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めいすいの写真日記

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ニュージーランドへの旅 (2) フカ滝  トンガリロ国立公園の山々

2015-12-12 | 旅の写真

 ◆ フカ 滝

                                      フカ滝上流

 タウポ湖から流れ出るワイカト川が狭い峡谷を流れ落ちる滝となっています。標高差が10mなのですが、
 多い時には毎秒280トンも流れるという滝です。
 轟音とミントブルーの美しい色は迫力満点です。この日は快晴でしたから、見事な景観となっていました。
 ニュージーランドでは最も訪問者の多い自然観光スポットだそうです。

フカ滝の中央には橋があり上流と下流を眺めることが出来ます。

                                        フカ滝下流

◆ トンガリロ国立公園の山々

   

   1894年、ニュージーランドで初めて指定された国立公園。環太平洋火山帯の最南端に位置する。
 トンガリア山、ナウルホエ山、北島の最高峰であるルナペフ山などの山々が聳えます。マオリ族の聖地であり、 入植者による乱開発を懸念したマウリ族の首長により、この地が国に寄付された歴史を持ちます。
 1990年に自然遺産、1993年にマウリの聖地としての文化遺産としても登録された複合遺産です。

  トンガリロ山、ナウルホエ山、そして、この右側にあるルナペフ山の3つの山は、活火山であり、これらの影響により周辺には樹木が育ち難くなっています。

 ナウルホエ山は山容が円錐形で富士山によく似ています。トンガリロ山付近には美しいエメラルド湖があるそうです。

ルナペフ山の北東斜面には、ファカパパ・スキー場があり、標高差が675mもあるニュージーランドでも屈指の広大なスキー場ということです。

シャトウ・トンガリロの庭からみたナウルホエ山。

この山の140kmほど西には、タナラキ山(別名エグモント山)が独立峰として聳えており、こちらも富士山そっくりです。

詳しくは、 「めいすいの海外旅日記」 ニュージーランド第3日 をご覧下さい。  


ニュージーランドへの旅 (1)

2015-12-06 | 旅の写真

11月27日から12月4日まで、H社のツァーでニュージーランドへ行ってきました。
そして旅の終わりに証明書?をもらいました。
しかし、「COMPLETE NEWZEALAND WORLD HERITAGE VISIT 」というのは、おこがましい。
ニュージーランドの世界遺産は3つあり、訪れたのは2つだけ、しかもそのほんの一部を見ただけです。
ただ、証明書の写真、①中央のマウント・クック、②左のフィヨルドであるミルフォードサウンド、③ニュージーランド富士ともいえるナエルホエ山
は見ましたが・・・・・。

ところで爆買いをする中国人の一番の人気観光地はニュージーランドだそうです。日本はダントツでマチピチュが一番だとか。

詳しくは、 「めいすいの海外旅日記」 ニュージーランド第1日 をご覧下さい。


湯野浜温泉のホテル「都屋」

2015-09-23 | 旅の写真

「湯野浜」は、温泉地でもあり「湯野浜温泉」としても知られています。宿泊したのは大正八年創業の老舗「都屋」。

屋上には茶碗風呂が並び、離れには御影石の湯(露天)、他に檜風呂などいろいろな種類の湯がありました。

4階の部屋から見た景色。海産物などを販売している「朝市」がたっていました。

ホテル正面には、広々とした日本海と湯野浜が広がっています。

「都屋」の夕食。山形牛のしゃぶしゃぶ。山形牛は「特5」で最高級品だとか。半生で食すると、とろけるように軟らかでした。

他に、数の子と松茸とアスパラガス、刺身はウニと鯛と鮃など、なまこともずくの酢の物、アワビは焼いたものと蒸したもの二種。

ウニ豆腐にカラスミとキャビア、とろろとナメコ、焼魚はぶり。と食材は豊かで美味しく食べられました。

初めは、ビールだけのつもりでしたのが、食材につられて地酒を頼みました。大山は鶴岡周辺ではポビュラーのようです。

蟹御飯と蛤と湯葉のお吸い物。

デザートは刈谷の梨、巨峰、杏仁豆腐とクコの実。

 

