ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

私の憲法9条改正論(その2)

2008年07月13日 | 憲法9条
 以前の「その1」を書いてから大分時間が経ってしまったが、尻切れトンボで終わらせるのでは中途半端であるし、ましてや変な誤解を与えかねないと思うので、引き続き「私の憲法9条改正論」について述べていきたいと思う。



 私が憲法9条の改正をすべきと考える理由の第二は、現在の9条を普通の人が読めば、明らかに軍隊は憲法違反ということになるからである。それこそが2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という箇所である。9条制定の経緯などは、西修先生の多くの著書に詳しく書かれているため、ここでは触れないが、この箇所が存在している限り、自衛隊の合憲論争という、もはや神学論争にも等しい無益な議論に終止符が打てない。

 9条の解釈をめぐる(私から見れば)不毛な論争が、戦後日本の安全保障政策において影を落としていたのは否定できない。現に卑近な事例を取ってみても、湾岸戦争時、非武装中立を唱える旧社会党が野党第一党の座にあったため、クウェートに自衛隊を派遣できず、日本は世界の顰蹙を買った。その後、今では考えられないような紆余曲折を経て、漸くPKO協力法が制定された。このような政治の不要な混乱に、憲法9条の解釈をめぐる対立があったことは明らかだ。

 慶応大学の小林節先生ではないが、これでは「憲法守って国滅ぶ」と揶揄されても、それは強ち的外れではない。いや、そればかりか、本当にそのような事態になりかねない。これこそ本当に憂慮すべき問題である。



 ところで、独立国家であれば当然に自国を防衛するための自衛権がある。個別的自衛権、集団的自衛権ともに国連憲章51条において認められている、国家固有の権利である。つまり、当然に日本も個別的自衛権、集団的自衛権ともに有してはいるが、集団的自衛権に関しては、その1で述べたような解釈を取っている。

 集団的自衛権に関しては、国際司法裁判所はニカラグア事件判決において、集団的自衛権が行使可能な要件として、自国と連帯関係のある国家が、第三国から武力攻撃を受けたことを宣言し、かつ、攻撃を受けた国家が、支援・援助を要請していることを挙げ、集団的自衛権を国際慣習上確立された権利であるとしている。

 先日、報告書を提出した柳井俊二前駐米大使を座長とする「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」で検討された集団的自衛権行使のパターンは、(1)米国を狙った弾道ミサイルをミサイル防衛システムで迎撃、(2)公海上で並走中の米軍艦船が攻撃された際の海上自衛隊艦隊による反撃、(3)一緒に活動する多国籍軍への攻撃に対する反撃(4)国連平和維持活動で妨害を排除するための武器使用-の4類型であったが、これらはいずれも円滑な日米同盟運営のためにも容認すべき範囲の集団的自衛権であろう。

 ここで「容認すべき範囲」という表現を用いているように、私は無制限に自衛権の範囲を拡大しようとするものではない。そこには一定の限界があるし、一定の限界があるべきである。その意味で、だからこそ憲法9条を改正し、自衛権の範囲を明確にし、そこに一定の歯止めをかけるべきなのである。憲法9条下で自衛隊、自衛権をグレーゾーンのまま置いておくほうが、逆に有事となった際に無制限に軍事力の範囲が拡大し、おかしな方向へ向かうのではないかと考えている。

 それならば日本が他国から武力侵攻しないという確約を取り付けてくればいいと批判されそうだが、そのような確約が一定の状況下では無意味なものになることは歴史が証明している。たとえば、日本は戦前ソ連の南下を恐れて1940年、「日ソ中立条約」を結んだが、1945年8月、日本が降伏する直前になって火事場泥棒的に一方的に同条約を無視して対日宣戦布告をし、北方領土を占領したではないか。日ソ中立条約を締結した当時、ソ連側はスターリン自身が日本側代表松岡洋右を駅まで送迎し、条約締結を熱烈に歓迎したにもかかわらずに、だ。

