内閣総理大臣の靖国神社参拝に関しては、これまでに全国で多くの訴訟が提起されており世論の関心も高いことは周知のとおりであると思われる。以下、まずは日本国憲法の定める政教分離原則について言及し、次に靖国参拝訴訟で争点となる主な点を被告側に立って検討し、最後に結語として私見を述べていきたいと思う。なお、以降、内閣総理大臣の靖国神社への参拝は、単に「本件参拝」と言うことにする。
1、日本国憲法における政教分離原則
2、訴訟における争点の検証
3、結語
1、はじめに―日本国憲法における政教分離原則
日本国憲法における政教分離原則とは、憲法20条2項後段の「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」という文言と、同条3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とする条文からなるとされている。また、政教分離の原則は、89条の「宗教上の組織若しくは団体」に対する公金の支出を禁止する条文によって、その分離を財政面からも規定している。
2、訴訟における争点の検証
多くの靖国参拝訴訟に共通して該当する争点として、以下のようなものが挙げられると考えられる。そこで、これらを逐一検討していくことにする。
、内閣総理大臣の靖国神社参拝は、憲法の規定する政教分離原則に反するか否か。
、原告らの言う「宗教的人格権」は成立するか否か。
、内閣総理大臣の靖国神社参拝は、国家賠償法1条1項の「職務を行うについて」に該当するか否か。
、原告らの法益の侵害があったと認められるか否か(精神的苦痛による損害賠償請求は可能かどうか)。
内閣総理大臣の靖国神社参拝は、憲法の規定する政教分離原則に反するか否か。
政教分離原則は先述したとおりであるが、これに照らして、国やそれに準ずる機関の行為が政教分離規定に反するか否かを判断するにおいて裁判所で用いられている方法として、目的・効果基準がある。そこで、目的(本件参拝が宗教的意義を持つか。)・効果(本件参拝が靖国神社に対する援助・助長・促進になり、原告らの信教の自由を圧迫・干渉することになったか。)基準に照らして本件参拝の合憲性を検討すると、3つの判断基準において判断することになる。
①内閣総理大臣よる本件参拝はわが国の社会的・文化的諸条件に照らし、相当とされる限度を越えるものか(本件参拝が宗教的意義を持つものかどうか)。
愛媛玉串料訴訟最高裁判決での反対意見において可部恒雄裁判官が述べているように「政教分離原則は、国家の宗教的中立性を要求するものではあるが国家と宗教とのかかわり合いを全く許さないものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的・効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を越えるものと認められる場合に」憲法違反となるものである。
このように政教分離原則を緩やかに解するならば、同判決において同じく反対意見を述べた三好達裁判官の指摘するように、「祖国や父母、妻子、同胞等を守るために一命を捧げた戦没者を追悼し、慰霊することは」、「国民一般としての当然の行為」であって、「このような追悼、慰霊は、祖国や世界の平和を祈念し、また、配偶者や肉親を失った遺族を慰めることでもあ」って、「人間自然の普遍的な情感である」と言える。これは、三好裁判官自身も述べているように、昭和60年に中曽根康弘内閣の下で設置されたいわゆる靖国懇のまとめた報告書の内容に近い。
また、松山地裁で提起された靖国参拝訴訟において国は、昭和53年の、福田赳夫首相が靖国神社へ参拝したときの政府統一見解をほぼ踏襲したものと見られる、「内閣総理大臣その他の国務大臣の地位にある者であっても、私人として憲法上信教の自由が保障されていることは言うまもない」ということを主張している。内閣総理大臣が本件参拝において第一に依拠すべきなのは政府統一見解であるのだから、その統一見解で本件参拝を違憲ではないとしている以上、本件参拝について何ら躊躇する必要はないとも言える(百地章『靖国と憲法』成文堂、144頁参照)。
したがって、本件参拝は小泉氏の私的な信条の発露から、戦没者の慰霊と遺族への慰謝を行ったという世俗的な性質に留まると解すべきであって、本件参拝が宗教的意義を有し、社会的・文化的諸条件に照らし、相当とされる限度を越えるものとは言えない。
②内閣総理大臣による本件参拝が靖国神社への援助・助長・促進につながったか。本件参拝によって原告らの信教の自由が圧迫・干渉されたか。