朝は、ロビーの一角にあるコーヒーラウンジでコーヒーを飲みました。コーヒーじゃ椀は一つ、一つ異なる銘器でした。

宿泊前は、あまり期待していませんでしたが、食事を初めサービスが良く、立派なホテルでした。


河口浅間神社・・・富士山世界文化遺産の構成資産

2015-07-14 | 旅の写真

河口湖の近くのホテルに宿泊したので、富士山世界文化遺産の構成資産である「河口湖浅間神社」を訪れました。

(御由緒) 864(貞観6)年、富士山は歴史的な大噴火を起こしました。そして富士山の北面にひろがる街を飲み込み、「せの海」を分断。
この溶岩流によって、街にも大きな災害が発生しました。
そして翌年、勅命によって、富士山の神様である浅間大神をお祀りし、鎮火祭が齋行されることとなりました。
それから1,000年以上を経ち、いまも、富士山の神様をお祭りする社として建ち続けています。
ちなみに、せの海から生まれたのが西湖と精進湖。どんなに大変な溶岩が流れてきたのか、それだけでも災害の規模を物語っています。

鬱蒼と茂る参道の杉並木。800年以上の樹齢を重ねているそうです。

拝殿。奥に本殿と続きます。千百年余の悠久が織りなす鎮守の杜です。

拝殿の右側に飾ってあった神輿と馬の模型。本物の馬かと思い、ちょっとびっくり。

御神池。周辺はパワースポットの雰囲気が漂います。

山梨県天然記念物「浅間神社の七本杉」。1200年以上の樹齢があります。幹回りが7m~9m、樹高45m前後と7本の杉は巨木です。

7本のうちの2本。

4月25日には例大祭。7月28日には稚児の舞奉納の祭典が行われるようです。とても立派な神社でした。


モロッコの旅(8)・・・アルジャディーダのポルトガル都市

2015-04-07 | 旅の写真

  アルジャディーダの海に面した場所に、ポルトガルの支配時代(1502~1769)の城塞都市があります。
  当時アルジャディーダはマサガンと呼ばれ、インド貿易の重要な中継地になっていました。
  このメディナ(旧市街)は2004年に世界遺産(文化遺産)に登録されました。
  ヨーロッパ文化とイスラム文化双方の街並みとなっています。

  城壁都市の前面は濠になっていましたが、今は埋め立てられて道路になっています。

城壁都市のメインストリート

   街の中央付近にある50m四方の貯水槽。円柱の美しいゴシック建築で作られています。
  1514年に、この城塞の建設が始められましたが、当初は穀物倉庫でした。城壁の外の水が絶たれた時のため、1542年に非常用の貯水槽
として改造されました。地上から  雨水が流れ込み、水がたまるようになっていました。明かりは、天窓から採られています。
  この街が作られてから30年もたたないうちに改造されたということは、ポルトガル人は、早くから危機感を持っていたことになります。
  入り口が狭く、20世紀になってから、この貯水槽は発見されました。

 1769年にモロッコのスルタンによって攻め落とされ、ポルトガル人は、この街を退去しました。城塞は廃墟になりましたが、19世紀に
モロッコの王によって再建されることになりました。
 退去したポルトガル人は、本国には帰らず、ブラジルのマザゴンに向かったと言います。

 詳しくは、 めいすいの海外旅日記 第9,10日・・・アルジャデーダ をご覧下さい。

 


モロッコの旅(7)・・・マラケッシュ(2) 

2015-04-05 | 旅の写真

● マジョレル庭園

 1920年代にフランスのアール・デコの画家であるジャック・マジョレルが造園しました。
 マジョレルの死後、故イヴ・サンローランが買い取って修復し、公園として公開しました。
 竹林、ヤシ、睡蓮、サボテンといった植物が植えられています。
 園内の建物は「マジョレル・ブルー」と呼ばれる青色が多く使われています。

