Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

「歓喜の歌」第一部の練習

2012-11-18 23:17:06 | Weblog
 12月9日の「歓喜の歌」大演奏会まであと20日ほどに迫ってきた。そして練習日は6日間だけとなった。今日は楽器演奏を担当する清水ウインドオーケストラとの合同練習となった。6時に夕食を食べてから会場の清水マリナートに出かけた。今までの練習は前半の一時間ほどは男性、女性がマリナートの別々の部屋で練習し、後半は合同で練習してきた。これは混声合唱、特に「歓喜の歌」をパーと毎に覚えるまではその方が効率的であることからそのようになった。そして今回からは今までの練習で覚えたことから、最初から合同で練習することになった。練習会場はあまり広いところでなかったが、300人近い男女が発声練習と、第一部で歌う曲を練習した。30分ほど練習してから大ホールに移った。

 ここには清水ウインドオーケストラのメンバーが練習していた。この常任指揮者はUNN氏で、私が「歓喜の歌」大演奏会に参加するようになった6年前以前から指揮をしていた。全員が舞台に立ち本番さながらの混声合唱曲を歌った。最初は「わたしの街静岡」であったがこの曲は毎年オープニングに歌う曲であり、概ね暗譜している。その後「あすという日」「翼をください」を歌ったが、まだ覚えきれない曲であり、譜面を見ながら歌った。合唱用に編曲してあり、少し戸惑ったが、概ね歌えたかと思う。

 そこで10分ほどの休憩となった。舞台上で休んでいると同じパートのMATさんが「来年10月にPAP合唱団の50周年コンサートを開くが、もしよかったら入ってくれないか」と誘われた。彼はPAP合唱団の団長をしていることは知っていたし、今までにも何度か話したことがあった。私は「誘っていただきありがたいが、母の介護があり、時間が取れない」ことを伝えた。以前私もD合唱団に入っていたが、前記理由から辞めた。そうした経緯もあり、入ることには慎重になっている。

 休憩時間が過ぎて、また立って歌いだした。「21世紀に残したい”日本の叙情歌”」である。内容は「花」「この道」「夏の思い出」「浜辺の歌」「小さな秋見つけた」「荒城の月」「雪の降る町」「ふるさと」8曲であった。この曲は何度か歌った曲であり、極力暗譜で歌った。オーケストラと合わせるため何度か注意指導はあったが、今回第一部で歌う曲は概ね歌える曲である。今回初めて清水マリナート大ホールで声を出したが、音響効果もよく、歌いやすい会場であった。 

キジバトの親子

2012-11-17 21:32:10 | Weblog
 あさ雨音で目を覚ました。今日は低気圧が通過することから一日中雨との予報が出ている。10時ごろに「午後計画されていたターゲットバードゴルフ(T・B・G)の大会が中止になり20日に延期する」と電話があった。午前中は妻を病院まで自動車で送っていったが、その後は家でのんびり過ごした。雨は午後になってから激しく降るようになった。それを窓越しに見ていると3羽のキジバトが庭を歩いていた。普段はあまり気にしなかったが、3羽のキジバトは親子のようである。大きさは同じぐらいであるが、雌バトに2羽のコバトが後をついていく。雨も気にしないで、水たまりにも足を入れ歩いていた。

 我が家の庭にキジバトのつがいが住みつき、昆虫やミミズそれに土を掘って捨てた生ごみを食べるようになった。このキジバトのつがいは昔からここにいて、桧の枝や、藤の葉の中に巣を作っていた。卵を温めている時は知っていても極力見ないようにして巣立つのを見守ってきた。しかしその雛が成長するとまた2羽のハトだけが残った。キット子供のハトは自分の縄張りを作るため別のところに飛んで行ったものと思っていた。それ故この庭には、いつもつがいのキジハトがいるものだと思っていた。

