goo blog サービス終了のお知らせ 

小さな応援歌

集団ストーカーの被害者の方々に小さな応援の言葉と、ささやかな祈りをお届けします。Amebaブログへ引っ越し中です。

人質

2017年01月31日 | 集団ストーカーについて
善良な人でも正義感のある人でも加害に加担せざるをえない状況があるように見える。
自分ひとりが害を被ったり、自分が死ぬくらいなら構わない、と思う人はいるかもしれない。しかし従わなければ妻や子供にも害を及ぼすとか、不幸に追いやると脅されれば、従わざるを得なくなる。

戦国時代や江戸時代には裏切りを防ぐ目的で人質を取った。だから武士たるものの妻や子供はいつでも死ぬ用意ができていなければならなかった。藩や主君のためには家族の命を犠牲にしなければならない状況があった。

立派に死ぬ、という覚悟は必要だと思う。妻子の命を思って嫌がらせに参加するなら、それによって苦しむ人が増えるのだ。そんなことを避けたければ、自分も妻子も死を覚悟するしかない。そこまでやるべきか。

高い志を持つ者、正義感を持つ者なら現代でもそのくらいの覚悟があっても良いと思う。家族で悪いことをして悪行の報いを受けるよりも、この世では苦しんだり不遇な目に会っても皆で天の国に行ったほうがましだ。

人は死ぬ。この世は過ぎ去る。

武士たちの志を持つ者たちがいなければこの社会は救われないことになる。



聖書にはひとり子を捧げる親の姿がいくつか見られる。

ひとつは旧約聖書のアブラハム。彼は独り子であるイサクをいけにえとして捧げるようにと神に命じられた。そしてイサクを連れて行き、手を縛ってナイフを振りかざそうとしたところ、神はそれを止め、アブラハムの信仰を認め、祝福を与えた。

新約聖書では独り子イエスが十字架上で息絶えるのを見る聖母マリアがいる。わが子の命乞いをしてもよかったのだが、キリストは人々の救いのために命を捧げるために来た、と語っている。そのために、母は独り子の十字架のもとで共に苦しむ道を選んだ。

また聖書によれば、神はこの世を愛してご自分の独り子(イエス・キリスト)を与えた、とある。与えた、という言葉の中に、命をも捧げた、という意味も入っている。

子供が死ぬのを見るよりは自分が死ぬ方がまだましだ、と普通は思う。子供を捧げなければならないつらさは、自分が死ぬ辛さよりもつらいのではないかと思う。

だから妻子の命を脅しながら、嫌がらせの加害に加担するようにとの要求に屈する人が多いのだろう。


嫌がらせに参加し、人を苦しめながら生きることだってつらいだろう。たとえお金をもらったとしても。

こんな世の中は早くおさらばして、妻子と共に早く神のみもとに行ったほうが良い、そんな考え方もある。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戸惑い工作

2015年08月05日 | 集団ストーカーについて
●自分は被害者だったのだろうか、という疑い

最近、私の知人で被害者でもある人が、「自分は本当に被害者だったのだろうか」と疑っていた。自分が被害者であるのか、実は単なる勘違いだったのか迷うことがある。私もそうだが、そんな分かりづらい嫌がらせを受けている人もいる。

私も同じように自分の被害を疑ったことがあった。周りの人に対して自分が被害者であるとあんなに主張していたのに、自分がそれを疑ったことに対して驚いた。2,3度そんなことがあったので、私はなぜ疑ってしまったのか考えた。

そして私はそこで理解したことを、勝手に「戸惑い工作」と名づけている。

嫌がらせを受けていた本人が「今まで私は嫌がらせを受けていたと思っていたけれども、実は妄想だったのではないか」と戸惑うのである。



●嫌がらせのいくつかのレベル

どうしてそのようなことが起こるのか。

嫌がらせの4つのレベルがあると私は考える。これは自分の場合に限られているかもしれないが。

レベル0 全く嫌がらせがない状態。
レベル1 レベル0とレベル2の間の状態。これはあとで説明する。これがくせもの。
レベル2 通常の集団ストーカーの状態。
レベル3 激しい嫌がらせ。これによって巨大な組織によってターゲットにされたことを悟る。初期に行われるようだ。

