廃校を巡る

風雪に耐えた美しい木造校舎。小さな空き地にポツンと二宮尊徳。
錆びたブランコに、朽ちかけた百葉箱。廃校ノスタルジア…。

栃木市 寺尾北小学校

2016年07月29日 12時28分14秒 | 栃木の廃校
栃木はおいしい蕎麦が食べられる蕎麦天国。
その中でも栃木出流山満願寺の門前は旨い蕎麦屋が集る場所として有名。
古地図を眺めると満願寺門前に「文」マークを見つけました。
今までも何度か訪れている場所でしたが、
学校跡があるとは気がつきませんでした。

関東地方の梅雨も明けたことだし、蕎麦を食べるついでに行ってみましょう。
満願寺参道近くにあったのは寺尾北小学校。
あれ、以前別の場所にあった学校跡を寺尾北小学校と思っていましたが、
どうやら確認違いのようです。
門柱にはまだ寺尾北小学校の校名プレートが残っていました。

校舎は残っていませんが端正な顔立ちの二宮像が佇んでいます。
山間の場所のせいか平地が少なかったようで、
複雑な形の石垣があるのが印象的です。
インカやペルーの古代遺跡を思わせますよ。

調べてみると以前寺尾北小学校と誤認していたのは
旧寺尾村寺尾中央小学校星野分校ということが判明。
1965年の閉校とありますので半世紀前に廃校になっている学校でした。
誤認していた寺尾中央小学校星野分校はこちら。



やはり二宮像は見上げる感じで見るのが一番イケメンに見えます。昭和的にはハンサム。







石垣が見どころか。ブロックではなくすべて天然石。
苔むして古城の佇まい…。









門柱には校名版が残っていました。
寺尾北小学校
明治6年 自教学舎として創立
平成5年 寺尾中央小へ統合のため閉校
寺尾中央小学校も平成26年寺尾南小学校と統合し閉校しています。
統合後は寺尾小学校となっていますが全校児童数は97名で100人を切っています。




最後は近くの蕎麦屋で出流蕎麦を堪能。
田舎蕎麦の宿命か蕎麦は美味いが 汁が弱いんだよねー。←うるさい蕎麦オヤジ風コメント


茨城県 城里町 古内小学校

2016年07月25日 19時01分53秒 | 茨城の廃校
茨城県城里町古内小学校は2011年3月、
青山小学校、小松小学校とともに統合され常北小学校になっています。
言わずもがな2011年3月は東日本大震災発生の月、
各校の閉校式も中止されてしまったようです。

震災から5年が経ち学校も少しづつ痛み出してきています。
鉄筋作りで最近の廃校なのであまり期待もせず訪れた古内小学校でしたが、
思わぬ掘り出し物件で貴重な遺構を目にすることが出来ました。

はやりのポケモンGO的に言うなら
超激レアキャラ ゲットしたと言ったところでしょうか。







まずはそんなレアキャラをご覧ください。
二宮像と思われる石像ですが、
何となく雰囲気も立ち姿も違います。
まず目につくのはなかなか高さのある烏帽子。
コンクリートで修正されていますが、元々あったものなのでしょうか?

それと、二宮像を二宮像たらしめる手に書物、背中に薪を背負っていません。
手には大切そうにひょうたんを持っています。熱中症対策か?
腰と背中にもひょうたんらしきものがありますが、
一応背中には背負子のようなものを背負っています。

顔立ちも何となく金次郎というより中国の役人のような顔立ち。
果たしてこれは二宮像なのでしょうか?

今までかなりの数の二宮像を見てきましたが、
まったく初めて見るタイプです。

もしかすると孔子像とかなのでしょうか。
WEBで調べてますが同じタイプを見つけることが出来ません。

旧古内小学校の関係者の方
もしここを見たらぜひともご教示願います。

そんなわけで激レア二宮GETで興奮してしまい、
学校自体の印象はあまりないのですが、
鳥小屋やウサギ小屋らしき動物を飼う小屋がたくさんあったのが印象的でした。
















大志と刻された少年像。茨城にはこのような子供の像も多いですね。



なかなかの達筆で子供には読みにくいかも


茂木町 茂木東小学校

2016年07月22日 16時35分11秒 | 栃木の廃校
ニノキン GETだぜ!
世界的な話題になっているポケモンGO。
本日から日本でも配信だそうですが、
息子が小さかった頃映画に連れて行った記憶もあるので、
息の長いキャラクターですね。
今でもピカチュウぐらいならサラサラと描けますよ。




まぁ、今は廃校巡って変な二宮をゲットしてますが、
今回の二宮はなかなかのレアキャラではないでしょうか。
いわゆる平面系ニノですが、建立は昭和19年。







推察すると建立の昭和19年を考えると元々は銅製の二宮像があり、
戦時の金属回収令により供出されたものと考えられます。
この二宮像はその後に作られた、いわば代理の二宮ではないでしょうか。
戦時ゆえ腕の立つ石工もいなかったのでしょう。すっかりゆるキャラ化してしまった二宮。
これもまた歴史の目撃者と言えるのではないでしょうか!

