昨日パーマ屋で四方山話をしていたんだけど、親父が亡くなった後5月になって国から勲章と叙位を授与された話になり、そこから親父が終戦直後、学生だった頃に進駐軍とつるんで遊んでいたらしいと言う話をしたら、担当のお姉さんは進駐軍を知らなかった。
じゃあ、マッカーサーは?GHQは?PXは?っていったら「へっ、何それっ」ていう反応。まあ多分2廻り位若いから仕方ないんだけどね。
私が子供の頃、実家のJR駅(当時は国鉄)の東口と西口をつなぐ地下道には手や足の無い傷病兵が立っていたり、西口には的屋、闇市の雰囲気が残っていた。
確かに今年は昭和だと93年(昭和元年は1926年)、「昭和は遠くなりにけり」だと思った。
※大正107年(元年は1912年)、明治151年(元年は1868年)
27歳の時に香港に駐在したんだけど二十歳台で海外の空気を吸えたというのは後から考えるととても貴重な経験だったと思う、勿論海外は初体験、それまでパスポートすら持っていなかった。ドル円為替は360円の固定相場から変動相場制に移行して約10年、1米ドルは240~270円辺りだった。
グループ会社がいくつかの香港支店や事務所を置いていたのでその中の一つに間借りする形、ウチの会社は私が一人所長(Rep.)だったからその面では気楽ではあったが、一方では今の様に通信環境が良くなかったので東京の本社の指示を待つ余裕が無い時はOn behalf ofとしてそこはそれ、独断と何とかで勝手に決めていた。その後色々とあってその事務所のアジア統括長に私の仲人をお願いしすることになったりして縁とは不思議なものだ。
勿論、まだ中国に返還前で英国領、九龍城があってその上空を掠めて九龍空港にランディングと同時に思いっ切り逆噴射して海に落ちる寸前ぎりぎりで止まるという世界でも離着陸の難しい空港の一つ、空港ビルの設計は日本人だと聞いた。管制レーダーはウチのグループ製だった。
風向きで逆方向からアプローチする日もあったが着陸して飛行機の空調を切るとコーン油?の様な独特のにおいの生暖かい空気が機内に入り込み、ああ香港に着いたんだなと実感させる。
混沌としたイミグレと税関を抜けるとタクシー(九龍側だけのと香港島側に行けるのと2種類が有った)を捕まえて片言の広東語でハーバートンネルを通って香港島、湾仔(ワンチャイ)の今は無き六国飯店裏の1LDKのアパートにたどり着く頃には外地で安全に暮らす感覚が甦ってくる。
荷物を置いて一休みしたら行き付けの近所のキャンティーンへ夕飯を食べに行き、量の多い野菜スープと硬いペッパーステーキで腹を満たすと(週に2~3回位食べていた)第二のふるさと?に戻ってきたなという感じ。
気が向けば銅鑼灣(Causeway Bay)辺りまでブラブラと歩いて往復、銅鑼灣には大丸があった、Hennessy Roadには三越もあった。
朝は中環(セントラル)にある事務所までミニバスで通い、その後はMTRで尖沙咀の現地代理店へ行ってそこのセールスと一緒に車で客先周りをしていたからニューテリトリーを含めて香港中を走り回っていた感じ、昼飯も一緒に飲茶、鶏の足が好物、夜もつるんでいたが、まだそうそう日本人との接触も多く無かった事もあり、興味も有ったのだろうが歳が近かったこともあり仲良くしてもらった。
グループ会社の方も最年少だったから可愛がってもらい、麻雀のお誘いや、中華式の大テーブルでの食事会に呼んでもらったり、あるいは休日に家に招待してもらったりもしていた。
尖沙咀の代理店から香港島の事務所に戻る時は天気が良ければMTRを使わず、スターフェリーを使う事が多かった。最初は知らずに二等に乗っていたが代理店の人間に一等にしろと言われたのは覚えている。確か一等が70セントで二等は50セントか20セントだったと思う。