 我家では、甲斐犬を飼っている。11歳の老齢になったが元気である。そして番犬として優れた犬である。人が入ってくると吠えて家人に伝えるし、あやしい人が入ってくると歯を剥いて威嚇する。それに甲斐犬は猟犬であり、庭にくる猫や他の動物にも攻撃的である。しかしキジバトには吠えることもなく攻撃的にもならない。ハトが犬に近づいても鷹揚に構えている。多分犬は我家で飼っているハトだと思っているのかもしれない。このキジバトは私達が近づいても逃げることはないし、この庭が縄張りと思っている。

 雨が降っている時キジハトはどうしているのか知らないが、今日は雌バトが2羽の子バトを連れて歩いていた。最近庭に積み上げてあった枯草や剪定した枝葉を整理したので、庭土が見えて虫やミミズが表土近くにいるようだ。それを親バトが取り方を教えているような仕草で歩いている。見られていることは気が付いているものと思うが、雨の中で歩き回っていた。キットそろそろ親離れする時が近づいているのかもしれない。オスのキジバトがいないのが気になるが、ゆっくり歩いている姿にほほえましさを感じた。登呂遺跡にもカワラバト(ドバト)がたくさんいる。観光客が餌をやっていることから集まってくる。このカワラバトは狩猟対象でない。しかしキジバトは狩猟対象であり、巣立ったコバトは無事に生きられるだろうか、そんなことを思った。

ゴルフコンペに参加

2012-11-16 21:19:53 | Weblog
 昨夜は午前1時過ぎまでYOU TUBEで音楽を聴いていた。聞きだすと区切りがつかなくなり、このような時間になった。明日朝7時20分に友人が家に迎えに来てくれることになっている。そんなことで6時には起きた。眠いはずであるが、迎えに来てくれるまでにやることが多く、そうした感覚にはならなかった。母を起こしてトイレに連れて行き、ゴルフ仕度などしてから愛犬モモの散歩をした。帰ってきた直後迎えの車が来てくれた。鉄道OB会のゴルフコンペ「のぞみ会」の時は、いつも2人の友人(SIBさんとTUTさん)が迎えに来てくれる。それに甘えているが有り難いと思っている。

 この2人に今回からゴルフの幹事を引き受けて貰うことになった。それまで6年間は私とNAKさんがやっていたがそろそろ若い人にお願いしようと打診していたが引き受けてくれた。自動車は東名静岡ICから入り、清水インターを過ぎて直ぐにJSがあり新東名に入った。そこから15分ほどで走ると新清水ICに着き、そこを降りると直ぐ近くに富士見ヶ丘ゴルフ倶楽部はある。ここが「のぞみ会」のホームグラウンドである。今日のスタートは9時06分であるが、ゴルフ場に着いたのは8時頃であった。今日は4組のコンペがあり、朝から沢山の人が溢れていた。わが「のぞみ会」はメンバー10名であるが、それ以外のコンペは30~40名の大きなコンペであった。その後10名のメンバーが揃った。私は2組目で高齢者の3名が一緒になった。

 スタートするときは、まだ寒さが残っていてセーターを羽織り、インの10番のティーグラウンドに立った。最初のティーショットはフェアーウエイを捉え上手いスタートを切った。ドライバー、アイアンとも真直ぐ飛んでいた。しかし14番のティーショットぐらいから曲がり始めた。OBも一個出した。その後もショットが曲がるのは直らなかった。それでもインを47で終えた。このスコアーは後半が悪かったが思ったより良いと感じた。昼食を食べてから打ち方のチェックした。そこで分ったのは、ショット時の姿勢がスエーしていることであった。それ故球がスライスしていたことであった。しかし多少直ったが他に何か原因があって完全には直らなかった。

 OUTはそうしたことを注意して廻り、1番から6番まで2オーバーのスコアーできた。この調子なら40を切ることも可能だと思った。しかし最後の7番、8番、9番でポカをやってしまった。ダボ、ダボときて最後はトリプルボギーとなり、アウトのスコアーは45で終わった。しかしトータル92は最近になく良いスコアーであった。風呂に入った後、2階で懇親会を兼ねた表彰式を行われ、優勝はSANさん、私が準優勝となった。幹事の荷がおりたことからか、今日は良いスコアーになったものと思った。

