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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

オリジナルバージョン

2006年01月17日 | 読書
『すらすら読める養生訓』という本を読みました。貝原益軒の【養生訓】を分かりやすく解説した上で著者の考察を加えた、親切で分かりやすい本です。【養生訓】の一節にこんな文章があります。「年老いては、わが心の楽の他、万端、心にさしはさむべからず。時にしたがひ、自楽しむべし。(年をとったら、自分の心の楽しみのほかは、何事にも心を向けてはいけない。その時々によってみずから楽しむがよい。)」というものです。このくだりは究極の一節で、ここに至るまでには、細かいもろもろの注意事項が書かれてあります。★年をとって子に養われている人は、若い時より怒り易く、欲深くなり、子を責め、人をとがめて、晩年の節操を保たず、心を乱す人が多い。とか★年をとってからは、一日を十日として日々楽しむがよい。つねに日を惜しんで、一日も無駄に暮らしてはいけない。世の中のありさまが自分の心にかなわなくても、それは凡人だから仕方のないことと思い、自分の子どもをはじめ他人の過失をなだめ許し、とがめてはいけない。怒ったり恨んだりしてもいけない。~中略~一日も楽しまないでむなしく過ごすのは、愚かなことというほかない。とか★過ぎ去った人の過失をとがめてはいけない。自分の過失も何度も悔やんではいけない。人の無礼で道理に合わないことも怒り恨んではいけない。とか★年を取ると気が少なくなるから気を減らすことを避けなさい。とか★年老いたら、だんだんと事を省いて少なくするのがよい。事を好んで多くしてはいけない。好むことがいろいろあると事が多くなる。事が多いと心労が重なって楽しみを失う。とかのことが、自身の体験談を踏まえて具体的に記載されています。けれど、【養生訓】は江戸時代の、しかも貝原益軒という一人の個人の人生観であり老境についての考え方ですので、戸惑う部分や到底納得できない箇所も多々ありますが、閉塞感が蔓延する今の時代に、この書が多くの人々に読まれているからには、人の心を惹きつける真実が随所に隠されているからだと思いました。こうした境涯は何も老境に差し掛かった者だけのものでもないのではないでしょうか?IT関連の仕事に携わる人などで、30才そこそこでセミリタイアー生活を欲しいままにしている人も存在するご時世です。年がいくつであろうと、如何にして生きていくかという命題は、その人となりを決定付ける最重要課題になるはずです。老境に入ったら、何を楽しむにも愛するにも、自分なりのオリジナルなやり方でやればいい。それを発見することがまた老境の楽しみであり、それを誰はばかることなく自由自在に出来るのも老境のおかげである。老いを楽しく生きるとは、そうした生き方のオリジナルバージョンを見つけ、それを行うことだと説いているのです。やっぱり健康で長生きしなければ、こうした折角の楽しみを棒に振ることになってしまいそうです。すらすら読める養生訓

聞香

2006年01月15日 | 読書
【ききこう】とも【ぶんこう】とも【もんこう】とも読みます。意味は、「香りをかぎ味わうこと。また、その香りをかぎ分けること」とあります。香りをかぐことを香りを聞くと表現したところに、この言葉を考え付いた人の見識の高さを感じます。江戸時代に生きた神沢杜口という人の「翁草」という随筆に「香は気をやしなひ、心をいさぎよくす」ということが書かれてあるそうですので、日本におけるアロマテラポーの源流がこの当たりにも偲ばれます。今までは、アロマとはまったく無縁の生活を送っていましたし、今回も、自分からアロマに積極的な興味を抱いたわけではありませんでしたが、いつの間にか、スッカリ私の生活の必需品として、アロマはなくてはならないものになってしまいました。アロマは、一般的には、香を愛(め)で、ストレスを軽減し癒しをもたらす…などの効用があるのでしょうが、私にとっては、優雅な趣味の領域で愛用するようなものではなく、私の生命を維持し存続させる(健康の保持増進と病気の予防)ための、手放すことの出来ない強力な魔法のお守りとなってしまっているのです。
足るを知る生き方―神沢杜口「翁草」に学ぶ

