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小さな応援歌

集団ストーカーの被害者の方々に小さな応援の言葉と、ささやかな祈りをお届けします。Amebaブログへ引っ越し中です。

洗脳を解くのは難しい

2015年07月01日 | 加害団体について
洗脳された人を、その洗脳から解くのはきわめて難しい。周りが思うほど簡単ではない。

まず自分が洗脳されているとは思っていない。あなたこそ、世の中に洗脳されているのだ、と彼らは私たちに対して思う。もしかしたらそうかも知れない、と私は思う。洗脳を広い意味でとらえると、一般人も世の中の風潮に洗脳されてゆく。

それはともかく、彼らは自分が真理を悟った、と思っている。ある意味でそうかも知れない。一般人が知らないような宗教的真理を悟り、目が開け、新しい見方で世の中を見ている。だから、この教えから私を引き離し、世間に戻そうとする親や専門家が来ても、「帰るものか」と必死で抵抗する。

彼らは確かに何らかのすばらしいことを知ったのだと思う。親や学校や世間が与えてくれなかったものを、この教団は与えてくれた。彼らは喜びに満たされ、生きる希望を持つようになった。

カルトは間違いばかりを説いているのではない。99%の真実と1%の虚偽を教える。99%に魅了された人々が1%をも信じ込む。こんなすばらしいことを説く教祖が間違っているはずがない、と思い込む。

ひとつの洗脳の実例はヒトラーだ。ドイツ国民はヒトラーに洗脳されていた、と今でこそ歴史は教えるが、当時は全くそうではなかった。ヒトラーは英雄だった。第一次世界大戦に負けて壊滅的な打撃を受けていたドイツ国民はヒトラーによって勇気付けられ、希望と誇りを与えられ、復興への道筋を示された。

多くの知識人を初め、若者たちがヒトラーに心酔し、熱狂した。彼の政策は次々に成功した。この当時、誰も自分たちが洗脳されているなどと思ってはいなかったが、良心の鋭い人々は、どうもうさん臭い、と感じていた。

ヒトラーはだいたいは法的に進めていたが、親衛隊を組織して、暴力的に敵を追い詰めていった。ユダヤ人への憎悪をあおり、迫害を始めた。恐るべきアウシュビッツなどの強制収容所をこしらえた。もちろんヒトラーに反対する人々はいたが、みんな牢獄行きだ。しかし大半のドイツ人たちはヒトラーを支持した。支持することによって、ユダヤ人迫害やアウシュビッツを彼らが支えた。

知識人でも洗脳される。自分たちは賢い、と思わないほうが良い。また洗脳する者は実は大変魅力的な人物だ。言っていることはすばらしいし人間的にも魅力がある。「彼しかいない」と多くの人が思う。彼自身も大衆を洗脳しているとは思っていないだろう。すばらしいドイツを作ろうとしていたに違いない。悪魔はそんなに優れた人でも簡単に利用してしまう。大衆的洗脳、高度な洗脳だった。誰も気付かない。

しかし身の毛もよだつことが進行していた。何百万人ものユダヤ人が虐殺され、その映像は世界を驚かせた。悪魔の所業以外の何ものでもない、そう納得させる。

崩壊してやっと分かった。洗脳されていたことが。

日本も同じだ。天皇のためといって、731部隊のような残虐な人体実験が、あたかも善であるかのように考えられていた。大東亜共栄圏、つまり、アジア全体で繁栄しよう、という合言葉に踊らされて、日本人は聖戦を闘っているのだと思い込んでいた。大半の日本人たちは良い意向でやっていただろう。しかし現実は違った。侵略戦争だった。そしてアジア人の人権などなかった。それを見抜けなかった。

多くの人たちは良い人だったと思う。気高い理想を持っていたので、自分たちはアジア人のために大変善いことをしていると信じていた。

仏国土を作る、という合言葉のもとでさまざまな違法行為、犯罪行為、残虐行為が正当化されている。それに加担している人々は善意でやっていると思っている。自分たちは今すばらしいことを実現しようとしていると信じている。そして身の毛もよだつようなおぞましいことが進行している。