マッジク教室例会にて

2012-11-14 22:44:55 | Weblog
 夕食を食べてから、7時から始まるマッジク教室の月例会に出席した。この会は「あすなろ会」と言い、発足してから17年が経つ。この間に会を立ち上げたKA先生も2年前に他界した。最盛期は15~6人の生徒が習っていて、老人ホームや保育園にボランティアを行っていたが、先生が亡くなり、私が入った7年前には12名生徒がいたが段々来なくなった。現在は7名だけのグループとなっている。そんな会であるが先生がいなくなってからはTOKさんが会長、SUZさんが副会長として会を纏め現在に至っている。私は何とか継続していきたいと思っている。

 今日はHARさんが急用で欠席したが6人(男性3名、女性3名)が集まった。会長から今後のボランティア計画の話があった。11月27日用宗の介護施設へ行くこと。又1月16日には市内のHON保育園へ、2月21日はMANNBU生涯学習センターで「マッジクの演技と指導」を行うことなどであった。このうち2月の「マジックの演技と指導会」では興味を持った人が集まることから、入会したい人がくるものと思う。その時どのような対応をするか議論した。会長はこの会は、先生がいないことから、自然に縮小していく考えのようである。私は「会を無くすことは簡単であるが、継続することは大変であり、こうした生涯学習センターが主催する集会にはマジックの会に入会したい人もいると思う、そのような人には来てもらうことで良いのでないか」と言った。会長は話を聞いていたが返事はなかった。

 会長は発足時からのメンバーであり、先生がいない中でこの会を守っていくことの大変さを一番よく知っているので返事ができなかったものと思う。その上会長もそうであるが、皆さん高齢化し、この活動を進めることに段々消極的になっているように思う。私は「静岡にマジックの会がいくつあるか知らないが、この会は、月に1~2回施設や保育園をボランティアで慰問し、みんなに喜んでもらっている。マジックの先生はいなくても、技術的指導ができる会長、副会長がいて、後進を育ててきたことは大きい。このままで会を継続し新会員を受け入れる方向で進めてほしい」ことを伝えた。

 その後2月21日の「マジックの演技と指導会」の進め方を話した。マジックの基本である紐を使って指導することになった。この指導も会長、副会長が行った。3つの演技であったが、私も入ったとき先生から教えられたマジックであったが概ね忘れてしまっていた。それは3つとも結んだ紐が力もいれずに解けるものであった。思い出しながらやってみたが、中々上手くいかなかった。30分ほど演習して何とかできるようになった。人間忘れるものであるが、思い出してできるようになった。こうした基本を後進に伝えて行きたいと思う。 

神戸での同窓会(2)

2012-11-12 15:01:50 | Weblog
 カーテン越しに、日の光が漏れて入るのが、目に入り目が覚めた。同室の3人はほぼ同時ぐらいに起きてカーテンを開けた。部屋は6階で瀬戸内海が眼下に広がり、明石海峡大橋が数百メーターの近さにそびえていた。その下には八角三層様式の孫文記念館も見えた。大橋の向こう側は淡路島であるが、こんなに近くにあるのかと思うほどはっきり見えた。昨日と違い今日は晴天の天気となった。時間を見ると6時15分ごろであった。「さー風呂に行こう」と言ってタオルを持って出かけようとすると、KUSさんが「7時から入浴と書いてあるからまだは入れない」と言った。温泉でないのでこのような制限をしているのか。ISIさんは事前に今日は京都を散策することにしていて「京都には10時に着かなければならないので朝風呂は入れない」と言って仕度をして出かけて行った。