夏、天気が良いと仕事を早目に切り上げて一人でバスに乗って香港島の裏側のリパルスベイ辺りで海水浴してホテルで食事をして帰ってきたりもしていた。
お客さんが来た時はトラムでビクトリアピークに案内、水上レストランで食事なんていうアテンドも仕事の一つ、まあ慣れている人は行きたがらなかったけどね。いずれにせよ、ある程度希望に沿って案内が出来る様にしておくのも駐在員の仕事ではあったから、代理店の人間とあちこち地元民しか知らない様な場所にも連れて行ってもらったのは有効だった。
後で知ったのだが義父がほぼ同じ時期に香港の仕事で頻繁に来ていたのだが、その頃は知る由も無かった。
まあなんだかんだで30になるまで香港暮らし、そこから東南アジアの各国もカバーしたりもしていた。香港にいた時に良く現地の人間と間違われて道を聞かれたりしたが、ある時シンガポール空港ですれ違いに様に「おまえ香港人だよな~」って言われたのが案外ショック。
日本に戻ってから暫くアジア担当をしていたが、英国のコロニーだったところは大体どこも同じ様な感じで香港との共通性を感じるというか違和感が無い。ミクロネシアやマーシャル諸島を訪問した時は同様にかつての日本の影響が想像以上に残っているのが印象深かった。
その後アメリカ担当になって暫くあちらで新事業の立ち上げやプラントの仕事をしたのだがそれはまた機会があれば書いてみたいと思う。
素晴らしい経歴をお持ちで、真逆を走ってきた私には輝かしく見えます。
アメリカ南部には3ヶ月滞在経験がありますが、単なる放浪(ウロウロ)です(笑)
本来私のようなアウトロー崩れが出会うはずも無い方々と、こうしてやり取りさせてもらっているのには「バイク」の存在と、乗り続けている事の意義を感じざるを得ません。
今後も何卒m(_ _)m
こちらこそ宜しくお願い致します。
人選に辺り上が色々の所から情報収集したら、
仕事が出来る人間を派遣したら身体を壊して、
それじゃと体育系の身体が丈夫なのを出したら3か月で精神的に壊れたとかいう事例を参考にして
あいつなら生意気でちゃらんぽらんだから大丈夫だろうと選んだとか・・・駐在員第一号になっ
ちゃいましたw
まあ最後は膵臓壊して戻って来たんですけどね~
いつか、そのあたりはいろいろ聞いてみたいです。
昔は、正月に、寺とか神社に元傷病兵が寄付求めていることが、ありましたね。
あと、海外は、香港とソウルしか行ったことがないです。
香港返還1ケ月前にいって、ドラゴンカーブで着陸したら拍手が起こったり、観光ツアーバスでタイガーバーム園の前だけ通ったり、土産物屋だけ連れていかされて、入店拒否するなら金払えなツアーでした。
あと自由日に、パソコンショップと博物館行って、虎の剥製や日本軍が陸地から攻めてきて、のちにイギリス軍が解放してくれたとの説明版を横のイギリス人と読んで微妙な気分になったことを覚えています。
また、いつか海外にも行ってみたいですね。
こんばんは~、あれ北海道からご帰還ですか?!
1997年7月返還ですからもうふた昔かぁ~
今の飛行場は普通に離着陸で面白く無い?かも。
日本軍云々は中華思想っぽいですねぇ~、アヘン戦争を忘れたのかって言いたいわ
基本香港人は中国本土人と仲が悪いですからね、
お互いをけなし合っています。
ツアーの土産屋はまあそんなもんです、ウチの
代理店はチムシャーツイのDFSの近くに有った
んですよ。
明日の夜には苫小牧です
ただずっと雨みたいです
香港は返還前ですからあくまでもイギリスが盟主なんでしょう
今同じ博物館に行ったら、中国に返還されて万歳とでも書かれていそうです
東京は梅雨があけましたが北海道は・・・
天気予報とにらめっこでしょうか、お気をつけて
いや、表向きは知りませんが、今も中国には
あまり好意を持っていないみたい、
香港の友達が言ってました。