気がつくのは大変難しい。崩壊しなければわらかないものだ。そして熱狂が冷めて、自分たちがやってきたことはどんなことだったのか、どんな結果をもたらしているのかを客観的に眺めたときに、やっと気付く。

この記事を読んでもダメだろう。「自分たちは違う、それとは違う、とにかく法華経のすばらしさ、先生のすばらしさを分かって欲しい、そうすればあなたの考え方も変わる」と思うだけだ。この種の記事を読むことも禁止されるだろう。

ナチスや日本帝国のように、国民全体が巻き込まれる高度な洗脳というものがある。みんな、すばらしいこと、理想高きこと、と思ってやっている。99%の真理と1%の虚偽。

カルトは実はいくらかの善を持っている。ある意味で一般人が持っていないような善を。だからこそ、そこから引き離すことは難しく、説得することは難しい。

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自殺

2015年05月06日 | 加害団体について
自殺は良いことではないと思うが、最近は自殺した人に対する人々の態度が変わってきている。

本人が悪いわけではない場合が多い。むしろ本人の苦しみに対して何もしなかった、あるいはできなかった周りの人々も自分の胸に手を当てて考えなければならない。本人の責任というよりも、むしろ周りの対応の仕方こそ問題であった、というケースも増えている。

集団ストーカー、電磁波犯罪の被害者になって自殺してしまった人が多いと思う。誰もその人々を非難することはできない。その人々の冥福のために祈る。つらかったことと思う。彼らは神の憐れみを受けるだろう。

さて、「人を自殺に追い込む人々が自殺するようになる」と私は考えている。

ある日、外出から帰り、一連の嫌がらせをやり過ごすことができたことにホッとしていた。神に感謝し、いろいろ思い出していると、今まで経験したことがないような妙な胸騒ぎがしてきた。重たい気持ちと胸騒ぎ、それは、「加害団体の中で誰かが死んだ」というような予感だった。しかも脳裏に浮かんだのは「若い女性、あるいは若くなくても心の純粋な女性」であった。

それまでは、自殺するとすれば加害の中心部を担っている者たち、あるいは加害団体の幹部たちと思っていた。今回のように「若い女性」が自殺するとは考えたことがなかった。

心が純粋でも、信心上の信念を持ってあえて加害に参加していた人々もいることと思う。人を追い詰めても、結果的にこれが多くの人々の幸福につながるのだと教えられているのだろう。

しかし正気に返って自分のやっていることに気がつくと恐ろしくなってくる。罪のない人を死に追いやることに加担した、人を破滅させることに加担した、もしかしたら知っている人を破滅させたかもしれない。えげつないこと、嫌らしい事をいろいろやってきた。とんでもないことをしてしまった、許されないことをしてしまった。もう生きて生けない・・・。

年を重ねた人や、自分をごまかして生きることができる人なら開き直ったり、仕方がなかったのだと自分を納得させながら生きながらえることができるだろう。しかし若く純粋な人、とりわけ女性にはそれができない。死を選んでしまう。

心から悔い改めるなら神の前に許しはある。再び生き直すことができる。これからは今までのことを償うかのように、人にひたすら善を行いつつ生きていくこともできる。だから死ななくてもよい。

しかし心の純粋な人にはそれができない人もいるだろう。若い女性の死はいけにえのようだ。それは悲しいことだと思う。その死は加害組織への無言の抵抗となる。

私は胸騒ぎがしたあとすぐに、「彼女が許されますように、彼女が救われますように」と祈った。

私の中には、「もしかしてあの女性だろうか」というのがある。その日、特別な嫌がらせをした人だ。やらされたのだろう。見た感じ、決して悪い人ではなかった。むしろ善良そうな人だった。

