廃校を巡る

風雪に耐えた美しい木造校舎。小さな空き地にポツンと二宮尊徳。
錆びたブランコに、朽ちかけた百葉箱。廃校ノスタルジア…。

茨城県 関城町 黒子小学校(東小学校黒子教場)

2018年11月29日 10時44分53秒 | 茨城の廃校
黒子小学校は1972年に関城町立河内小学校とともに統合され新たに東小学校になっていますが、
1974年までは3年以下の児童は旧黒子小学校が変わった黒子教場に通学していたようです。

統合された東小学校のHPの沿革によると
明治20年4月 黒子尋常小学校(本校1,分校2)となる
明治43年3月 黒子尋常高等小学校となる
昭和16年4月1日 国民学校令 公布 太平洋戦争 黒子国民学校と改称
昭和22年4月1日 河内村立河内小学校となる 黒子村立黒子小学校となる
昭和31年8月1日 関本町,河内村,黒子村が合併し,関城町が誕生 関城町立黒子小学校となる
昭和47年4月1日 河内小学校,黒子小学校が統合し,関城町立東小学校となる 東小学校黒子教場となる
昭和48年4月1日 関城町立東小学校統合,3年以下児童は黒子教場へ通学
昭和49年9月1日 黒子教場を廃止し東小学校統合完了

昭和47年から49年まで一部統合の日付が曖昧ですが、
それぞれの学校を残しながら徐々に統合した感じなのでしょうかね。

現在校舎が建っていた場所には筑西市立の幼稚園と保育園、それに認定こども園があります。
幼稚園と保育園が同じ敷地にあるとは子供達が増えているのでしょうか。

校庭部分は駐車場になっていて当時の遺構は門柱に門柱脇のサクラの木ぐらいですが、
校庭の奥にプールが残っていました。

閉校から44年が過ぎ「水のないプール」は静かにたたずんでおりました。 ロッケンロール!by内田裕也


門柱にサクラの木で学校跡であることがわかる



保育園や幼稚園の送り迎えの駐車場として利用されているらしい校庭跡





プールに更衣室らしき建物が現存









茨城県 下館市 嘉田生崎小学校 嘉家佐和分校

2018年11月28日 09時42分23秒 | 茨城の廃校
茨城県 下館市 嘉田生崎小学校 嘉家佐和分校
かたおざきしょうがっこう かげさわぶんこう と読むようです。
嘉田生崎 由緒ある地名のようですが
調べると明治期の町村合併でできた合成地名のようです。
昔から合併にはそれぞれの町村の力関係や駆け引きがあるので、
歴史ある地名かと思うと意外に漢字一文字づつとった合成地名がよくあります。

ここも下館市に合併する前は嘉田生崎村。
明治の町村制の施行で嘉家佐和村、飯田村、西石田村、野田村、東榎生村、西榎生村、下岡崎村が合併してできた村のようです。
しかし、「田」のつく村は3つ、「生」のつく村は2つあっても
それぞれ1文字づつしか使われていないのはフェアではないのでは?


現在は川神馬農村集落センターとなっている跡地には
後から設置された遊具類がありますが、
分校時代を偲ばせる遺構は石の門柱のみ。
石に刻された校名は「嘉家佐和尋常小学校」。
建立の日付がないか門柱の後ろを見ると、平成11年12月再建 発起人野村とみ と刻されていました。
最近になって再建された門柱でした。

先に訪れた紫尾小学校 羽鳥分教場と同じように
廃校になって長い年月が過ぎた後に卒業生が記念碑や門柱を整備することに感銘を受けます。
分校になる前の尋常小学校の門柱を再建されたことを考えると
発起人の野村とみさんもかなりのご高齢だったと思われます。

嘉田生崎小学校 嘉家佐和分校沿革(嘉田生崎小学校HPより抜粋)
明治8年9月 寺院をもって校舎とし,西石田尋常小学校と称した。同時に西榎生,嘉家佐和に村塾発足。
明治30年  西榎生,嘉家佐和尋常小学校誕生。
大正8年3月 西石田小学校に高等科を併設し,嘉田生崎尋常小学校と改称。
昭和2年6月 西榎生尋常小学校,嘉家佐和尋常小学校を嘉田生崎尋常高等小学校に合併し,
       西榎生,嘉家佐和両校は分校となる。
       この日を創立記念日とする。
昭和22年5月 6・3制の学制改革に伴い嘉田生崎村立嘉田生崎小学校と改称。
昭和29年3月 町村合併市制施行に伴い,下館市立嘉田生崎小学校となる。
昭和33年4月 本校・分校とも複式学級を廃止し,分校は3年までとする。
昭和44年3月  西榎生・嘉家佐和両分校廃止,本校へ統合する。