本件参拝に対する訴訟において、原告らがしばしば主張するところによれば、「内閣総理大臣による本件参拝等によって」、靖国神社のホームページへのアクセス数が急増し、靖国神社への参拝者数が増加したことをもって、本件参拝が靖国神社への援助・助長・促進につながったと結論づける。
確かに、靖国神社にこのような効果がもたらされたのは客観的にも証明されており否定できないことではある。しかし、原告らの上記の理論を敷衍させれば、このような効果がもたらされたことにより靖国神社が他の宗教団体と比較して憲法20条1項後段にいう「特権」を得る地位に至ったということになるが、では、内閣総理大臣の行う宗教とのかかわり合いをマスコミがつぶさに報道しそのことによって報道された宗教団体の訪問者が増加し、ホームページアクセス数なども増加すれば、靖国神社「だけが」、特権を付与されたという結果を導き出せないことになり、特定の宗教団体だけが特権を得たという結果にならないと思われる。そもそも、「特権」というのは、一部の者に限って認められている優越的な地位である。
よって、このような表面的な結果のみをもって靖国神社が他の宗教団体に比べ宗教の援助・助長・促進という効果を得たと主張するのは、余りに論拠薄弱であると考えられる。
次に、本件参拝によって原告らの信教の自由が圧迫・干渉される結果となったか否かについてであるが、このことは最高裁判決平成18年6月23日が指摘しているように、「人が神社に参拝する行為自体は、他人の信仰生活等に対して圧迫、干渉を加えるような性質のものではない」のであり、しかも、本件参拝によって国及びその機関から不利益な扱い又は宗教上の強制もしくは制止が行われたという事実は認められないということは多くの裁判所の認めるところであり(福岡地裁判決平成16・4・7等)、よって本件参拝によって原告らの信教の自由が圧迫・干渉を受けたということはできない。
③本件参拝によって、国家と宗教団体との中立性が害されたか。
本件参拝によって国家と宗教団体との中立性が害されたと言うことはできない。なぜならば、たとえば「東京都慰霊堂における関東大震災遭難者と東京大空襲犠牲者のための仏式慰霊祭への都知事らの参列、横浜市英連邦墓地におけるキリスト教、ヒンズー教、ユダヤ教、イスラム教、仏教共同の英連邦追悼式とそれへの外務大臣、神奈川県知事らの参列」といった行為も同時に、国及びその機関は行っているからである(百地章『政教分離とは何か―争点の解明―』成文堂、134頁参照)。
それでは何をもって「中立」というかであるが、これに関しては判例でも繰り返し述べているように、政教分離原則は「国家と宗教のかかわり合いを全く許さない」ものではないので、百地教授が著書で指摘しているこれら行為に対し、少なくとも憲法違反であるとして訴訟が提起されてはいないのであるから、のは憲法の言う政教分離を通しての中立性の要請とは、両者の過度のかかわりを禁止したにとどまり、国家行為にまったく宗教的要素の無味乾燥を要請しているものではない明らかであると思われる。
加えて、国が問題となる宗教団体に付与した金銭の多寡も、中立性の基準としては機能しないと考えられる。仮に金銭の多寡が中立性の基準となるならば、本件参拝によって小泉氏が支出した献花料3万円に比べ、宗教系私立学校への助成金のほうが圧倒的に多いのは明白であるので(たとえば、平成16年度、文部科学省が関西学院大学に補助金として交付した金額は約24億8500万円である。)、同時にこちらも憲法違反とされなければ論理的な整合性は取れていないことになるからである。
、原告らの言う「宗教的人格権」は成立するか否か。
政教分離原則から宗教的人格権を導き出すにあたり、その具体的内容、根拠が不明確であり、同権を信教の自由と異なった独自の人権と解するならば、どのような点に独自性が認められるのか、という点においても明確な説明がなされていないし、宗教的人格権という、漠然かつ抽象的で、各人の主観的側面いかんによっていくらでも定義可能なものを法的に保護するに値するものとすると、憲法の定める違憲審査制が恣意的に運用されてしまう危険性も払拭できない。これは、松山地裁に提起された靖国参拝訴訟のように、憲法13条(幸福追求の権利)を根拠として宗教的人格権を主張する場合も同様であると思われる。
宗教的人格権に関しては、「実定法上の根拠を欠くものであり、その内容も主観的、抽象的なものであって、憲法上の人権として保障されているものとは解し難いから」、「その前提を欠き失当である」と判示した福岡地裁判決(平16・4・7)の指摘するとおりであろう。
