小さな応援歌

集団ストーカーの被害者の方々に小さな応援の言葉と、ささやかな祈りをお届けします。

失敗でなかったかのように工作する

2014年12月30日 | 加害者と戦う
加害者たちの嫌がらせ工作は時々失敗する。

あるとき、公園で大勢の若者があるポーズを取ってじっとしていたらしい。かなり長い時間やっていたのだろう。「すんごい異様な光景だった」と同じ敷地に住むSさんが語っていた。Sさんは散歩がてらそばを通りがかって目にしたのだった。

彼らはそのままいつ来るかわからない私を待っていたのだろうか。私はよくその公園を散歩するから。

私が通りかかったのはかなり後だったらしい。おそらく異様に思った近所の人か警察に通報したらしかった。私が通りかかったときは警察の尋問の最中だった。私が「やつらだな」と思ってわざと自転車のスピードを落として、尋問されている彼らの横をゆっくりと眺めながら通ると、若者たちの後ろのほうから「おいおい」と私をけん制する声が聞こえた。

また帰りに同じ場所を通ると、そうとう時間がたっていたのに彼らはまだ同じ場所にいた。私が彼らを眺めると、「最低」という声が彼らの中から聞こえた。彼らを眺めている私のことを最低と言っているのではなく、自分たちが手間と労力をかけた嫌がらせがこんな形で終わってしまったことに対して言っているようだった。「最低」の結果だったのだろう。

すると後日、私の周りで、警官が誰かを尋問するというストリートシアターが何度か続いた。そして、公園での一軒は、このストリートシアターの一環で、あれはその最初だった、と言いたげだった。若者たちの異様な光景を見せてびっくりさせようという工作が失敗し、警察に尋問されている光景を私に見られてしまったので、あれは「『警察に尋問される光景』を私に見せつけて不快感を与える」というストリートシアターだったのだ、というわけだ。

なかなか奥の深い、というか手の込んだ、というか往生際の悪いというか…。

しかし私はSさんから若者たちのことを後で知らされたから、彼らが工作に失敗したということを知ることになった。

警察の尋問というストリートシアターの一つは、後日、私の住んでいる敷地内でおこなわれた。前の道でパトカーが偽被疑者を呼び止め、敷地内に移動してそこで尋問の続きをやるというものだった。私たちの敷地に入り込んでやっていた。

私は後にそこを通りかかる予定だった。それを知っての上での工作なのだろう。ところが面白いことに、私がそこに出向くより前に、私を訪ねてきた知人Aさんが敷地内で起こっていることを私に知らせてくれた。もちろんAさんは嫌がらせのことなど知らない。

私がその場所を通りかかったときにはすでにその状況を知っていたから驚くこともなかった。そして私が通りかかるまで一時間近くもその尋問しながら私を待っていたことが分かったので、大変な労力だということも分かった。

またいつもの私なら、嫌がらせさんたちがまたへまをしたのかと思って、「それ見てやれ」とばかりに近づいて観察するのだが、その日は気が進まず、ちらりと見たまま通り過ぎた。後でそこを通りかかったSさんは、尋問場面に近づこうとすると警官から睨みつけられた、と文句を言っていた。もしかしたら私も同じように睨みつけられるところだったのだろう。

敷地内で物々しい尋問をおこなって驚かせ、近づこうとすると警官が睨みつける、という予定だったのだろうが、私はさらりとかわしてしまった。そして被害者は通常たまたま自分が嫌がらせ工作をかわしても、かわしたこと自体に気づかず、いったい私に対するどんな工作が失敗したのかも知らずに終わるものだが、今回はAさんとSさんという偶然の報告者によって私は事情を把握し、加害者がどんなに手の込んだ工作をしくんで失敗したのかを知ることになった。

ときどき神はこのように、加害者側の失敗を教えてくださる。私は加害の大変さを知る。そして私がそれをうまくすり抜けたことを知る。神がこの工作をかわすために上手に導いてくださったことを感謝する。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いい年をした紳士が