 残った2人は7時まで待ってから朝風呂に入った。広い浴槽で50人は入れるほどの大きさであったが、今は2人が入っているだけであった。昨夜の酒の影響で頭がすっきりしなかったが、長目の時間浴槽につかっていたら、段々頭もすっきりしてきた。朝食を食べた後、解散となったが、5組の夫妻は紅葉のはじまった、関西地区の観光地に繰り出していった。他の男性も各々がホテルを後にしたが、私はどこかに行く計画も立てていなかったので取りあえず大阪に出ようと思った。ホテルから最寄りのJR舞子駅までは、KUSさんが車で送ってもらった。彼は岡山から来たが明日から2日間ゴルフがあるので、今日はそのまま帰ると言っていた。

 電車に乗ったが、直ぐ寝てしまった。新大阪の手前で目が覚めたが、これから何処かに寄ろうという気持にならなくなった。新幹線に乗り静岡に帰ることにした。新大阪から静岡までは2時間ほどで着いた。時間は12時40分ごろであった。駅コンコースで昼食を食べ、家に着いたのは午後2時前であった。妻は私が早く帰ったことに驚いて「関西まで行ったのだから京都か奈良の観光地か紅葉でも見てくればよかったのに」と言っで、勿体ないと言った顔をした。しかし事前に計画を立てていないと、行き当たりばったりになってしまい疲れるだけだと思った。

 荷物の整理をしていると急に眠気がさしてきた。一泊二日の同窓会であり疲れたとは思いたくないが、年と共に体力が落ちてきたことを感じた。2時間ほど仮眠した後、すっきりしたので犬の散歩に出かけた。来年の同窓会は中部地区で行い、長野のMORさんが主幹事となった。場所は長野県のどこかの温泉で行うが、中部地区出身の私と名古屋のMAKさんも手伝うことになった。

神戸での同級会(1)

2012-11-11 23:16:40 | Weblog
 東京国分寺に国鉄の鉄道学園があった。その大学課程土木科を昭和42年に卒業した同窓の組織「六木会」は毎年同窓親睦会を行ってきた。今年は関西地区が幹事であり、7月頃であったが神戸市垂水区東舞子町の「シーサイドホテル舞子ビラ神戸」で11月11日~12日に行う旨連絡があった。母の介護のこともあり返事を待ったが妻とも相談して行くことに決めた。この会は全国に配属された同窓が年一度顔を合わせる会であり、皆な楽しみに待ってきた。今回で45回目を数えるが、現職時代は忙しいこともあって出席出来ないこともあったが、退職してからは極力出席するようにしてきた。幹事から配布された資料では16時までに集まるようにとのこと、静岡駅12時12分発の「ひかり469」に乗った。新大阪で乗換え東海道本線舞子駅に着いたのは15時30分ごろであった。

 静岡を出るときは曇り空であったが、関西地区に着いたときは大降りの雨が降っていた。ホテルのシャトルバスの乗車口に行くとISIさんとSAEさんがいた。2人は千葉県と東京都に住んでいるが、午前中に大阪、京都を散策してきたと言った。ホテルに着くと受付に関西地区のYUUさんとAMOさんがいて部屋に案内してくれた。今回のメンバーはご夫妻で参加が5組と男性10名の20名であった。昭和42年43名が卒業した「六木会」は6名が他界し37名になったが、体調不良等で欠席したのが22名で、出席したのは15名であった。

 このホテルからは本四架橋の一つ明石海峡大橋がライトアップされた眺望が楽しめるところであるが、生憎の雨で点灯した吊り橋がライトがかすんで見える程度であった。私はISIさん、KUSさんの3人が同部屋となった。宴会が始まる夕方6時まで3人で雑談して待った。前回は修善寺の桂川ホテルであったがその時マジックを披露した。今回もマジックをやろうと用意してきた。宴会が始まり10分ほど過ぎて、まで酔わない前にマジックを始めた。前回の時は失敗続きであったが、今回は練習もしてきてあったので、失敗なくできた。その後は呑むほどに酔い、一人づつ近況を話したがその頃になると、酔いもあって、どのようなことを話したかはっきりは思い出せない。