この4つはあくまでも自分流の区分。また私に対してなされている嫌がらせの分析であって、被害者全般について言えることではないかもしれない。

レベル3は、いわゆる「刷り込み」のときに使われるものだ。レベル3を何度か施されるターゲットは、自分が巨大な組織に狙われていることを悟る。そしてそれ以降、あかたも絵解きをしたあとのように、日常生活の中で行われる嫌がらせが分かってしまう。ターゲットが嫌がらせを悟ったことを確認してから、加害側はレベル2に戻し、これを日常的に続ける。

被害者でもない一般人はこのレベル3を体験していないので、たとえ被害者と同じ光景をたまたま目にしても、それが嫌がらせであることに全く気づかない。ごく日常的なありふれた情景にしか見えない。

被害者の周りの人々が、被害者の訴える被害に全く気づかず、同じものを見聞きしても分かってくれない体験を重ねる被害者たちは、だんだんと分かってもらえない理由を理解する。そして、他人に話すべきではないことを知るようになる。

この嫌がらせは、同じ景色を見ても、被害者は分かり、そうでない人たちは分からない。それは、被害者たちが経験する「一連のプロセス」を経なければ分からないからだ。レベル3を体験し、毎日異常なほどの数の嫌がらせを受けなければわからない。一つや二つの光景を目にしてもわかるものではないし、写真や音声を取ってそれを見せても、わかってもらえないことが多い。心理的な手法を応用しているものだ。



●「戸惑い工作」のからくり

さてところが、このような被害者になっても、「自分は実は妄想していたのではないか。」と疑う時があるのである。

なぜこんなことになるのか。

ここでレベル1が登場する。レベル0、つまり何もない状態と、レベル2、つまり通常の集団ストーカーの状態の中間の状態であるレベル1が被害者に対して施される。

レベル2であれば、Bさんは集団ストーカーを確信する。レベル0になれば、やっぱりこの何もないこの状態が普通だよな、今までの状況は異常だったよな、と確信する。加害者がいきなりレベル2からレベル0に落とし、何の嫌がらせもしなくなると、被害者はその落差を感じる。

ところが、レベル2からレベル1に落とすと、やっているのだかやっていないのだか分からない中間の状態になる。そこで被害者に混乱が生じる。「私は今まで、これを嫌がらせだと思っていたのだろうか」と戸惑い始める。このレベル1がくせもの、と私は思う。

私も何度かこれを体験した。「妄想だったのではないか」と。そしていろいろ思い起こしながら、「いややはり嫌がらせは存在した」と思い直す。そしてそのように迷ってしまった理由を分析した結果、全く嫌がらせのないレベル0と、嫌がらせの通常状態であるレベル2の間に、レベル1のあることを推測した。

集団ストーカーは微妙なものだからこういうことが起こる。



●集団ストーカーが休止して戸惑う

2,3度このように迷ったので、私はその理由を探ったが、その理由をわきまえておくことが後によい結果を生むことになった。その後やってくる集団ストーカーの休止状態の時の良い準備となった。

突如として嫌がらせが止み、それは半年に及んだ。その間、レベル1ないしはそれ以下の微妙なストーカーが行われていたようだ。次第に、今度は集団ストーカーを受けていた時のことを忘れ始め、「自分は本当に被害者だったのだろうか」という疑いが生じた。信じられない映画の中の人物のような体験をしているだけに、それがぱったりやんで時間がたつと、「あれは夢だったのではないだろうか」と思うのに似ている。

そこで私は、今まで受けた嫌がらせの場面を思い起こしてノートをつけ始めた。それは数ページに及んだ。ノートをつけなければ迷うほどになったのだ。私への嫌がらせが止んだ6ヶ月間、私はノートをつけ、それまでの嫌がらせをあえて思い起こそうと努めた。そして自分が被害者であったことを確認し続けた。

