廃校を巡る

風雪に耐えた美しい木造校舎。小さな空き地にポツンと二宮尊徳。
錆びたブランコに、朽ちかけた百葉箱。廃校ノスタルジア…。

再び廃校巡りへ

2023年05月10日 11時40分18秒 | 栃木の廃校
そろそろまた廃校巡りを再開しようと思います。
この数年の間にもたくさんの学校が閉校してしまいました。
それらの中には幾つかの学校が統合され立派な校舎を持ちながらも、
さらに統合されて閉校になる学校も増えています。
山の中の小さな集落の学校はほとんどなくなり、
ある程度都市化されたエリアでも統廃合が進んでいます。

また、それらの廃校は老人福祉センターや高齢者施設などへ姿を変えていて、
卒業した学校が人生の終の住処となる場合も…。

私も60を過ぎ色々と考えることも多くなりました。

最後にブログを休んでいた間にもコメントを下さった方にはコメントも返せずすいませんでした。
改めて御礼申し上げます。

那須烏山市(旧南那須町) 熊田小学校 再訪

2020年04月10日 15時52分59秒 | 栃木の廃校
コロナの影響であちこちの桜祭りも中止。
鬱々とした気分を少しでも和らげたいと思い廃校の桜を見に行ってみた。

校庭の真ん中に桜の巨木が残る熊田小学校。
半分だけになってしまった木造校舎はあまり手を入れていないせいか、
年を追って劣化しているものの今年も綺麗に桜は咲いていました。

訪れた時はこの学校の卒業生かはわかりませんが
老夫婦が仲良く桜を見上げていました。
なんともいい感じでコロナの憂鬱も少しだけ忘れることができました。



足利市 小俣第二小学校

2020年03月31日 10時15分02秒 | 栃木の廃校
小俣第二小学校は1997年足利市立小俣小学校へ統合されています。
閉校してすでに23年が経っていますが、現在は足利市ふるさと資料館として余生を送っています。
訪れたのは日曜日、管理人に記帳を求められましたが、1週間の入館者は限りなく0人に近いようです。

教室には古代の土器などの出土品や江戸から現在までの生活道具、
また、足利らしく機織機などが展示され資料館としての価値はそれなりにありそうです。
子供達の学習の場としては良さそうですが一切撮影禁止とのこと。
古ぼけた機織機や民芸家具にどれだけの価値があるかわかりませんが、
どんどん撮影させて、子供達にもためになる施設をアピールさせればいいのにね。
お役所仕事の典型ですね。

建物はRC構造の4階建て。小学校では4階建ては珍しいかもしれません。
体育館とは呼べない木造の講堂が残っています。体育道具を入れる小屋もなかなかに年季の入った木造です。












体育館やプールは確認撃ませんでした。
木造の講堂は卓球ならできそうです。




体育道具を入れる小屋も木造

足利市 松田小学校

2020年03月25日 14時41分08秒 | 栃木の廃校
足利市の北部の山間にある松田町。
今回訪れた松田小学校は、2000年、三和小と統合し足利市立坂西北小学校になっています。
2000年の閉校後は足利市が推進する「映像のまち あしかが」のプロッジェクトもあり
ドラマやCMの撮影に使われているようだ。

足利市は東京からもさほど離れていないので、数々の映画やドラマの舞台に選ばれている。
学園モノなどでは旧足利西高校が幾度となく使われているし、
市内に残る銭湯や映画館跡などもよく使われているようだ。
最近は聖地巡礼ならぬロケ地巡りも盛んなので市でもかなり力を入れているようです。

そんなわけで今週日曜日に最終回を迎えた人気ドラマ「テセウスの船」のロケ地である松田小学校である。
ドラマでは音臼小学校として児童21人が毒殺されるという事件の現場ですが、
山間ののどかな、明るい感じの学校跡です。





























常陸太田市 染和田小学校 東染分校

2020年01月22日 16時41分24秒 | 茨城の廃校
すっかり忘れさられそうな当ブログですが、
先日久々に近況をアップしたところ、当ブログを参考に廃校を巡った方からコメントをいただきました。
廃校を扱うこんなニッチなブログを気にしてくれる人がいるのはありがたいことです。

そんなわけで久々の蔵出し物件。
あまりにも情報が少なく、沿革をはじめ創立年も不明のため寝かせていた物件。
正しい校名も確信は持てないのでアップは控えていたのですが、
今までも間違った情報を地元の方に指摘され、
正確な情報が得られたこともあるのであえてアップする次第。

おそらくは染和田小学校 東染分校跡と思われます。
現在は東染林業センターの建物が建っていますが、
分校跡を示す記念碑等は見つけられませんでした。

訪れた時はちょうど桜の時期。
いい感じに桜が咲きいかにも廃校跡を思わせます。
昭和初期の地形図にはすでに「文」マークがあり、
門柱には大正10年4月と彫られているので創立はそれより幾分古いと推測できます。

また、林業センターの定礎には昭和62年とあるので、
閉校時期はそれ以前でしょう。
1975年の航空写真には校舎らしき建物も確認できます。


サクラがちょうど満開。





門柱には大正10年4月の文字が見える







入口近くには馬頭観音や馬力神があった


2020年の廃校巡り

2020年01月20日 13時22分55秒 | 栃木の廃校
2020年になって早くも20日がすぎました。
昨年は後半から全く廃校巡りにも出かけられず、ブログもすっかり放置プレイ状態。

抗がん剤治療を続けていた愛猫が治療の甲斐なくなくなったりしたせいもあり、
あまり活動的に出掛ける気分にもならず、
しばらくは廃校巡りからも遠ざかっていました。
まぁ、その間もたまに古い地形図を引っ張り出してみたり、
グーグルアースを覗いていたりはしていました。