 部屋に帰ってから、配られた欠席者達の近況を読んだ。一部を除くが大部分は会社務めが終わり自由人になっていた。中には晴耕雨読の生き方をしている人もいたが、大部分は本人の病気とか奥さんが病んでいる等、いろいろ云うところが出てきていた。今回集まった15名は健康に恵まれ、活動的な人ばかりであった。学生時代は、頭が良く活動的人に羨望し、社会では仕事ができ出世した人にあこがれた。しかし今は自分と家族が健康であることが最優先する年になった。そんなことを感じさせられた同窓会であった。 

発表会前の総練習

2012-11-10 21:38:14 | Weblog
 今月25日(日)はカルチャー講座「名曲をうたう」の発表会が市内EZAホールで行われる。今日の午後はその総練習日である。当日ピアノを弾いてくれるNAさんも来てくれていて、その伴奏で各人がエントリーした曲を歌うことになっている。この半年ほどかけて指導してくれた歌であり、何とかうまく歌いたい。この一週間はオペラのアリア「星は光りぬ」を繰り返し歌い練習してきた。今日は不安というより、歌い切りたいとの気持の方が強い。

 午前中は「清掃と花壇の花の植替え」を町内の小学生とその親御さんが出て行うことになっていた。これは町内会と社会福祉協会が主催して行うもので役員としてこれに参加した。町内から40数名の方が参加していた。これは毎年行っているが、子供さん達が花壇の花の植替えと町内清掃は社会参加の実習であり小学校もこうしたことの推進を望んでいる。午前9時から11時までの約2時間程であったが、子供達には良い思い出となったと思う。

 昼食を食べて直ぐ静岡駅ビルにある講座「名曲をうたう」の会場に行った。教室は学習用の机と椅子が片付けられていて、廻りに椅子が配備されていて、広い空間にピアノが置かれていた。NAさんは既に来ていて、私達を迎えてくれた。2年前の発表会でもNAさんが伴奏してくれ知っていたので「今回もお願いします」と挨拶をした。NAさんも覚えていてくれたようで、笑顔で返してくれた。NAさんは静岡では有名なピアニストで、AOIで行われる音楽の登竜門である「静岡の名手」に合格した先生である。

 最初は発声練習を兼ねて、「美らうた」と「見上げてごらん夜の星を」を合唱した。その後プログラムの順に一人ずつ歌った。今回はレッスンを指導してくれたKUWA先生が、曲の解説をしてから歌うようになった。特にオペラのアリアなど解説があると、その情景が分り聞いている人にも良いと先生が考えてくれた。皆さんは既に完成度の高い歌を披露していたし、先生の解説もあり歌の内容が理解できた。私は6番目に歌った。先生の解説は「この歌は歌姫トスカの恋人の画家カバラドッシが、友人の政治犯を匿い、その罪で牢獄にとらわれた。朝には銃殺刑にかけられようとしている夜が明ける前に愛するトスカに手紙を書きながら、彼女を思い歌う有名なアリアが「星は光りぬ」です」こんなことを話してくれた。伴奏が始まったが、上がることもなく感情をこめて歌えた。高音もいつもよりスムースに出たような感じであった。これも発声を指導してくれた先生のお蔭と思った。歌った後「今日は高音が出ましたね。概ねよいですが、最初の出だしのところがすこし遅れているので、もう一度練習しましょう」と言って数度歌い直した。今日はまずまずの調子であると思うが、注意されたところは本番までに直すことにしよう。

ゴルフの練習から

2012-11-09 22:38:05 | Weblog
 晴天の天気となった。今日はISIさんと大谷ショートコースに行く約束をしていた。運動不足であったので良いチャンスと思っていたが急に彼が都合ができ行けなくなった。一度その気になると何としても行きたい気持ちになり、同所に併設してあるゴルフ練習場に行った。午後2時過ぎであったが、駐車場には満車に近いほど自動車がとまっていた。そのまま練習場に行くと、そこも入る余地がないほど多くの人が練習していた。一番右端にある左用の席は空いていたので、そこで打つことにした。その左側は塀で狭い感じであった。