2014年12月22日 | 私への嫌がらせ
私はよくJRを使っている。当然いろいろな嫌がらせがある。

私が予約した席も、彼らなら組織力を使って割り出すことができる。

プラットフォームで、嫌がらせさんらしい紳士がいた。被害者にはおなじみだが、彼らの態度、視線、服装など微妙なもので知らせてくる。

この紳士が私の前の席に座り、私が席に着こうとする前に、椅子のリクライニングを急に全開に倒した。私は自分の席に入りづらい。いい年をした紳士が恥ずかしいことをするものだ。

JRに頻繁に乗るようになって私が感心したのは、乗客はみな余りリクライニングを倒さないということだった。少しだけ傾けて後ろの人に遠慮している。そういう人がほとんどだったから私は驚き、そして感心し、自分も気を付けるようにしていた。

それでもリクライニングを全開にしているのを見ることはごく稀にあった。特にアジア系の旅行者で、中学生くらいの若者は無遠慮に全開に後ろに倒してゲームをしていたり、だらくしなく寝ている者がいた。本当にそれくらいだ。本来はリクライニングは全開にしてもよいように設計されているのだから構わないのだが、しかしどうしても全開にしたければ、後ろの人にひとこと欲しいものだ。

そんな一般風景だったから、後ろの人が席に入ろうとしている瞬間に椅子を思い切り倒してくるこの紳士は常識的な日本人の感覚ではないな、と思った。

そこで私は「もう少し前にしてもらえませんか」と言った。周りから見れば、礼儀知らずの男に苦情を申しているようにも見えただろう。いい年をした紳士がこのように言われては恥ずかしい。彼は倒したときと同じような勢いでリクライニングをあわててバンと戻した。

私は荷物を置き、アウターを外して席に着いた。前の紳士が完全にリクライニングを戻したものだから、「どうぞ、いいですよ」と勧めた。しかし背もたれは動かなかった。そこでもっと彼の頭近くで声を強めて、「どうぞ、いいですよ」というと、またまたあわてたように勢いよくリクライニングを倒したが、今度は全開ではなかった。

彼が目的地の駅が近づいて席を立ったとき、私は彼の横顔を見つめた。少々気まずそうな顔をしていた。

いきなりあのような嫌がらせをされたら、どのような対処をしてよいか分からないこともあるだろう。叱りすぎれば私の立場が悪くなる。言わなければストレスがたまる。今回の叱り方はちょうどよかった。言われたほうも反論できないし、周りで見ている者も、このように私が言うのをごく当然のことだと思っただろう。とっさに良い対応ができたものだと後で満足した。

今後もいろいろなことをやってくるだろう。しかし私は天使がその場その場でいろいろ教えてくれたり助けてくれているのだと思っている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

息切れ?

2014年12月22日 | 加害団体について
大量の車や人が参加して嫌がらせは行われるが、大変ではないだろうかと常々思う。

最近、加害者側が息切れしてきているのかと思われる節がある。

車両に変化が起こっている。特定カラーの車両が減ってきたな、とかなり前に思っていたが、最近それがしばらく続いており、減少が著しい。車両不足かもしれない。あるいは特定の人々ばかりに負担をかけるのが難しくなっていたのかもしれない。

私へのストーカーは大まかに4期に分かれる。
はじめは最も参加車両が多く、特定カラーそして特殊車、問題児たちが参加していて、かなり慣れた人々のように見えた。

2期目は集団ストーカーがぱったり止んだ休止期。

3期目はまた元のように復活し、多くの車両や人が参加したが、初期ほどお金をかけていないように見え、また、素人たちを多く参加させているように見えた。市外ナンバーの車がほとんどなくなり、ニヤニヤし尊大な態度をとっていた問題児たちがいなくなった。

4期目は車両不足が目立つようになり、特定の人々に負担をかけられないから、ほかの多くの人に参加を呼びかけているように見える。嫌がらせはあまりうまくなく、士気も低く、大勢が参加している割には余り効果がない。息切れを思わせる時期で、現在に至る。

だんだんと嫌がらせが低迷してきているように見える。こんな風になるのならば、初めから全力で飛ばさなければ良かったのではないかと思う。先々のことをよく考えたほうが良かった。今のだと、初期との差が見えすぎて、「はじめ飛ばしすぎたので、それを維持することができなくなり、息切れしてきたのではないか」と感じてしまう。これでは被害者に笑われてしまう。

