ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

児ポ法改正推進派のお粗末な論理を糾す

2009年07月04日 | 二次元(児童ポルノ規制)
 今回も前回に続き、改正児ポ法の問題点について言及していくが、今回は主にその中でも前回の「児童ポルノ規制推進派のお粗末な論理」において掲載した、改正推進派のお粗末な論理を糾すことを目的とする(前回言及した部分は除く)。今回はいつもにも増して長くなるが、よければお付き合い願いたい。


 その前にまず、どうして私がこれほどまでに今回の改正児ポ法に対して批判を向けるのかということについて述べさせていただく。

 私が今回の改正児ポ法に反対する理由は次の4つである。

①曖昧な定義で自由を規制することは、それを許すと結局は自由全てを否定することにつながる
②マンガやアニメには実際の被害者が存在しないのに規制する理由はどこになるのか
③児童ポルノの被害に遭う児童の保護が目的なのか、表現規制(創作物規制)が目的なのか、整理されていない
④規制推進派は、「感覚だけで」規制を正当化しようとしているのではないか


 ①についてはこれまでも述べてきたのでここで詳述することは避けるが、我々は日々、まるで空気のように自由の恩恵に与っているということを付言しておきたい。

 当然の話だが、人間は全知全能でない以上、生きている限り必ず失敗するし、選択を誤ることがある。しかし、こうして今ここにいる。そして、世の中は実に不確実な要素で溢れている。今日雨が降ったからといって、明日もまた雨だとは限らないように。

 このように、人間は無知(全知全能であり未来を合理的に予想し、常に正しい選択をできる存在ではない、という意味。)なのである。極めて不完全な存在なのである。

 自由とは、無知な人間である我々が最大の選択肢の範囲を持ち、失敗をしたり道を誤ってもそれが許され、様々な可能性があることに意味があり、人々に間違える自由を保障し、それを修正する自由が担保されてこそ、自由と呼べるのだ。したがって、主観的で曖昧な定義をもって自由を規制することは、自由にとっての最大の敵となる。


 ②についてもこれまで詳述してきたから割愛する。③については葉梨議員やアグネスの国会答弁を聞いているうちに、疑問を強めたところだ。彼らは言う。「子供の人権を保護するには全ての児童ポルノの撲滅が不可欠である」と。

 しかし、子供の人権の保護を目的とするなら、それはフィクションで実際には存在しない者を描くマンガやアニメの規制を正当化する根拠にはならないし、児童ポルノと一口に言っても、その定義は覚醒剤や麻薬などのように一義的に決まるものでもない。ましてや、児童ポルノ(と看做されるもの)の所持それ自体を違法化することによる、実社会に及ぼす弊害についてまともに議論された形跡はない。

 私も子供の人権の保護のための法整備を否定する気は毛頭なく、むしろ必要だとすら考えるが、そのために払う「代償」が、与党案ではあまりに大きすぎるのではないか、という懸念を、これまで示してきたのである。葉梨議員をはじめ立法者は、宮沢りえの「サンタ・フェ」さえも児童ポルノに該当するというが、ここにその「代償」の大きさがいかに凄まじいか、端的に見てとれよう。


 ④についてはあくまでも憶測の域を出ないため仮定に基づいて話すしかないが、おそらくこう考えても強ち間違ってはいないのではないか。「当たらずとも遠からず」の指摘だと思っている。

 現に、おそらく多くの非オタクな人たちは(以前よりはオタク文化に対する理解は深まったものだと思えても)、それでもまだ、コミック・マーケット等に足を運ぶオタクを、「キモい存在」、もっと悪く思っている人は「犯罪者予備軍」とすら捉えているのではないか。こういう多くの「一般人」にとって、与党案に対する警戒感は非常に薄いものと思われる(だからこそマスコミもあまり報道しない)。

 これは規制推進派にとってみれば非常に有難い話である。いわば「密室」で悪法を思った通りに審議し、通すことができるからだ。しかも多くの一般人はこの悪法の及ぼす危険性について理解しているとは思えない。「変態が処罰されるだけでしょ?」としか把握していないかも知れない。

 マイノリティから自由を奪うことは容易い。これは歴史が証明している。何故ならば、マジョリティはマイノリティの自由が規制されても関心がないし、自分のこととして考えないからだ。こういうとき、権力者にとってサイレントマジョリティはとても使い勝手がよく、好都合なのである。

 しかし、これも何度も述べてきたが、感覚や先入観だけで規制を行うのは権力の暴走を許し、ひいてはこの問題に関心を示さないサイレントマジョリティの自由も奪うことになる。こうした主観や先入観に基づく規制を許してしまうと、それが他の「規制法」に及ぼす影響は決して小さくないはずだ。主観で規制ができるならば、何でも規制ができてしまうからだ。

 しかしながら、「キモい」などといういわば「不快感」は、人間が社会において共同生活を営む上で避けることのできないものであり、そこから「棲み分け」は必要になったとしても、規制までは導き出せない。児ポ法改正推進論者はこうした点について、認識が決定的に不足しているように思えてならない。



 ・・・。少しばかり長くなり過ぎたので、改正推進派の批判はこの次の投稿に回すことにする。

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