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Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

所長時代の思い出(2)

2012-05-15 21:43:34 | Weblog

 昭和62年4月1日国鉄の民営分割によって、東海旅客鉄道株式会社 浜松レールセンターとして新しい船出をした。とは言え国鉄時代から継続した業務内容は今までとほぼ同じ内容であった。強いて言えば浜松レールセンター福山支所が西日本旅客鉄道株式会社の組織に入り、それに代わって在来線ロングレールの溶接を行うようになり、この時期に合わせて造られた在来線ロングレール輸送車に200mのロングレールを積込む業務が負荷した。

 そんな折、新幹線施設部長から呼ばれ、今後のレールセンターのあり方を検討するよう特命を受けた。それは「浜松レールセンターの独立も含めて、将来ビジョンを考えてほしい」との内容であった。この時民営化とはこうしたことまで考えることなのかと思った。施設部長には、ビジョンのまとめに1カ月程の猶予を貰った。こうしたことは私にとって未知な分野であり、この一か月間は経営と言うことも含めて勉強した。効率的運営のためレールセンターの基地施設のレイアウトの見直し、独立採算の可能性の可否、損益分岐点の設定、外注化の範囲等休日は図書館に通い勉強した。それをB―4の用紙40~50枚に纏めた。一か月後、それを部長に説明した。30分ほどの説明であったが、私にとっては浜松レールセンターの組織を守る緊張した時間であった。

 その結論としたのは「経済性を追求するなら外注化は可能である。しかし新幹線レールの安全を担う重要なレールセンターの仕事と、それを支える社員のモチベーションを考えると独立は適切ではないこと。そして現在の浜松レールセンター基地利用は効率的とは言えない。全体のレイアウトの見直し、施設、設備の更新は速やかに行うこと」この様なことを話した。施設部長はしばらく考えていたが「分った」と言って労をねぎらってくれた。そして昭和63年には「RD-100型超音波レール探傷車」の導入、その後私は平成元年3月新幹線静岡保線所に転勤になったが、浜松レールセンターでは、平成2年に「48等式レール削正車」導入、「フラッシュパット溶接機の取替」そしてその後も前後にディ―ゼル機関車の付いたロングレール輸送車の導入等レールセンターへ投資されたことは、良かったことと思った。

 ここで在職時の出来事を思い出しながら箇条書きに纏める。                                                      (1)私が赴任して間がない 昭和61年5月ごろであった。関が原の勾配区間で機関車とロングレール輸送車の連結が外れ、ジャンバーセンを切って、動けなくなる事故が発生した。一報を聞いて営業列車に影響する事故と思い直ぐ職場に向かった。しかし職員の処置が早く、遅れたものの営業列車に当ることなく米原駅に入れることができた。その原因も機関車のメンテナンスを行う浜松工場と輸送車のメンテナンスをおこなう東京第2車両所とレールセンターは話し合い、連結器の「古渋」と判断した。レールセンターの扱いに問題はないことになったが、初めての新幹線事故で驚いたが大事に至らなかった。                                                                                (2)昭和61年62年とロングレール輸送車の D-10機関車は運行中エンジントラブルで動かなくなることが3度続いた。たまたまロングレールが搭載してなかったことから、片肺運転で基地に戻れたが、ロングレールが満載であったなら、重大事故に成りかけない。看過できない事故であり、丁度浜松地区にある新幹線殉職者の慰霊祭に出席した折、新幹線鉄道事業本部長と総務部長と同席した。その時この機関車の設計者が新幹線鉄道事業本部長であることが分り、経年劣化が酷いことを話した。それが功を奏して取替えの時期が早くなった。                                         (3)民営化した後の、昭和62年7月新幹線保守保守用車の展示会(保守用車フェア)をレールセンター基地内で行った。施設部の協力も得て、2000人近くのマニアが来所し、盛会に実施できた。                                                                           (4)昭和63年8月RD-100型超音波レール探傷車導入された。この運行式には、施設部長、浜松工場長、静岡保線所長等多数が出席したが、レール探傷精度が優れた機種の導入を喜び、安全祈願した。                                                                      (5)昭和62年の新幹線施設部主催の技術発表会で優秀賞を授賞した。                                                   (6)民営化後行うことになった、QC活動では、浜松地区の代表は常に浜松工場の独占していたが平成62年、63年は地区での代表となって、新幹線鉄道事業本部の大会に出て優秀な成績を残した。

 うつろになる記憶をたどりながら、浜松レールセンターの思い出を纏めた。早いもので当時から23年が経っているが、国鉄からJR東海に移行するという、変革期に浜松レールセンターに席を置き、経験できたことを光栄に思っている。この経験が50代を過ぎて技術士に挑戦し合格できた基を作ったと思っている。この度40周年を迎え、レールセンターの皆さんが更なる飛躍を目指して頑張ることに期待を込め40周年を迎えての、お祝いの言葉とします。


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