再建された綺麗な門柱










遊具類が充実しているが全て後世のものだろう。
ペンキも塗り直され定期的にメンテナンスされているようだ。





茨城県 真壁町 紫尾小学校 羽鳥分教場

2018年11月27日 14時24分51秒 | 茨城の廃校
分教場時代の遺構は昭和10年7月の日付が刻された門柱のみ。
しかし、地元に愛されいまだ地域のよりどころになっている様子が見て取れます。

分教場が廃されたのは昭和33年だが
羽鳥分教場跡の記念碑が建立されたのは平成になってからの平成4年。

記念碑には4面にわたって沿革や、
明治から昭和にわたって教鞭をとった先生の思い出などが
事細かに刻されています。
思い出を語った方は平成4年当時もご健在だったのでしょうが、
戦前の話でありかなりのご高齢だったと思われます。

それでも記念碑の建立に力を注いだことを思うと、
いかに地元の方に愛されココロのよりどころだったのかがわかりますね。

羽鳥分教場沿革(記念碑より抜粋)
明治6年4月 羽鳥村に永林寺住職後藤達道氏を觜試補として羽鳥小学校誕生
明治13年4月 羽鳥小学校創立
明治23年4月 紫尾小学校に合併 羽鳥分教場となる
昭和16年4月 紫尾国民学校  羽鳥分教場となる
昭和29年12月 真壁町立紫尾小学校 羽鳥分教場となる
昭和33年4月 羽鳥分教場廃止 真壁小学校へ併合


現存する遺構は門柱のみ






記念碑は4面にわたり沿革や思い出などが刻されている











記念碑の下には植えられて間もないパンジーの花

茨城県 真壁町 紫尾小学校 酒寄分校

2018年11月26日 11時35分11秒 | 茨城の廃校
11月の三連休の1日。茨城県筑波山周辺の廃校跡を巡ってきました。
この辺は筑波山を中心にのどかな田園風景が広がりなんとものんびりした感じです。
最近は出かける前にグーグルマップでどんな感じなのか知ることができるので、
空振りでがっかりすることも無くなりましたが、意外な出会いで感動することも無くなりましたね。

人気のテレビ番組「ポツンと一軒家」もグーグルマップを見るとだいたい空き家か住んでいるかはわかりますよね。

そんなわけで今回もグーグル先生で予習すると校舎が残っている廃校跡はなさそうです。
学校時代の遺構が少しでも残っていれば当たりといった感じ。

まずはじめは旧真壁町(現在は桜川市) 紫尾小学校 酒寄分校を目指します。

訪れた酒寄分校は、晩秋に近い秋の日に照らされ黄金の輝きを放つイチョウの木が美しいではありませんか。
黄色に染められたアプローチは黄金のジュータンか?
などと感動していると足元からは何やら不穏な匂いが…。
イチョウの葉っぱとともに、おびただしい数のギンナンの実が足元にあるではないですか。

潰れたギンナンの実を避けつつ撮影しますが、このままクルマに乗り込むと悲惨なことになりそうですよ。

アプローチの坂道の両側には分校名のプレートが残る門柱があります。
寄贈者名も残り、横田建設合資会社の名が残っていました。
校舎は残っていませんがタイヤ跳びにバスケットのゴール、低学年用の鉄棒にフジ棚が残っています。
桜の木もあるので春にはお花見ができそうです。
校舎はありませんが小さい分校跡の雰囲気はよく残っています。

二宮像や閉校記念碑などは確認できませんでした。
本校である紫尾小学校は、前身の広明小学校が妙光寺の境内に創立された1874(明治7)年が始まりのようですが、
酒寄分校の創立は不明。
昭和55年に真壁小学校へ統合されていますが、本校である紫尾小学校に統合されなかったのは
スクールバスなど通学の影響等があったのかもしれません。
現在は真壁小学校、紫尾小学校ともに統合され小中一貫校「桃山学園」となっています。


なお、学校近くの信号機のある交差点は旧筑波鉄道の酒寄駅。
筑波鉄道の廃線跡はつくばりんりんロードとして整備されて廃線跡を楽しむことができます。




秋の陽に美しいアプローチ



分校名が残る門柱



寄贈者は地元有力建築会社? 



香しい匂いが漂う…





錆びたバスケットのポスト。茨城では校庭に残るバスケットのポストを良く見るが盛んだったのかな。



鉄棒にタイヤ跳びが現存







茨城を感じさせる落書き
この日もクラシカルな昭和スタイルの暴走族を目撃