茨城県 下館市 嘉田生崎小学校 嘉家佐和分校
かたおざきしょうがっこう かげさわぶんこう と読むようです。
嘉田生崎 由緒ある地名のようですが
調べると明治期の町村合併でできた合成地名のようです。
昔から合併にはそれぞれの町村の力関係や駆け引きがあるので、
歴史ある地名かと思うと意外に漢字一文字づつとった合成地名がよくあります。
ここも下館市に合併する前は嘉田生崎村。
明治の町村制の施行で嘉家佐和村、飯田村、西石田村、野田村、東榎生村、西榎生村、下岡崎村が合併してできた村のようです。
しかし、「田」のつく村は3つ、「生」のつく村は2つあっても
それぞれ1文字づつしか使われていないのはフェアではないのでは?
現在は川神馬農村集落センターとなっている跡地には
後から設置された遊具類がありますが、
分校時代を偲ばせる遺構は石の門柱のみ。
石に刻された校名は「嘉家佐和尋常小学校」。
建立の日付がないか門柱の後ろを見ると、平成11年12月再建 発起人野村とみ と刻されていました。
最近になって再建された門柱でした。
先に訪れた紫尾小学校 羽鳥分教場と同じように
廃校になって長い年月が過ぎた後に卒業生が記念碑や門柱を整備することに感銘を受けます。
分校になる前の尋常小学校の門柱を再建されたことを考えると
発起人の野村とみさんもかなりのご高齢だったと思われます。
嘉田生崎小学校 嘉家佐和分校沿革(嘉田生崎小学校HPより抜粋)
明治8年9月 寺院をもって校舎とし,西石田尋常小学校と称した。同時に西榎生,嘉家佐和に村塾発足。
明治30年 西榎生,嘉家佐和尋常小学校誕生。
大正8年3月 西石田小学校に高等科を併設し,嘉田生崎尋常小学校と改称。
昭和2年6月 西榎生尋常小学校,嘉家佐和尋常小学校を嘉田生崎尋常高等小学校に合併し,
西榎生,嘉家佐和両校は分校となる。
この日を創立記念日とする。
昭和22年5月 6・3制の学制改革に伴い嘉田生崎村立嘉田生崎小学校と改称。
昭和29年3月 町村合併市制施行に伴い,下館市立嘉田生崎小学校となる。
昭和33年4月 本校・分校とも複式学級を廃止し,分校は3年までとする。
昭和44年3月 西榎生・嘉家佐和両分校廃止,本校へ統合する。
再建された綺麗な門柱
遊具類が充実しているが全て後世のものだろう。
ペンキも塗り直され定期的にメンテナンスされているようだ。
かたおざきしょうがっこう かげさわぶんこう と読むようです。
嘉田生崎 由緒ある地名のようですが
調べると明治期の町村合併でできた合成地名のようです。
昔から合併にはそれぞれの町村の力関係や駆け引きがあるので、
歴史ある地名かと思うと意外に漢字一文字づつとった合成地名がよくあります。
ここも下館市に合併する前は嘉田生崎村。
明治の町村制の施行で嘉家佐和村、飯田村、西石田村、野田村、東榎生村、西榎生村、下岡崎村が合併してできた村のようです。
しかし、「田」のつく村は3つ、「生」のつく村は2つあっても
それぞれ1文字づつしか使われていないのはフェアではないのでは?
現在は川神馬農村集落センターとなっている跡地には
後から設置された遊具類がありますが、
分校時代を偲ばせる遺構は石の門柱のみ。
石に刻された校名は「嘉家佐和尋常小学校」。
建立の日付がないか門柱の後ろを見ると、平成11年12月再建 発起人野村とみ と刻されていました。
最近になって再建された門柱でした。
先に訪れた紫尾小学校 羽鳥分教場と同じように
廃校になって長い年月が過ぎた後に卒業生が記念碑や門柱を整備することに感銘を受けます。
分校になる前の尋常小学校の門柱を再建されたことを考えると
発起人の野村とみさんもかなりのご高齢だったと思われます。
嘉田生崎小学校 嘉家佐和分校沿革(嘉田生崎小学校HPより抜粋)
明治8年9月 寺院をもって校舎とし,西石田尋常小学校と称した。同時に西榎生,嘉家佐和に村塾発足。
明治30年 西榎生,嘉家佐和尋常小学校誕生。
大正8年3月 西石田小学校に高等科を併設し,嘉田生崎尋常小学校と改称。
昭和2年6月 西榎生尋常小学校,嘉家佐和尋常小学校を嘉田生崎尋常高等小学校に合併し,
西榎生,嘉家佐和両校は分校となる。
この日を創立記念日とする。
昭和22年5月 6・3制の学制改革に伴い嘉田生崎村立嘉田生崎小学校と改称。
昭和29年3月 町村合併市制施行に伴い,下館市立嘉田生崎小学校となる。
昭和33年4月 本校・分校とも複式学級を廃止し,分校は3年までとする。
昭和44年3月 西榎生・嘉家佐和両分校廃止,本校へ統合する。
再建された綺麗な門柱
遊具類が充実しているが全て後世のものだろう。
ペンキも塗り直され定期的にメンテナンスされているようだ。
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