泳動の証拠写真を撮影している。
★実際に過去100年間の論文調べ→ 新仮説の形成→ 培養細胞からの遺伝子抽出と電気泳動がわずか2週間でできるはずがなく、ここで小保方の「捏造写真」の最初の1枚が撮影されと考えられる。目的は6ヶ月の滞在期間の延長であっただろう。「バカンティ教」に改宗したことも大きい。
★ところが滞在を6ヶ月延長して、やっと書き上げて、PNAS(アメリカ学士院紀要)投稿した「スフィア細胞は体細胞由来の幹細胞である」という内容の論文(以下「スフィア論文」)は「出来上がった初期化細胞が多能性を持つことの証明には、OCT4陽性だけで不十分であり、テラトーマ形成能とキメラマウスの作製が可能という証拠が必要」として却下されてしまった。マウスの胚に小保方が作製した「胚細胞」を注射して、キメラマウスを作成する技術はバカンティ研究室にはなかった。
★そこで小保方は小島とともに急遽、帰国し女子医大の大和、早稲田の常田と4人で、2010年7月20日に理研神戸CDBに若山照彦を訪問し、「共同研究」の申し入れをしている。これで小保方は女子医大の大和研究室でSTAP幹細胞を作製し、出来た細胞を新幹線で神戸CDBの若山に届けるという生活を送ることになった。
★以後は主要舞台が理研神戸CDBに移り、役者も若山照彦、笹井芳樹などと交代する。ここまでの展開で、ハーバードのバカンティ、小島、早稲田の常田、女子医大の大和、理研CDBの若山、笹井ともに完全に小保方を信じ切っているのが特筆されるべきだろう。
2012年10月に、「体細胞核の初期化」に対して英国のガードンと日本の山中伸弥にノーベル医学賞の授与が行われたこともあり、胚細胞研究者間での競争が激しかったこともあるが、関係者の誰一人「小保方の実験がおかしい!」と思わなかったのは重大な過失といえるだろう。
■ 信じられない「凡ミス」の多発
★ 2011/3の早稲田の博士号審査の時、副主査の武岡教授から、
「論文の英語のスペルが間違っているところと、引用文献の番号と末尾の文献リストの番号がずれているところがあり、(国会図書館に提出する)製本までに直せ」といわれたのに、訂正せずにそのままにしていた。(p.71-72)
普通の神経をしていたら、すぐにミスを修正した新しい論文を審査員の先生に届け、お詫びをするはずだ。
論文の事務への提出期限日になって、あわててその日のうちに製本をしてくれるところを探した。その際、間違って修正前のヴァージョンのものをプリントして持ち込んだ、という。(p.73)
★ 「論文捏造疑惑」が浮上した2014/2以後、博士論文の全文がネットに流れ、副主査の武岡教授に「この論文は自分が審査した論文とはちがう」と指摘されて、初めて論文取り違えに気づいた。(p.152)
こんなことは、普通の注意力を保持していればありえないことだ。
■記述における内的一貫性の欠如
ところが小保方はネットで過去に雑誌に掲載した論文のPCRゲル写真をネイチャー論文に「使い回し」しているとのネット記事を知り、大学に提出した学位論文をパソコンで見ていて、ネイチャー論文のテラトーマの写真が学位論文の写真と同じものだと気づいたとしている(p.143)。写真は同じだが、両者を作成した条件は異なって記載されていた。
普通ならこの時点で、学位論文自体が「間違って提出された」と気づくはずだが、なぜか小保方は「騒ぎが広がる」のを恐れて、元指導教官の常田教授に「国会図書館の学位論文の回収」を懇願している。(p.143-145)
「学位論文」の間違いよりも、それが気づかれて「騒ぎになる」ことの方を重視している。これも普通の良心をもった研究者としては考えられないことだ。
■ 変わる呼び方
★第7章「想像をはるかに超える反響」までは、小保方の自慢話や指導者たちの名前が具体的に出てくるが、第8章「ハシゴは外された」以後、論文に捏造疑惑が浮上し、調査委員会が立ち上がり、論文撤回を求められる段階になると、ハーバードの小島、バカンティの名前が消えて、「アメリカの先生」「アメリカの先生たち」という表現になる。
全体を通じてこの部分だけが特異であり、これは彼女が小島とバカンティをかばう特別な理由があるのかもしれない。
■ 小保方の性格と事件