量子力学理論

2006年01月12日 | 読書
量子力学(量子物理学)理論に基づいて書かれた、ディーパック・チョプラ氏の著作を読んでいると、‘量子の場’とか‘量子のスープ’いう言葉が度々出てきます。この本は、大変、平易な言葉で書かれたものですが、言葉は平明でも、理論自体は極めてスピリチャルで奥深い概念で構築されていますので、私などは、ほとんど、その骨格を感覚的にしか捉えられないのですが、そこには、読者に理解を促すための幾つかのキーワード(センテンス?)が繰り返し登場します。【与えることの法則】【望んでいるものを引き寄せる‘磁石のような力’】【沈黙・瞑想・裁かないことの実践によって生まれる純粋な潜在力】【自ずから生まれる適切な行動=あらゆる状況が起こっている時の、それにふさわしい反応】【防衛しないこと】【何かをコントロールしたいという気持ちを放棄する】【執着を捨て、あらゆるものの見方に心を開く】【意識の中に秘められている2つの要素(注意と意図→注意はエネルギーを生み、意図は変容をもたらす)】【結果に執着しない願望】そして極めつけは、【不確実さの知恵→ここには既知の価値観からの自由がある】これらの言葉が寄せては引き、引いては寄せる波のごとく、読む者の潜在意識に忍び込んできます。どのキーワードにも深い洞察と意味づけがなされていますが、私には、この【不確実さ】が一番の試金石であり踏み絵でした。氏は、安全さを求めることは実際には極めて儚いことだと説明していますが、このことの解釈が、ずいぶん長い間、私には納得がいきませんでした。安全を求める気持ちが強すぎたからです。でも今では、その気持ちは過去の条件付けと不安から来ていたことだと分かります。安全性と確実性の追求は、実際には、既知のものへの執着だったのだと思います。過去の価値観にしがみついている限り、自分の生き方にも進化は望むべくもないということが、この頃、ようやく理解できるようになってきました。不確実さを許容できるということは未知なるものに心を開く余裕を持てることでもあるのだと思えるようになったのです。あとは、意図と願望でさえも、我が身から手放し、解き放ってしまってもいいのです…というか解き放っってしまった方がいいようです。意図と願望にさえ執着しなくてもいいのです。最後は宇宙の意思がすべてを組織化してくれます。私たちは、その奇跡を待っているだけでいいのです。 人生に奇跡をもたらす7つの法則

