世相が焦臭さを増すにつれ、「不要不急の外出」をあたかも悪であるかのように決めつける風潮が、再び露わになってきました。この機会に再度宣言しておきましょう。お門違いな「要請」には一切与しないということについてです。
そもそもの発端は、「不要不急の集まり」を自粛せよというお触れでした。人々が集まる場所で蔓延する病原体の性質上、そのお触れ自体がお門違いだったとは思いません。ところがその後「不要不急の外出」へと矛先が向けられ、作為的に報道されたことにより、いつの間にやら「不要不急」の事共全てが悪であるかのような風潮が蔓延してしまいました。本来「自粛」すべきなのは「集まり」の方だと自分は思います。不要不急であろうとなかろうと、人々が集まる場を恒久的に減らしていくための方策こそが、本来あるべき「新しい生活様式」ではないでしょうか。ところが実際には、病原体を殲滅する「聖戦」を支えるという大義名分の下、「新しい生活様式」に則って、「不要不急」の事共を「自粛」せよと叫ばれていいます。この欺瞞に気付いていない人々が多すぎるように思えてなりません。
ただし、「自粛」が叫ばれ出した頃に比べると、明らかに変わったことが一つあります。人々が無駄に恐れをなし、責任をなすり合う局面が去ったということです。お上による強硬策が発動されたとき、いともあっさり活動休止を表明したのは、誰もが恐れをなして引きこもる中で強行しても、行く先々で迷惑をかけることが避けがたかったからに他なりません。同様の局面が再び現れれば、遠出を見合わせることも検討すべきところではありますが、現状においてその必要性は感じられません。お門違いな「要請」に盲従することなく、自らの信条に基づいて行動するつもりです。
そもそもの発端は、「不要不急の集まり」を自粛せよというお触れでした。人々が集まる場所で蔓延する病原体の性質上、そのお触れ自体がお門違いだったとは思いません。ところがその後「不要不急の外出」へと矛先が向けられ、作為的に報道されたことにより、いつの間にやら「不要不急」の事共全てが悪であるかのような風潮が蔓延してしまいました。本来「自粛」すべきなのは「集まり」の方だと自分は思います。不要不急であろうとなかろうと、人々が集まる場を恒久的に減らしていくための方策こそが、本来あるべき「新しい生活様式」ではないでしょうか。ところが実際には、病原体を殲滅する「聖戦」を支えるという大義名分の下、「新しい生活様式」に則って、「不要不急」の事共を「自粛」せよと叫ばれていいます。この欺瞞に気付いていない人々が多すぎるように思えてなりません。
ただし、「自粛」が叫ばれ出した頃に比べると、明らかに変わったことが一つあります。人々が無駄に恐れをなし、責任をなすり合う局面が去ったということです。お上による強硬策が発動されたとき、いともあっさり活動休止を表明したのは、誰もが恐れをなして引きこもる中で強行しても、行く先々で迷惑をかけることが避けがたかったからに他なりません。同様の局面が再び現れれば、遠出を見合わせることも検討すべきところではありますが、現状においてその必要性は感じられません。お門違いな「要請」に盲従することなく、自らの信条に基づいて行動するつもりです。