2012年当時、理研CDBの副所長をしており、T細胞受容体遺伝子の再構成を「分化した体細胞」のマーカーとして利用し、これから「スフィア細胞」を作ることを提案した西川伸一は、事件後、友人たちから「私なら(小保方の精神的な)異常をすぐに見抜いた。どうしてわからなかったのか?」とよく聞かれた、と書いている。(西川伸一「捏造の構造分析14」Yahooネット記事)
小保方には終始一貫した人生の目的がなく、すでに見てきたように目の前の相手、指導者に気に入られたいというところがあり、これが最も上手く発揮されたのがハーバードのバカンティ研究室での「仮説発表」だった。
しかし、これが論文として受理されるためには、バカンティ研究室でも女子医大の大和研究室でもできないキメラマウスの作成が必要であり、それには理研神戸CDBの若山の協力が必要だった。また当時の理研は「特定国立研究開発法人」を目指しており、売り物になる目玉を必要としていた。
要するにこういう複雑な背景要因があって、小保方の単純なウソがばれないまま、2014/1/30のネイチャーの論文発表に至り、その後の過剰なメディアの称賛報道がかえって、読者・視聴者の疑念をいだかせ、ネット「査読」につながったと思われる。
事件は小保方がいなければ成立していない。その意味で小保方は必要条件ではあるが、十分条件ではない、というべきだろう。
■ 藤村新一と小保方晴子
「旧石器遺跡捏造」事件を起こした藤村新一と「STAP細胞」事件の小保方晴子には類似点が多い。
1950年生まれの藤村は、仙台育英高校を卒業した後、東北電力の下請けで電気メーターをつくる計器会社で働いていた。入社4年目の1972年に宮城県古川市(現大崎市)で開かれた「考古展」で岩宿遺跡の発見者相澤忠洋の発掘物や業績に触れた。行商から身を起こした相澤に共感した藤村は東北大の考古学者グループに接近し、1974年「座散乱木遺跡」からの旧石器発見という「快挙」をなし遂げ一躍注目された。
トリックは簡単で、座散乱木の切り通しにある旧石器時代に相当する関東ローム層の中に、あらかじめ縄文石器を埋め、グループを案内してそこを掘らせるだけだった。「旧石器時代の地層からは旧石器が出る」と信じこんでいる、岡村道雄や鎌田俊昭は藤村の挙動を微塵も疑わなかった。
丁度ハーバードのバカンティが自説を補強してくれる小保方のプレゼンテーションを聞いて、その遺伝子解析写真がにせ物であると疑うことがなかったのと同様である。
藤村はその後も東北大学名誉教授の芹澤長介や岡村道雄(後文部省調査官)の理論に合うような地層から、ますます古い前期旧石器を発掘して見せ、「ゴッドハンド」と呼ばれた。
その捏造、つまり石器を埋めている現場がビデオで撮影され、「毎日」のスクープ報道の対象となったのが、2000/11である。一時は50万年前の前期旧石器とされ、「日本原人」の存在すら唱えられたのに、すべては28年間にわたる意識的な捏造の産物だったと間もなく明らかにされた。(上原善広「石の虚塔」新潮社, 2014/8)
それまでの28年間、メディアは研究者の発表を鵜呑みにして垂れ流すだけで、「捏造の可能性」を考慮した報道はまったく行われなかった。旧石器考古学専門家からの内部告発があったが、「毎日」東京本社は取り上げなかった。北海道支社の編集局長の判断で、北海道で藤村が指導している発掘中の「旧石器遺跡」が対象とされたが、テープの入れ忘れという凡ミスをおかし、急遽、宮城県の遺跡に取材の場所を移し、スクープ映像の撮影に成功した。
小保方の場合は、1998年にバカンティから与えられた「宿題」の発表前に、自分で実験を行い、「スフェア」と呼ばれていた浮遊細胞塊が、OCTという未分化細胞に特徴的な遺伝子を発現している電気泳動の証拠写真を撮影した、と「手記」で述べているが、これが捏造の始まりと見てよいだろう。
喜んだバカンティが滞在期間を6ヶ月延長してくれて、一流誌PNASに投稿する論文ができたが、OCT+だけでは「多能性細胞」ができた証拠にならないと却下され、テラトーマ形成能とキメラマウス形成能という追加証拠の提出を求められた。