実はこのユルキャラ二宮ですがここにいることは知っていたのですが、
跡地が民間に貸し出されていたこともあり、この夏ようやく合えた次第。







茂木東小学校は昭和44年4月に、
鮎田小学校、林小学校2校の統合により開校。
平成18年3月に茂木小学校に統合のため閉校しています。
そうするとこの二宮は鮎田小学校か林小学校から移転されたもののようです。
朝礼台も昭和34年卒業生贈 とありますのでこれも旧校から持ってきたもののようです。







現在の鮎田小学校は校舎どころか敷地も畑に転用されていますし、
貴重な遺構かも知れませんね。
林小学校の現在はこちら。



茨城県 旧七会村 塩子小学校

2016年07月20日 11時59分15秒 | 茨城の廃校
ペンション ソルト&ペッパー
名物は脱サラのオーナーの作る田舎風フレンチ、
食後は奥様の得意なパッチワークで手作りコースターなどいかがでしょう。
キャンドル作りも体験できます。

じゃらんの広告にありそうなお洒落な佇まい。
赤い屋根が印象的ですね。


木造の可愛らしい建物は果たして当時のものか不明ですが、
平成になってからの閉校で、新たに集会所を造るにしても木造にするとは考えにくいので
当時の校舎を半分ほどにしたリホーム物件なのでしょうか。
1970年代の航空写真にも赤い屋根の校舎が見えますが、
今よりかなり長い建物のようです。

七会村 塩子小学校
明治6年 民家借りて創立
明治27年 校舎新設 草藁葺き 3教室 障子張り
大正13年 現在地に移転
昭和22年1月19日 火災により焼失
昭和24年 新築
平成2年3月 小勝小学校と統合 七会東小学校となる
その後町村合併を経て 七会西小学校と統合 七会小学校となる

立派な閉校記念碑と校歌を刻した記念碑が現存。
他にブランコ、鉄棒などの遊具類に風速計が残っていました。
木造の建物脇には給食センターの看板が掲げられた建物がありますが
現在は使われている様子はありません。

統合を繰り返した現在の城里町立七会小学校も
全校児童は75名ほどのようです。





















茨城県 旧美和村 氷之沢小学校

2016年07月19日 11時29分29秒 | 茨城の廃校
旧美和村にあった氷之沢小学校。
昭和54年4月に旧檜沢小学校、上桧沢小学校と共に統合され新檜沢小学校になっています。
現在も当時の木造校舎が残っていますが、
校舎は昭和13年建築との情報もあり、かなり貴重かもしれません。

しかしながら、この校舎は他の木造校舎とはちょっと雰囲気が異なります。
それは、窓という窓すべてがトタンで塞がれ、
まるで何かを封印するかのようにかたくなに閉ざされているのです。
それは、校舎だけに限らず付帯施設の小屋のような建物にまで及びます。
なぜここまでする必要があったのでしょう。
何か学校の怪談的エピソードでもあるのかな?

ここまで窓を塞いでしまうと集会所としても使えず、
風通しも悪く建物にも良くないでしょう。
あえて残すのであればなぜ建物にダメージを与える方法をとったのか不思議です。
悪ガキどもにガラスを割られたりすることを憂慮したのでしょうか。
これでは尾崎も窓ガラス割れないね。

廃校記念碑、国旗掲揚ポールの基礎部分、朝礼台が現存していました。

廃の雰囲気もまとい始め、何となく痛々しく感じられる廃校でした。





窓は完全に封印されています。
お花を植えたり地元の方は手をかけているようですが、
なぜにこうなってしまったのか。
ガラス窓があればさぞかし美しかったものを…。



ペパーミントグリーンが可愛らしい玄関。
SEXの落書きを見ると封印もヤムなしだったのか。



傾き始めている小屋も封印されています。



このトタンの塞ぎ方には強い意思を感じますね





非常に雰囲気がいい感じですが、少しずつ廃墟感もまといつつあります










朝礼台と石灰で白線を書く道具が放置されていました










封印される前は良い雰囲気の学校だったと思われます


宇都宮市 城山南小学校

2016年07月14日 18時18分21秒 | 栃木の廃校
宇都宮市の廃校の数はあまり多くありませんが、
数少ない廃校の中でも珍しい記念碑が残る城山南小学校跡を訪ねました。
訪れたのは2015年4月なので現在とは違っている可能性もありますのであしからず。

城山南小学校は昭和47年に新築移転し、翌昭和48年に明保小学校に校名変更しています。
ですから厳密には廃校ではなく旧校舎跡になります。

明保小学校のHPの学校沿革を見ると
明治6年「明保舎」として荒針村大字七久に創立とありますので、
歴史ある学校のようです。
訪れた学校跡は明治30年6月に移転した場所のようです。
沿革には旧城山村滝坪に移転とありますが、現在の地名に滝坪を見つけることは出来ません。
昭和初期の地形図には瀧の地名と文マークがありますので、
もしかすると誤記かもしれません。

昭和47年に移転していますので校舎等は残っていませんが、
シンボルツリーに門柱、学校新築記念碑が残っていました。

跡地にはゲートボール場になっていますが、
用具置場の小屋の前に学校時代の児童用の木製の椅子がありました。
風雨に打たれかなり朽ちてきていますので、うっかり座ると壊れてしまいそうです。

学校跡を見ている時は気がつきませんでしたが、
校門前の畑の隅に珍しい記念碑を見つけました。
「學道改修記念」と刻された記念碑です。
建立は昭和5年4月1日 主催 長坂農事親交會とあります。
学童のための道を整備した記念碑のようです。現在も地元の人に使われている道のようです。
このような記念碑はあまり見かけませんが、当時の方の教育に対する熱意を感じますね。
モンスターペアレントとかいったいどうなっているのでしょうね。


最初は小さかった木に押しつぶされそうな門柱。





ゲートボール場になってもさすがに切り倒すことは出来なかったようです。





唯一の学校時代の遺構でしょうか。朽ちるのも時間の問題か。



學道改修記念碑 幾分藪になっていますが農道として現在も使われているようです。