息切れしているように見せて、何かたくらんでいるのだろうか。そうでもなさそうに見える。たくらみには見えない。疲れてきたように見える。

息切れでないように見せるためにがむしゃらに教団員たちを働かせるとするならば大変なことだ。あまり無理すると内部に亀裂が入るので気をつけたほうが良い。

嫌がらせ参加者は大きく分けて2種類いるように見える。
一つ目はお金で雇われているのだろうかと思われる人々。嫌がらせに慣れていて、またそのために多くの時間を割く。ニヤニヤしていて、ふてぶてしく、良心の呵責を感じていない。しかしこういう人たちは使う方にとっても厄介な存在に見える。お金がかかる。また加害を良く知っているので加害団体の暗部を知っている人たち。加害団体もこの人たちにはあまり強く出られないのではないかと思われる。この人たちが出てくると、どうも地域で事故や事件が頻発するらしい(「不審がる警察」2013年9月30日)。警察も気づくだろうから長期間使えないし頻繁には使えない。何か事件をやらかしても学会が背後についているからといい気になっているのではないかと推測する。使う方としても厄介だろうと思われる。

2つ目はボランティアあるいは強制でやっている参加者たち。教団員であろう。良心の呵責を覚えているような顔をしている人々もたまに見受けられる。激しいことはあまりしない。ちょっと何かをするくらいで多くの人は悪事を働いているという意識がないかもしれない。
しかしもし教団員であれば、自分の団体が何か怪しいことをしているということが分かるようになる。すべての会員たちがこの犯罪を知っているわけではないだろう。しかし嫌がらせの人手が足りなくて次第に一般会員の多くに参加を依頼するようになれば、ターゲットの位置情報を共有しながらやるわけだから、「うちの教団はこんなことをしていたのか」ということが多くの会員に知られることになる。口が堅い人ばかりではなかろう。いずれ事が起きたときに証言者が増えるわけだ。

「教団内部への認知が広まる」ということがあるのかもしれない。これは大変良いことだ。金をかけずに大人数を動員するなら、こんなリスクを背負うことになるのではなかろうかと思う。

内部にあまり負担をかけすぎると亀裂が生じたり、いろいろ不都合なことが生じるように思える。

今後はどうするのだろうか。大丈夫だろうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三色扇子パタパタ

2014年12月17日 | 加害者と戦う
前からやってみたいことがあった。それは三色旗(とある宗教団体の旗)の扇子(せんす)を加害参加者の前でパタパタすることだ。

最近ようやくそれが実現した。信濃町で探したが見つからなかったので、100円ショップで扇子を買って絵の具で色をつけた。それを取り出しやすい懐のポケットにしのばせ、嫌がらせさんと思しき人が近づくと、扇子で自分をパタパタとあおいで三色が相手に見えるようにする。

多くの反応はとっさに目をそらす。ギクッとするのだろう。相手が近くにいてしつこいときにはパタパタとあおいで同時に相手の顔を覗き込むこともある。「あなたの反応を見ています」とばかりに覗き込む。しかしそれとなくやることがコツ。このあたりのやり方は加害者たちの嫌がらせから学べばよい。

目をそらせるか、顔をそらせるか、体ごとそらす人もいる。

中には、自分たちが誇りとすべき三色に対して、とっさに拒否反応を示してしまったことに信心上の良心の呵責を感じて、逆に扇子に挑もうとするかのような人もいる。

通常はあまりしつこくやらず、サッとしまうようにしている。またしょっちゅうやるよりも、「こいつは」と思う人だけにやっている。一番良いのは嫌がらせを気に留めないことだと思う。さらりと流すのが一番良い。扇子で仕返しすることに躍起にならないほうが良い。

