ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

どうして教育だけが競争から排除される必要があるのか?

2008年10月27日 | 教育問題関係
 大阪の橋下府知事の学力テストに関する一連の発言が、多くのマスコミを騒がしているのは周知であろう。そこで今回は教育(学力の問題)〝だけが〟競争原理から除外されるべきという主張が多々聞かれるが、この見解は本当に正しいものなのか、検討してみたい。



 確かに世の中には競争するには相応しくないものもある。たとえば、思うに大食いや早食いの競争などというものは、ただ食べ物を粗末にし、食べ物を「大量消費」の対象、いやショーの対象とし、世界中で多くの人が食糧難で餓死したりしているというのに、食べ物そのもの、ひいては生産者を冒涜するものであり、これらを競争原理の中に組み込むのは不道徳であると思う。よって、早食い、大食い「競争」には反対である。

 しかし、勉学(教育)を競争原理の中に組み込むのには賛成である。そもそも、中国最古の詩集「詩経」にある、互いに努力し励ましあい競い合うという意味を持つ「切磋琢磨」という言葉も、学問において言われたことである。このように、学問(勉学)は遥か昔から競争の対象となっていたのである。

 まず、現実上の問題として、教育に競争原理が働いているのは紛れもない事実である。その証拠に、こういった大学に進学する学生の出身校の殆どは、いわゆる名門高校や地域で名の通った一流校なのである。言うまでもなく、一流の高校に入るには中学や小学校段階で優秀な成績でなければならない。そのためには、自分のレベルがどれ位かを知るためにも模擬試験等を受けて、志望校の合格可能性を知る必要がある。もちろん、そこでは好むと好まざるに関係なく、ランク付けがなされている。高校や大学は常に予備校等による偏差値という指標によってランク付けされているし、学歴というものが社会に出て人物を評価する一種のメルクマールとなっていることは否定できない。「あの人は○○大学出身だから」ということで、その人の能力なり社会的地位を判断する土壌は未だに根強い。

 紛れもない現実の話だが、いわゆる一流や名門と呼ばれる大学に行く者は、ほぼ間違いなく教育において競争原理の働く中で勝ち残って来た者達であろう。もちろん、競争原理の働く中には義務教育も含まれる。身も蓋もない言い方をしてしまえば、教育において競争原理の中で揉まれた者達が、いわゆる「勝ち組」となって生き残っていくのである。これが善いか悪いかはともあれ、日本の現実社会がこうなっている以上、子供を社会的に不幸な「負け組」にしないためにも、競争原理の中に子供を入れるのは、ライオンの親が子を谷底に突き落とすのと同じように、子供にとって、社会で生きてゆくための試練なのである。

 いくら声高に競争原理導入を批判し否定したところで、それは結果として子供を幸せにはしないのはよく分かっただろう。こういうことを言うと、「中には競争に向かない子供もいる」と批判してくる者もいるだろう。しかし、そのような批判は教育にのみ当てはまるものではなく、全ての事柄に当てはまるのであって、殊教育にだけそのような批判を向けるのは誠実な対応ではない。



 それに、学力テストに批判的だった多くのマスコミも、たとえば朝日新聞は自社が出版する「週刊朝日」等において、しばしば名門大学特集や一流大学に行くには、といった特集を組んでいるし、毎日新聞も「サンデー毎日」でほぼ毎回大学の特集をしている。それらでは受験シーズンが近くなればなるほど、予備校の偏差値を掲載したりと、大っぴらに競争原理を煽り、これにどっぷりと浸かっている。間違いなくこちらが教育における競争原理に否定的なマスコミの本音だろう。

 教育への競争原理導入に否定的なマスコミに対し、あえて皮肉を込めて彼らが出版した雑誌を引用してこれを批判するために、朝日新聞社の「週刊朝日」に書いてあった、精神科医の和田秀樹氏の言葉を紹介しておこう。
 「競った経験もなければ努力もしていないのに、いきなり競争社会に入るのは、準備もしていないのに、猛獣のいるジャングルに放り込まれるようなもの」である。
 「構造改革だの成果主義だの、アメリカ型の市場原理を導入するならば、子どもにそれなりの準備をさせて社会に送り出さなければ、一番被害を受けるのは当の本人です。社会を変えるのならば、それと並行して教育も変えるべき」である。



 和田氏も上記で述べているように、社会に出れば否応なく競争の中に自身が置かれることになる。会社は常に株価によって一秒単位でランク付けされ、序列化されているし、相撲も、野球もそうだ。会社の中でも昇進をするためには、自分の成績を上げて、他の社員との競争を勝ち抜かなければならない。
 それを、教育を受けている段階で〝のみ〟、子供をそこから遠ざけ、競争原理を否定し、教育において競うことを学ばないまま社会に出れば、この子供を教育した教育者には何の影響もないとしても、子供がその教育の犠牲になるのだ。

 今、教育格差といって、親の収入によって子供の受けられる教育の質が必然的に異なり、良質な教育を受けられるのは「勝ち組」の家庭だけであるといった主張が聞かれるが、確かにこのような現状は是正しなければならない。そのためにも、公立校においても競争原理を導入し、子供に学力面で競わせる必要があるのではないか。良質な教育を提供する主体でる教師の質の向上のためにも。

