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小さな応援歌

集団ストーカーの被害者の方々に小さな応援の言葉と、ささやかな祈りをお届けします。Amebaブログへ引っ越し中です。

天国

2021年06月17日 | キリスト教
このブログでは地獄のことをけっこう書いた。加害者たちに突きつけなければならないからだ。地獄は現実であるとキリスト教その他の宗教では考える。

一方天国についてはほとんど書いていない気がする。
天国も聖書の教え、教会教義から、はっきりとその存在を肯定されている。
天国はすばらしいところで、永遠の命とも言われ、神の命にあずかるとも言われ、神の国とも言われる。天国、地獄のことを知らなければ、この世を正しく生きることが難しいのではないか、と思う。

以前書いたが人は自分の命が奪われるだけならば、この犯罪的嫌がらせを耐えることができることができる人もいると思うが、妻や子供の命や健康が脅されると、加害者勢力に屈してしまう。それを人質と表現できる。

参照記事「人質

もし、この世の命が絶対的でそれ以外にはなく、この世の命を失うならばすべてが終わりだと思っていると、命や健康、生活を脅されると屈してしまう。しかし正しい者には天国の報いがあり、悪しき者には地獄の罰がある、と考えると戦う勇気が出る。また悪をおこなうことへの抵抗が大きくなる。

死んでも良い、という選択肢が与えられると変われる。また、妻や子供を先に天国へ送る、という考えを持つと妻子を人質にとられても闘う可能性が出てくる。
戦国時代にはサムライたちは自分が死ぬ覚悟を持つばかりでなく、妻や子供も死ぬ覚悟をもっていた。だから妻や子供の命を脅されても、主君への忠を貫くことができた。

今は違う。すぐに屈しているようだ。そして自分の命を救い、妻や子供の命を救うために、他人の命や他人の妻や子供を死に追いやる動きに加担することになる。妻や子供も加害者になる。そして家族ともども永遠の命を失うことになる。

天国については知るべきではないかと強く思う。それは現実だ。物語や空想ではない。キリスト教でもイスラム教でも仏教でも認めている。神の命にあずかり、神とともに永遠の幸福にあずかるために人間は作られた、とキリスト教は考える。この世は終わる。しかし次の世は永遠だ。

人間が生きている目的を知らない、生かされている理由を考えないこと自体、実際は問題なのだが、問題視はされていない。知らないことが当然視されている。かつては日本人にとっても基本的な知識であった天国や地獄について今はまったく教えられず、むしろ否定されているようだ。

ここから生き方も変わってくる。



死んでもよい、という考え方がある。そして、妻や子供を先に天国へ送る、という考え方がある。それは残酷に聞こえるがよくよく知ればそうでもない。妻や子供は天国へ行ってこう言うだろう。

「天国がこんなにすばらしいところならば、もっと早く来てもよかった。この天国を知れば死はもう怖いものではない。」「正しい判断をしてくれたお父さんに感謝する」

父はひとりになり、命を惜しまず闘うことができる。天国から妻子が応援してくれ、父が来るのを待っていてくれる。

もし敵に屈してこの世の命を大事にするなら、妻子ともども加害者にされる。銃を渡され、これで人を殺せと脅される。殺さないなら、私がお前たちを殺すと脅される。

二者択一だ。善か悪か。中間が赦されない。何も悪いことをしないことが赦されず、銃を渡される。自分たちの命を守るために人を殺し陥れる側になるか、人を殺したくないから自分たちが犠牲になるか、二者択一で、中間が許されないという過酷な現状になっている。そう見える。

究極の選択が迫られ、人は屈する。中間があれば皆それをとるだろう。しかし中間が赦されず、加害者側に周らないならば、恐ろしい運命が待っていることを突きつけられると屈する。

「仕方がない」。これが加害側に周った人たちの常套句だ。自分たちの命や生活を守るために仕方がなかった。それで人の命や生活を奪う側になって活動することになる。

こうなれば生きることにもう魅力はない。死んでもよい、死んだほうが良い。究極の選択を迫られているから、究極の答えを考えると、「死」「苦しみ」を選択することになる。

しかし幸いなことにそれもいずれ終わる。そしてその先に永遠の報いがある。













 

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ファチマの予言

2017年10月17日 | キリスト教
カトリックでは今年ファチマ100周年を迎える。

ファチマとはポルトガルのある村のことで、100年前にルチア、ヤシンタ、フランシスコという幼い牧童に聖母マリアが出現し、何回かの啓示がなされたできごとだ。5月13日から10月13日まで一カ月おきに6回のご出現があった。