、内閣総理大臣の靖国神社参拝は、国家賠償法1条1項の「職務を行うについて」に該当するか否か。
この点に関しては本旨から若干逸脱する可能性があるので簡潔に述べるに留めておく。
国家賠償法1条1項の適用が認められるためには、まず本件参拝が「職務を行うについて」なされたものと認定されなければならない。この点、多くの判決は本件参拝が「職務を行うについて」なされたものと認めるところであるが(東京高裁判決平成17年9月29日は、本件参拝を「内閣総理大臣の職務行為として行われた」と「評価することは困難というほかない」として、本件参拝を職務行為と認定しなかった。)、後に述べるとおり原告らに損害は発生していないとして、国家賠償法による損害賠償責任を認めなかった。
なお、本件参拝が公用車を使用し、SPを同行させた等の理由をもって職務上のものであるとする主張が見られるが、「閣僚の場合、警備上の都合、緊急時の連絡の必要性等」(昭和53年時の政府統一見解)から、これら措置は当然のことであって、これをもって本件参拝を職務上のことと判断するのは、極めて粗雑な理論である。
、原告らの法益の侵害があったと認められるか否か(精神的苦痛による損害賠償請求は可能かどうか)。
本件参拝に関する訴訟は形式的には損害賠償請求というかたちをとっている。本件参拝において国に対する国家賠償法による損害の補填が認められるためには、①本件参拝が事実行われたこと、②本件参拝が違法であること、③本件参拝が被告の故意によること(過失による参拝など考えられない)、④原告らに損害が発生したこと、⑤本件参拝と損害との間の因果関係、⑥本件参拝が「職務を行うについて」なされたこと、という要件を全て満たさなければならない。多くの判決は①と⑥を認定しても、上記の最高裁判決が言うように「他人が特定の神社に参拝することによって、自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても、これを被侵害利益として、直ちに損害賠償を求めることはできない」のである以上、精神的苦痛による損害賠償請求が認められないのは明らかである。よって、民法709条による損害賠償請求もなしえない。
3、結語
政教分離原則とは、人権規定なのではなく政教分離原則という制度を定めることによって信教の自由を保障するという、いわゆる制度的保障にとどまるのであって、そこから各々の主観的感覚に拠るところの大きい宗教的人格権と呼ばれる人権規定を導き出すことは、違憲判断を極めて恣意的なものにしてしまう可能性も否定できず、現実的には不可能であると考えられる。
そして、過剰な政教分離を実行していくと、かえって他者の信教の自由を侵害してしまう可能性もある。たとえば、本件参拝を日本遺族会等は強力に支持をしてきたが、本件参拝に厳格に政教分離を適用すれば、間接的であっても遺族会の人たちの信教の自由の侵害ということにはならないだろうか。本件参拝に関する訴訟では、靖国神社に対し小泉氏の参拝を受け入れないようにしろという請求もあったが、たとえ内閣総理大臣であっても信教の自由等の自由は等しく保障されなければならないのだから、このような請求は過剰な政教分離を主張するあまり、被告の信教の自由を侵害しているものと言える。
繰り返し述べるが、要するに、政教分離とは、小嶋和司先生が、「民間信仰の表現としての地蔵や庚申塚が公有地の隅に存することも容認しないほど憲法は不寛容と解するべきか」と嘆かれているように、全く国家又はその機関が宗教と接触するのを禁止するものではなく、国家が特定の宗教と結びつくことを禁止しているに過ぎない規定であると考える。
次に、政教分離原則のもと国家行為の違憲性を判断するにおいて、かねてから「社会通念に従って客観的に判断すべき」という基準も設けられている。ところで、内閣総理大臣の靖国神社参拝についての世論の動向は、平成13年に共同通信社の行った調査では参拝賛成が74%にものぼり、昨年の終戦記念日の小泉氏の参拝について同社が行った調査でも「参拝してよかった」との回答は51.5%を記録したという。ということは、裁判所が判断すべき社会通念を形成する一つの論拠であると思われる世論は、内閣総理大臣の靖国神社参拝に否定的な者がマジョリティーを占めているとは言えない以上、「社会通念に従って」判断すれば、一概に違憲とは言えないであろう。
