


久しぶりに会った、若い友人から、私についてのイメージを聞かされて、人の感じ方というものが、いかに千差万別であるかということを改めて思い知らされ、つくづく頭を抱えてしまいました。いい意味で…と枕詞を付けてくれてはいましたが、私のことを、とても頑固で、人が何と言おうと、自分の信念(?)を曲げないというか…信念を貫き通す人間だと、彼女は理解しているのでした。また、私は、「しっかりしろよ!」オーラを出しているから、見限られないようにと思うと、とても恐くもある存在だと言われてしまい、天地がひっくり返るかと思うほど、びっくり仰天して腰を抜かしそうになってしまいました。私は、昔から、「とても分かりづらい人間だ。」とは、よく言われてきました。けれど、この頃では、変わり者であると捉えられることに変わりはないものの、非常に単純で分かりやすい…ともしばしば言われるようにもなっています。私という人間を一つの球面のようなものと想定すると、どの角度から眺めるかで、全く異なる印象を人は感じ取るのです。そのどれもがホントなのでしょうが、私が、自分自身に感じている、【私】という存在への実感とは、何か微妙な齟齬が、人々と自分との間に横たわっているような違和感を覚えます。私自身には、実態なんて、実は、ないのかもしれません。【色相是空】がここにも登場してきます。その時々に、私は実態を持たずに、万華鏡のように、さまざまに色やカタチを変えて、そこに存在しているだけなのかもしれません。万華鏡は、くるっと回せば、一瞬にして、その姿カタチを変えてしまいます。だから、一瞬の色やカタチにこだわること自体があまり意味のないことなのかもしれないと思うと同時に、一瞬一瞬の色やカタチこそが非常に意味のあることなのかもしれないとも思えます。一瞬一瞬は捉えることが出来ないほど、またたく間に通り過ぎて行ってしまいますが、結局は、その一瞬一瞬の集積が、ある個人の雰囲気や人間性を作り上げていくものだと推測されるからです。★本日の結論:私が感じる、私自身の究極の弱さは、今や、あなたに対してだけしか語られることがなくなってしまっているようです。★ところで、【だまし絵】というのは、誰がいつ考え出したものなのでしょう?一つの絵をどこから見るか…どのように見るか…で、その絵の世界観が全く違うものになってしまうのですから面白いといえば面白いのですが、(だまし絵には綺麗なものもありますが)総じて、ちょっと奇怪でグロテスクだったり、見ているだけで、感覚が捩れていきそうになったり、illusionの世界に引きずり込まれそうで、眩暈を覚えるような怖い感じのものが多いです。見てはいけないものを見てしまう恐さ、見なくても済んだものを見てしまった怖さ…とでも表現出来そうです。ぞぞぞ~っと鳥肌がたってきます。しばし、あなたも、【だまし絵】の世界に浸ってみてください。どんな感じを抱かれるでしょうか?ちなみに、私は、もうこれ以上、【だまし絵】に忍び込んでいる隠喩を読み取る作業に深入りしたいとは思いません。
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