この実験はバカンティ研究室の手にあまるものだった。そこで理研CDBが共同研究の場所として選ばれた。理研CDBの幹部は小保方の「スフェア」がインチキだとは知らなかった。
STAP細胞が途中でES細胞にすり替えられたとは露知らず、キメラマウス作製と論文の形を整えるに精力を使ったのが、若山氏と自殺した笹井氏である。
旧石器遺跡の虚構が破綻するのに28年もかかったのは、まともな検証報道がなかったことと、肝心の「知」が一部の考古学者に独占されていたからだ。ネットで話題になり、「脂肪酸分析」の問題が科学的に論じられるようになってから、「旧石器遺跡捏造」問題がネット上で決着するまで2ヶ月とかからなかった。
最初にネイチャーに拒絶されたSTAP論文の原稿を読んだ、西川伸一氏は「最終的に受理された論文と最初の論文の基本構造は変わらない」とブログで述べている。(「捏造の構造分析14」)
バカンティ研究室では「スフェア」と呼ばれていた細胞塊は、笹井が論文指導を担当するようになって「STAP細胞(Stimulus-Triggered Acquired Pluripotent Stem Cell)」と名称変更された。この細胞自体は増殖能がなく「特殊処理」(実はES細胞とのすり替え)をすると「STAP幹細胞」となり増殖能を獲得するとされた。
ネイチャー初稿から2度にわたる修正をへて、最終的に同誌に掲載された論文と基本構造は変わらないというのは、
自己増殖のないSTAP細胞から、 自己増殖能がありテラトーマとキメラマウス形成能のあるSTAP幹細胞が樹立できるという、二段階の構造は同じで、それを「もっともらしくする」写真や図表(ほとんどが捏造か使い回し)が付け加わっただけだ、ということだろう。
これが2014/1/30にネイチャー誌上に発表されてからの「ネット査読」は凄まじかった。過剰な報道合戦で読者の興味が異常に高まっていたせいもある。2/7までの約1週間で、疑問点はほとんど出尽くし、「捏造論文だ」という評価は確定したと思う。
ネットの勢いに押されて、理研がしぶしぶ調査を始め、当初「翼賛報道」をしていた小保方と同じ早稲田理工学部卒の「毎日」須田桃子が批判的スタンスに変わり、批判報道を始めた。捏造論文など世の中に沢山ある。当初の「ノーベル賞も間近!」というような「理研・メディア」合作の大報道さえなければ、「STAP細胞」論文は第三者の再現実験ができず、線香花火みたいに消えて行く運命にあった。
事件の教訓から学び、「日本版ORI」の設立に寄与したというので「科学ジャーナリスト賞」が出るのならともかく、ネットでネタを仕入れ一転して「バッシング報道」をした須田桃子がこの賞をもらうというのだから、日本という国は変な国だと思う。
藤村新一は今どうしているだろうか。上記「石の虚塔」によると、入院していた精神病院で知りあった(ということは患者らしい)女性と結婚し、改名して暮らしているという。二人とも「解離性人格障害」なので気が合った、とある。
生活面では障害者年金と30年間勤めた会社の厚生年金でかつかつの生活をしているようだ。「生活保護は受けていなのですか」と上原が質問し、「生活保護はオレみたいなものがもらったら、やっぱりダメでしょう」と藤村が答えている。その程度の倫理観はあるようだ。これは小保方よりも倫理観が高いと私は思う。
小保方晴子が10年後にどういう生活を送ることになるかは、まったく予測できない。
美容成形の高須クリニック高須克弥院長は、J-SPAにこういうコメントを発表している。
<小保方さん自身の人生を考えると、今回の出版がよかったのかどうか……。かえって追い込まれることになるんじゃないかな。>
http://joshi-spa.jp/450936
確かに印税で得た金で「美容成形」をして、別人になりすますという手はあるだろうが、姓の方はどう変えるかが問題になるだろう。
小保方は理研のPI(主任研究員)として、年俸800万円の生活を保障されていた。32歳で国立大の教授以上の年俸だ。週刊誌報道によると5万部分の印税700万円が前渡しだというが、失った年俸と比べると決して多いと本人は思っていないのではないか…
私はAO入試の章はサラっと読み流し「不正」に気がつきませんでした。
これがホントなら、そもそも大学除籍だと .....高卒?