それから、津地鎮祭最高裁判決が言うように、「多くの国民は」、様々な宗教を「使い分けしてさしたる矛盾を感ずることがないような宗教意識の雑居性が認められ、国民一般の宗教的関心は必ずしも高いものとはいい難い」のであれば、なおさら本件参拝は世俗的なものにとどまると解することはできないか。
の②のところで論じた、本件参拝が靖国神社の宗教を援助・助長・促進する結果になったのは、内閣総理大臣による靖国神社参拝自体はそれ程関係ないのではないかということを付言しておきたい。というのは、今年1月6日、安倍晋三前首相が明治神宮を参拝したが、その後明治神宮の参拝者数が増加したという話は聞かない。更に、昨年8月5日、小泉氏は広島の原爆者追悼式出席の前に、山口県萩市にある吉田松陰を祀ってある松陰神社に参拝したが、その後松陰神社の参拝者数が増加したという話も聞いたことがない。つまり、靖国神社に上記のような効果がもたらされた背景には、内閣総理大臣による参拝以外の別の要因があるものと考えられる。
そこで考えられるのは、マスコミによる首相靖国参拝に関する報道である。上記の安倍前首相の明治神宮参拝には殆ど紙面や時間などを裂かなかったにも関わらず、首相の靖国参拝については明治神宮のそれと比べても、費やされた時間、報道された規模、それによって国民がその情報に触れる機会の多さ等、どれをとってみても勝っていると言える。要するに、靖国神社に上記のような効果がもたらされた原因は、内閣総理大臣にあるのではなく、マスコミの報道合戦によるものが多いと思われる。
最後に。どういうわけか厳格な政教分離基準というものは、神道にだけ、それも靖国神社にだけ適用される傾向にあるようなのである。愛媛玉串料訴訟最高裁判決において可部裁判官が反対意見のなかで述べているように、これは「徒らに国家神道の影に怯える」がゆえに「すべて、戦前・戦中の神社崇拝強制の歴史を背景とする、神道批判の結論が先行する」ためなのではないだろうか。福岡地裁判決はまさにこれを裏付けるかのように、政教分離規定は「神道を念頭においた規定である」と明言している。しかしながら、GHQの憲法起草者たちは国家と神道を分離させたいわゆる「神道指令」とは異なり、という現行憲法の政教分離原則は国家と教会の分離、すなわち「国家と宗教団体」との分離を念頭に置いていた(百地章『憲法の常識 常識の憲法』文春新書、183頁参照)。
憲法の理念では、宗教は等しく扱われ、差別的扱いはしてはならないはずである。相次ぐ靖国参拝違憲訴訟の判決文等を読んで抱いた感想である。
1、日本国憲法における政教分離原則
2、訴訟における争点の検証
3、結語
1、はじめに―日本国憲法における政教分離原則
日本国憲法における政教分離原則とは、憲法20条2項後段の「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」という文言と、同条3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とする条文からなるとされている。また、政教分離の原則は、89条の「宗教上の組織若しくは団体」に対する公金の支出を禁止する条文によって、その分離を財政面からも規定している。
2、訴訟における争点の検証
多くの靖国参拝訴訟に共通して該当する争点として、以下のようなものが挙げられると考えられる。そこで、これらを逐一検討していくことにする。
、内閣総理大臣の靖国神社参拝は、憲法の規定する政教分離原則に反するか否か。
、原告らの言う「宗教的人格権」は成立するか否か。
、内閣総理大臣の靖国神社参拝は、国家賠償法1条1項の「職務を行うについて」に該当するか否か。
、原告らの法益の侵害があったと認められるか否か(精神的苦痛による損害賠償請求は可能かどうか)。
内閣総理大臣の靖国神社参拝は、憲法の規定する政教分離原則に反するか否か。
政教分離原則は先述したとおりであるが、これに照らして、国やそれに準ずる機関の行為が政教分離規定に反するか否かを判断するにおいて裁判所で用いられている方法として、目的・効果基準がある。そこで、目的(本件参拝が宗教的意義を持つか。)・効果(本件参拝が靖国神社に対する援助・助長・促進になり、原告らの信教の自由を圧迫・干渉することになったか。)基準に照らして本件参拝の合憲性を検討すると、3つの判断基準において判断することになる。
①内閣総理大臣よる本件参拝はわが国の社会的・文化的諸条件に照らし、相当とされる限度を越えるものか(本件参拝が宗教的意義を持つものかどうか)。