 取りあえず2コインの球を出し、打席に立つと他の人達は右打ちであり、私と顔が会う形で打っていた。この練習場は打席の幅が狭いのか、中間席で左のクラブを振ると隣りの人とクラブが接触するような近さである。以前に一度接触し相手のクラブヘッドが折れてしまったことがあった。そんなことから、私が中間席で打つときは、前後に人がいない時しかできない。最初は準備運動も兼ね60度のクラブで50~60ヤードの距離を打った。先日の「年輪杯」の時良い感触を持ったクラブであり、今日も狙ったところの近くに球が飛んだ。それから段々クラブの番手を上げていった。失敗の時もあったが、芯でとらえたときは概ね狙ったところに飛んだ。

 その後ウッドを手にした。9番、7番、5番、3番それにドライバーを打った。9番は最初はスライス気味に飛んでいたが、身体の回転を少し調整することで概ね真直ぐ飛んだ。7番、5番、3番も同様な方法でスライスを調整した。しかしこの番手が上がるたびに、スライスがひどく中々思うようには行かなかった。時々まっすぐ行くが、その時は方向が違ったところに飛んだ。それに飛んだ距離が9番と3番が同じぐらいであったり中々距離の調整がいかなかった。これはシャフトが長くなると芯で球をとらえられないことが原因である。たまの練習では上手くいかないのは当然であると思った。

 少し休んで近くで打っている人のを見ていた。年齢は10歳ほど若い人で、力強いスイングで、身体の回転がスムースであった。当然距離は飛んでいて、ドライバーの距離は私と50ヤードほど違っていた。その後私もドライバーで打った。しかしスライスがひどく、中々上手くいかない。何度か打っているうちに、身体が打つ方向にスエーしていることが分った。そこで体の芯を動かさないようにして打った。この方がスライスは小さくなるし、距離も出るような気がした。このまま数球打ったが上手くいくときとそうでない時を繰り返した。このことはそんな簡単に矯正できるものではないが、ヒントとして体の回転よりクラブのヘッドを先に振ることがスライスを直すきっかけになればと思った。今日はこれで終わり、そのまま駅に行った。11月11日に神戸で行う同級会に行くための新幹線切符を買うためである。

秋の装い

2012-11-08 17:03:45 | Weblog
 昨日は暦の上では立冬であった。寒さを感じるころとなって、そろそろ暖房しなければと灯油を買ったり準備をしている。寒さは苦手であるが、春夏秋冬、季節が移り風景が変わるのを見て日本の良さを再確認する時節でもある。我家も広葉樹は葉を落とし始め、朝起きて家の前の道に落ちた枯葉を掃除するのが日課となっている。この季節は、庭木の剪定や清掃をするのに最適であり、隣保の庭も植木屋など入れ装いを施している。我家の剪定等作業は私が行っている。この作業も年を取ったのか、段々大変に感ずるようになった。そこで疲労が蓄積しないよう一日2時間程度行うことにしている。既に一週間ほど行てきていて、大きいものは残っているが、最小限の剪定作業は終わった。これからは切った枝葉をゴミ袋に入れ、市の回収車に出す作業に入った。

 午前10時ごろから始めたが、今日は一週間に2度回ってくる回収車が午後1時ごろに回ってくる。昨日はゴミ袋に5袋作ったが今日も回収車が回ってくるまでに5袋作ることにした。妻が言うに回収車に出せるゴミ袋は10袋/回までだと言った。今日の分は、この春剪定した枝葉を塀の内側に高く積んであった。いずれ市の焼却場に持っていこうと思っていたが、その時機を逸してしまい今になった。しかし半年ほどの間に枝葉の山は沈んで低くなり、一部は土となっていた。しかし太い枝と葉が混在しているため、枝を細かく切ってからゴミ袋に入れる必要がある。春先は枝も弾力があり切るのは大変であったが、枝も枯れ折ると簡単にできた。そして正午を少し回ったころには回収車に出す集積場所に出すことができた。

