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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

だまし絵

2005年10月14日 | 至福の花
だまし絵このクラシカルでレトロな【だまし絵】は、単なるバラの画像に見えますが、(画像のサイズが小さいので分かりづらいのですが…)よく見ると、バラの花芯の部分には抱き合っている男女の姿が見えます。↓下の絵は【だまし絵】と言えるのでしょうか?ちょっと違うような気もするのですが、古びた建物と朽ちそうな階段とひび割れたボロボロの壁に隠れるように潜んでいる、人の顔の雰囲気に、妙に惹かれてしまったので…この画像も載せてみました。

壁 壁1
久しぶりに会った、若い友人から、私についてのイメージを聞かされて、人の感じ方というものが、いかに千差万別であるかということを改めて思い知らされ、つくづく頭を抱えてしまいました。いい意味で…と枕詞を付けてくれてはいましたが、私のことを、とても頑固で、人が何と言おうと、自分の信念(?)を曲げないというか…信念を貫き通す人間だと、彼女は理解しているのでした。また、私は、「しっかりしろよ!」オーラを出しているから、見限られないようにと思うと、とても恐くもある存在だと言われてしまい、天地がひっくり返るかと思うほど、びっくり仰天して腰を抜かしそうになってしまいました。私は、昔から、「とても分かりづらい人間だ。」とは、よく言われてきました。けれど、この頃では、変わり者であると捉えられることに変わりはないものの、非常に単純で分かりやすい…ともしばしば言われるようにもなっています。私という人間を一つの球面のようなものと想定すると、どの角度から眺めるかで、全く異なる印象を人は感じ取るのです。そのどれもがホントなのでしょうが、私が、自分自身に感じている、【私】という存在への実感とは、何か微妙な齟齬が、人々と自分との間に横たわっているような違和感を覚えます。私自身には、実態なんて、実は、ないのかもしれません。【色相是空】がここにも登場してきます。その時々に、私は実態を持たずに、万華鏡のように、さまざまに色やカタチを変えて、そこに存在しているだけなのかもしれません。万華鏡は、くるっと回せば、一瞬にして、その姿カタチを変えてしまいます。だから、一瞬の色やカタチにこだわること自体があまり意味のないことなのかもしれないと思うと同時に、一瞬一瞬の色やカタチこそが非常に意味のあることなのかもしれないとも思えます。一瞬一瞬は捉えることが出来ないほど、またたく間に通り過ぎて行ってしまいますが、結局は、その一瞬一瞬の集積が、ある個人の雰囲気や人間性を作り上げていくものだと推測されるからです。★本日の結論:私が感じる、私自身の究極の弱さは、今や、あなたに対してだけしか語られることがなくなってしまっているようです。★ところで、【だまし絵】というのは、誰がいつ考え出したものなのでしょう?一つの絵をどこから見るか…どのように見るか…で、その絵の世界観が全く違うものになってしまうのですから面白いといえば面白いのですが、(だまし絵には綺麗なものもありますが)総じて、ちょっと奇怪でグロテスクだったり、見ているだけで、感覚が捩れていきそうになったり、illusionの世界に引きずり込まれそうで、眩暈を覚えるような怖い感じのものが多いです。見てはいけないものを見てしまう恐さ、見なくても済んだものを見てしまった怖さ…とでも表現出来そうです。ぞぞぞ~っと鳥肌がたってきます。しばし、あなたも、【だまし絵】の世界に浸ってみてください。どんな感じを抱かれるでしょうか?ちなみに、私は、もうこれ以上、【だまし絵】に忍び込んでいる隠喩を読み取る作業に深入りしたいとは思いません。
だまし絵のサイト-1 だまし絵のサイト-2

