愛犬くんとのゆったりライフ

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郷土の武将・武石胤盛さんに関するレポートもございます。

武石胤盛さん(9)「当時の神生周辺の勢力図について」

2016年05月22日 | 郷土の武将 武石胤盛

「胤盛さんは、なぜ神生に住んでいたのか?」

飼い主は、このことについて考えたり調べたりしています。

胤盛さんが生きていた平安時代末期に、在地領主(地方豪族?)の子息が、父の支配権のない地域に住むことは可能だったのでしょうか?

そして、もし「神生に住んでいた」のが本当だったとして、その目的・理由は何だったのでしょうか?

うーむ…タイムスリップしたいです


<資料をまとめました>

次の二冊の本を読んで、自分なりに以下のように整理しました。

◎福田豊彦さん著『千葉常胤』(吉川弘文館)

◎丸井敬司さん著『上総下総千葉一族』(新人物往来社)

 

《要点整理》

(1)保延元年(1135年)

 千葉常胤公の父・常重公が隠居します。

隠居時の常重公の領地は以下の四つの郷です。

  • 千葉郷
  • 相馬郷(相馬御厨)
  • 立花郷(橘郷)
  • 小見郷

四つの領地は、以下のように分配されます。

千葉常胤公:千葉郷/相馬郷(相馬御厨)/立花郷(橘郷)

常胤公の弟・胤隆氏:小見郷

⇒小見郷の領主となったので「小見胤隆」と名乗ったと思われます。

 

(2)保延二年(1136年)

 下総国司の藤原親通によって、相馬郷(相馬御厨)と立花郷(橘郷)が没収されてしまいます。

(3)久安二年(1146年)

 常胤公が相馬郡司に任じられ、相馬郷(相馬御厨)が実質的に返還されます。しかし、立花郷(橘郷)は返還されませんでした。

※常胤公の各方面への長期にわたる働きかけの結果、やっと相馬郷の実質的な支配権が戻りました。

※胤盛さんが生まれたのが久安二年(1146年)です。

 

☆久安二年に「香取郡神生」が、どこの郷に属していたかは、二冊の本からは判明しませんでした。

⇒「小見郷」に属していたものと、想像します。


<小見郷の様子は?>

立花郷は、常胤公に返還されませんでした。

では、常胤公の弟・小見胤隆氏が領したとされる、立花郷に隣接する小見郷の支配権は、誰が握ったのでしょうか?

 

当時の小見郷について、丸井敬司さん著『上総下総千葉一族』によると、次のようになります。

「木内氏」に関する記述から、まとめてみました。

《要点整理》

・上総一族である常澄の子・常範は、「木内太郎」及び「小見九郎」と称します。

・名字の地である「木内」は、小見川町南部から山田町北部と推定されます。

・「小見」は、山田町小見から小見川町の小見川・羽根川一帯と推定されます。

・保延二年(1136年)に、橘郷と相馬郷の支配権が下総国司の藤原親通に渡ると、「小見」も親通に渡ったものと考えられます。しかし、平安時代の末期には上総氏の一族であった常範の所領となっています(経緯は不明)


<常胤公の弟・小見胤隆氏の動向について>

父・常胤公の支配権がない地域に胤盛さんが住むためには、叔父である小見胤隆氏の存在が必要だったと想像します。

丸井敬司さん著『上総下総千葉一族』を読みますと、小見胤隆氏の動きが少し見えてきます。

《要点整理》

◎『徳島本千葉系図』によると、常澄の子・常範が「小見」や「木内」と称している。

⇒立花郷は平安時代の末期には、上総氏の所領になっていた

◎この所領(立花郷)に国司・藤原親通が進出すると、胤隆氏は千葉氏と行動を共にした兆候がない。そのまま在地にとどまり、最終的には上総氏に従ったものと思われる。

久安二年(1146年)(武石胤盛さんの生年)当時、小見郷は、国司・藤原親通(又はその一族)或いは上総一族が領していたと推定されるそうです。


<藤原親通が進出した後の、常胤公の弟・小見胤隆氏の動き>

国司・藤原親通が立花郷に進出した後も、「小見胤隆」と名乗っていたかどうかは不明です。

在地にとどまったということは、小見郷のどこかを領しつつ、最終的に上総氏に仕えた…ということだろうと想像します。

※領主的な立場ではなく、一豪族(有力者?)的な立場になったのかも知れません。

※小見郷内ではなく、常範の領地となった立花郷のどこかを与えられた可能性もあります。


<武石胤盛さんが神生に住んでいた頃は…>

資料をもとに、胤盛さんが住んでいた頃の政治状況を想像してみますと…

◎神生が属していたと思われる小見郷に隣接する立花郷に、父・常胤公の支配権はなかった。

◎叔父・胤隆さんは小見郷全体の領主ではなくなってしまい、神生周辺など小見郷の一部を領していた?

※胤盛さんが神生に住んでいたことを前提としているので、そのように考えました。当時、小見郷自体は下総国司・藤原親通或いは上総一族が領していたようなのですが…)

 

このような厳しい状況の中、千葉郡(千葉庄)の領主の子息が神生に住んでいた…

事実だとすると、かなり危険を伴うと思われます。

 

また、最初の疑問に戻りますが、「香取郡神生」は、どこに属していたのでしょうか?(小見郷内だと勝手に想像しているのですが…)


当時の小見郷・立花郷の状況を整理してみて、改めて謎が深まりました

これからも勉強に励みたいと思います

日々、見回りを欠かさない愛犬くん

【追記】

2019年2月23日

レイアウト、文章の一部を修正しました。

2019年4月28日

文章の一部を加筆・修正しました。

2020年10月30日

レイアウト、文章の一部を加筆・修正しました。

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