迷いながらも、私は確信していた。私は自分に、「戸惑い工作」が施されているんだな、と思っていた。



●「戸惑い工作」の効用

この戸惑い工作は加害者としては便利だ。被害者をつぶすことができなければ「戸惑い工作」を施して、被害者が自分が被害者であったことを疑い、勘違いだったのではないかと迷い、忘れさせることができるので、彼らの反撃をかわし、加害者団体の犯罪を隠すことができる。

また被害者に近い人物に対してこの「戸惑い工作」を施すことによって得られる大きな効果が考えられる。


たとえば被害者Aさんの隣に、珍しく被害者を信じてくれたBさんがいたとする。加害者はまずBさんを脅す。Bさんが怖気づいてAさんから離れればよいが、根気強くAさんを支えるとする。すると加害者はBさんにも嫌がらせを飛び火させ、2次的被害者とする。

なおもAさんを支え続けるとする。すると、加害者はBさんに「戸惑い工作」を施す。「今までのことは実は私の妄想だったのではなか」とBさんに思わせるのだ。もしこれが成功すれば、BさんはAさんの強力な反対者となる。「Aさん、あなたも妄想なんですよ」とBさんは言うだろう。そして、これほど親しかったBさんが、そして被害を共有したと思われたBさんが妄想説の積極的支持者となり、Aさんを苦しめ、Aさん妄想説は更に高まり、周囲に広まってゆく。「そばにいるBさんがそう言っているのだから間違いない。また一時はBさんも信じたが、結局勘違いだったとわかった」ということになると、皆がやはりAさんは妄想しているのだと思うようになる。これだと以前よりさらに誰も信じてくれないことになり、大変なことになる可能性がある。



●集団ストーカーが再開する

さて、私はある被害者と知り合い、その人の身に起こった事件に対してある助言をした。そのせいだろうと思うが、半年間休止していた私に対する集団ストーカーが再開した。そして私は、「ああこれだ」と思った。変な言い方だが、救われたような気がした。「やはり自分は間違っていなかった」と思ったのだ。私は再び集団ストーカー被害者となり、かつての被害が再来し、私の記憶ははっきりとよみがえった。そして現在にいたる。

そして何もない通常状態と、集団ストーカー状態の微妙な違いを識別できるようになった。

はじめ被害者となり始めた頃の私は、集団ストーカー(毎日かなりの人数が関わっている)の異常な状態が続いたので、「かつてはどうだったのだろうか、普通の状態とはどういうものだったのだろうか」という疑問が絶えず持っていた。絶えず集団ストーカーを受けていると、普通の状態がどういうものだったかを思い出せなくなるので、被害的状況とそうでない状況との区別が分からなくなってしまう。

そういう中でレベル1が施されると、「自分は妄想だったのではないだろうか」という疑念が生じてしまうのである。

しかしこの度は、半年間レベル0あるいはレベル1の状況が続いたために、私は普通の状況はやはりこうだ、ということをはっきりと認識した。ストーカーが再開した時に、私は通常の状態と、異常な状態との区別の説明ができるようになった。ちょうど音楽家が、一般人には分からない音階の微妙な変化を認識できるような感じだ。それは微妙な違いだ。

はやり、何もない普通状態では、「ほとんど何もない」ことが分かった。たとえば路肩にハザードをチカチカさせた車がいつも止まっているとか、自分が近付くと車が動き始めるとかしょっちゅうあるが、これは普通状態でもあると言えばあることだ。しかし今回わかったのは、「普通状態では、あると言ってもごくわずか。ほとんどない」ということが分かった。集団ストーカー時はやはり異常なほどにある。

このように、「普通状態が分かる」ということが、休止状態を経て得た一つの認識だった。

この戸惑い工作は、もし加害者が「手法」としてやっているとするならば、大変奥深いものであると言わざるを得ない。「たまたま」私が戸惑うことになったのか、あるいは加害者が「手法」としてやっているのか。私は手法としてやっていると思う。もしかしたら加害者団体はたまたま発見したのかもしれないが、発見した後は手法としてやっているに違いない。だからあえてここに書いても、相手にこちらの手の内を見せているわけではなく、むしろすでに相手が知っている手法を暴露している意味を持つ、と考えている。書いても構わないのだと思っている。



