今回は、胤盛さんに纏わる伝承のうち「観音菩薩を信仰した」という点について考えてみたいと思います。
本題に入る前に、地名について想像したことを少し書こうと思います。
「神生」の読み方が「かんのう」だと知ったばかりの頃、「かんのう」を漢字変換していたら「観音」が出てきました。
「神生」は、「観音」と何か関係があるのでしょうか?
また、香取市には「観音」という地名があります。
旧・佐原市観音です。こちらも「かんのう」と読むそうです。
同じ地名が近隣にあると紛らわしいので、基本的には同じ地名は名付けない又は変更すると聞いた覚えがあります。
「神生」が本来は「観音」の意味だった可能性もあるのかな?とも思いました。
それでは、今回の本題「観音菩薩を信仰していたという伝承についての仮説」についてです。
千葉氏顕彰会監修『千葉氏探訪』(千葉日報社)によると、次のような伝承があるそうです。
《伝承》『香取郡誌』、『世俗東荘誌』など
胤盛さんは、初めは香取郡神生館(山田町神生)に住んでいて、観音菩薩を信仰したらしい。
そこで、胤盛さんと「観音菩薩」との接点を考えてみました。
千葉氏と上総氏をはじめとする「坂東八平氏」の祖・平良文公ゆかりの「夕顔観音」を祀る樹林寺が香取市五郷内にあります(旧・小見川町五郷内です)
胤盛さんが住んだと伝えられる神生から、直線距離で6キロ前後でしょうか。
胤盛さんが、ご先祖である平良文公が姿を変えたとされる夕顔観音の祀られた樹林時に何度も足を運んでいた
→「観音様を信仰した」となったのかも知れません。
<樹林寺について>
千葉氏顕彰会監修『千葉氏探訪』(千葉日報社)によると、次のような伝承があるそうです。
<伝承の内容>
平良文公は亡くなる前に、子息の忠頼さんに「自分に会いたければ、畑に生えている夕顔の実を開けなさい」と遺言したそうです。
忠頼さんは、良文公の塚の近くの畑に大きな夕顔の実があるのを見つけて割ってみました。
すると、見事な観音像が夕顔の中から出てきたそうです。
その観音像は良文公が姿を変えたものだとして祀られることになりました。
そして、樹林寺は「千葉氏の宗廟」だと伝えられるようになりました。
当初、夕顔観音は旧・小見川町千堂ヶ谷のお堂に安置されていたそうです。
子孫の千葉常重公(常胤公の父であり、胤盛さんの祖父)が、現在の地に樹林寺を建立して安置したとのことです。
それ以後、千葉氏歴代の崇敬を集めたそうです。
後に、常胤公の六男(胤盛さんは常胤公の三男)である東六郎胤頼さんが東庄一帯を治めることになります。
その際に、東氏の祈願所としたそうです。
写真は樹林寺です。
先日、神生周辺の探索を行った際に参詣いたしました。