 入口を入ってすぐの所のある噴水。すぐ先が竹林になっています。

 サンローランの記念碑、サンローランの遺灰は庭園内に撒かれました。
 若い頃、サン・ローランのネクタイはデザインが好きで、何本か持っていたのを思い出しました。

● バヒア宮殿

1894年から14年かけて建築された摂政(宰相)の私邸。面積は8ha。宰相には4人の奥さん。24人の妾がいました。
 宰相の死後、家具などは略奪されてしまいましたが、建物は良好な状態で保存されました。バヒアの名前は最も寵愛した奥さんの名前です。
 マラケッシュのメディナ(旧市街)にあり、世界遺産となっています。

 

 植物のある中庭

建物の彫刻は、細密で見事です。

ここは応接室

噴水のある美しい中庭。規模は小さいですが、アルハンブラ宮殿を彷彿とさせます。

● クトゥピア

 マラケッシュのシンボル、クトゥーピア・モスクのミナレット(塔)は高さ77m。
 1147年ムアヒッド朝の創始者アブド・アル・ムーメンによって着工されましたが、メッカに向いていないとして、中止。1199年、
ヤクーブ・エル・マンスールによって建て直されました。 セビリアのヒラルダの塔(97m)、ラバトのハッサンの塔(44m)も、
ほぼ同時代、同一人物によって建てられています。

詳しくは「めいすいの写真日記 モロッコ 第8日 マラケッシュ(2) をご覧下さい。


モロッコへの旅(6)・・・アイト・ベン・ハッドゥ 映画「アラビアのロレンス」

2015-04-03 | 旅の写真

● アイトベンハッドゥ

 ワルザ゜ザートから西に33Kmほどの所にあるアイト・ベン・ハッドゥ(Ait Ben Haddou)
 隊商貿易が栄えていた16世紀頃に、ハッドゥ族が築いた日干しレンガ造りのクサル(要塞化された村)。
 カスバ街道沿いには、多くのカスバ(砦)やクサルが作られましたが、このクサルは、規模も大きく、保存状態も良いこともあり、
1987年に世界遺産(文化遺産)として登録されました。

 小川のほとりの丘陵地帯に作られた、このクサルは立体的で見る人に、魅力的な空間を与えてくれます。また、周辺の景色も雄大です。
 小山の頂上にあるのは穀物倉庫。

中に入り、見張り小屋から頂上部を望んだところ。

このクサルには、まだ7家族が住んでいます。この家はそのうちの一家族のようです。

 世界遺産の旧市街(クサル)から新市街を望んだところ。新市街には電気、水道などが整備されていますが、旧市街にはありません。
 ランプを使うなど、不便を強いられますが、先祖伝来の家を守り、昔ながらの生活をしたいという人達が住んでいるとのこと。

 

 この集落で影絵の販売をしている店に映画の資料の看板がありました。
 22本ものハリウッド映画がこのアイト・ベン・ハッドゥで撮影されているというのは驚きです。
 最初の映画は、1954年の「アリババと40人の盗賊」、次に1961年の「アラビアのロレンス」とあります。
 「インディ・ジョーンズ」や「サムソンとデリラ」、「クレオパトラ」なども載っています。映画人の眼にも、ここが特別なものと写ったようです。
 世界遺産(文化遺産)の中でこれだけ映画に利用されているのは、数少ないのではないでしょうか。ワルザザートに映画スタジオが出来たのも、
このためであったのかも知れません。

● アラビアのロレンス

                         アラビアのロレンスの一場面

        ロレンスと首長アリ

  映画「アラビアのロレンス」は、1962年のイギリス映画。第一次世界大戦下のアラビアを舞台に、実在した軍人T・E・ロレンスの
孤高の戦いを描いた歴史映画であり、戦争映画です。イギリス人でありながらアラビアの人々の自由のために戦ったロレンスの勇姿、
そして奥深い人間ドラマを映し出します。
 特に広大な砂漠、照りつける太陽と影、吹きすさぶ風、蜃気楼から現れる人影、空の青さ…これらの映像がとても美しい
当然のことながらCGが使われていないのが良い。
 制作当時は、70mm 映画でしたが、最近、リメイクされてブルーレイディスクとなりました。大画面テレビで見る刻々と変わる
壮大な砂漠の風景は圧倒的です。まさに名画という名にふさわしい。

