ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

裁判員制度について思うこと

2009年05月22日 | 国政事情考察
裁判員裁判の対象、初日は殺人未遂など起訴4件(読売新聞) - goo ニュース

 裁判員制度がスタートした21日、全国では殺人未遂や強盗致傷など4件の裁判員裁判対象事件が起訴され、国民の司法参加に向けて第一歩を踏み出した。
 4件については今後、争点や証拠を整理する公判前整理手続きで公判日程が決められた後、それぞれの地域に住む50~100人の裁判員候補者に、地裁から呼び出し状が送付されることになる。
  一方、この日は裁判所、検察庁、弁護士会の法曹3者の代表が東京都港区で共同記者会見に臨んだ。山崎敏充・最高裁事務総長は「安心して参加いただきたい」と呼びかけ、樋渡利秋・検事総長は「今日から刑事裁判は変わる」と宣言。宮崎誠・日本弁護士連合会会長は「被告の権利が保障された刑事手続きの実現に力を尽くす」と決意を述べた。



 裁判員制度については以前、「裁判員制度について」において述べた。今回も、ここと重複する箇所があるが、裁判員制度がはじまったこともあり、裁判員制度について思っていることを述べてみたい。



 裁判員制度は、平成16年5月28日に成立した「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(裁判員法)」によって定められている。そして裁判員制度の趣旨として裁判員法1条には、「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資すること」ある。つまり平たく言えば、司法に国民の(生の)声を反映させることにより、国民に近い司法制度にしようというものであろう。

 しかし、裁判員裁判を行うにあたり、必要な条文は、刑法の総則の部分では正当防衛(36条)や責任能力(39条)など、各論の部分では殺人罪(199条)、傷害致死罪(205条)、通貨偽造罪(148条)など、合計20カ条ぐらいで、これに特別刑法を追加してもせいぜい30カ条ぐいらいである。第一に、これで国民にとって司法が身近になるとは思えない。

 そして、司法を国民にとって身近なものと実感して欲しいならば、やるべきことは法テラスの充実やADRの拡充など、国民からアクセスしやすい、すなわち、日常生活における諍いを迅速かつ手近なツールを使って解決できるようにすることである(「司法」の敷居を下げること)。見ず知らずの、自分には全く関係のない裁判に強制的に引っ張り出して司法を身近に感じて欲しいというのは発想としておかしい。



 先にも書いたとおり、裁判員裁判で使用する条文はせいぜい30カ条ぐらいで、思うに、これら規定のどれもが、国民が生活していくにあたって身近なことについてのものではないだろう。殺人や通貨偽造事件と、万引きや痴漢、どちらのほうが国民にとって「身近な」ことだろうか。

 司法に国民感覚を反映させたいのならば、後者に関する事件に国民を動員したほうがいいはずだ。なぜならば、後者の事件のほうが国民が生活する中で前者に比較して起こり易いし、前者と比較して経験している人も多いだろうからだ。こうした事件のほうが、裁く国民としても実感として裁きやすいのではないだろうか。

 裁判員法1条の言うように、開かれた司法にし、国民の社会常識を反映させられる司法にすることを本当に目指すのならば、職業裁判官の「鶴の一声」によって「民意」を潰してしまいかねない裁判員制度よりは、戦前から停止している陪審員制度を手直しして復活させたほうが、司法に民意を適切に反映できるものではないかと思う。

 加えて、裁判員は刑事事件の一審しか参加できないが、司法に国民の声を届かせたいならば、せめてニ審でも裁判員裁判を行うべきだったと言える。もしくは陪審制度は全員一般国民からなる陪審員によって構成されるのだから、こちらのほうがやはり国民感覚を裁判に反映させるには適していると思う。



 裁判員制度がスタートした21日、森法務大臣は、「これまでの『お上の裁判』から『民主社会の裁判』へと司法が大きく変わる」と意義を強調したというが、刑事事件だけを、しかも死刑または無期が法定されている事件のみを対象とする裁判員制度で、「お上の裁判」から「民主社会の裁判」へと司法が大きく変わるとは、私には到底思えない。

 なぜならば、民事事件や窃盗や軽犯罪法違反、迷惑防止条例違反(主に痴漢行為)といった、国民が生活するにあたり身近で起こりうる事件については今までどおり職業裁判官のみからなる裁判を行うからだ。よって、森大臣の発言はいささか大袈裟に過ぎやしないか。

 ところで、裁判員制度はいわゆる「司法制度改革」の一環として実現したことだが、そもそも、国民(の多く)は刑事裁判について、年金制度や政治とカネの問題のように、何か多大な不満を募らせていただろうか。今さら言っても仕方ないが、刑事裁判に(もしくは司法それ自体に対し)多大な不満が募っていないのならば、敢えてわざわざ裁判員制度を導入する必要もなかったのではないか。

 少なくとも、私はこれまでの職業裁判官のみで行ってきた刑事裁判に格別不満は持っていない。国民感覚とまるでかけ離れた無茶苦茶な裁判がされてきたとも思わない。なのにどうしてこういう無駄なことをするのか分からない。未だに半数近くの国民は、裁判員裁判に参加したくないと回答しているではないか(産経新聞の世論調査によれば、45.8%の国民は「参加したくない」と回答している)。なのに敢えて行う必要性を見いだせない。



 それから、国民の感覚で重大事件が審理でき、しかも判決まで出せるのならば、どうして司法試験を超難関試験にしているのだろうか。医師や教師などのように、「プロ」でなければできないからこそ資格制にし、しかも合格率も(新司法試験が導入される前の旧司法試験ではあるが)2~3%という狭き門ではなかったのか。

 国民の感覚でも裁け、しかも出した判決が確定し、死刑まで宣告できるのならば、司法試験をこれほどまでに高いハードルにしておく意味も薄れてくる。裁判員制度をきっかけに、ロースクール出身者でなければ受験できないという司法試験の仕組みも改革して欲しい。それかやはり「餅は餅屋」のごとく、裁判はプロに任せておくかにして欲しい。



 最後に、私の憂慮の一つに、裁判員裁判が実施されることによって、死刑制度廃止論が活気づくのではないかというのがある。

 人間というのは勝手なもので、他人がそれをやるならいいけど自分がやるのは嫌、という考えがある。こうした考え方は多かれ少なかれ多くの人が持っているものであると思われ、これが裁判員制度と交わるとき、死刑制度廃止論が一気に盛り上がるのではないかという危機感がある。

 すなわち、今まで死刑制度賛成だとしても、いざ自分が死刑判決を出す側に回った途端、やっぱり死刑はどうなの、って思うようになる人が結構多く出てくるのではないかということだ。これは死刑制度廃止派に格好の死刑制度への攻撃材料を提供することになる。死刑制度に対する世論のブレこそ、裁判員制度を実施するにあたり私が心配していることである。



 もう既に裁判員制度は実施されているので時既に遅しだが、やはり裁判は法律のプロに任せたほうがいいと思ってしまう。

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