本人は「創作本」がベストセラーになり満足してると思います。
自己顕示力&ずれた承認欲求を満たされ味をしめ、
「ワタシ作家にむいてるかも!」 言い出しかねませんね。
原稿はどのくらいの期間で書き上げたのでしょう?
早稲田博論追試後の1ヶ月ほどで書いたならす・ご・いですね。笑
芸能事務所がのりだし本人も木に登れば、
次は「ミヤネ屋」あたりに独占インタビュー出演ですか...笑)
もちろん前提が、高額報酬&擁護者インタビュアーですが。
有料メルマガとか「信者」が喜びそう。
行き当たりばったりの人生にふさわしい、
ゲスも飲み込む芸能界進出ですね。
AO入試で、さらに不正までしていたとは。
誰が問題を教えたのでしょう?
この時点では、小保方氏よりも、問題を教えた関係者の責任の方が重大では?
というか、このくらいの不正入学はいくらでもある気がしますね。お金を渡したのでしょうか?
須田桃子氏への批判も納得です。
講談社は印税前払いとのことですが、これはアメリカの出版社がやるアドバンスで、書く前に渡すものですが、講談社も小保方氏が書く前に渡したのだろうと思います。執筆から出版の間に正月があるので、博論締切以前からこの企画があったとしか思えません。
そして、渡したのが去年なら、小保方氏は税務署で確定申告をしなければなりませんね。
小保方信者の武田教授を出してくるあたり、完全に小保方寄りでしょう。
講談社の本は当分読みたくないです。、
バカンティ氏、小島氏はSTAP細胞でサルの脊髄を治した、ヒトSTAPを作ったなど発表しています。
STAP細胞はなかったのにいったいどうやったのか。
小保方氏とバカンティ氏らの絆は思いのほか強いものなのかもしれず、何らかの秘密を共有していることも考えられますね。
ニュース記事によれば、昨年9月からの執筆だそうです。東京に拠点を移して書いたという記事もあったので、完全に博論のほうを捨ててますね。
『講談社の担当編集者は「さまざまな仲介を経て(こちらから)執筆を提案した。小保方さん自身が昨年9月から執筆に入り、4カ月かけて完成させた」と話す。』
http://www.waseda.jp/jp/journal/2001/0105-1.pdf
エステルの合成っていうから、アルコールと脂肪酸を一定分量はかって混ぜて、触媒の硫酸かなにか入れるだけ。めちゃくちゃ簡単じゃん。普通、事前に練習しなくても、高校化学の実習でやるでしょ。
pHの滴定をさせてたら落ちてたかもね。
これからの大学教員は、口先だけの輩を見抜ける実力が必要だね。
日本版ORIが必要だという議論はSTAP捏造事件以降あちこちで見聞きしたが、いっかな実現への具体策をきかない。どうして実現しないのか、何が阻害しているのか、誰か教えてほしい。アメリカは有名な捏造事件を契機にORIを作ったというのに。
AO入試って、幼児の「お受験」と同じにおいがするね。。
いっそ保護者同伴で、面接官は「大人の方」をチェックしたら?
擁護なのか講談社なのかわからないが、宣伝工作がすごかっただけだね。
若山氏、相手にしなくて正解だったと思う。
出版直前まで極秘にしてたのは、前もって話題にすると批判が上回ると踏んで、一気に売ろうと思ってたんだろう。
だんだん忘れられていくだろうね。
擁護する人物がどんなに立派で地位があっても、本人の正体はばれてるんだから、擁護者の煽動に乗ってやれば良いんだよ。
こっちはアホが透けて見えるから(擁護者=アホ)面白い