 アカデミー作品賞、監督賞、撮影賞、編集賞、美術賞、音楽賞、録音賞の7部門を受賞しています。
 舞台はエジプトのカイロ、シリア、ヨルダンなどアラブ地域ですが、今回の旅で、ガイドさんの話題に
何度もなったのが、「映画アラビアのロレンスは、ほとんどの撮影がモロッコで行われた」ということです。
 アイト・ベン・ハッドゥでもロケされたということですが、私には映画の中では確認できませんでした。

詳しくは、めいすいの海外旅日記 第7日 アイト・ベン・ハッドゥ をご覧下さい。

 


モロッコの旅(5)・・・サハラ砂漠をラクダで行く

2015-03-31 | 旅の写真

サハラ砂漠のラクダ

 この日は、サハラ砂漠の日の出を見ようと、朝4時のモーニングコールで起床。
 8台の4WD車で4時30分にエルフードのホテルを出発しました。
 日の出は6時半なので、2時間前に出発です。私の乗った車は、三菱の「パジェロ・スポーツ」 


目的地は50kmほど離れた「メルズーカ」という村、4WD車で45分ほどかかり、ラクダステーションに到着。
まだ、暗闇です。ほとんどのラクダはおとなしく鳴きませんが、鳴き声は独特で迫力があります。

東の空が、明るくなり始める頃、長いラクダの隊列が続くのは、素晴らしい光景になります。
ただ、あたりが暗いので、揺れるラクダの上で、片手で撮るのは難しく、手ぶれしてしまいました。残念!

東の空がさらに、明らんできた時に、ラクダ使いの人と撮影。

サハラ砂漠の日の出が始まりました。

帰りはラクダに乗るのも慣れて、ゆったりと元来た道を戻ります。

ラクダ使いの人に写真を撮ってもらうことにしました。

元来た道を戻る隊列、朝日を受けて長い影が砂地に伸びていました。

詳しくは 「めいすいの海外旅日記 モロッコ第6日・・・ラクダに乗りサハラ砂漠を行く トドラ渓谷 カスバ」 をご覧下さい。


モロッコの旅(4)・・・ イスラン 西欧風の街とコウノトリ・アトラスライオン

2015-03-28 | 旅の写真

フェズからサハラ砂漠へ向かう途中、アトラス山脈の中腹、標高1650mにあるイフレンという街で休憩を取りました。
イフレンはフランス統治下で1929年保養地として建設されました。その後は、王族、政府要人、富豪の別荘地となっています。
 冬は、雪が積もるため、スキーが出来、最近はアルペン・リゾートとして人気が出てきたようです。
 街並みは、清潔で美しく、ここがモロッコだとは思えない地域で、「モロッコのスイス」と呼ばれています。

この町には、コウノトリが多く見受けられました。モロッコでは、これまで、いろいろな都市で街路脇の電柱などに巣を作るコウノトリを見かけました。
ただ、走るバスからコウノトリを見つけての撮影は難しく、撮ることは出来ませんでした。

今回は、狙いを定めての撮影でしたので、飛翔する姿も写すことが出来ました。コウノトリが巣とするための枝を運んでいます。

この街の広場には、アトラスライオンの彫刻がありました。アトラスライオン(バーバリライオンともいう)は、大型のライオン
北アフリカに広く分布していましたが、1922年モロッコで最後の野生の一頭が射殺され絶滅してしまいました。
古代ローマのコロッセウムなどで剣闘士と戦わせるなど見世物として重宝されました。
カエサルは戦勝パレード用に400頭のアトラスライオンををローマに連れて来たとといいます。

近年、モロッコ国王ムハンマド5世が純血種の個体群を飼育していたということが判明しました。
2012年開園のラバトの動物園には32頭が飼育されています。

詳しくは 「めいすいの海外旅日記 モロッコ 第5日・・・イフレン サハラ砂漠への出発点エルフードへ」 をご覧下さい。

 


