私の俳句.川柳.動画.日記.絵手紙【皆で470歳】

50から80才代のパソコン大好き仲間のブログ。
私の作品(俳句.川柳.動画.絵手紙).自然観察.徒然日記

江戸文化 「広重 東海道五十三次」 9 大磯

2009年06月06日 11時26分16秒 | ビンちゃん
<9> 大磯 【虎ケ雨】

    大磯宿の入口の柵のあたりから宿場の町並みを眺めて描かれている。

右側のこんもりとした山は平塚のこんもりと大きく描かれていた高麗山です。

この図の副題は「虎ケ雨」と題されていますが、曽我十郎の愛人だった虎御前が

十郎をしのんで流す涙雨を指しており、画面も雨の景色にしたのでしょう。

大磯は伝説の豊富な宿場で画面左側の松林のある海岸線は小余綾(こゆるぎ)

の磯と云って西行法師がここで‘こころなき身にもあはれはしられけり鳴立沢の

秋の夕暮れ‘ の有名な歌によってここを鳴立沢と呼ぶようになったとも云われ

ています。

                 小田原まで四里(約16km)

                             byビンちゃん

江戸文化 歌川広重 {2}

2009年06月06日 11時15分16秒 | ビンちゃん
歌川広重 {2}

広重が初めて浮世絵を志したのは文化8年(1811)15歳の時でした。

当時、歌川派の祖歌川豊春の門下から二人の優れた画家が出ていた。

初代歌川豊国と歌川豊広で豊国の錦絵は艶麗を極め一世を風靡していたので、

広重は当然豊国をその中橋通り横丁の住家を訪れた。ところが当時隆盛を極めて

門人も多かったので断られてしまった。そこで知人の貸本屋の世話で豊広に入門

を頼むと豊広は弟子をとる事を好まず一度は断られたが、たっての願いについに

許された。

しかし広重にとって豊広の弟子となった事がむしろ幸いであったかも知れない。

豊広は豊国とは対照的に生涯役者の似顔絵は描かなかったし、画風も地味であった

から一般の人気は少なかったが、浮世絵のみならず土佐派、狩野派および栄、元

の画も充分研究していた。

これが後年の広重に大きな影響を与えた.....{3}は何週か後に

上の絵は<名所江戸百景>の中の「大はしあたけの夕方」

                            ビンちゃん