 この史実が証明しているのは、たとえ武力侵攻しないという確約を取り付けても、国際情勢やその後の国内事情の変化によって、そんなものは容易に反故されかねないということだ。当時の軍国主義的な日本政府ですらソ連が条約を無視し、対日宣戦布告をしたということは衝撃的であったのだ。

 そもそも、現在の日本政府に対日宣戦布告は絶対にしないという確約を取り付けるほど外交力があうとは思えないが(外交力も結局は軍事力が決定的な影響を持っている)、仮にそのような確約を取り付けても、決して非武装に甘んじることは許されないのだ。いや、むしろ、そのような確約を取り付けたからには、相手方に確約を反故させないよう、強力な軍事力をもって常に威嚇する必要すらあろう。なぜなら、相手方はたとえ日本に武力侵攻しないと「口先で」明言しても、日本に武力侵攻するメリットありと判断すれば、攻撃を仕掛けてくるのであるから(戦前のソ連がいい例だ)。逆に、そのときに非武装でいたほうが、無駄な被害を出すはずだ。



 そして、趣旨が若干ずれてしまうが、非核三原則の法制化にも反対である。核武装論者である私としては、日本が自前で核戦力を保持することに賛成であるが、それはNPT体制、日米原子力協定、国内世論等によって実質的に不可能であると思うので、そこまでは主張しないが、非核三原則は「つくらず」以外は全て撤廃すべきである。もちろん、非核三原則が有効な現在でも、暗黙裡のうちに在日米軍が核戦力を日本国内に入れているだろうが。

 では、どうして非核三原則の法制化に反対かと言うと、法制化してしまうと、それは現在の宣言程度の非核三原則に比べ、国家を拘束する力が増し、日本の安全保障政策の変更が非常に難しくなってしまうからだ。しかも法制化したということは、「日本は核はどんなときでも持たないし使いませんよ」と宣言してしまうことになり、これは安全保障政策上、極めてデメリットの多いことである。

 自衛権は、「いざという時になったら容赦しないぞ」という事前の軍事力による威嚇力もその中に含まれるべきで、それをみすみす放棄し、自分の手の内を公開してしまうようなことは、愚策としか言いようがない。
 国家を強盗にとられかねない非常に不適切な喩えだが、ピストルを振りかざして強迫する強盗が、「このピストルには弾が入ってしませんよ」と言ってしまえば、その強盗の計画は失敗するだろう。しかし、たとえ弾が入っていなくとも、「撃たれる可能性がある」と相手方に認識させることが、強盗成功への重要なファクターである。この喩えを先ほどの非核三原則法制化に当て嵌めたら、日本が蒙る不利益が分かるはずだ。

 核武装論に関してついでに言えば、日本が唯一の被爆国だから核を持ってはならないという理屈は、全く説得力がない。むしろ私は、唯一の被爆国だからこそ、そのような惨禍が二度と起こらぬよう、あらゆる軍事力をもって、日本を防衛すべきであると思う。日本が核を持ちませんと言ったところで、周辺国も「そうですね、核はいけないですね」となっているか?それどころか、北朝鮮など堂々と日本を敵国視し、核実験に勤しんでいるではないか。というか、核はいけないと言っておきながら、電力の多くを原子力で賄うことに矛盾を感じないのか。しかも、核反対派の多くは「エコ論者」であると思われるが、原子力が地球環境にやさしいクリーンな電力供給手段というこの矛盾。



 話を元に戻して最後に。私が言いたいことは、所詮憲法9条を守ったところで、周辺国はこれに同調しないし、そうである以上、日本がこれからも平和裏にやっていける可能性はない。憲法9条を守り、自衛権を否定しても、それはその時だけ味わえる、まるで薬物によってハイ状態になるような一時的な自己満足にすぎない。国家は国民の生命と財産、領土と主権を守るために、天災に備えて非常食を備えておくように、常に「いざ」という時のために、準備を怠ってはならないのだ。それが自衛権行使のための軍事力であり、憲法9条の改正であるのだ。

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