群馬や福島などまだまだ見てみたい木造校舎もあり、
暖かくなったらまた遠征してみたいと思います。










写真は鹿沼市石裂小学校


茨城県 旧水府村 高倉小学校 上高倉分校 再訪

2019年07月15日 14時22分35秒 | 茨城の廃校
こちらも蔵出し物件。
桜が咲く4月に訪れた上高倉分校。3年ぶりの再訪になります。
本来の目的は高倉分校上武生分教室。
グーグルマップにマーキングしておいた場所まで後わずかな場所まで近づいたのですが、
全く電波が届いておらず最終場所まではたどり着けず。
高倉分校上武生分教室(分校との表記も散見)は高倉分校が廃止後
新たに高倉分校と名乗るようになったりと複雑な歴史をたどります。
グーグルマップで確認すると木造の小さな校舎らしきものが確認できるので
是非とも再探索で確認したいところです。

そんなわけで高倉分校上武生分教室は確認できませんでしたが、
高倉分校を3年ぶりに訪れてみました。
相変わらず山の分校らしさを保っておりましたが、
校庭にあった市の天然記念物であった樹齢400年のカヤの巨木がなくなっていました。
跡には「カヤの木跡」の説明板が建っていました。
どうやら昨年倒木の危険性のため伐採されてしまったようです。
















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以前のカヤの木はこんな感じ

茨城県 常陸太田市 高倉小学校

2019年07月11日 17時36分29秒 | 茨城の廃校
ここ最近はすっかり廃校回りから遠ざかっています。
理由は週一度の抗がん剤治療。とは言っても自分ではなく飼っている猫。
猫白血病からくるリンパ腫と診断され週に一度抗がん剤治療をする羽目になってしまいました。
投薬後は24時間の観察期間が必要なためどうしても家族が休みの週末に通院するサイクルになってしまい、
土日はほとんど使えなくなってしまいました。

現在抗がん剤のおかげでだいぶ調子がよくなりましたが、
医者が言うには再発する可能性も高くそう長くは生きられないとのこと。
そう聞くと気持ち的にも落ち込むものでどこかに出かけようとも思わず、
しばらく廃校回りもやっていませんでした。

そんなわけで久々の蔵出し物件。
茨城県 常陸太田市 高倉小学校。
明治10年創立の由緒ある高倉小学校ですが、1981年に現在の建物に建て替えられ、
2000年3月に閉校後、現在は地域の交流センターとして利用されています。
閉校して19年が経ちますが管理も行き届いているのであまり廃校のイメージはありません。
まぁ、そんな感じなのでいままでアップしていなかったのですが、
訪れた理由は高倉小学校の分校であった上高倉分校の沿革を知りたかったからなのです。

上高倉分校は廃止された後も上武生分教場が上高倉分校となったりと複雑な沿革。
この日も上武生分教場跡を目指していたのですが、携帯の電波も届かずグーグルマップを確認できずたどり着けませんでした。
帰宅後確認するとあとあと数百メートルマで近づいていてすごく残念な思いをしました。
この夏の間に再チャレンジできるか?














茨城県 日立市 中深荻小学校

2019年05月27日 13時36分00秒 | 茨城の廃校
1967年の閉校から50年を超えた中深萩小学校跡を訪ねてみた。
グーグルアースを見ると学校跡地には集会所らしき建物が確認出来る。
当時の遺構はあまり期待できないが記念碑ぐらいは残っているか。

中深萩小学校の沿革は古く、
明治7年2月 中深萩村の戸長 大部喜明所持地に創設されたのが最初の様だ。
訪れた跡地には立派な記念碑が残され、学校創設からの詳細な内容が刻されていたが、
字が細かな上に、苔の様な地衣類が文字を覆っていて詳しくはわからなかった。

現在は中深萩公民館が立っているが、
道路から学校跡までのアプローチする道沿いには学校時代の卒業記念の様なオブジェがあった。
当時の卒業生だとするともう70歳近いと思われる。

学校敷地傍の天満宮には古い低学年用の鉄棒があったが当時の物かは不明だ。



山間のせいか道路から一段高くなった狭い敷地。
ちょうど桜が咲き始めていた。


学校当時のオブジェらしき製作物 石膏で作られている







現在は中深萩公民館が建っているが、古い航空写真もほぼ同サイズの建物が見て取れるので、
雰囲気はほぼ変わらない様に思われる。




記念碑には沿革や地域の出来事が刻されているが、細かな内容までは確認できなかった。





敷地を接する天満宮には鉄棒が残されていた







学校跡地から眺めた地域の様子
長閑な山村といった感じだ

茨城県 旧十王町 高原小学校 黒板分校

2019年05月24日 15時35分05秒 | 茨城の廃校
桜が咲き始めた頃訪れた茨城県旧十王町 高原小学校黒板分校。

黒坂分校の歴史は古く、
創立は明治7年、常陸國多賀郡黒坂村に黒坂小学校として設立されています。
昭和30年5月多賀郡十王町高原小学校黒坂分校となり、
昭和48年高原小学校に合併されています。
以上の沿革は分校跡にあった記念碑に刻されていたものですが、
「統合」ではなく「合併」と言っているところに地元のこだわりを感じますね。

跡地には集会所が建っていますが分校時代を偲ばせるものは桜の木ぐらいでしょうか。
閉校から40年以上経っていますのでしかたありませんね。

集会所はまだ建って間もない様に見える



分校当時の築山らしき場所に記念碑があり裏面に沿革が刻されていた。
植栽もきれいに手入れされている。





標高が高いせいか桜はまだ2分咲きだった