「相談」を持ちかけられることと「相談」をしないこととの関係

2005年09月25日 | 至福の花
私は内向的でありながら、矛盾するようですが、以前は、大変なおしゃべりで大の話好きな人間でした。いくら話しをしても…しても、これで終わりということがありませんでしたし、話が尽きるということもなかったのです。大事なこともささいなことも訳隔てなく、自分の心の中のすべてを、人に他言しても平気の平左でした。けれど、いつの頃からか、大事なことほど人には話さないようになったのです。大事な話ほど、人に話す必要性を感じなくなってからは、大事な人以外にはどうでもいい話ししかしなくなりました。とても慎重で用心深くなったのだと思います。厳密に言うと、話したい人にしか、また、私の思いを受け止めて理解してくれるに違いないと思える人にしか話さなくなったということでもあります。大事な自分の考えを思慮の浅い人の勝手な見解で汚されたくはない…という事情もありますが、私が最近考え出していることは、到底、人には容易には理解してもらえないようなことばかりだからです。人にとやかく言われたくないことばかりだからです。多分常識的で安全な範疇からは随分逸脱している独自の考え方が、私の常態になってしまっているので、見識のある人を悪戯に驚かせたくない…というところが一番の理由だと、自分では思っています。ところが、私がそんなふうになってくるにつれて、反比例するかのように、人からは相談を持ちかけられることが多くなってきたのです。しかも、四方山話の類ではなく、簡単には、人には話せないだろうと思われるような極めて深刻な、その人の一大事に関わることを気軽に?(携帯メールで)相談されるのです。(携帯メールは秘密厳守にはもってこいのツールですから…)私は誰に対しても説教は一切しません。説教できるような偉い人間ではないからということもありますが、説教が苦手で、自分の身の丈に合っていないと強く感じるからでもあります。ずるいような気がするので、中立的な態度も取りません。でもその人の肩をもったり(あ…肩は大いに持っているかも知れません!)、その人をあえて持ち上げたりもしません。ただひたすら、相手の言い分だけはとことん聴く方だと思っています。そして優しい言葉をかけるのではなく、相談者の煮詰まっていた発想がちょっとずれるような言葉だけを並べるようにしています。それから、相手に対しては決して逆らいません。逆らってもいいことは一つもないからです。「そうよね!そのとおりだわ!」と相槌を打ちます。何故ならば、本当に、その人にとってはそのとおりだと私も思うからです。不思議ですね。自分が寡黙になればなるほど、ある種の人は、私を信用して、その人の秘密の困りごとを話してくれるのです。でもそうして、出来上がっていく信頼に満ちた関係(間柄)は財産だと思っています。私は本当に信頼している人に対して以外は、貝のように、口を固く閉ざしていますので、人から聞いた話しは決して他言しません。噂話をしないから面白味はないかもしれませんが、それがいいのかもしれないとも思っています。ところで、人の話しは聴いても、自分の話しは滅多なことでは、人にはしなくなってしまった最近の私が、本音で話しをする相手は気がつけば、あなただけになってしまっています。

【検索エンジン】と3つのキーワード

2005年09月22日 | 至福の花
(ある本の中で…)脳をコンピューターに喩えたら…右脳は大量の情報を蓄積しているコンピューターのハードディスク【潜在意識】。左脳はハードディスク上の情報を意味ある情報として示すための画面(モニター)【顕在意識】という比喩で、私たちの意識と脳の働きの相関関係を説明していました。随分思い切りよく右脳と左脳の役割を単純化して区分けしてしまっていますが、(実際には、脳の機能というものはそんなに簡単に二極分化されているわけのものではないはずですが…)この喩えは、私にとっては、非常に分かりやすいものでした。ハードディスク内の情報を画面に引っ張り出してくるにはどうすればいいでしょう?そうです!【検索エンジン】を活用するのです。【検索エンジン】にキーワードを入れれば、必要な関連情報を検索してくれます。実現したいことを右脳にインプットしておけば、その実現に必要な情報を左脳は【検索エンジン】を使って集め続けてくれます。私はこの【検索エンジン】に『○○さん(あなたの名前)・楽しく・一緒に』という3つのキーワードを入れようと思います。そうすれば、私自身が【検索エンジン】にどんなキーワードを入力したかを忘れてしまっても、私の左脳は24時間休むことなく情報を処理し続けながら右脳の膨大な情報の中から、必要な情報だけを検索し続けてくれるでしょうから…(答えを探し続けてくれるでしょうから…)随分と虫のいい話ですが、これは単なるイメージの遊びですから、笑って聞き流してください。そんなことが出来たらステキだろうなぁ…という想像(夢見)にすぎないのですが…こんなことを考えているととても幸せな気持ちになってきます!画面上にはどんな情報や答えが出てくるのでしょうか?私の役割は、潜在意識に、思いついた(気の利いた)キーワードをインプットするだけなのです!後は、検索エンジンが有能に動き続けてくれることを期待して、出てくる答えをひたすら待ってさえいればいいだけのことです。「果報は寝て待て!」…ものぐさな私にはぴったりの、愉快で奇想天外な心底楽しい空想です。

