廃校を巡る

風雪に耐えた美しい木造校舎。小さな空き地にポツンと二宮尊徳。
錆びたブランコに、朽ちかけた百葉箱。廃校ノスタルジア…。

茨城県 旧水府村 高倉小学校 上高倉分校 

2016年04月14日 18時00分27秒 | 茨城の廃校
山あいの集落に素敵な分校が残っていました。
サクラも満開…。
この分校に入学した最後の小学生は今どうしているのでしょう。

旧水府村 高倉小学校 上高倉分校
廃校記念碑も無いので詳しい沿革は不明ですが、
同じく廃校になっている高倉小学校の沿革に分校の記載もあります。

明治10年 下高倉尋常小学校創立(畑中)
]明治11年 上高倉尋常小学校創立(旧高倉院跡)
大正15年 下高倉尋常小学校および上高倉尋常小学校両校を廃止し新たに高等科を設置し
      高倉村立高倉尋常高等小学校を設立 上高倉尋常小学校はそのまま上高倉分教場となる
昭和16年 高倉村立高倉国民学校と改称
昭和22年 高倉村立高倉小学校と改称
昭和31年 水府村立高倉小学校と改称
昭和38年 上高倉分校上武生分教室完成以後通年となる。
昭和40年 上高倉分教場を廃止する。

廃校時は分教場だったようですが、
WEBで調べると「茨城高等学校史学部OB会のWeb」に
[茨城県久慈郡水府村上高倉地区民俗調査報告書]というページがあり、以下の記述を見つけました。

以下[茨城県久慈郡水府村上高倉地区民俗調査報告書]より抜粋
上高倉分校は、昭和三八年までは湯草にあった旧上高倉分校の季節分教室の上武生分教室であった。
昭和三八年に上高倉分校が廃校となり、上武生分教室がこの地区の小学校一・二年生が通う上高倉分校となった。
分校は、一・二年生の複式学級で、一番多いときでも児童は八名であった。三年生以上は、高倉小学校に通うことになる。
その後昭和六一年三月に上高倉分校は児童数の減少により廃校となった。
この分校で、昭和三八年から廃校まで、教鞭を取り続けたのが、下高倉の吉成智恵子先生である。
 昭和四〇年代初頭のこの地区の子どもは、家の近くに店がなかったので、お金の使い方を知らなかった。
夏休みなどに先生の自宅に児童を泊めた際に、お店に連れていっても、何を買っていいのか分からなかったという。
また、集落から少し離れたところの家の子どもは、幼いころに友人との触れ合いが無かったので、
友人との会話をはじめ団体生活になかなか馴染めないなど、この地域独特の苦労があったという。

どうやら1.2年生向けの分校だったようですね。
ちなみに「茨城高等学校史学部OB会のWeb」の茨城県各地の民俗調査報告書はなかなか面白い内容でした。

久々に雰囲気の良い分校に巡り会えて満足。
やはり廃校跡に咲くサクラはちょっとセンチな気分になりますね。




道路から登っていくアプローチもいい感じですよ





山あいの小さな分校そのままな雰囲気







現在は湯草公民館として使われているようです。











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