前回までの仮説を再度ご紹介します。
◎「香取郡神生に住んでいた時期は?」
→最長期間で考えると「生年である久安二年(1146年)~治承四年(1180年)」の間
◎「なぜ香取郡神生に住んでいたのか?」
仮説その1
「立花郷(及び小見郷)奪還の機会を伺うための情報収集をしていた」
今回は「なぜ神生に住んでいたのか?」についての別な仮説を書いていこうと思います。
【仮説その2】
「父・常胤公の弟である小見胤隆氏の庇護の下、上総一族との連携・協調の道を探っていた」
当時の状況を整理してみます。
◎立花郷(橘郷)・小見郷は千葉氏にとって、先祖伝来の私営田で重要な土地だった。
◎当時の立花郷(橘郷)・小見郷の支配権は、国司・藤原親通或いは上総一族の上総常範が握っていた。
◎上総一族は国司・藤原親通の一族と婚姻関係を結んで領地を拡大させていた。
以上の状況から考えると、「内部の情報を集め、横領等の不正があった場合に、しかるべきところに訴え出る」ということも、奪還策として考えられます。
しかし、保延2年(1136年)に国司・藤原親通から相馬郷(相馬御厨)・立花郷(橘郷)を奪われた経緯や苦労を考えると、その方向は難しいと思われます。
そこで、敢えて「連携・協調」という形をとって、名より実を取るということも奪還のひとつの形とも考えられます。
「連携・協調」の具体策として、次のようなことを想像しました。
◎常胤公の三男である胤盛さんと上総常範氏の一族の娘さんとの婚姻
◎胤盛さんが常範氏の養子になる
仮説その2のような動きが現実にあったとしても、それは形としては実を結びませんでした。
ただ、千葉一族と上総一族、胤隆氏と上総一族が、この地域で争った形跡がないので、可能性として考えてみました。
「なぜ香取郡神生に住んでいたのか?」
【仮説その3】
「胤盛さんの療養」「胤隆氏の病気」「胤隆氏の嫡子の病気などによる助っ人」
◎「胤盛さんの療養」についてですが、後の『お七夜の儀』の様子から考えても健康を崩していた形跡はありません。
療養すれば治る病気を患っていて、天地療養のために住んでいたと想像しました。
また、伝承の後半部分「観音菩薩を信仰した」という点からも、不自然ではないかな?と思いました。
◎「胤隆氏の病気」についても完全に想像です。
もし胤隆氏が病を患っていたとしたら、支配基盤を固めるために、常胤公の名代として叔父の近くに控えていたということも考えられます。
◎「胤隆氏の嫡子の病気などによる助っ人」についてですが、これもまったくの想像です。
丸井敬司さん著『上総下総千葉一族』(新人物往来社)によりますと、胤隆氏の嫡子は「義季」氏とのことです。
もし仮に、義季氏が病弱であるなど嫡男としての役割が果たせない状況だったとして、他に代わる兄弟がいなかった場合、胤隆氏の立場はより難しくなると思われます。
そこで、常胤公の三男である胤盛さんが代理として胤隆氏の下で働いていたという可能性を考えました。
以上が、筆者・飼い主が考えた仮説です。
稚拙で恥ずかしいのですが、せっかく考えてみたので書きました
あくまで個人が想像して考えたことですので、ご了承ください。
「観音菩薩を信仰した」ことについて、もう少し掘り下げられたら…と思っています。
今後とも、よろしくお願いいたします
愛犬くんを見習って、調査に励みたいと思います
【追記】
2019年2月23日 レイアウト・文章の一部を修正しました。