カトリックではこのような出来事がいろいろあるが、公式な認可までの行程は大変で、いくつかが公認されているにすぎない。ファチマはそのひとつだ。


この啓示の中で私の関心を引くのは地獄の啓示だ。
キリスト教信者としては地獄の教えは当然のものであるが、最近では地獄はないとか、人はあまり地獄に落ちないとかいった楽観的な考えが主流になってきているように思う。

このようなことを考えるとき、100年前になされたこの啓示は重要性を増すように見える。


以下は7月13日の3回目のご出現のときになされた啓示。

マリアのご出現を受けた子供のうち、後年シスターになったシスター・ルチアの叙述によるもの。


「マリアは私たちに広大な火の海をおお見せになりました。それはまさに、地の下にあるもののようでした。この火の中に、サタンと人間の形をした魂とが閉じ込められていました。この魂は、透き通るように燃え上がる燃えさしのようで、すべては黒く、あるいは光り輝く青銅色をしていて、大きな炎の中に漂っていました。彼らは自分の中から放つ炎によって、巨大な煙の雲とともに空中に吹き上げられ、ぞっとするような、しかも恐怖に震え上がるような苦痛と失望の悲鳴とうめき声を上げながら、重さもバランスも失って、火花のように大火の中を四方八方に飛び散っていました。サタンは、見たこともない奇怪な動物の形をしていたのでそれと分かりましたが、戦慄を覚えさせるような気味の悪い形相をしており、透明で黒い色をしていました。このビジョンは、ほんの一瞬の間続いただけでした。天の母マリアが、最初のご出現の時に私たちを天に連れていくことを前もって約束していてくださっていたことに、私たちはどれほど感謝したことでしょう。もしそうでなければ、私たちは恐怖のあまり死んでしまったと思います。」
(教皇庁教理省『ファティマ 第3の秘密』カトリック中央協議会 17ページ)



聖母は多くの人が地獄に落ちているとおっしゃった。子供たちはその日以来、罪びとが地獄に落ちることのないように、彼らの改心と償いのために祈り続けたという。


このように見てくると、たしかに地獄についての意識は現代人に希薄で、宗教でさえあまり言わなくなってきた。しかし人は死ねばどうなるのかは大きな問題であり、地獄に落ちるような悪い生き方を避けなければならない。


集団ストーカー、その他の悪事に加担している人々も同様で、ばれなければ悪いことをしても大丈夫という意識を考え直さなければならないだろう。神はすべてお見通しだ。人は死ぬ。そして人はみな神の裁きを受ける。地獄のことを知っている人であれば、ばれなくても悪いことをしてはならないという意識を持つ。地獄について知ることは大事だ。


そんな意味で、私は100周年を迎えるファチマの中の、地獄の啓示の重要性を改めて思う。

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偽りの改心

2017年01月21日 | キリスト教
人は死ぬ。この世は過ぎ去る。

嫌がらせをしている者たちは良心の呵責を感じないのだろうか。あるいは正義と信じているのだろうか。中には、悪いこととは知りながら、死ぬ間際に改心すればいい、と高をくくっている者もいるかもしれない。これは偽りの改心だ。

キリスト教では洗礼で罪が許されると説く。しかしそんな教義を利用して、悪いことをして、最後に洗礼を受ければいい、というずる賢いことを考えている人もいるに違いない。そうすればこの世をおさらばして神の前に行ったときには大丈夫、というわけだ。

これは神の恵みの悪用だ。
人が改心して悪いことから離れ、良い生き方をするためにこそ洗礼はある。しかし、悪いことをすべて洗い流してくれるありがたい方便として利用するものは、神の恵みにより頼む者ではなく、悪用するものだ。そんな人は許されないだろうと私は思う。善いことをするより、悪いことをするために洗礼があることになってしまう。神は自動販売機ではない。洗礼を受ければ救われる、というだけではなく、人の心の中の動機なども見るだろう。小賢しい計算はしないほうが良い。

またカトリックにはゆるしの秘跡というものがあり、かつては懺悔(ざんげ)として知られていた。司祭に罪を告白することで許される、とするものだ。
しかしこれに関しても同様に、悪用する者がありえる。悪いことをしても許しの秘跡を受ければ許されることをいいことに、悪いことを続ける。こうなると、ゆるしの秘跡は人が立ち直って新たに生きるというものではなく、安心して悪いことができるようになるための道具になってしまう。ゆるしの秘跡を知らない人よりも、安心してもっと悪いことができるのであれば、これは神の意思に反している。
こんな人は秘跡を受けても罪は許されないと私は思う。そもそもゆるしの条件として「まことの痛悔」というものがある。秘跡を悪用している人にはまことの痛悔はないのだから許されない。

こんな話を教会でしていると、上空にヘリコプター数機が飛来して、爆音を鳴らしながら威嚇した。

キリスト教徒の中にも嫌がらせに参加している人はいるようである。偽信者、成りすまし信者、信仰を失った信者、あるいは本当の信者であっても加害団体に脅しを受けたりだまされたりして加担させられている人などがいるように思える。