しかしたまにはこういった清涼剤も精神衛生上の役に立つ。

やられっぱなしで反撃しづらいストーカーではあるが、三色扇子は無言のうちに相手に語りかけてくれる。

「はいっ、○○○(教団名)会員認定!」。
「嫌がらせの○○○会さん!」
「反社会的な○○○会さん!」

加害者はそれを見せ付けられる。普段は嫌がらせのために一生懸命で、それが反社会的であることなど忘れているだろうから、このようにギクッとさせて、改めて自分のやっていることを自覚させてあげることは大事だ。

形勢は逆転する。相手は劣勢となる。心理的にそうなる。

しかしもしその相手が加害者でもなく○○○会員でもなかったらどうするのか。

それは大丈夫だ。一般人はこの三色が意味するところを知らない。その人が教団員ではなく一般人であれば、私を見て単に扇子をあおいでいる人にしか見えないので何も気に留めないし、嫌な思いをしない。気に留めるはその教団の人だけだ。

しかも、嫌がらせに参加していない善良な教団員たちはこの三色扇子を見ても不愉快ではない。「あ、あの人も教団員なのかな」と好意的に見るかもしれない。

この三色扇子に苦々しい思いで反応するのは、教団員、しかも嫌がらせをしている学会員だけだ。だから三色扇子パタパタはとても便利だ。相手の悪意の度合いに応じて相手が反応することになるのだから。


ところで、そんなことはないと思うが、万が一、教団員が反撃してきたらどうするか。
「お前、学会を馬鹿にする気か!」。

全然大丈夫だ。

場面①
こちら:「?」「何ですか?」ととぼける。
加害者:「お前、三色旗で馬鹿にしているだろう」
こちら:「どういう意味ですか?」
加害者:「○○○会を馬鹿にしているだろう」
こちら:「この扇子と○○○会が何か関係があるのですか?」
加害者:「…」

場面②
こちら:「この三色は○○○会と関係あるのですか」
加害者:「教団の旗だ」
こちら:「その旗を知っているとは、あなたは○○○会員なのですね」
加害者:「…」

場面③
加害者:「お前は自分で持っていて知らないというのか」
こちら:「どこかの国旗かと思ってました」(ルーマニアの国旗と同じ。)
加害者:「…」

場面④
加害者:「模様がなんだか知らないのに持っているヤツなどいるのか。」
こちら:「ほかの人がくれたんです。知りませんよ、そんなこと。教団旗など興味ありませんよ。」
加害者:「…」

場面⑤
こちら:「そのくれた人も誰かほかの人からもらったらしく、いらないから私にくれたんです」。
加害者:「…」

場面⑥
こちら「ところで教団の旗だったとしても、なぜ私がこれで自分をあおぐとあなたを侮辱したことになるのですか。」
加害者:「…」

場面⑦
こちら:「言いがかりをつけるのなら警察を呼びますよ」。
加害者:「…(汗)」

いくらでも答えようがあり、この扇子に言いがかりをつけてきた本人の立場が悪くなる。自ら教団員だと名乗るようなものだから。だから相手は仕返しのしようがない。

そこでもし
「夏でもないのに、扇子であおいでる」と薄ら笑いしたとしよう。
こちらは答えなくて良い。現代はいろいろな人がいるのだから冬に扇子をあおごうが誰も気に止める人はいない。なのに、この扇子に一言いいたい人がいるとしたら、それは教団員なのだ。それが分かっただけでも「効果あり」だ。彼は気にしたのだ。

まあこのようなことはないとは思うが。ちょっとシミュレーションで遊んでみた。

ちなみに後で調べると三色扇子はネットで手に入ることが分かった。そんなに高くない。蓮を表わす八葉紋が入っているのでやめたほうがいい。純粋な三色旗はルーマニアの国旗と同一。このように教団旗でもありルーマニア国旗でもあるという二義的であるほうが使い勝手が良い。言い逃れができる。

また商品の中には三色テープとか三色リボンとか吸盤つき卓上三色旗とかいろいろある。テープやリボンを国旗の形状に切り取って、嫌がらせをする車などにペタッと貼り付けるのも良いかもしれない。その車は三色旗を貼り付けたまま走り続けることになる。後で気がついて逆上するかもしれない。自分たちが誇るべき三色旗を貼られて逆に腹を立ててしまうとすれば、それは自分たちが悪いことをしているからだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