あなたは私の中心軸

2005年09月16日 | 至福の花
不思議ですよね…あなたとは、現実的にはほとんど会うことも出来ない間柄だし、いろいろなことを、ことが起こるたびにその都度相談することを許されている関係でもないのに、あなたは、私の‘心’の、‘魂’の、‘存在全体’の中心軸にどか~んといてくれる人なんです。あなたがこの世のどこかで生きていてくれることを感じ取れるだけで、私は「良かったなぁ!」っていう気持ちになれるんです。まぁ時々は、「良かったなぁ!」って思う代わりに、そわそわと落ち着かなくなったり、不穏な気分に襲われたりすることもないわけではありませんが、だんだんとそういうマイナスの感情やエネルギーは消去出来るようになってきてもいるのです。その人がいてくれるだけで、自分の人生の質が変化するような感じを持てるなんてことは滅多にあることではないですよネ!その人の存在を感じるだけで、「これでいいんだ!」って思えるなんて…‘でも’‘だから’私は、今のところ、私の中心軸を見失わなくて済んでいるのです。

CAFE BLISS

2005年09月03日 | 至福の花
bliss-1 徒歩で、原宿から渋谷へ向かう時、私の場合は、通常なら線路沿いの道を歩くのが常ですが、何故かその日は、二股に分かれる岐路にある信号がちょうど赤になったばかりだったため、信号待ちをせずに、そのまま道なりにNHK方面に向かって歩いて行きました。それでも目新しい景色はないだろうとたかを括っていたのですが、渋谷公会堂から公園通りを下っていくあたりで、私の目に突然飛び込んできたのは、な・な・何と「BLISS」という名のカフェだったのです。びっくりしてしまいました。あなたのハンドルネームと同じカフェがあったなんて!渋谷駅は乗り継ぎで利用するだけのことが多い街ですし、まれに渋谷で友人に会ったり、映画を観たりする場合でも、公園通りをNHK方面まで歩くということは、この頃では、まず滅多にないことでした。いつもと違う道を歩く…いつもと違うコースを選ぶ…そうすると思いがけない景色やお店に出会うものなのですね。あまりの嬉しさに思わず、デジカメを構えていました。

‘追っかけ’修行

2005年09月01日 | 至福の花
私の周りには、芸能人の‘追っかけ’を日常の大切なイベントの一つに組み込んでいる人が3人ほどいます。一人はジャニーズ、一人はラルクアンシエル、もう一人は長淵剛です。彼女たちは、花も実もある女性たちです。社会の中で専門職としての仕事をバリバリにこなしながら、夢のようなミーハーライフをも楽しんでいるのです。彼女たちの共通項は、私のような野次馬的な外野の人間にも(ファンにはなれないけれど、でもその魅力は垣間見てみたい…何故、彼女たちがそんなにも彼らに惹かれるのか!その理由を知りたい。その実態には触れてみたい…その位のささやかな興味は持ち合わせている…そんな人間のことです。)惜しみなく、彼らについての情報を開示してくれることにあります。彼女たちの行動は徹底していてムラというものがありません。彼らの、テレビやラジオへの出演は事前にすべてチェックしていますし、彼らがテレビ出演した際のすべての映像はビデオやDVDに録画してキレイに編集し直して保存されています。映像は、次から次へと録画しなければならないから、恐らく録画したビデオやDVDを見直す暇はないだろうと想像するのですが、それがそうでもないところがまた一つの大きな特徴でもあります。当然ファンクラブには入っていますので、ライブのチケットは必ず押さえていますし、東京での公演に限らず、地方公演にも、何の苦もなく当たり前のように出かけて行きます。彼女たちの実情を詳しくリサーチしたことはありませんが、人によっては、全ステージに(まるでお勤めに出かけるように…)日参する人もいます。とにかく、その情熱たるや、並みの人間には、ちょっとやそっとのことでは到底真似の出来るような性質のものではありません。‘道’を極める、その過程は苦しくもあり楽しくもある修行のように見えます。私にも‘追っかけ’の素質があるかどうかを確かめてみたくて、少しずつ、彼女たちの傍で、追っかけの真似事をしてみましたが、ものぐさでなまくらな私には、対象についての情報を細大漏らさず、くまなく知り尽くすという作業に従事することなど、どう頑張っても無理な相談であることを知ったに過ぎませんでした。私はこの修行道の脱落者です。けれど、ふと考えてみたら、私はあなたの、‘追っかけ’だと言って言えなくもないことに気づきました。あらかじめ待ち伏せして、‘本人以上に本人の情報を知り尽くす’などという芸当には無頓着ですし、「命」印の鉢巻をしめたり、あなたの顔写真が印刷されたうちわや七色に光が変化する星型のライトで奇声をあげて応援するような真似は出来ないけれども…時空を超えて、心は、あなたに(片時も?)ぴた~とくっついて離れずに、時には影のように、時には忍者のように、あなたに注目し続けて寄り添っている、その滑稽な有様はやっぱり‘追っかけ’の一形態と言えなくもないですよね。私も、この道を極めることにします。この道のエキスパートになれるよう精進します。あなたはといえば、‘追っかけ’を恐がる必要などまったくありませんのでご心配なく!何故なら、‘追っかけ道’は‘無償の愛’と同義語だからです。もしくは‘無償の愛’の別名だからです。彼女たちは純粋な‘無償の愛’を生きているのですから…本当に罪のない愛すべき存在です。私も邪気のない、愛すべき、あなたの‘追っかけ’の第一人者にはなれることでしょう!!