モロッコの旅(3)・・・歴史の街、フェズ

2015-03-27 | 旅の写真

フェズは人口が140万人の都市。808年にムーレイ・イドリス2世により建設されたイスラム王朝の都市で、その後1000年以上、モロッコ
の中心として信仰、芸術、商業の面で栄華を極めてきました。しかし、近年は、経済はカサブランカにその地位を譲り、政治の中心はラバト
となっています。フェズ出身の有能な人材は、これらの都市に移り住むむようになりました。
 しかし、メディナ(旧市街)は、世界最大の迷路都市として世界遺産に登録されています。

● 陶器工房

工房では、お皿などの食器、壺、タジン鍋、瓦、タイルなど多くの製品を作っています。
その中で興味を引いたのは、街角に設置される泉、小さなタイルを並べ、隙間を埋めて裏返しにします。

そうすると上の写真のような泉が出来上がります。
このようにして作られた、フェズの旧市街、ネジャーリン広場にある大きな噴水は、とても魅力的です。

フェズで生産される陶器は、北アフリカ (マグレプ地方・・・モロッコ、アルジェリア、チュニジア)では人気が高いようです。
特に、この食器の青は、、「フェイズ・ブルー」として有名です。

● ミントティー

 モロッコでは、アルコールはイスラムのため御法度。ミントティーが喫茶店などで、よく飲まれています。
 ツアー一行は邸宅にミントティーの試飲に行きました。

ミントの葉を用意します。

そして、中国茶葉。

それを急須に入れ、何回か入れ替えます。味を出すための作業です。

● 細街路

メディナ(旧市街)は細街路が入り組み、迷路のようになっています。
車は通りませんが、ラバ、ロバ、リヤカー、バイクなどが通ります。ラバが通る時には道を空けなければなりません。

フェズの細街路で最も狭いところ。人一人がやっとです。

● 皮なめし工房

フェズ川沿いにある皮なめし工房。20家族で行っていますが、14世紀の手法を今も保っています。

上は染色桶、手前は皮の干し場、日によって色を変えるのだとか、この日は黄色の皮でした。

砂漠の山羊は、遮水性、防火性があるとのこと。軽くて丈夫でお勧め品との説明がありました。

詳しくは、「めいすいの海外旅日記 第4日 フェズ」 をご覧下さい。


モロッコの旅(2)・・・幻想的な青い街、シャウエン

2015-03-24 | 旅の写真

幻想的な青い街、メルヘンチックな街といわれるシャウエン。細い路地を一人で歩くと迷いそう。

 シャウエンはモロッコの北部、地中海沿いの小さなリフ山脈があり、その北の麓のティスカート山(2050m)とメッグ山(1616m)との
山肌にあります。
シャウエンとは角の意味、街の名前の由来は二つの山がちょうど角のように見えるからつけられました。正式名はシェフシャウエン
(Chefchauen)。
 地中海沿いの村々はスペインのアンダルシア地域と同じように、白壁の街が多いのですが、シャウエンは白壁の上に青い塗料が
塗られていて異彩を放っています。何故青く塗られているかという理由は明確ではありませんが、虫除けに塗られているらしい。

シャウエンのメディナ(旧市街)は、中世の街と同様に城壁で囲まれています。
新市街のハッサン2世通りでバスを降り、6つの門の一つ、アイン門からメディナに入ります。

この日は、到着が、午後1時半となったため、昼食を撮るレストランへといそぎました。

店が連なる坂道を登ります。

 

横町には、壁が青く塗られたシャウエンらしい風景が見られます。

昼食のレストラン、「BAB SSOUR」につきました。

モロッコの名物料理のケバブが出されました。ただ、このレストランにはアルコール類がありません。
イスラムの国だから、仕方がないとガマン。今回の旅では、こういうレストランがいつくかありました。

食事の後、メディナの中心にあるウタ・エル・ハム広場に出ました。中央はアルカリアという木。この広場に面して、グランドモスクとミナレット、
カスバ(砦)があります。正面の北側には、迷路となっているメディナの街並みがあります。

 このホテルは、近々王妃が宿泊されることになっているとのことで、青い色が新しく塗り直されていました。

自撮り棒で撮影しようとする外国人観光客。ガイドさんによるとここは写真スポットとのこと。

細い坂道というのも旅情を誘います。

詳しくは、「めいすいの海外旅日記 第3日 ラバト、シャウエン」 をご覧下さい。

 