失う覚悟

2014年12月10日 | 心の持ち方、覚悟
被害者になるとさまざまなものを失ったり、あるいは失うのではないかという恐れを持つ。
しかし失ってもよい、という覚悟は時として、新しい方向に目を向けさせてくれる。

失うまいとあらがっていると焦り、苛立ち、怒り、失望が生じる。

「命を失うことを覚悟する」。
死にたくないという気持ちを捨てる。死んでもいい、と思うようになる。死にたくないと思っていても「死」という文字がどうしても頭に浮かんでくる。死にたくないと思っていると恐れ、腹が立つ。車が危ないタイミングで飛び出してきたり、当たりそうなタイミングで飛び込んできたりするとそのつど恐れ、腹をたてることになる。警察に駆け込み訴える。動いてくれないだろうから警察にも腹を立てる。余計に病気と思われるようになる。

しかし死んでもいい、という気持ちになると少し冷静に対処できるようになる。

命を諦めてもよいのか。

この世の命が絶対的だと思っていたら無理かもしれない。命を失えばすべてはなくなると思っていたら難しいだろう。しかし命を失った後に、別の優れた命があると思えば別だ。

3世紀に殉教したおとめ、聖女セシリアがまだ信仰を持っていない義弟(のちに殉教)に語った言葉。
「もし生命が一つしかないのもなら、これを失うのを恐れるのにも理由がありましょう。しかし、よりすぐれたもう一つの生命があり、私たちは現世の命を失うことによってそれを得るのです」。

この言葉はキリスト教の教えを代弁している。

苦しんだ人々は死後神のもとに迎えられるだろう。そこにはまことの幸いがある。そう思えば死は忌諱するものではなく、新たな命への門となる。


「名誉、評判を失うことを覚悟する」。
風評被害が起こる、病気と思われる、ありとあらゆる悪口がささやかれる。これを恐れていたらきりがない。もちろん病気と判断されないほうがよいが。

聖書にはこんな言葉がある。
「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(マタイ5章)。
この悪魔的な嫌がらせを受けているとこの言葉を思い出す。こんな最悪な状況の中で、「喜びなさい」という。天における報いは大きい。地上を見つめるときには絶望しかないが、天を見つめてゆくとき、そこには大きな希望と慰めがある。

人に何と思われても良い。神がすべてをご存知だ。


「信じてもらうことを諦める」。
信じてもらおうとするとあせり、信じてくれない人に対する怒りや失望に見舞われる。信じてもらおうとして激昂したり、余計に信じてもらえなくなるようなことを言ってしまう。

私も信じてもらうことを諦めた。それで心が穏やかになった。ただ幸いに被害者仲間がいるのだが。肝心な目上たちには信じてもらっていない。信じてもらうことを諦めることによって、この目上たちとも今うまくいっている。一時は目上たちを恨んだ。そして怒りを抱いた。しかし今は信じてもらうことを諦めることによってそれが和らいでいる。信じてもらおうと希望するから、失望を味わうことになるのだと思った。こんな闇の世界は信じることができなくて当然なのだ。彼らのせいではない。そう自分に言い聞かせている。

神が必要な助けを与えてくださるだろう。私は待つことにした。主導権を神に委ねた。それで心が平和なのだと思う。時が来る、いつか時が来ると思っている。


「生活について信頼する」
経済的なことについて脅かされる。リストラされる。仕事をしていても邪魔される。何とか努力はするが、しかし心配が行き過ぎてもつらい。

私を支えている次の言葉がある。
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6章)

マザーテレサもこの言葉によって導かれた。彼女は異国のインドの地で、すべてを捨ててたった一人で活動を始めたとき、所持金は100円ほどしかなかった。しかし上の言葉に導かれ、生活の糧のことは神に信頼していた。

この聖書の言葉は聖人のためだけではなく、すべての人に向けられている。なすべき努力をしたならば、後は心配しすぎず天に委ねていきたい。


失う覚悟を決め、腹を据えるときに見えてくるものがあると思う。また冷静になれる。その冷静さが良い道を開いてくれるのではないかと思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする