ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

「戦争のできる国」のどこが悪い

2008年12月07日 | 憲法9条
 しばしばカルト的な「護憲派」(誤憲派、と表現したほうが適切か。)は、われわれ憲法9条改正派に対して、「日本を戦争のできる国にしようとしている」などと言うが、では一体「戦争のできる国」であることの一体何がいけないのか、訊いてみたい。

 そもそも、戦争が「できる」ということは、それが直ちに戦争勃発と結びつくのか。「できる」という言葉には、「(できるけど)やらない」ということも当然に想定されている。たとえば、私は人を殺すことが「できる」。これは紛れもない事実である。私には手も足もある。この手で首を絞めることもできるし、この足で人を蹴り殺すこともできる。

 だが、私はそれら行為を「やらない」。理由は簡単。やる必要も意味もないからだ。ただしこれは「現在のところ」やる必要がないのであって、たとえば私が暴漢に襲われたとき、その場を凌ぐために、この手や足を使って暴漢に攻撃を加えることもありうる。最悪、その暴漢を殺してしまうかも知れない。しかし、もし暴漢が私を殺す気でかかってくれば、それは必ずしも平和に反した行為とはいえない。国家の行う戦争もこれと同じことではないのか。

 もしカルトな「護憲派」の言うように、憲法9条を守るということは、それはさきの暴漢のたとえに置き換えるならば、暴漢に襲われたときに、自分の手足を縛り、暴漢にされるがままにされろ、ということだ。彼らにとってはこれが「平和」なのである。

 護憲派の言う憲法9条を守るということは、日本の手足を縛り、他国から侵略されたとしてもされるがままに辱められろということだ。それならば、護憲派の諸君はまず手始めに、自分の手足でも縛って生活を送ってみればどうだろうか(冷笑)。そのような下での生活で、自身の「安全」が保てるかどうか、試してみればいい。



 蛇足だが、「侵略してくる国などあるものか」などという反論は無意味であるし、無力であるということを言っておく。それでは逆に訊きたい。今後未来永劫一切日本が侵略される「可能性」はないのか、と。国家の至上命題は国民の生命と安全、財産を守ることである。そのためにはあらゆる可能性を考慮し、ゼロと断言できない限り、戦争も辞さないという「最終選択肢」を残しておかねばならないのは言うまでもないはずだ。認めたくないとかいう感情論の次元の話ではない。

 蛇足ついでにもう一つ言っておくが、さきの暴漢のたとえで、「それならば助けを呼べばいいじゃないか」と思われるかもしれないが、護憲派は日米同盟という「助け」も否定しているのだから、助けは期待できない。結局蹂躙されるがままである(まぁ、彼らにとってはこれが平和なのだからいいのかも知れないが)。



 戦争はできるが、それは自国の安全を生存を守るための絶対の最終手段である。したがって、戦争を「できない」状態にする憲法9条は早々に改正されねばならない。これこそが健全な安全保障についての理解ではなかろうか。

 それにしても護憲派というものは、どうして常に「戦争」というと、日本がふっかけるのを前提としてしか考えられないのだろうか。私は憲法9条を改正して日本の防衛力を確固たるものにして、常に「いざという時」に備えろと言っているにすぎないし、これが改正派の大多数の考えだろう。しかし、護憲派の想定する「戦争」とは、常に日本側がふっかけるものと理解しているから、ここにわれわれの主張を正しく理解できないことの一因があるのではなかろうか。

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