愛媛玉串料訴訟最高裁判決での反対意見において可部恒雄裁判官が述べているように「政教分離原則は、国家の宗教的中立性を要求するものではあるが国家と宗教とのかかわり合いを全く許さないものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的・効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を越えるものと認められる場合に」憲法違反となるものである。
このように政教分離原則を緩やかに解するならば、同判決において同じく反対意見を述べた三好達裁判官の指摘するように、「祖国や父母、妻子、同胞等を守るために一命を捧げた戦没者を追悼し、慰霊することは」、「国民一般としての当然の行為」であって、「このような追悼、慰霊は、祖国や世界の平和を祈念し、また、配偶者や肉親を失った遺族を慰めることでもあ」って、「人間自然の普遍的な情感である」と言える。これは、三好裁判官自身も述べているように、昭和60年に中曽根康弘内閣の下で設置されたいわゆる靖国懇のまとめた報告書の内容に近い。
また、松山地裁で提起された靖国参拝訴訟において国は、昭和53年の、福田赳夫首相が靖国神社へ参拝したときの政府統一見解をほぼ踏襲したものと見られる、「内閣総理大臣その他の国務大臣の地位にある者であっても、私人として憲法上信教の自由が保障されていることは言うまもない」ということを主張している。内閣総理大臣が本件参拝において第一に依拠すべきなのは政府統一見解であるのだから、その統一見解で本件参拝を違憲ではないとしている以上、本件参拝について何ら躊躇する必要はないとも言える(百地章『靖国と憲法』成文堂、144頁参照)。
したがって、本件参拝は小泉氏の私的な信条の発露から、戦没者の慰霊と遺族への慰謝を行ったという世俗的な性質に留まると解すべきであって、本件参拝が宗教的意義を有し、社会的・文化的諸条件に照らし、相当とされる限度を越えるものとは言えない。
②内閣総理大臣による本件参拝が靖国神社への援助・助長・促進につながったか。本件参拝によって原告らの信教の自由が圧迫・干渉されたか。
本件参拝に対する訴訟において、原告らがしばしば主張するところによれば、「内閣総理大臣による本件参拝等によって」、靖国神社のホームページへのアクセス数が急増し、靖国神社への参拝者数が増加したことをもって、本件参拝が靖国神社への援助・助長・促進につながったと結論づける。
確かに、靖国神社にこのような効果がもたらされたのは客観的にも証明されており否定できないことではある。しかし、原告らの上記の理論を敷衍させれば、このような効果がもたらされたことにより靖国神社が他の宗教団体と比較して憲法20条1項後段にいう「特権」を得る地位に至ったということになるが、では、内閣総理大臣の行う宗教とのかかわり合いをマスコミがつぶさに報道しそのことによって報道された宗教団体の訪問者が増加し、ホームページアクセス数なども増加すれば、靖国神社「だけが」、特権を付与されたという結果を導き出せないことになり、特定の宗教団体だけが特権を得たという結果にならないと思われる。そもそも、「特権」というのは、一部の者に限って認められている優越的な地位である。
よって、このような表面的な結果のみをもって靖国神社が他の宗教団体に比べ宗教の援助・助長・促進という効果を得たと主張するのは、余りに論拠薄弱であると考えられる。
次に、本件参拝によって原告らの信教の自由が圧迫・干渉される結果となったか否かについてであるが、このことは最高裁判決平成18年6月23日が指摘しているように、「人が神社に参拝する行為自体は、他人の信仰生活等に対して圧迫、干渉を加えるような性質のものではない」のであり、しかも、本件参拝によって国及びその機関から不利益な扱い又は宗教上の強制もしくは制止が行われたという事実は認められないということは多くの裁判所の認めるところであり(福岡地裁判決平成16・4・7等)、よって本件参拝によって原告らの信教の自由が圧迫・干渉を受けたということはできない。
③本件参拝によって、国家と宗教団体との中立性が害されたか。
本件参拝によって国家と宗教団体との中立性が害されたと言うことはできない。なぜならば、たとえば「東京都慰霊堂における関東大震災遭難者と東京大空襲犠牲者のための仏式慰霊祭への都知事らの参列、横浜市英連邦墓地におけるキリスト教、ヒンズー教、ユダヤ教、イスラム教、仏教共同の英連邦追悼式とそれへの外務大臣、神奈川県知事らの参列」といった行為も同時に、国及びその機関は行っているからである(百地章『政教分離とは何か―争点の解明―』成文堂、134頁参照)。
