日比谷公園内のガーディニングショー
を見て、当然都内でも1本公孫樹の中でも、物語を持つ、樹齢400年
幹回り6.5m 樹高21.5mの前に立ち、半年ぶりに下から見上げました。このイチョウには
思い出が沢山詰まってます。
当時このイチョウは日比谷見付の近くの道路の脇にあったそうで
現在は日比谷交差点となってます。明治34年の地域一帯の、
道路拡張工事で伐採寸前まで進んでました。断固反対して伐採を拒んで日比谷公園開設を進めてた
本田先生が、(自分の首にかけても)イチョウの木を2週間で公園内の
今の松本楼の場所に移動した経緯があります。 それ故に(首かけのイチョウ)と、長く
呼ばれてます。 多くの巨樹には物語が刻み込まれてます。
松本楼は日比谷公園開設と同じころのレストラン、何度も私たちは
このレストランに学生時代は入りました。 当時から
イチョウの巨樹は知ってました。
を見て、当然都内でも1本公孫樹の中でも、物語を持つ、樹齢400年
幹回り6.5m 樹高21.5mの前に立ち、半年ぶりに下から見上げました。このイチョウには
思い出が沢山詰まってます。
当時このイチョウは日比谷見付の近くの道路の脇にあったそうで
現在は日比谷交差点となってます。明治34年の地域一帯の、
道路拡張工事で伐採寸前まで進んでました。断固反対して伐採を拒んで日比谷公園開設を進めてた
本田先生が、(自分の首にかけても)イチョウの木を2週間で公園内の
今の松本楼の場所に移動した経緯があります。 それ故に(首かけのイチョウ)と、長く
呼ばれてます。 多くの巨樹には物語が刻み込まれてます。
松本楼は日比谷公園開設と同じころのレストラン、何度も私たちは
このレストランに学生時代は入りました。 当時から
イチョウの巨樹は知ってました。
この場所が現在の日比谷交差点です。右の緑が日比谷公園です。
ここから松本楼までは400m近くあります。 移動したのが100年前の話で当時でもイチョウの木は
大木であったと思われます。 昔のこととはいえ驚きです。 話は変わりますが
昭和43~46年、当時は学生運動の核マル派、全共闘、全学連、赤軍派 各派の覇権争いで
大学は荒れに荒れてた時代でした。46年には学生運動が日比谷公園も拠点となり警察と全学連の抗争で
火炎瓶で松本楼は全焼。 しかし銀杏の巨樹は水分を多く含む樹木であったので
助かったと思われます。 日比谷公会堂の前に思い出すのが各派の
旗がなびく姿が今でも覚えてます。新宿騒乱事件
、東大安田講堂、忘れもしません。
ここから松本楼までは400m近くあります。 移動したのが100年前の話で当時でもイチョウの木は
大木であったと思われます。 昔のこととはいえ驚きです。 話は変わりますが
昭和43~46年、当時は学生運動の核マル派、全共闘、全学連、赤軍派 各派の覇権争いで
大学は荒れに荒れてた時代でした。46年には学生運動が日比谷公園も拠点となり警察と全学連の抗争で
火炎瓶で松本楼は全焼。 しかし銀杏の巨樹は水分を多く含む樹木であったので
助かったと思われます。 日比谷公会堂の前に思い出すのが各派の
旗がなびく姿が今でも覚えてます。新宿騒乱事件
、東大安田講堂、忘れもしません。