『あなたが私を好きだった頃』

2006年01月04日 | 読書
不思議なタイトルだと思いました。『私があなたを好きだった頃』ではなく、『あなたが私を好きだった頃』だなんて…。人は普通、自分の感情になら、一応、責任を持てる立場にありますが、人の感情は、自分があれこれ語ることの出来る領域にはないものだからです。たとえ、「あなたが好きだ!」と言われたことがあったにせよ、『あなたが私を好きだった頃』はないだろう…というのが、私の率直な感想でした。次に、感じたことは、これは回想録なのだろうなぁ…ということでした。『好きだった頃』ということは、今は同じ状況にはないということを暗に示しているからです。そして、本を開いて、活字を追ううちに、ますます、もっと不可思議な感覚に包まれていきました。井形慶子さんの書いたものとは思えなかったからです。かつての彼女と、最愛の彼との日々を回想して綴っていますが、その筆致は極めて幻想的で、文体にも、時の経過を踏んで語られるこの二人の関係の展開にも、まるで霞か靄がかかっているかのように、幾層にも膜が被せられていると、私には感じらたからです。井形さんは、二人の関係は愛に満ちたものだと表現していますが、私にはとても壊れやすいひりひりしたものにしか見えませんでした。それは、およそ成熟とは程遠い、お互いの稚拙な感情交錯の行き違いにしか過ぎないもののように見えてしまうのです。井形さんの不安がマックスの状態になっているにも拘らず、関係は揺ぎないものだと言葉で説明すればするほど、井形さんの内的現実と彼の気持ちを含む客観的な外的現実との乖離がはなはだしいものになっていき、文体を曖昧なものにせざるを得なくなっているのだとしか思えませんでした。やっぱり終わりが来た…というなり成り行きなのだなと理解していると、そうではなかったという流れになり、井形さんが、彼の人間としての素晴らしさを再認識するという結論に行き着くのですが、井形さんがどんなに、彼のことを褒め称えても、彼の人間としての等身大のイメージがどうしても私には伝わってこないのです。40代半ばの男性としての覚悟や賢明さが迫ってこないのです。確かに、仕事のポジションはそれなりの人なのでしょうが、女性に対する態度がこれでは余り情けない。きっと、仕事振りも、女性に対する態度と同等のものにしか過ぎないだろうとさえ感じされられてしまいました。(私は井形さんを誹謗中傷する気持ちは全くありませんが、井形さんの筆の力が、彼の描き方に対しては造形力を欠いているとしか思えません。)「ダメだ→そうではなかった→やっぱりダメだ→いやいや、そうではなかった。」このパターンが波のようにさまざまなうねりの高さで繰り返し繰り返し綴られていくのです。そうした井形さんの心のさざ波が、私にもある種の不安を蘇らせるのでした。普段は、明快で論理的にモノを言う人なのに、この違いは何なのだろうと、本を読み始めた当初には随分戸惑いました。井形さんは、彼とのこの関係において、別れの予感に常にさいなまれながら、彼の心が分からない不安に苦しんでいます。ところどころで友人のエピソードを挟みながら、話しを展開させていますが、ある友人の不幸な恋のエピソードの顛末について、「不幸を予測する彼女は、幸せに追いつけず、不幸に追いつかれてしまったのだ。」と分析していますが、これは彼女自身のことでもあるのではないかと感じられたほどです。けれど、さらに不思議なことが起こりました。先へ先へと読み進んでいくうちに、その文体の構成の独特なリズムに、私が、今度はある種の心地よさを感じるようになっていったことです。スピリチャル系の書籍を読んでいるような印象を持つようにさえなっていきました。最後の方には、私の大好きなシンクロニシティという言葉すら出てきたのでびっくりしたほどです。最終章でドクターカワカミという人物が井形さんに語りかける言葉が圧巻です。「君にこれだけは伝えておきたい。本当に悲しいこと、つらいこと、不幸や悲劇は実はこの世のどこにも存在しないんだ。嬉しいことや楽しいこと、悲しいことや辛いことはそもそもどこからやってくると思うかね。どこからもやってこない。それは、全部君が決めている。君が決めたときに『幸せ』も『不幸』も生まれてくるんだ。」「わたしがですか?」「そう、彼ではない。私でもない。君の心がすべての意味を決めているんだ。」井形さんは、長い、自問自答の苦しい日々の末に、ドクターカワカミの言葉をきっかけに、彼に電話をかけるという行動に出ます。そこで、この『あなたが私を好きだった頃』は幕を閉じています。井形さんの現在の夫は、福祉バスの運転手さんのはずですから、『あなたが私を好きだった頃』のあなたでないことだけは確かです。ですから、この恋の本当の結末のことは読者の想像に任されています。井形さんが彼に電話をかけてからの、その後の彼らの成り行きのことについては全く触れられていません。最後に「あとがき」で井形さんは次のように述べています。「仮に、自分を掛けることの出来る相手と巡り会えても、愛を貫く道は平坦ではありません。自分のことを振り返っても、他人の言葉によって信じていたものが揺らいだり、確信を持っていた愛がかく乱されるなど、相手へのこだわりが強い分、不安が募っていきました。そのたびに彼を知る前の自分は、どれほど平安だっただろうと、よく考えたものです。人を好きになって始まる孤独や不安は、一人で居るときより重くのしかかってくると気づいたのも、かけがえのない人に出会った時からでした。」ドクターカワカミは彼とのことで悲観的になっていた井形さんに次のようなことを語ります。「滝を考えてごらん。滝は出っ張った岩の上を流れ落ちる時、左右に分かれるだろう。障害があるからそこで二つに分かれるんだ。だけど流れはいつか、行く先で合わさる。分かれた水流は一本になって、また元に戻るんだ。」人と人との縁、結びつきは、簡単に出来上がったり壊れたりするものではない。それは男女の間柄にも当てはまる。人が考える時間軸と人生の時間軸とは全く別物だ。基盤のある人間関係は、流れていく滝のようにそれが遠い先であっても、いつかは元に戻るのだ。ただし、それに気づかないままどこまでも流されていく人が余りにも多い。」と。ドクターカワカミの言葉を受けて、井形さんは最後の最後に、次の言葉で、この本を締めくくっています。「見失ったものを諦めることは、一見とても潔く、幸せになる近道のようにも思えます。けれど、諦めない道を選択する生き方に今、多くの人が輝きを見出そうとしていることも、また事実なのです。そんな生き方を貫く勇気と純粋な気持ちは、誰かを深く愛する紆余曲折の日々に見えてくるのかもしれません。」 読者である私は、「諦める・諦めない」は状況や人によってさまざまであっても仕方がないと思っています。諦めたくなくても、諦めざるを得ない場合もあります。どちらがいいとは簡単に言い切れない複雑な事情が、人それぞれの背後には必ず潜んでんでいるからです。人間関係が滝のようであるという比喩も、そうかもしれないし、そうでないかもしれないとしか言えません。何故なら、今日的な複雑な現状がそれを許さないこともあると想像されるからです。それに、時は一刻も留まることを知らずに流れているし、人の心も成長し続けています。悲しいけれど、再び合流することだけが最善の道ではありません。お互いの成長がでこぼこ状態にあれば、もう再びの逢瀬は叶わないでしょう。けれど、基盤のある人間関係の大切さや、そうした関係はそんなにたやすくは破壊されるものではないという見識には感動しました。これまでの私は、このことに対して非常に懐疑的でしたが、今では、基盤のある人間関係の‘パワー’を信じたい気持ちで一杯です。
Amazon.co.jo『あなたが私を好きだった頃