しかし彼女なのかどうかは分からない。

今回のことはもちろん私の単なる胸騒ぎだから、そんなことがあったかどうかさえわからない。

しかし確かに今後、幹部たちが自殺する前に、若く心の純粋な女性たちが、自ら命を絶つ可能性はあると考えさせられた。

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本当にイライラする

2015年02月18日 | 加害団体について
駅のプラットフォームに立っていた。後ろを2人のおばさんが通り過ぎるとき、そのひとりが「いつ来るのか、いつ来ないのか、本当にイライラする」と言った。「私に言ったな」と思った。

私はこの町に来るときには決まった時間の電車で来て決まった時間の電車で帰るので、「いつ来るのか」ははっきりしている。だから定時に待ち受け、定時の見送ればいいと思う。

しかし目的地についた後は、けっこう自由に散歩する。だから嫌がらせのために待ち受けたりつきまとったりする加害者としては大変だろう。散歩のコースもいくつかあるし、新たに発見することもある。また散歩ではなく自転車でサイクリングすることもあるので、そうなると更に活動範囲が広まり、コースも多岐多様となる。散歩に出る時間もけっこうばらばらだ。雨や雪の日でも外出する。付き合うのは大変だろう。私の出方を待っている人々にとっては5分でも10分でもイライラするのではないかと思う。そして来るかと思えば来ない。イライラする。

この町の人口から計算すると、加害に参加する人数は限られている。だから加害する人たちは大変だろう。

また日程変更や電車の時間変更などもあり、ときには天候により電車が遅延する。

「いつ来るのか、いつ来ないのか、本当にイライラする」という気持ちはよく分かる。加害に参加しなければよいと思うのだが、参加せざるを得ないようになっているのだろうか。あるいはお金でももらっているのか。

本来ならば嫌がらせストーカーを指示している者に対して「イライラする、いい加減にしろ」と言えばよいのではないだろうか。言えないのだろうか。言ってはまずいのだろうか。言えないから私に言うのだろう。私に言うのは間違っている。なぜなら私のせいではないから。また私に言わないほうが良い。なぜなら私は「イライラする」と言われて、とても嬉しいからだ。

「やはりな」と思う。大変だろうと思ってはいたが、実際に加害者の口から聞くとまた格別だ。イライラすることはよいことだ。「人をイライラさせようとする人がイライラするようになる」と私はこの集団ストーカーを見ながら思っている。ターゲットをイライラさせようとして工作したり待ち構えたりする加害者たちがイライラするようになる。彼らがイライラするのは大変よいことだ。

知り合いの被害者Oさんにもこんなことがあった。
Oさんの家の近くに花屋があり、この花屋が加害団体と契約を結んでいるらしく、この店の親子からOさんに対していろいろ嫌がらせがあるという。あるとき思いがけずOさんの帰りが遅くなった。夜の11時だったと思うが、帰ると近くの花屋の親子が暗闇の中に三人立っており、イライラした調子で「本当に疲れるのよね」と言ってきた。Oさんはびっくりした。3-4時間待っていたのだろうか。大変なことだ。

イライラするのは前線で嫌がらせをしている人だけではないだろう。裏から指示している人たちはこの人たちに嫌がらせをやらせて、この人たちがイライラしても知らん振り、とばかりはいかないと思う。一番イライラするのは中核で指示している人たちだろう。そのイライラは半端ではないと想像している。

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加害者が加害者に嫌がらせ?