それでは何をもって「中立」というかであるが、これに関しては判例でも繰り返し述べているように、政教分離原則は「国家と宗教のかかわり合いを全く許さない」ものではないので、百地教授が著書で指摘しているこれら行為に対し、少なくとも憲法違反であるとして訴訟が提起されてはいないのであるから、のは憲法の言う政教分離を通しての中立性の要請とは、両者の過度のかかわりを禁止したにとどまり、国家行為にまったく宗教的要素の無味乾燥を要請しているものではない明らかであると思われる。
加えて、国が問題となる宗教団体に付与した金銭の多寡も、中立性の基準としては機能しないと考えられる。仮に金銭の多寡が中立性の基準となるならば、本件参拝によって小泉氏が支出した献花料3万円に比べ、宗教系私立学校への助成金のほうが圧倒的に多いのは明白であるので(たとえば、平成16年度、文部科学省が関西学院大学に補助金として交付した金額は約24億8500万円である。)、同時にこちらも憲法違反とされなければ論理的な整合性は取れていないことになるからである。
、原告らの言う「宗教的人格権」は成立するか否か。
政教分離原則から宗教的人格権を導き出すにあたり、その具体的内容、根拠が不明確であり、同権を信教の自由と異なった独自の人権と解するならば、どのような点に独自性が認められるのか、という点においても明確な説明がなされていないし、宗教的人格権という、漠然かつ抽象的で、各人の主観的側面いかんによっていくらでも定義可能なものを法的に保護するに値するものとすると、憲法の定める違憲審査制が恣意的に運用されてしまう危険性も払拭できない。これは、松山地裁に提起された靖国参拝訴訟のように、憲法13条(幸福追求の権利)を根拠として宗教的人格権を主張する場合も同様であると思われる。
宗教的人格権に関しては、「実定法上の根拠を欠くものであり、その内容も主観的、抽象的なものであって、憲法上の人権として保障されているものとは解し難いから」、「その前提を欠き失当である」と判示した福岡地裁判決(平16・4・7)の指摘するとおりであろう。
、内閣総理大臣の靖国神社参拝は、国家賠償法1条1項の「職務を行うについて」に該当するか否か。
この点に関しては本旨から若干逸脱する可能性があるので簡潔に述べるに留めておく。
国家賠償法1条1項の適用が認められるためには、まず本件参拝が「職務を行うについて」なされたものと認定されなければならない。この点、多くの判決は本件参拝が「職務を行うについて」なされたものと認めるところであるが(東京高裁判決平成17年9月29日は、本件参拝を「内閣総理大臣の職務行為として行われた」と「評価することは困難というほかない」として、本件参拝を職務行為と認定しなかった。)、後に述べるとおり原告らに損害は発生していないとして、国家賠償法による損害賠償責任を認めなかった。
なお、本件参拝が公用車を使用し、SPを同行させた等の理由をもって職務上のものであるとする主張が見られるが、「閣僚の場合、警備上の都合、緊急時の連絡の必要性等」(昭和53年時の政府統一見解)から、これら措置は当然のことであって、これをもって本件参拝を職務上のことと判断するのは、極めて粗雑な理論である。
、原告らの法益の侵害があったと認められるか否か(精神的苦痛による損害賠償請求は可能かどうか)。
本件参拝に関する訴訟は形式的には損害賠償請求というかたちをとっている。本件参拝において国に対する国家賠償法による損害の補填が認められるためには、①本件参拝が事実行われたこと、②本件参拝が違法であること、③本件参拝が被告の故意によること(過失による参拝など考えられない)、④原告らに損害が発生したこと、⑤本件参拝と損害との間の因果関係、⑥本件参拝が「職務を行うについて」なされたこと、という要件を全て満たさなければならない。多くの判決は①と⑥を認定しても、上記の最高裁判決が言うように「他人が特定の神社に参拝することによって、自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても、これを被侵害利益として、直ちに損害賠償を求めることはできない」のである以上、精神的苦痛による損害賠償請求が認められないのは明らかである。よって、民法709条による損害賠償請求もなしえない。
3、結語