<雅子さま>はあなたと一緒に泣いている

2005年08月08日 | 読書
新聞広告のとてもセンセーショナルなその題名に、思わず、目が釘付けになってしまいました。どんなことが書かれてあるのか、内容を確かめてみたくなり、早速、図書館にリクエストを出したら、思いがけずも、早々に手元に新刊本が届いたのです。事実に基づく膨大な資料収集と取材(恐らくは、机上だけでのものでしょうが…)を重ね、幾つかの文献から、関連のあるテーマを引用しながら、論を組み立てていく。こうした手法は研究者ならばお手のものだと思います。あとは推理力が勝負でしょう。幾つかの大胆な推理と想像で思い切った仮説が論じられてはいましたが、その内容のほとんどに、私はまったく興味を持つことが出来ませんでした。精神科医である香山リカさんの著書なのに、失礼なのですが、参考文献として引用されていた心理学者の小倉千加子氏の『結婚の条件』という著作の内容の方にちょっと触れてみたいと思います。(小倉氏の代表作は芸能人の生き様を題材にお料理してくれているのでとても分かりやすいのが特徴です。そうした事情から、小倉氏の著作の、通俗書の類のものは過去のものにも大体は目を通しています。)小倉氏は、この著作において、現代女性の結婚の意識を「生存・依存・保存」に分類して分析しています。生存としての結婚は「生活財であり、結婚して初めて食べられる、そうした意味合いを配偶者に求めるための結婚。」依存としての結婚は、「専業主婦になり、安心して子育てが出来るような給料を配偶者に運んでもらうための結婚。」保存の為の結婚は、「経済力は求めない。けれど女性も一生働くことを尊重して、家事に協力的であることを配偶者に求める結婚。」というふうに結婚の形態を3類型に分けて考察しています。保存のための結婚を実現して見せてくれた人物の代表格には我らが林真理子女史が例として挙げられています。けれど、この論とても、私には何の面白味も、目から鱗の驚きさえも感じられるものではありませんでした。現代女性の結婚がこの3類型に綺麗に分類されるわけもないとさえ感じられます。結局、これは学者さんの一つのお仕事として、一応、社会に一石は投じた。そういう意味では、顕著な力技に値する内容ではあったのかもしれない、というほどのことでしょうか?学者でも何でもない、私のような野次馬的な一読者には、「ふ~ん。こんな考え方もあるのか!」という、感想だけで終わってしまう、極めて現実感のない考察内容でした。さて、大分寄り道をしましたので、本題に戻って、香山さんの著作に対する感想を、私なりに締めくくってみようと思います。結局のところ、この本に関して、私が唯一、素直に共感できた箇所はと言えば、エピローグのすぐ手前に書かれてあった「他人はあなたの人生の責任は負わない」の最終章の内容だけに落ち着いてしまいました。『“他人の目”にどんなに敏感になり、誰にも不快に思われることがないように最大限に配慮して振舞ったところで…そんなことには一縷の値打ちもない。“他人の目”のために、自分の本来の感情や行動を捻じ曲げたり押さえつけたりして生きているといるような事情なんて、誰も理解してはくれない。そう考えると、“他人の目”を意識してそれに自分の言動を合わせるのは、まったく勘定に合わないことなのだ。基本的には自分でやりたいことをやり、思ったことを口にする、というのが大原則なのではないか。』という結論めいた結びの部分だけです。しかしながら、この見解とて、感じ方は人さまざまでしょうし、当然、賛否両論もあることでしょう。議論しだせば喧々諤々、結論さえ出ない大問題なのでしょうが、私はといえば、生きるということをなるべくシンプルな営みと考えて、自分をも他人をも裁かずに、物事を良いか悪いかだけで判断しすぎずに…淡々と、その時々を、宇宙の流れに逆らわずに…出来れば流れる水のごとく…留まらずに、濁らずに生きていけたらいいなぁ…そういう生き方が一番自然なのかなぁ…と、とっても難しいことではありますが、大括りには、そんな感想を持つことで、この本を閉じることになってしまいました。そう思えたことが、この本に出会ったことのせめてもの余禄だったような気もしています。何はともあれ眉間に皺を寄せる生き方だけは、もううんざりという感じがしているのです。