●集団ストーカーの再開は私にとって意味があった

半年間の嫌がらせの休止状態は快いものであった。しかし、再開し、「嫌がらせは確かになされていた」と認識することは私にとってはもっと意義が深い。再び被害者になってしまったが、こちらのほうがよいと思っている。

もし知人の被害者に入らぬ助言をしなければ私への嫌がらせの再開はなかったかもしれない。「おとなしくしていれば、嫌がらせは免除してやろう」との意味合いもあったのかもしれない。私への嫌がらせが休止し、私がホッとし、忘れてゆき、もう関わるまい、と思うことが敵の望みだったかもしれない。

しかし私はこの休止期間にも、知人への助けを続け、加害者と戦った。嫌がらせを忘れることは、私にとって怖いことでもあった。なぜなら被害者たちの苦しみを忘れてしまうことになり、必死で助ける気持ちもなくなってしまうからだ。「本当に加害などあったのだろうか」と思い始めるかもしれない。彼らを助け続けるには、自分が被害者でありつづけたほうがよい。

私は被害者たちの中でも環境的に守られているほうだと思っている。だからこそ、自分は他の被害者を助けなければならないのだと思っている。それが神から与えられたご命令だと信じている。だから自分への嫌がらせが休止することは嬉しいが、忘れることは怖い。

嫌がらせが再開し、これを再び思い出せたことは私にとってはむしろ良いことだった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の奴隷化

2015年04月29日 | 集団ストーカーについて
奴隷制度による人間奴隷化もあるが、精神的な意味での奴隷化もある。

お金の奴隷とか、快楽の奴隷とか、名誉心の奴隷とか、怒りやねたみに動かされてしまう感情の奴隷など、いろいろある。

「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」(ヨハネ8:34)

さて加害者たちもある意味で奴隷かもしれない。やりたくないのに加害をやらざるを得ない、そんな人が多く見受けられるように思う。私の被害仲間たちも同じように言っている。

どうなっているのだろう。

加害団体に所属し、加害が善であると信じてやっている人もいるだろう。

しかし所属してはいても善だとは思っていない人たちもいるだろう。所属はしていないがお金をもらっているので、やらざるを得ない人たちもいるだろう。弱みを握られてやらざるを得ない人たち、あるいはやらないと、被害者たちと同じ目に会わされると恐れている人たち・・・。いろいろな意味で奴隷だ。

○○○(教団名)会とはどんな団体か、と聞かれて、「仕返しをしたい人に仕返しができる団体」と答えた会員がいるとか。加害団体に仕返しを依頼してターゲットを追い詰めたとすれば、依頼した方も、依頼されて実行したほうも犯罪だ。依頼した人は「仕返しを依頼した」という弱みを加害団体によって握られる。犯罪の事実を握られるようなものだ。それによって加害団体の言うことを聞かざるを得なくなる。加害に参加せざるを得なくなる。これは一つの推測だ。

またある人は「盗聴してみたくないか、盗撮してみたくないか、誰もが知らないようなテクノロジーを利用してみたくないか」と持ちかけられるかもしれない。そんな話に乗ってしまえば、違法行為をしたことになり、そのように持ちかけた加害団体に弱みを握られることになる。こんな違法なテクノロジーを遣って嫌いな人をおとしめて愉快な気持ちになりたいという誘惑と戦わなければ、危ない。

「ちょっとしたことをして、小遣い稼ぎをしてみないか。絶対にばれないから」と話を持ち寄られるかもしれない。それに乗ってしまえば犯罪に加担することになる。どんなに小さな行為でも、ターゲットを追い詰める協力をしたならば違法であり、加害団体はそれをいいことに本人の弱みを握ることになる。加害組織はエサを撒きながら食いついてくる者たちの弱みを握る。