2015年01月28日 | 加害団体について
電車に乗るとその日はとりわけ嫌がらせたちが多かった。

通勤車両のように左右の壁沿いに椅子が向かい合っている車両だ。

左手のほうに嫌がらせが座った。後部にある車窓を眺めながらこちらに顔を向け続けるというのが嫌がらせのようだ。私は無視していたが、あるとき彼のほうに顔を向けた。すると彼は目を背けた。私はあえて3秒ほどじっと彼を見た。そして顔を戻した。勝負はこれでついた。

もともと勝負はついていた。しかしこれで明らかになった。

すると斜め向かいで今まで取り留めのないことを話していた3人の中学生たちがそわそわし始め、ひそひそ話をはじめた。どうやらこの二人のことで話し合っているようだった。こちらをちらちら見ている。加害者と被害者の攻防。「おいっ、うちらのほうが負けたぞ」と言っているらしかった。

それまでは、嫌がらせさんにずっと顔を向けられて、私は正面だけを見ていたから、中学生たちから見ると、私が嫌がらせに屈しているのか、あるいは全く効果がないのか分からなかった。しかし私の3秒の凝視で勝敗を見たのだった。

中学生たちはしきりに電車を降りたそうにしていた。「早く降りよう」という言葉が聞こえた。次の駅に着くと二人がさっと車両から降りて去っていった。もうひとりはじっとしていたから別の駅で降りるのだと思いきや、「置いて行くな」とばかりに彼らを追いかけて電車を降りていった。結局彼らには目的地などなかったのだ。

嫌がらせの初心者だろう。雰囲気がなかった。見習いか、ゲーム感覚か。ひそひそ声で話しているときも話が聞こえるので「しーっ、もっと静かに」という声が彼らの中から聞こえるのだが、他の2人は全く気にする様子がなく私にもいくつかの単語が聞こえるような話し方をしていた。加害団体に忠誠心もないような連中だ。さっさと電車を降りていった。こんな連中だと口が軽いだろう。自分たちが見聞きしたことを吹聴する可能性がある。使う側としては危険だ。とうとうこんな人々を駆り出し始めたのだ。

彼らは加害者の先輩を観察していたことだろう。そして加害とはこうしておこなうのだ、ということを見習っていたのかもしれない。ところが効果がないことが分かると馬鹿馬鹿しくなってきたのかもしれない。加害者たちがやっていることは醜いことだ。ターゲットに不快感を与えることが目的なので公衆の中でも非常識なことをしたり、気になる音を出したり、不自然なことをしたり、高笑いをしたり、マナーに反することをする。手馴れた人だと巧妙にやるが、それがわかって見ていると大変厭らしい人間に見える。そして何よりも、ターゲットの位置情報を共有して追い回したり待ち伏せしたりという違法なことを行っている。中学生たちはこんなことをしている先輩たちを見ていてだんだん嫌悪感や軽蔑を覚えるようになったのではないかと思われる。

もし先輩たちが立派な行いをしていたり、立派な考えを持って模範的な生き方を示しているのならば尊敬もし、見習いもしたいものだが、彼らがやっていることは全く別のこと、異様な世界だ。中学生たちが早く逃げ出したいと思ったとしても不思議ではない。

残された嫌がらせさんは複雑な気持ちだったろう。私より近くにいたので中学生たちの話が聞こえただろう。自分のせいで中学生が逃げることになったのを目の当たりにして、どんな気持ちになったろう。敗北感、虚無感、卑屈な気持ち…。



さてその後、中学生たちが座っていた席に、嫌がらせに手馴れた別の若者が座った。

そのまた離れたところから別の嫌がらせさんが咳払いを盛んにしていた。しかし私から距離があるので、そこからやってもあまり効果ないだろうと思っていた。離れているので大きめな咳払いでなければならない。すると近くにいる人たちのほうがいい迷惑だ。

咳払いが続いた。私はだんだん別の可能性を感じていた。私と咳払いさんの間にあの手馴れた嫌がらせの若者がいるのだが、どうもこの若者が咳払いに反応しているようなのだ。これは微妙なところで判断するしかない。若者はイヤホンをつけているので音楽を聴いているという設定だろうが、音楽を楽しんでいる様子ではない。別のことに気をとられ考え込んでいるようすだ。体の屈折の仕方、こわばり…、咳払いさんの咳払いがこの若者を直撃しているように見える。距離はちょうど良い。