モロッコの旅(1)・・・カサブランカ

2015-03-21 | 旅の写真

3月9日から10日間、モロッコの旅をしました。そのときの写真を「モロッコの旅」として何回かに分けて載せて
見ようと思います。はじめはカサブランカから。

カサブランカの人口は500万人で、モロッコ第一の経済都市。第2位は首都ラバトの190万人。
リン鉱石(世界の75%を産出)と農産物の輸出港として大きな役割を果たしています。その中で一番の観光地は「ハッサン2世モスク」です。

● ハッサン2世モスク

 ハッサン2世モスクは、1986年から1993年まで8年がかりで造られたモロッコ最大のモスク。メッカ、メディナ(サウジアラビア)と共にイスラム教の
世界3大モスクの一つです。
 大西洋に面した9haの敷地に、2haの建物が建てられています。中央のミナレットの高さは200mで世界一。内部には2万5千人、敷地内には8万人が
収容可能でラマダンには、実際に集まるといいます。設計はフランス人のミッシェル・パンソー。基礎材料の大理石、御影石、石膏、瓦、タイル、木材は
国内から集められました。職人と芸術家約1000人を全国から動員した国家的なプロジェクトであり、ベージュにグリーンの色調はセンスの良さが光ります。
費用は国王の蓄財と国民の寄付によって建てられたそうです。

新しい建物なので、世界遺産にはなっていませんが、将来指定されることを目指しているようです。

海側に作られた図書館。

壁面の微細で美しい彫刻。

 ハッサン2世(在位1961-1999)は、コーランの「神の座は大水の上にある」より、「モスクを海の上に造りたい」と願い、
大西洋に突き出た形に、このモスクを建設しました。周りには大西洋の波が押し寄せていました。

● 映画「カサブランカ」 

 映画「カサブランカ」は1942年のアメリカ映画。
 第2次世界大戦中、フランスがドイツに占領されていた頃の、フランス統治下のモロッコを描いたラブ・ロマンス映画です。
 アカデミー賞の作品賞、主演男優賞、撮影賞(白黒部門)、編集賞、音楽賞などを受賞しています。
 撮影はすべて、ハリウッドのスタジオやセットで行われました。
 ハリウッドには今も、1番重要な舞台となった「リックス・カフェ」が残っているようです。
 しかし残念ながら、私を含め、この映画を見てカサブランカを訪れた人の多くが、今はその雰囲気が失われていると思うようです
 また、カサブランカに住むモロッコ人の多くは、映画「カサブランカ」のことを知らないようです。

 

 カサブランカのメディナにある「リックス・カフェ」。映画「カサブランカ」のカフェを模して2004年に
造られました。私たちのバスはこの前で一時停止して写真をバスの中から撮りました。

 映画「カサブランカ」の1シーン。右 イングリット・バークマン、左 ハンフリーボガード 「君の瞳に乾杯」のセリフが
この映画を一躍、有名にしました。

詳しくは、 「めいすいの海外旅日記 モロッコ 第1、2日 旅のはじめに カサブランカへ」をご覧下さい。

 


鹿島神宮に参拝

2015-03-05 | 旅の写真

3月4日、女房の合唱仲間7人と共に「鹿島神宮参拝、あんこう鍋を食べる会」に参加しました。

鹿島神宮は関東最古の神社で、約600ある鹿島神社の総本社。香取神宮とペアで関東の東を護っています。
日本神話最強の武神、勝利の神様・武甕槌大神(タケミカヅチ大神)を祭神としています。実は、この神様は、この旅を企画してくれた
方の御先祖ということが、この日初めて分かり一同びっくりしました。

写真は大鳥居。実はこの鳥居は第二鳥居で、第一鳥居は北浦に朱塗りの鳥居があります。昔は、船で参拝することが多かったため
だそうです。又この鳥居は以前、御影石で出来ていましたが、東北大震災のときに根元から倒壊しました。3.11の2日前の3.9日の
同時刻は祭頭祭などの行事が行われ、人々でごった返しており、出店も並んでました。しかし地震当日は人はおらず出店も片づけられ
て何の被害も無かったとのこと。さすがは地震を押さえる神を祀る神社ということになったようです。