政教分離原則とは、人権規定なのではなく政教分離原則という制度を定めることによって信教の自由を保障するという、いわゆる制度的保障にとどまるのであって、そこから各々の主観的感覚に拠るところの大きい宗教的人格権と呼ばれる人権規定を導き出すことは、違憲判断を極めて恣意的なものにしてしまう可能性も否定できず、現実的には不可能であると考えられる。
そして、過剰な政教分離を実行していくと、かえって他者の信教の自由を侵害してしまう可能性もある。たとえば、本件参拝を日本遺族会等は強力に支持をしてきたが、本件参拝に厳格に政教分離を適用すれば、間接的であっても遺族会の人たちの信教の自由の侵害ということにはならないだろうか。本件参拝に関する訴訟では、靖国神社に対し小泉氏の参拝を受け入れないようにしろという請求もあったが、たとえ内閣総理大臣であっても信教の自由等の自由は等しく保障されなければならないのだから、このような請求は過剰な政教分離を主張するあまり、被告の信教の自由を侵害しているものと言える。
繰り返し述べるが、要するに、政教分離とは、小嶋和司先生が、「民間信仰の表現としての地蔵や庚申塚が公有地の隅に存することも容認しないほど憲法は不寛容と解するべきか」と嘆かれているように、全く国家又はその機関が宗教と接触するのを禁止するものではなく、国家が特定の宗教と結びつくことを禁止しているに過ぎない規定であると考える。
次に、政教分離原則のもと国家行為の違憲性を判断するにおいて、かねてから「社会通念に従って客観的に判断すべき」という基準も設けられている。ところで、内閣総理大臣の靖国神社参拝についての世論の動向は、平成13年に共同通信社の行った調査では参拝賛成が74%にものぼり、昨年の終戦記念日の小泉氏の参拝について同社が行った調査でも「参拝してよかった」との回答は51.5%を記録したという。ということは、裁判所が判断すべき社会通念を形成する一つの論拠であると思われる世論は、内閣総理大臣の靖国神社参拝に否定的な者がマジョリティーを占めているとは言えない以上、「社会通念に従って」判断すれば、一概に違憲とは言えないであろう。
それから、津地鎮祭最高裁判決が言うように、「多くの国民は」、様々な宗教を「使い分けしてさしたる矛盾を感ずることがないような宗教意識の雑居性が認められ、国民一般の宗教的関心は必ずしも高いものとはいい難い」のであれば、なおさら本件参拝は世俗的なものにとどまると解することはできないか。
の②のところで論じた、本件参拝が靖国神社の宗教を援助・助長・促進する結果になったのは、内閣総理大臣による靖国神社参拝自体はそれ程関係ないのではないかということを付言しておきたい。というのは、今年1月6日、安倍晋三前首相が明治神宮を参拝したが、その後明治神宮の参拝者数が増加したという話は聞かない。更に、昨年8月5日、小泉氏は広島の原爆者追悼式出席の前に、山口県萩市にある吉田松陰を祀ってある松陰神社に参拝したが、その後松陰神社の参拝者数が増加したという話も聞いたことがない。つまり、靖国神社に上記のような効果がもたらされた背景には、内閣総理大臣による参拝以外の別の要因があるものと考えられる。
そこで考えられるのは、マスコミによる首相靖国参拝に関する報道である。上記の安倍前首相の明治神宮参拝には殆ど紙面や時間などを裂かなかったにも関わらず、首相の靖国参拝については明治神宮のそれと比べても、費やされた時間、報道された規模、それによって国民がその情報に触れる機会の多さ等、どれをとってみても勝っていると言える。要するに、靖国神社に上記のような効果がもたらされた原因は、内閣総理大臣にあるのではなく、マスコミの報道合戦によるものが多いと思われる。
最後に。どういうわけか厳格な政教分離基準というものは、神道にだけ、それも靖国神社にだけ適用される傾向にあるようなのである。愛媛玉串料訴訟最高裁判決において可部裁判官が反対意見のなかで述べているように、これは「徒らに国家神道の影に怯える」がゆえに「すべて、戦前・戦中の神社崇拝強制の歴史を背景とする、神道批判の結論が先行する」ためなのではないだろうか。福岡地裁判決はまさにこれを裏付けるかのように、政教分離規定は「神道を念頭においた規定である」と明言している。しかしながら、GHQの憲法起草者たちは国家と神道を分離させたいわゆる「神道指令」とは異なり、という現行憲法の政教分離原則は国家と教会の分離、すなわち「国家と宗教団体」との分離を念頭に置いていた(百地章『憲法の常識 常識の憲法』文春新書、183頁参照)。
憲法の理念では、宗教は等しく扱われ、差別的扱いはしてはならないはずである。相次ぐ靖国参拝違憲訴訟の判決文等を読んで抱いた感想である。