水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

1973年、水俣病の終わり(② 熊本地裁で患者勝訴)

2006年10月09日 | 水俣病
水俣病の認定を受けられなかった水俣病患者112名が患者家庭互助会を結成、1969年6月14日に、チッソを相手に、6億4千万円の慰謝料を求め、熊本地裁に民事提訴した(第1次訴訟)。
新潟水俣病が昭和電工を提訴したのは1968年である。熊本水俣病の訴訟が1年遅れたのは、1959年の見舞金契約で今後はチッソの責任を問わないと約束した水俣病患者が多かったことと、水俣病には伝染病・遺伝病などの偏見が多く、未認定患者が集団訴訟に躊躇したためである。
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1973年3月20日、熊本地裁判決は、患者側の全面勝訴であった。水俣病の発症と拡大は、チッソに原因と責任があった。

◆裁判におけるチッソ側の主張
チッソ水俣工場で触媒として使用したのは無機水銀であり、アセトアルデヒド製造工程でメチル水銀に変わることは予見できなかった。排水中にメチル水銀が含まれることも、それが人体の中枢神経を破壊して水俣病を発症させることも予見できなかった。メチル水銀の生成も、水俣病の発症も、当時の最高の化学的知識では知られていないことであるから、チッソには水俣病の責任がない。

◆熊本地裁判決(チッソを批判)
①チッソの言い分によれば、環境が汚染されて住民の生命が危うくなる時まで、メチル水銀のような有害物質を排出してもやむを得ないということになる。その結果として住民の生命が失われることもあり、工場排水による人体実験そのものである。チッソは、排水中に予想外の危険物質が含まれる可能性があれば、操業を中止してでも安全を確保しなくてはならない。
②チッソは、排水中にメチル水銀の含まれていることを知らなかったのではなく、調べなかったのである。1955年には文献上、分かるはずであった。
③チッソは1958年に排水口を水俣湾から、水俣川河口の八幡プールに変更し、水俣病を不知火海沿岸に拡大させた。これは誰でも予想できることである。
④見舞金契約は、あとの事実究明によってもチッソのみが有利で、患者側は著しく不利になる。公序良俗に反し、無効である。

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1973年の熊本地裁判決によって水俣病患者がすべて、チッソによって救済される、あるいは金銭的補償を得られると期待し、水俣病は終わりと確信していた。
ところが訴訟に直接参加した112名だけがAランク1800万円、Bランク1700万円、Cランク1600万円の補償金を受け取ることができたが、他の水俣病患者は補償の対象外とされた。
水俣病患者団体とチッソとの補償協定書で、患者団体が弁護士などを除いて交渉したために、法的無知につけこまれ、チッソにだまされた。
それは、行政(国、熊本県)の水俣病認定を受けた者だけが、チッソから補償金を受けられるとした点である。
水俣病認定審査会の認定は最初はゆるやかであった。しかし、チッソの水俣病関連の総支出額は1,200億円を越え、経営が行き詰まった。政府はチッソを存続させ、水俣病認定患者を救済するため、1977年(昭和52年)に認定基準を厳しく設定した。
2万人の水俣病患者は、1977年の認定基準(52年要件)を撤回させて水俣病患者の認定を受けるため、政府を相手に新たな裁判闘争を始めなくてはならなかった。
水俣病の進行と老齢化のため、身体の自由がきかなくなり、しかも裁判費用も捻出できない患者が多かった。司法による救済を求める裁判闘争は、なかなか進まなかった。

政府は熊本県に水俣病患者の認定を減らすことを指示し、チッソの経営難、国・熊本県の財政難を乗り越え、高齢の水俣病患者が死に絶えることを待つ姿勢を強めている。2005年の水俣病懇話会の提言には、認定基準の見直しが書かれていたが、環境省庁はそれを現行の認定基準がベストであると書き直しをさせた。


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