 ゴミ袋に入らない枝等は穴を掘って埋めた。その後熊手で掃いて庭を見た。まだ作業は残っているが、少しは手が入ったことを実感した。まだ枝葉の庭の隅に残っているし、ヒマラヤ杉や桧の剪定はまだである。少しづつやり11月中には終わらせたいと思う。2ケ月ほど病んだ左足踵の痛さは今は普通に歩けるようになった。痛むときは、もう木に登っての剪定作業は出来ないと思っていたが、何とかできそうである。

 遅い昼食を食べた後、急に睡魔に襲われた。作業の疲れもあり2時間ほど仮眠したが電話で起こされた。町内会長からで「緊急で夕方7時に集まってほしい。内容は町内に公園設置の要望を市に出してあったが、条件付きで認められそうであり、そのことで話したい」とのことであった。出席する旨話したが、今日は午後6時からピアノの教室があり町内会長には少し遅れて行くことを伝えた。

先輩の葬儀に出席して

2012-11-06 23:49:22 | Weblog
 昨日藤枝のOB会支部長のMAさんから電話があり「OOさんが11月4日に亡くなって、今ご遺族のところに来てるが、遺族から貴方の名前が出たので連絡しました。葬儀は6日10時30分から藤枝の愛昇殿で行います」この様な話であった。奥さんとも話したが私のことを覚えていてくれた。OOさんは私の大先輩で年齢は88歳になっていた。静岡鉄道管理局時代は、同じ部に属していたが直接の上司となることはなかった。しかし仕事や生活態度についても厳しく指導してくれた。それに私が年齢30歳ぐらいのころ始めてゴルフを教えてくれたのもOOさんであった。

 OOさんが退職した後も、OB会やゴルフ等でも一緒になったが、昔の厳しさはなく、和らいで温厚な人となり見守ってくれていた。5年ほど前までゴルフは一緒に行っていたが、その後足が弱くなってゴルフは出来ないと言っていたことを人伝えに聞いた。しかし彼は体幹がしっかりした方で、キット元気にしているものと思っていた。しかし90歳という峠は越えることができなかった。

 朝から生憎の雨が降っていたが、9時20分には家を出た。葬祭場の場所は知らなかったが、概ねの位置は調べておいたので一時間ほど行けるものと思った。しかし藤枝バイパスは渋滞がひどく、着いたのは10時30分ぎりぎりであった。受付を済ませ斎場に入ると一番前の席に案内された。横の席には鉄道関係者のMAさんとOOHさんが座っていて、すぐ後ろにはKOMさん夫妻、NAさん、KAさん、MOMさんが座っていた。それ以外にも4~5人の鉄道関係者がいた。現職時代から正しいことは何があっても貫くという信念を持ち、自分より人のために尽して生きた人であった。そのような生き方に共鳴し高年齢とは言え10人以上の後輩が参列したことは良かった。会場には100名ほどの参列者がいて、和尚の読経に合わせ手を合わせ故人の冥福を祈った。最後に弔辞、和尚の話等から、故人が鉄道を辞めてから地域のために尽くしたことを伺った。

 町内会長を3期務め、公民館建設に努力したことや、80歳を過ぎてからパソコンを使って自分史を書いたことを聞いた。このことは遺族(長男)が死んだあと見つけたと言った。長男は東京で所帯を持って生活していて、父の急変で帰ってきて、父が自分史をパソコン上に書かれたことを知った。それによって父の生きざまを知ったと言った。質実剛健な方であったが、そうしたことを他言しないで遺族に残していったこともOOさんらしいと思った。