帰りの高速バス(鹿島駅~東京駅)の中から写した北浦にある第一鳥居。そういえば「安芸の宮島」の鳥居も海の中にありました。

寛永11年(1634)に徳川頼房が奉納した楼門で、「日本三大楼門」の一つ。手前左にある手水舎で清めをしてから境内に入りました。

境内で二番目の杉の古木、「次郎杉」。

拝殿。この奥に本殿があります。

拝殿本殿を右側から見たところ。右手が二代将軍徳川秀忠が奉納した本殿。神木の「杉」が見えています。樹齢1000年。
幹回り10m抱えるのに大人が6人必要とのこと。

木々がうっそうと茂る奥参道。茨城県の天然記念物「鹿島神宮の森」は植物の宝庫で、800種を超える草木があるとのこと。
森林浴に格好の場所ですとの看板がありました。

さざれいし(細石)を祀ってある場所。

「君が代」には「さざれいしのいわおとなりて」(細石の巌となりて)とありますが、小さな石が大きな石となる
のを示している石だということです。

奥宮。慶長10年、徳川家康が本殿として奉納したものを元和の造営の祭に移築したもの。この時奥参道が拡幅されたそうです。
会社関係の人が多く、ここは近づけませんでした。

大ナマズの碑。武神、武甕槌大神(タケミカヅチ大神)が大ナマズ(昔は地震を起こすのはナマズと考えられていた)を押さえつけている碑。
このテーマで錦絵が作られ、多くの家々に「地震除け」として張られていたとのことです。

要石」がある場所。

要石は頭頂部だけが露出している霊石。鹿島神宮が降臨した御座とも、地震を起こす大ナマズの頭を押さえている鎮石ともいわれています。
水戸光圀の「水戸黄門仁徳録」には、家来にこの石を掘らせてみたが、この石があまりに巨大で「7日7晩掘っても掘りきれず」との記述
があるようです。

この石の中央部に一円玉を投げてぴったり収まれば、霊験あらたかとのことでした。

参加した8名のメンバーと記念撮影。鹿島神宮は二度目の参拝ですが、ボランティアのガイドさんの説明で神社の歴史をよく知る
ことが出来ました。


台湾の旅(5)・・・故宮博物館、小篭包

2015-02-16 | 旅の写真

台湾の旅第5日は、故宮博物館へ。そして昼食は小籠包の店へ。

故宮博物院は、収蔵品が約70万点、世界の4大博物館 (パリのルーブル、ロシアのエルミタージュ、アメリカのメトロボリタン) として
知られています。ただ、上記の欧米の博物館は主にルネサンス以降の絵画・彫刻が中心で、中学や高校の教科書でなじみのあるものが多い。
その点、この博物院の美術品にはあまり予備知識がないまま、鑑賞しなくてはならない面があります。ただ、「人類の英知が集まっている」
という視点からいうと中国文明には特筆すべきものがあります。もっと、これらの文明の高度な技法に光が当てられても良いと思います。

数多く展示されていたものの中から、いくつかを・・・。

翠玉白菜 長さ18.5cm 幅9.1cm  厚さ5.0cm 清代

故宮博物院の誇る最もシンボル的な秘宝。門外不出でしたが、昨年6月24日~7月7日まで東京国立博物館に2週間、特別展示された。
光緒帝の妃・瑾妃の嫁入り道具として紫禁城に持ち込まれ、寝室である永和宮に飾られた。
本物そっくりな、みずみずしい白菜が選りすぐりの翡翠(ひすい)の玉材を用い、洗練された技巧で作られている。葉の部分に彫られた
キリギリスとイナゴは多産の象徴、白い部分は純潔を表している。

肉形石 高さ5.73cm、幅6.6cm、厚さ5.3cm 清代

中国の豚の角煮、「東坡肉」にそっくりな天然石、一部、赤褐色や暗褐色の染料で染められている。
彩色と加工を施した傑作で翠玉白菜とともに故宮博物院の代表的な展示品である。