しかし神の恵みを悪用するなら、さらに重い罪になることを知らなければならない。

まことのキリスト教信者であろうとするなら、命や生活を脅されて加害に加担するのではなく、加害を拒み、死や苦しみを覚悟すべきだ。殉教だ。迫害や拷問を覚悟すべきだ。被害者たちは迫害を受け、広い意味での拷問を受けている。
覚悟する者に、神の助けはあるだろう。

さんざん悪いことをして最後に改心すればよいと考えている者は、改心ではなく計算であり、神の恵みを悪用するものだ。

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地獄は存在する

2016年12月27日 | キリスト教
他の宗教もそうだと思うが、キリスト教では地獄が存在することははっきりとした教義となっている。何よりもキリストが何度もそれに触れている。

死んだあと人はどうなるのか、それを知ることによって、この世での生き方を考える上で大切となる。

とりわけ、ばれなければ違法なことでも犯罪的なことでもやってよい、と思っている者たちは、死後の裁きを考えることで、思い直すことがあるだろう。

神はすべてお見通しだ。人や社会にばれなくても、神は細かい所まで、また人の心まで全部お見通しだ。

人は死ぬ。この世は過ぎ去る。人はみな神の裁きを受ける。善を行ったものはその報いを受け、悪を行ったものはその報いを受ける。天国と地獄だ。最近はそんなことを教える親も教師も少なくなったから、そんなものはないと多くの人が思っているかもしれないが、死後どうなるかは誰も知らない。

そもそもなぜ人はこの世に存在するのだろうか。そのような人類共通の根源的な問いに直面して、人は、人を超える存在について考え、宗教心が生まれる。

私はキリスト教徒だから、その教えにそったことを一つの考え方を書きたい。

地獄は存在する。それは永遠だと聖書は教える。永遠の苦しみ、責苦。加害者たちが人に対してやってきたように、自身がやられる。

生と死の境は紙一重。
先日、建設現場の足場作業員が、電線に触れて感電死したニュースがあった。若者だ。足場作業員による嫌がらせはよく見られる。
またロープウェイ作業員が挟まれて死んだ。これも20代の若者だ。
若死にもある。死はまだ先の話だと侮ってはならない。いつ来るか分からない。

嫌がらせをしていると、自分の方が死んだ、ということにならないよう注意しなければ、そのまま地獄に直行ということになるかもしれない。天災も天罰もいつ来るか分からない。

いつ死んでも神の裁きに耐えうるような生き方をした方がよい。

もし急死して、そのまま裁きを受け、地獄に行くとしたら大変だ。

このように考えるとき、ばれなければ人に嫌がらせをし、金をもらい、違法なことや犯罪に加担するというような生き方はできないだろう。

死んでからのことはわからない。しかし死んでから分かったでは遅い、ということにならないようにしなければならない。

これらの嫌がらせは我らの正義なのだ、最高の真理のために仏敵退治をしているのだ、と言ったって、本当に相手は仏敵なのか、こんなやり方はおかしくないのか、これでお金をもらうということは変でないのか、など考えなければならないだろう。

このようなことを最終的に命じておられるお方(先生と呼ばれる)は今どこにいるのか。どうなってしまっているのか。本当に正しいのか。なぜ数年間も姿を見せず、お得意の顔相を会員たちに見せて安心させようとしないのか。恐怖で顔が引きつって、お得意の特殊メイクでも効かないというようなことでもあるのだろうか。教団を犯罪団体、詐欺集団に仕立て上げた先生に対し、仏さまは憤っていらっしゃるのではないか。

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慈しみあふれる聖母

2015年06月03日 | キリスト教
聖母マリアはキリストの母であると同時に、人類の霊的な母であると教会は信じている。

聖母は慈しみあふれるお方だ。
被害者の苦しみを見て心を痛めておられると思う。そしてそれを救うために介入なさるだろう。

加害者の悪にも心を痛めておられることだろう。その改心を祈っておられるに違いない。

キリスト信者は「敵を愛せよ」と教えられる。迫害する者のために祈れ、と言われる。そうすることもある。しかしできないこともある。そんなときには、私は聖母に祈りをゆだねる。

「私はそのように祈れないので、あなたが敵のためにお祈りになりたいのであればどうぞ。」

聖母の心は慈しみにあふれる。母としての慈しみ。悪人であっても、母親は愛するものなのだと思う。私の母であり、被害者たちの母であり、また加害者たちの母でもある。母は祈るだろう。

加害者であっても、悪を行う者であっても、聖母にとっては愛するわが子なのだ。子たちが悪によって滅びることがないように祈られるだろう。


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