ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

続 児ポ法改正推進派のお粗末な論理を糾す

2009年07月04日 | 二次元(児童ポルノ規制)
前回は長々と私がどうして改正児ポ法に反対するのかといった理由を書いてしまったが、今回は本題に入り、改正推進派のお粗末な論理を糾していくことにする。


葉梨議員の「話にならない」論理(シャレです。)

・映画、出版物、大女優だろうと関係ない、今までの映画も本も写真も18歳以下のヌードなら全部捨てるように
・宮沢りえのサンタフェでも、法改正後は捨てないと逮捕する
・宮沢りえのサンタフェは見たことがないが、規制する
・過去作品のどれが児童ポルノかどうかは政府が調査して教えてくれるはず
・顔が幼くて制服を着ていれば児童ポルノだと判断される
・ジャニーズでも乳首が写っていたら児童ポルノだ
・児童ポルノかどうかは見た目でわかる。芸術性など考慮しない


 荒唐無稽、言語道断も甚だしい主張である。この人のこうしたエキセントリックな主張を聞いて、どれぐらいの人が賛意を示すかは不明であるし、この人は「わいせつ物」と「児童ポルノ」または「児童ポルノではないかと思われる可能性のある物」とを、どう線引きしているのだろうか。

 ところで、宮沢りえの写真集について、当の葉梨議員のHPでは、「私は、そんな直截的な答弁は行っていない」と上記発言を否定しているが、保坂展人議員のブログにおいて改正児ポ法の審議の動画を公開しているが、この人は確かに(サンタフェが児童ポルノに該当するならばという前置きこそしたものの)上記のように言っているではないか。

 だいたい、私としては、これほど重要な改正法案であるにもかかわらず、これまでも同法の改正が話題になるたびに出てきた「サンタフェ」について、「見たことない」というのはどういうことかと思う。葉梨議員自身は児童ポルノ問題には12年も関わっていると豪語しているが、それでこの程度の議論しかできないのか。彼は同法改正案が広範な規制を敷くことになり、それによって国民の自由が大いに規制される事態になることへの自覚がないのではないか。私にはこの発言をもって、この人(というか規制推進派)が、最初から「規制ありき」で話を進めようとしているのではないか、という疑念が確信へと変わった。

 葉梨議員は同上のHPにおいて、「医学書や家族の記録等を除くため、「性欲を興奮させ、刺激するもの」という限定が付された」のであるから、改正案は「決して「あいまい」なものではない」と言い、「この「性欲を興奮させ、刺激するもの」の解釈については、法施行後相当詳細な判例も示され、かなり具体的な限定となって」いると豪語する。

 それでは、たとえば「家族の記録」として撮影した児童の写真なり動画を閲覧した者が、それを見ることによって「性欲を興奮させ、刺激」されたならば、それが「家族の記録」として残されたものでも児童ポルノになるのか。医学書に掲載されている児童の写真等を見て、「性欲を興奮させ、刺激」される者はいないのか。こうした疑問に対して規制推進派は合理的な回答をできるのか。私としてはこの線引き自体、合理的なものとは思えない。

 しかも、これらを児童ポルノから除外する用意があるのに、どうして「芸術作品」は除外しないのか。確かに、芸術作品への規制について最高裁は、「チャタレイ婦人の恋人」事件判決において、「わいせつ文書」とは、①徒に性欲を興奮または刺激せしめるもの、②普通人の正常な性的羞恥心を害し、③善良な性的道義観念に反するもの、とし、わいせつ文書であるか否かの判断は、「一般社会において行われている良識すなわち社会通念」であるとしたが、これらが上記除外類型(特に「家族の記録」)には該当しないと言えるのか。

 また、こうした判例には、非常に強い批判が寄せられている。すなわち、興奮、刺激、羞恥心という個人差の大きい心理的反応を基礎とするわいせつ概念が不明確であり、表現行為に対する恣意的処罰の危険性が出てくる、というものである(今まで私が繰り返してきた批判もこれにあたる)。


 そもそも、上記最高裁判決をはじめこれまでの判例は、わいせつ文書等の配布・販売に関して判断したものであり、改正児ポ法で処罰の対象としている「単純所持」について判断したものではない。つまり、ここで問題となってくるのは刑法175条(わいせつ物頒布等)と表現の自由との関係であるので、今回の議論の参考にはならないとも言える。

 だいたい葉梨議員も同HPで述べているように、「「児童ポルノ」禁止の法益は「児童の権利保護」、「わいせつ物」禁止の法益は「善良の風俗の保持」で明らかに異なる」のであって、保護法益が異なる事件について判断した裁判所の判断がいくら蓄積されても、それを単純所持罰則の議論に用いることはできない。というのは、それら判例は「わいせつ物」についての判断の蓄積であり、児童ポルノの単純所持についての判断ではない。よって、これら裁判所の判断があるからといって、児童ポルノ単純所持罰則の基準が明確に示されたとは言えない。

 もっと言えば、わいせつ物についての定義は確かに裁判例の蓄積によって具体化(私としてみれば全く「具体的な限定」になっているとは言えないが。)したとしても、それはあくまでもわいせつ物の定義に関してのものであって、その裁判例をもって、保護法益の異なる児童保護のための単純所持罰則の議論の参考にすることは、そもそもであれば不可解なのである。

今回の児ポ法改正案は児童ポルノを所持しているだけで処罰されるのであって、わいせつ物を頒布した場合に罰せられる場合よりも厳しいものにしようとしているのだから、わいせつ物頒布に関する事件における判例の定義をもって足りるとするのではなく、立法者はより厳格に児童ポルノの定義をする必要があるのではないか。なお、これまで警察当局は写真類について、ヘアーが写っているだけではわいせつ物に該当しないと判断している(船山泰範日本大学教授)ことも付け加えておく。

こうした区別ができていないのは、先に指摘したように、今回の法改正(というか、児ポ法それ自体)が児童の保護を目的としたものなのか、それとも表現規制をするものか、どちらを主眼とした法律なのか議論がされていないからだ。

 次回もまだ批判を続ける。

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