至福の時

2005年08月24日 | 至福の花
今までは、‘思考と感情’が、私の生きづらさの元凶であると、薄々は気づいていながらも、それが長年慣れ親しんできた私そのものでしたから、‘思考と感情’を私の身から、引き離して客観化できる可能性についてなど、思いを巡らせたことすらありませんでした。ところが、本当に、つい最近、長いこと、私自身を呪縛して、身動きできないほどに、私を苦しめてきた‘思考と感情’というものの正体に、突然、直面する体験を持つこととなりました。そんな時、あなたから予期せぬメールが届いたのです。前回、お会いした時から日にちを数えれば、もうすでに2ヶ月以上の時間が経過していました。2ヶ月以上もの空白を成すすべもなく、ただ安穏と、ひたすら何かの重圧に耐えてきた自分の心模様を思うと気が遠くなるようでもありましたが、それでも、私の気持ちは、自分でも驚くほどに前だけを向いていたのです。今までなら、こうはいかなかったと思います。今までの私だったら、心の中で繰り返す言葉は、「何故?何故?何故?」だったはずです。どんな事象にもまずは理由を求めずにはいられない悪癖が顔を持ち上げていたはずですし、ついでに、他者の心の(分かるはずもない)中身までをも詮索し始めていたはずです。ところが、今回はまったく違っていました。私は、私をいたぶり、貶めようとする‘思考と感情’を完全に無視することが出来ていたのです。そればかりか、私の存在を思い出してくれた人への感謝の気持ちで胸が一杯になってもいたのです。会いたい人に会うことに、もはや何の理由も必要ありませんでした。これまでなら、会えることの喜びよりも、会ってしまえば、すぐ次に襲ってくる別れの悲しみや虚しさや次に会えるのはいつだろう…というようなもろもろの雑念に心が奪われてしまって、「今、この時の幸せ」というものに向かい合うことすら覚束ない私だったはずです。無限地獄を彷徨うような苦渋を味わいながら、‘今’ ではない、幻想の中の時間や気持ちへの執着にがんじがらめになっていたはずです。ところが、今回ばかりは、いつもの私がどこにも見当たりませんでした。一体、何が起こったというのでしょう?突然にも、私の何かが、長年の金縛りから解き放たれたとでもいうのでしょうか?この心境の変化がただただ不可解で、摩訶不思議な心持ちでした。過去や未来への拘りにしがみつこうという気持ちの一切がこそげ落ちてしまっていたのです。(今までは、実体のない‘過去’や‘未来’に何故か縛られていたのです。)‘今’を生き切るほどの、人生の達人には、まだまだ程遠い私ですが、どんなに頑張っても、明日にならなければ解決できないこともある。逆に、明日になれば、何の努力もなしに解決出来てしまうこともある、というようなことに、最近では、気づくようにもなっていました。どんなにやりたくなくても、気が進まなくても、今しかやれない、今だからこそやれる、言い方を替えれば、今だから、やらせてもらえることもある、というようなことを考えるようにもなっていました。だからなのでしょうか?久し振りに、あなたと共に過ごした、たったの1時間半の時が、振り返ってみると、私にとっては‘永遠’にも匹敵するほどの‘至福の時’だったことを実感出来たのです。あの時間の中にいた私は、本当に幸せだったし、純粋に、‘嬉しさの塊’だけの存在でした。私を取り巻く現実は何も変わっていないというのに、私という現実の何かがほんの少しだけ仕組みを替えた…というようなことなのでしょうか?でも、チョッと心配なのは、私はどこかで無理をしているのではないだろうか?ということです。こんな殊勝な気持ちが長続きするものだろうか?ということです。けれども、あなたと過ごした時間の中の、一点の曇りもない楽しさの体験は、例えてみれば、宝石箱を開けた瞬間に、周囲に飛び散る、眩い煌きにも似た、私にとっての‘かけがえのない宝物’だったということも、紛れもない真実だったのです。だから、今までとは違う時間を生きられた自分も、確かに存在していたという現実を信じてみようと思います。厳しくて、容赦のないあなたに背を向けずに(思考や感情は「ついてなんかいかれな~い!!」と悲鳴を上げながらも【ついて来い!なんて、一言も言われたことはないのにネ!】、感覚や直感はあなたから片時も、離れることが出来なかったのです。)‘縁を切りたくない’という一念でここまで歩いてきたからこそ、こんなにも自由な眺望が突然、目の前に開けてきたのかもしれないと思ってもいるのです。