企業であれば、「不都合な社員を、証拠を残さないままにリストラに追い込みたくないか」とか「ライバル会社の社長を抹殺に追い込みたくないか」などと持ちかけられたりするかもしれない。そんなうまい話に乗ってしまえば、その会社は加害組織に弱みを握られることになり、加害への依頼を断れなくなってしまう。そして加害組織にいろいろ便宜を図らなければならなくなる。社員たちも参加せざるを得なくなる可能性もある。

こうやって弱みを握られた人々は、指示を受ければ加害をせざるを得ないということなのだろうか。

いやいややっているような人たちを見かけるので、「ならばやらなければいいではないか」と思うのだが、やらざるを得ない理由があるのだろうが、上記したようなことなのかもしれない。

あるいは、「やらなければ無間地獄に落ちる」という風に、教義的に脅されているのだろうか。

いずれにしても、望まない悪をせざるを得ない、指示されたとおりに動かざるを得ない、人を苦しめることだと知っていながら、自分に火の粉が飛んで来ないためにも加害せざるを得ない、自分の良心に反して行わざるを得ない・・・。このように加害組織に操られることになれば「人間の奴隷化」だ。加害団体はアメやムチを使い、その権力、金、数を頼みに人間たちを思い通りに操っている。私の町では加害に参加している人が驚くほど多い。大変なことが社会で進行していると感じる。

また彼らは監視されているのではないかとも思える。いやならさぼればいい。しかしさぼれないようになっているらしい。ちゃんと指示通り嫌がらせをし、被害者に対して余計なこと(たとえば被害者に有利な情報をしゃべるなど)をしないように、監視されているのだろう。人に監視されているのか、あるいはハイテクに監視されているのか知らないが。被害者たちが常時監視されているように、加害者たちも監視されているのかもしれない。そして指示通りにやっていなければ制裁を食らう。

相互監視だろうか。あるいは被害者が受けているような監視であれば、人とハイテクの両方だろう。現代では、スーパーコンピュータは70億人を管理できるだろうと思う。もとCIA職員スノーデンが暴露した情報によると、アメリカ安全保障局は世界中のすべての通信情報を盗聴可能とするシステムを作り上げた。私が誰かに携帯電話をかけたとすれば、それは瞬時に分かってしまう。インターネットでどんなサイトを見たかもすべて把握される。メールもだ。これは人間監視の始めだ。(参考:グレン・グリーンウォルド『暴露―スノーデンが私に託したファイル』(新潮社))

以下も私の想像。

指示したのに、加害登録者が指示通りに動いていない、とコンピューターがはじき出せば、制裁が始まる。例えば、ターゲットの位置に加害者が近づいていない、○○メートル以内に入ってきていない、それをコンピュータのGSP機能が両者の位置関係を自動的に計りながら、「この加害者はしばらく指示通りに動いていない」とはじき出す。そして指示通り動いていないと管理者側が把握していることを何らかのほのめかしで当人に知らせる。すると当人は自分は誰かに監視されているのではないかと怯える。

もちろん、単なる想像だ。これはSFの世界だ。しかし被害者たちはすでにSFの世界を体験している。そしてこのようなシステムは可能であると思うだろう。

あるいは加害者であるはずの人が嫌がらせの言葉を発していない、むしろ被害者に有利になるようなことを言った、とすればその音声をコンピュータがある程度はじき出す可能性もある。

今の世界はyahooやgoogleなどの検索機能で、世界中の情報の中から該当するものを瞬時にリストアップする。民間の技術でさえこのとおりだ。とすれば、世界中の音声をも検索することが可能だろう。

被害者たちが監視されているように、加害者たちも監視されているのではないだろうか。監視されていないのであれば、嫌がらせをサボればよい。

嫌そうに参加している加害者たちを見るとそう思ってしまう。

自分が監視されていることに気づいた加害者は、嫌気がさしたならばこれを暴露すればよい。しかし何らかの弱みを握られているとすれば、暴露しづらい。

このあたりは私の勝手な想像だ。どうして加害者たちの中には嫌そうなのに参加している人たちがいるのだろう。参加せざるを得ないシステムになっているのだろうか。弱みを握られているのだろうか、監視されているのだろうか、というあたりから、こんな推理に走った。

