水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

チッソの責任

2006年09月25日 | 水俣病
埋立後(1994年)の水俣湾
1977年から1990年まで水俣湾58haを埋め立て、100トンのメチル水銀を含む汚泥を封じ込めた。埋め立て総費用485億円のうち、チッソの負担は306億円であった。企業としてのチッソ水俣工場は赤字に追い込まれた。しかし、チッソには千葉県市原、岡山県倉敷の石油化学コンビナートには液晶素材の関連製造工場があり、全体としては好業績が続いている。


チッソは1958年からは水俣湾に排水しなかった。水俣湾の汚染は止まった。このあとの水俣病は、水俣湾の残留水銀によるものであった。

1958年から1968年まではチッソは八幡プール(水俣川河口)に排水先を変更した。水俣湾の汚染の進行は止まったものの、今度は不知火海全体にメチル水銀が拡散した。魚介類が汚染し,水俣病患者が不知火海沿岸に広がった。不知火海沿岸の水俣病患者2万人以上と推定される。
医学的見地から水俣病を審査する公式認定審査会は、補償金・慰謝料・医療費などの財政負担を考えて認定を厳格にした。このため、不知火水俣病患者会からは、審査基準が患者切り捨ての条件になっているとの批判が強まり、不知火海沿岸の水俣病患者を救済できる審査基準を求め、次々と訴訟を起こしている。
---------------------------------------
チッソは最高の技術を誇る化学会社である。水俣工場でカーバイドから水銀を触媒に使いアルデヒドを大量に製造し、1960年前後の石油化学工業の発展に大きく貢献した。無機水銀を使用したにもかかわらず、メチル水銀が排出されることに、チッソの研究体制が向かなかった。このことが1973年の熊本地裁判決で糾弾されたが、民間企業チッソには納得できなかった。
水質二法で工場排水を止める権限のあった政府、漁業調整規則で海水汚濁を止める権限のあった熊本県が、水俣病の拡大に何もしなかった。国・県の行政責任の方が大きい。行政の無作為の責任である。
しかし、それでチッソの責任がなくなるわけではない。排水中のメチル水銀が水俣病の原因と分からなくても、1958年には工場排水中の何かが水俣病の原因と分かったはずである。また、附属病院細川院長はネコに工場排水を与え、ネコに水俣病を発症させている。
チッソは漁民の抗議にまじめに対応すべきであった。政府と結びついた大企業の態度はあまりに横柄であった。熊本大学医学部が排水中のメチル水銀を疑った時点で、チッソの優秀な研究者に、有機水銀の毒性を急ぎ、研究させなくてはならなかったのである。
しかし、チッソも、日本政府も、熊本県も、何もしなかった。何もしなかった責任は重い。



最新の画像もっと見る