墓石

2005年07月31日 | 至福の花
イメージ・シンボルの第2弾は「墓石」です。「墓石」ですから、明るく希望に満ちたイメージなどあるはずもありません。①貴賎や貧富の差をなくすところ。②世俗の栄光の終わりを意味する。③すべての生命が消えうせた領域を表す。④愛の終わりを表す。→こんなところですかね。肯定的な意味合いはシンボルとしてはないようですが、多くの魂の‘仮の宿’として、あるいは魂の安息所として、私は犯すべからざる荘厳な聖なる領域だとも思うのですが…。もっともっと宇宙的なイメージも存在すると想像していたので、ちょっと残念です。

不死鳥

2005年07月31日 | 至福の花
私の手元に「イメージ・シンボル事典」という事典があります。ある‘語彙’がどんなイメージやシンボルの象徴として言い伝えられているのかを説明している事典です。「不死鳥」が体現しているイメージやシンボルとは、いかなるものなのかを調べてみました。ところが、あまりにも数々の意味や語源の説明が網羅されていて、結局は「不死鳥」を一言でシンボリックに語ってくれているわけではないと、私には思えてしまって…ちょっと気落ちしています。そこで、自分に都合のいい部分だけを取り上げてみることにしました。『①普通は不死鳥は雄のみであるが、両性具有だという説もある。②頭冠をつけ首筋は金色、尾羽には白と薔薇色が混ざり、目は光り輝く。』【象徴】①太陽崇拝を表す。②復活・不滅を表す。③永遠の青春を現す。④貞節・節制を表す。⑤驚異的な存在、またとない逸材を表す。⑥自己充足あるいは自己犠牲を表す。⑦キリスト教では、キリストの受難と復活を表す。【心理学】瞬間から瞬間へと死と再生を繰り返す人間の「意識」および「夢」と「変化」を表す。→まあざっとこんな風に記載されています。私としては、心理学で言われている「不死鳥」のイメージを採用しようと思います。高度な「意識」状態にありながらかつ、いつも、その場の状況や立ち位置に捉われずに、より高次の変容に向けて、停滞することのない飛翔を続けている「ある生命体」の象徴と、まずは定義してみたいと思います。ただ、「不死鳥」一人で自己充足されても困るのです。人と人との共生を考えている私にとって、自己完結のテーマは今は不要なものなので…。さぁ!あなたはココからどんなイメージを膨らませることが出来ますか?

誰かを深く…

2005年07月17日 | 至福の花
『誰かを深く愛するというのは、愛を与えることではなく、「愛したい」と思う気持ちを、その相手から与えられるということなのだ。』…誰の言葉かは失念しましたが、本当にその通りだと思います。「愛する」という言葉は私にはしっくりきませんが、「好きだ」という気持ちを与えられている…という表現に言い換えてみると、この言葉が私の気持ちのすべてを言い尽くしてくれていることに気づきます。この表現には、嘘が一切含まれていませんので、心から感動してしまいます。