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郷土の武将・武石胤盛さんに関するレポートもございます。

武石胤盛さん(11)「神生に住んでいた理由についての仮説」

2016年05月27日 | 郷土の武将 武石胤盛

前回投稿した記事では、胤盛さんが「神生に住んでいた時期」について、伝承や資料を基にして考えてみました。

そして、可能性として考えられる最長期間は「生年である久安二年(1146年)~頼朝挙兵の治承四年(1180年)」ではないか?と想像しました。

今回は、神生に住んだ理由について考えてみたいと思います。


<なぜ、香取郡神生に住んでいたのか?>

これは…謎です。

資料にも確たることは出ていません。

神生に住んでいたということ自体が「伝承」です。

しかし、神生が属していた或いは隣接していた立花郷(橘郷)・小見郷は、保延二年(1136年)に国司・藤原親通に奪われるまでは、常胤公の父・常重公の直系のご先祖たちが私営田として領してきた重要な土地です。

そう考えると、事実である可能性もあると思われます。


香取市内の旧小見川町・旧山田町周辺に、実際に足を運んでみました。

平地が多く利根川の恩恵を受けて、豊かな水田地帯が広がっていました。

平地だけではなく丘陵地帯も点在しています。

千葉氏顕彰会監修『千葉氏探訪』(千葉日報社)によりますと、小見川周辺は、利根川と黒部川の水運を利用した物流拠点でもあり、常陸国への防衛拠点でもあったそうです。

また、千葉銀行の前身である「小見川農商銀行」もあったそうで、かつては水運で賑わっていたそうです。


先祖伝来の地であり、肥沃な土地でもある小見郷と立花郷(橘郷)…

常胤公としては、絶対に奪還したい土地だったと思われます。


そこで、仮説その1として「奪還のための情報収集をしていたのではないか?」と考えてみました。

父・常胤公は「現地の情報収集」を大事にしていたと思われます。

常胤公の七人のご子息のうち、頼朝挙兵前に、情報収集をしていたと思われる方をご紹介します。

【五男・胤通氏】

千葉氏顕彰会監修『千葉氏探訪』(千葉日報社)に、以下のように説明されています。

◎五男の胤通氏は、早い時期から「国分胤通」と称していて、父の代理として下総国府との折衝をしていたか、何らかのかかわりがあったと推定される

また、千葉氏フォーラム実行委員会『東国の自立と千葉介常胤』内の講演資料・福田豊彦さん著『千葉常胤と源頼朝―東国政権の成立を中心に―』で次のように説明されています。

◎父・常胤公が「下総権守という国衙の役割を果たすための館を国府近傍に持っていた」ということなので、国府付近に住んでいたと思われる

【六男・胤頼氏】

六男の胤頼氏は、中央政府との関係が深く、上西門院に仕えていたそうです。

以下、千葉氏顕彰会監修『千葉氏探訪』(千葉日報社)より引用します。

~・~・~・~・~・~

中央政府と緊密な関係にあり、兄弟の中で一番出世しました。

文武両道に秀で、紳士的なイメージを感じさせます。

「大夫」の名のとおり「従五位下(天皇に会見できる官位)」の官位を授与されています。

また早くから京都・神護寺の再興に尽くした文覚と親交を持ち、後白河上皇の妹・上西門院に仕えています。

また胤頼は、文覚の妹を妻にしたという説もあります。

頼朝とも親交が深く、三浦義澄と共に源氏の挙兵をすすめました。

~・~・~・~・~・~

【七男・日胤氏】

七男の日胤氏は、琵琶湖に面した三井寺・円城寺の僧で、頼朝の祈祷師でもあったそうです。

治承四年(1180年)に以仁王を奉じた源三位頼政の軍に同行して戦死したそうです

【参考文献】千葉氏フォーラム実行委員会『千葉氏とその時代』

 

上記のとおり、常胤公は子息を積極的に信頼できる筋に預けています。

そして、子息たちは情報収集も行っていたと思われます。

その先駆けとなったのが、三男の三郎胤盛さんではなかったか?と想像しました。

他の兄弟たちとは、「後ろ盾」「受け入れ態勢」の点で異なっていて、少し弱いような気がします。

単独行動ではなかったと思われるので、叔父・胤隆氏を後見として、対立する勢力の内偵をしていたのかな?と思いました。

 

まだ他にも仮説がありまして…

準備が出来ましたら、投稿したいと思います

キリンさんのぬいぐるみを枕にウトウトする愛犬くんです

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