今まで私はこのような姿勢をとる加害者を何人か見てきた。それとそっくりだ。

「このやろう」という言葉が今の彼の姿にちょうど合う。あるいは「何だこれは。俺に対してやっているのか」と考え込んでいるようにも見える。


嫌がらせたちの咳払いは、それが嫌がらせであるということは一般客には分からない。被害者にしか分からない。しかし実は被害者以外にも分かる人々がいる。それは加害者仲間だ。

同じ加害者同士でも恥ずかしいこと、いやらしいことをしているのだから軽蔑しあっているのかもしれない。特に手馴れた人を見ていると嫌がらせはうまいが人間として嫌悪感を感じる。加害者同士でそれが見える。

この咳払いさんはもしかしたらこの車両内でおこなわれている嫌がらせが完全に加害者たちの失敗に終わっているのを見て、反攻に出たのかもしれない。「この際だ、手馴れた嫌がらせをこらしめてやれ」。私に咳ばらいの嫌がらせをしていると見せかけて、この若者を狙っている。私にやるならもっと近くに来なければ意味がない。しかし若者に嫌がらせをするにはちょうど良い場所、そしてちょうどよい咳払いの大きさだ。

あとで「このやろう、俺にやりやがったな」と若者に言われても、「何を言っているんですか、ターゲットに対してやっているに決まっているじゃないですか。そんな風に受け取るあなたのほうが問題ですよ。」と答えればよい。

また「私は一生懸命ターゲットに嫌がらせをしているのに、そんな風に私に言うのならば、幹部に言いつけますよ」と言えばよい。

あるいは「もしかして、一生懸命嫌がらせをしている私に文句をつけて邪魔しようとしているあなたは、敵側の人間なのではないか」と逆に言ってやっても良い。

加害者側に属していながら、加害組織には疑問を持ちつつその大きな権力に恐れをなして何もできないで加害に参加している人々が、ひそかに反旗を掲げ始めているのだろうか。またもともとは被害者であったが、嫌がらせに耐えかねて仕方なく加害側に転じて、加害に参加させられている人々もいることだろう。この人々は今は加害側にいるが、加害者たちを憎んでいる人だ。

加害者組織としては絶対勝利が条件だ。敗色が見えるとそんな中途半端な加害者たちから「何だ、恐れるに足りない」とか、「被害者が勝っている」とか思われると組織に対する軽蔑感が生まれる。するとこっそりと組織に対して反抗をこころみて様子を伺う輩が現れる。加害団体にとっては勝ち続けることができなくなれば危険となる。

「嫌がらせさんが嫌がらせさんに嫌がらせをしている?」断言はできないがその可能性を感じさせた。



さて、私が目的駅で降りるとまた嫌がらせさんたちが待っていた。各駅停車の電車だったのでいつもと違う駅で降りたのだが、ちゃんと待っていた。

改札口を通ろうとすると、出口近くにいた男が位置を移動して、ちょうど私が通るのに邪魔な場所に立った。胸を張り威圧感を出して、誰かを待っているかのように立ちはだかった。私はコースを変えることなくその横をするっと通り抜けた。何事もなかったかのように。そして彼の立ち位置が悪いので体が触れ合うようなすれすれなコースで通った。それですべてが終わった。

ターゲットである私の反応は何も得られなかった。むしろすれすれで何食わぬ顔で通られたので逆に愚弄されたように感じただろう。加害者仲間はそれを見て何と思っただろう。徒労感、敗色…。威圧感を出して堂々と立ちはだかった男は、その後どのようにこの場を取り繕ったのだろうか。

この小さな駅でこれだけ待っていたのだから、いつも降りる駅ではもっと多くの加害者が待ち受けていたことだろう。「大号令がかかっているのかな」と思った。だからあの中学生のような、中途半端な、使うのにリスクを伴うような者までも巻き込んだのだろう。危険なことだ。

「加害者が加害者に失望している」
「加害者が加害者に嫌悪感を抱いている」
「加害者が加害者に嫌がらせをしている」

そんなことを考えさせられた一日だった。

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息切れ?