青花龍紋天球瓶 明代前期 永楽

青花龍紋天球瓶はどっしりとした磁器で、鮮やかな青で描かれている。この作品のように白地に青で描くことを青花という。
蓮の花の間を三つの爪の龍が躍動感をもって描かれている。明の永楽帝時代に製作された青花磁器の代表的な作品。
この時代、このような磁器は中国でしか作れなかった。「チャイナ」は中国のことだけでなく、磁器のことも差すのはこのためである。

灰陶加彩仕女俑 高さ 75.5cm 唐代

唐の時代の焼き物、唐三彩の副葬品。仕女は宮廷に使えた女子。高く結い上げたまげ、ふくよかて豊かな身体には、ゆったりとした衣を纒い、
ひきずるほど長い裾からは反り返った靴がのぞく。盛唐の典型的な唐美人像である。
「楊貴妃もこのような姿をした美人だったのでは?でも、現代では美人にはなりません」とガイドの説明。 広い通路の中央に
ガラスケースに入れられて飾られていた。よく見てもらうように展示されていたのだろう。

◆ 小籠包 レストラン

昼食は、「小籠包」で有名な「金品茶樓」で食べました。別ツァーの女房達が食べたという「県泰豊」に負けない感じ。
台湾の名物だけあって、台北には美味しい「小籠包」を食べさせてくれる店が多いようです。

まずは、餃子と海老のシュウマイ。野菜が多く入っているためか、さっぱりとした味です。キュウリの漬け物も配られます。

 小篭包は、食べるとジワッとスープが出てくるのが、とても美味しく感じられます。

チャーハンもなかなかの味です。

そして、フカヒレスープも
他に、青菜の炒め物、蒸しパンのデザートも出てのツァーでの「昼食コース」でした。
これをもって、無事、台湾の旅が終了しました。

詳しくは 「めいすいの海外旅日記 台湾 第5日」 をご覧下さい。


台湾への旅(4)・・・太魯閣渓谷、九份

2015-02-15 | 旅の写真

台湾への旅、第4日は台湾随一の景勝地である太魯閣渓谷の観光です。

太魯閣渓谷は、台湾を代表する景勝地で、国家公園になっています。険しい断崖は珊瑚礁の海底が隆起したもので、
立霧渓が何万年もの間に浸食を繰り返して出来た渓谷です。岩肌はすべて大理石で、大理石の産地としても知られています。
渓谷沿いの公路は、手掘りにより1960年に完成しました。
しかし、岩石は風化が進み、もろくなっていて崩れやすく、しばしば崩落し、不通になります。
今も新たなトンネルを作ったり、ルートを変えたりする工事が行われています。

渓谷を通る東西横貫公路は台湾東部最大の都市花蓮と台湾第2の都市台中を結ぶ重要な道路ですが、
バスやトラックは通行することが出来ません。

 写真は長春祠 公路建設の難工事に携わって亡くなった212名の霊が祀られています。

首長岩。右手の岩がインディアンの酋長の横顔に見えます。

高い断崖絶壁が続きます。周辺は「九曲り」といい、見事な景観が続きます。
私たちは、この付近を歩きましたが、落石が多いとのことでヘルメットを借りて歩きました。

下に見えるトンネルは東西横貫道路、ここをバスは通ります。

慈母橋 立霧渓と老西渓との合流点に架かる橋。公路建設で働いていた息子と弁当を届けに来た来た母親が激流に流され、命を落とす悲劇が起こった場所。

この後、列車で花蓮から台北に戻りました。そして台北から九份へ。

 台北から45Km、約1時間のところにある九份。山の斜面にあり、長い坂道の両側に商店街があり、賑わいがあります。
 高台から見る海の景色や赤い提灯に照らされた夜景も美しい魅力のスポットといわれています。

 しかし、九份は雨の多いところとして知られ、時には31日間に30日雨(霧雨も含む)が降ることもある街です。
 案の定、台北を出発したときは雨が降っていなかったのに、土砂降りの雨。傘を差しましたが、体中がぬれてしまいました。

 詳しくは 「めいすいの海外旅日記 台湾 第4日」 をご覧下さい。