 無闇やたらに偏差値を賞賛し、落ちこぼれた子供は淘汰されるべきとは思わないが(落ちこぼれた子供には、その子供に見合った将来を教師が一緒になって考え、その将来が実現できるような社会が理想だろう。そうしなければ、学力で劣るというだけでその子の一生が潰されかねない)、学力テスト程度で教育への競争原理導入だと批判しているようでは、将来の日本に未来はないだろう。



 最後に、もちろんいい大学や学校を出ていなくても社会で活躍している人はいるし(ちなみに、アート引越しセンターの社長は中卒である)、必ずしも学歴が必要な職業ばかりではないし、かく言う私自身、一流と呼ばれる学校を出ているわけではないということを述べておきたい。

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4 コメント

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TBありがとうございます (湯煙の中の一杯)
2008-11-26 02:08:04
 TBありがとうございました。

 教育における競争の是非に関しては、貴エントリの内容に賛同いたします。と同時に・・競争社会への対応を子供に教えるスタンスも教育界に求められるのではないかと思っています。

 貴エントリ内で仰っているように、いわゆる「勝ち組」になるための方策を教えるだけでなく・・「勝ち組」の親が「勝ち組」を育てている現状を変えるためには、強い意志を持ち、目標に向かうことで「勝ち組」の子供だけが「勝ち組」になるのではないのだという・・・前向きに生きる子供を育てる必要があると思います。そのためにも「競争」ということから逃げるのではなく、立ち向かう姿勢を持つ子供へと親も教師も育て教育する必要があるのだと思います。


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湯煙の中の一杯さん (管理人)
2008-11-27 01:13:31
こちらこそコメントくださりありがとうございます。

>勝ち組」の親が「勝ち組」を育てている現状を変えるためには、強い意志を持ち、目標に向かうことで「勝ち組」の子供だけが「勝ち組」になるのではないのだという

まさにこれは仰るとおりです。私のエントリーではこの点について考えが及んでおりませんでした。ご指摘してくださり感謝します。ありがとうございます。

教育現場における競争を何でもかんでも「競争=悪」と決め付け、否定してしまえば、今流行りのモンスターなんとかという親から苦情を受ける機会も減るでしょうし、実は教師にとっても都合がいいのでしょうね。

競争原理を教育に持ち込み、貧富の差に関係なく優秀な子供には良質な教育を提供し、一方で劣る子供には分かるまで丁寧に授業をしてあげる。これが理想であって、そのためにも能力別学級の導入は必要だと思いますね。
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まだまとまった意見ではないのですが・・ (湯煙の中の一杯)
2008-11-27 07:05:40
 私は今の教育のシステムに変更が必要だと思っています。

 例えばの話なのですが、短距離走型アスリートとマラソン型のアスリートでは、個人の能力が発揮される時期が異なります。同様のことが学業の面でもあるのではないかと思うのです。

つまり18才程度までに学業をすんなり納め優秀な成績を発揮できる個人と、地道に勉強を続けているがなかなか成果はでない・・でも納得できるきっかけと同時に能力が発揮される個人が居るのではないかと思うのです。

 少子化の傾向は当分続くでしょうから、日本人の人的資源を無駄なく社会に還元できるよう・・また個々人の幸福の一助としての学業支援という意味で、能力別というと語弊があるかもしれませんので、他の言葉で言えば、早期完成型と大器晩成型の双方の区分けにして、今は判らなくともその時の修得度によって選択できるシステムがあれば、いわゆる「落ちこぼれ」などという視点は減るのではないかと思うのです。

 教育においてもセーフティーネットにもなりますから良いのではないかと思うところでもあります。しかしまだまだ問題を抱えている案ですので、これでいこうという案ではないです。

 愚案ですが・・参考になればと書かせていただきました。
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湯煙の中の一杯さん (管理人)
2008-11-27 23:56:28
コメントありがとうございます。

アスリートの喩え、とてもよく分かります。私も同感です。大器晩成型の子もいれば、早い段階で才能が発揮される子もいる。まさに十人十色です。したがって、競争原理の教育への導入に賛成する私でも、ひとえにテストの点数のみをもって杓子定規に子供を選別せよとは申しません。反対派の方は、どうもここら辺を曲解されているようです。

少子化に歯止めがかからないからこそ、教育を「子供が可哀そう」とかいう理由で何でもかんでも平等に扱うのではなく、将来の日本を背負うに値し、日本を引っ張っていく多方面でのリーダーを養成するためにも、教育に競争原理の導入が不可欠なんですよね。

今は猫も杓子もグローバリズムの時代です。わが国だけが鎖国よろしく引きこもっているわけにはいきません。国際社会における日本の存在を、維持することはもとより、現在よりも大きなものにするためにも、教育という初歩的な段階から徐々に競争というものに慣れさせておくことが必要でしょう。

もちろんご指摘のように、落ちこぼれた子供をきちんと一人前にし、社会で活躍できるような教養を身に付けさせるための対策も欠かせません。

ご丁寧なコメント感謝します。
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