2014年12月22日 | 加害団体について
大量の車や人が参加して嫌がらせは行われるが、大変ではないだろうかと常々思う。

最近、加害者側が息切れしてきているのかと思われる節がある。

車両に変化が起こっている。特定カラーの車両が減ってきたな、とかなり前に思っていたが、最近それがしばらく続いており、減少が著しい。車両不足かもしれない。あるいは特定の人々ばかりに負担をかけるのが難しくなっていたのかもしれない。

私へのストーカーは大まかに4期に分かれる。
はじめは最も参加車両が多く、特定カラーそして特殊車、問題児たちが参加していて、かなり慣れた人々のように見えた。

2期目は集団ストーカーがぱったり止んだ休止期。

3期目はまた元のように復活し、多くの車両や人が参加したが、初期ほどお金をかけていないように見え、また、素人たちを多く参加させているように見えた。市外ナンバーの車がほとんどなくなり、ニヤニヤし尊大な態度をとっていた問題児たちがいなくなった。

4期目は車両不足が目立つようになり、特定の人々に負担をかけられないから、ほかの多くの人に参加を呼びかけているように見える。嫌がらせはあまりうまくなく、士気も低く、大勢が参加している割には余り効果がない。息切れを思わせる時期で、現在に至る。

だんだんと嫌がらせが低迷してきているように見える。こんな風になるのならば、初めから全力で飛ばさなければ良かったのではないかと思う。先々のことをよく考えたほうが良かった。今のだと、初期との差が見えすぎて、「はじめ飛ばしすぎたので、それを維持することができなくなり、息切れしてきたのではないか」と感じてしまう。これでは被害者に笑われてしまう。

息切れしているように見せて、何かたくらんでいるのだろうか。そうでもなさそうに見える。たくらみには見えない。疲れてきたように見える。

息切れでないように見せるためにがむしゃらに教団員たちを働かせるとするならば大変なことだ。あまり無理すると内部に亀裂が入るので気をつけたほうが良い。

嫌がらせ参加者は大きく分けて2種類いるように見える。
一つ目はお金で雇われているのだろうかと思われる人々。嫌がらせに慣れていて、またそのために多くの時間を割く。ニヤニヤしていて、ふてぶてしく、良心の呵責を感じていない。しかしこういう人たちは使う方にとっても厄介な存在に見える。お金がかかる。また加害を良く知っているので加害団体の暗部を知っている人たち。加害団体もこの人たちにはあまり強く出られないのではないかと思われる。この人たちが出てくると、どうも地域で事故や事件が頻発するらしい(「不審がる警察」2013年9月30日)。警察も気づくだろうから長期間使えないし頻繁には使えない。何か事件をやらかしても学会が背後についているからといい気になっているのではないかと推測する。使う方としても厄介だろうと思われる。

2つ目はボランティアあるいは強制でやっている参加者たち。教団員であろう。良心の呵責を覚えているような顔をしている人々もたまに見受けられる。激しいことはあまりしない。ちょっと何かをするくらいで多くの人は悪事を働いているという意識がないかもしれない。
しかしもし教団員であれば、自分の団体が何か怪しいことをしているということが分かるようになる。すべての会員たちがこの犯罪を知っているわけではないだろう。しかし嫌がらせの人手が足りなくて次第に一般会員の多くに参加を依頼するようになれば、ターゲットの位置情報を共有しながらやるわけだから、「うちの教団はこんなことをしていたのか」ということが多くの会員に知られることになる。口が堅い人ばかりではなかろう。いずれ事が起きたときに証言者が増えるわけだ。

「教団内部への認知が広まる」ということがあるのかもしれない。これは大変良いことだ。金をかけずに大人数を動員するなら、こんなリスクを背負うことになるのではなかろうかと思う。

内部にあまり負担をかけすぎると亀裂が生じたり、いろいろ不都合なことが生じるように思える。

今後はどうするのだろうか。大丈夫だろうか。

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