人間がコンピュータによって監視されることが可能だ。ある程度そうなってきている。管理も可能だ。またさまざまなアメと恐怖を利用しながら人間を操作することも可能だ。そして地上70億人すべての人がこの管理下に入ることが可能だ。人間が奴隷化されることが可能だ。ただ、信念のある人間が最後まで残るだろう。中途半端な信念では難しい。中途半端な信念ならば、さまざまな方法が駆使されて突き崩そうとされるだろう。しかし人間は試練によって強くもなれる。希望はまだまだある。いや希望はかなりある。私はそう信じる。神はこのような人間の奴隷化を憎んでおられる。

被害者たちの戦いは、単に自分たちのためだけの戦いではなく、このような望まない加害者たちを救うための戦いでもあるように思える。彼らを奴隷化から救い、真に自由に生きることができるようになるためにも頑張らなくてはならない。

加害団体の呪縛から逃げ出したくても逃げ出すことができない人たちは、「自分はもう罪を犯してしまった、大変なことの共犯者となってしまった、そしてその事実を闇の支配者に握られてしまった、もうこのまま進むしか道がない」という罪悪感と恐怖感に束縛されているのではないか。

罪の許しはある。人が心から悔い改めて改心するならば罪の許しは与えられる。もちろん社会的な制裁は受けなければならず、償いもしなければならない。しかし神の前に許しを受けることは出来、新たに歩み始めることはできる。許しへの希望を持たなければ救いはない。

また自分の罪の事実を闇の支配者に握られたとしても、闇の支配者もまた巨悪の事実をその人に知られたことになる。逆に巨悪を告発することもできる。しかしそれは恐ろしいことだ。はじめにそれをしようとする人たちは命が危ないし、とんでもない目にあう覚悟をしなければならない。後に続く人はまだその恐怖は小さい。

命をかけて告発するサムライはいないか。彼らが追いつめている被害者も、日々命をかけて戦っている。被害者たちのほうが勇者だ。こそこそ隠れて嫌がらせをする者たち、権力の陰に隠れてやる者たち、金や恐怖で動かされている者たち、彼らの中にサムライになる者はいないのか。多くの命が散ってこそ、変革がおこる。

「一粒の麦は死ななければ一粒のまま残る。しかし死ねば多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)

皆が皆サムライになることはできない。自分は弱くてとてもそんなことはできない、と思う人もいるだろう。しかしその人その人の戦いをすればよいと思う。加害団体を脱することのできない人は、加害団体に所属しながら、あるいはその支配下にありながらも自分にできる戦いがあるだろう。

命を失う恐れ、生活を失う恐れ、評判を失う恐れ、苦しみを与えられる恐れ、健康を失う恐れ、友人や知人を失う恐れ、いろいろな恐怖に人間は束縛され、脅される。それをうまく利用しながら加害組織は人を揺さぶり、操作する。

神により頼むしかないように思える。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福を招く被害者たち

2015年04月16日 | 集団ストーカーについて
被害者がいるとその周囲や近所の人も騒音や迷惑に巻き込まれる。

しかし時々福をもたらしているようにも見える。

工事が増える。被害者の近所ではガス、水道、下水、電気が整備され、道路が良くなる。公園がきれいになる。大変良いことだ。

パトカーの出現が増える。巡回が増えるならば、地域の人たちは上安心だ。

近所の店や大型スーパーでは常に嫌がらせ屋さんたちが待機している。スーパーに客が増える。

被害者が人気の少ない店に入れば、続々と嫌がらせの客が入ってくる。客を引き寄せる招き猫のようだ。

嫌がらせの車が増える。ガソリン屋が潤う。

嫌がらせタクシーが増える。収入が厳しいといわれるタクシードライバーにとっては使ってもらえるのでありがたい。

日本では生きづらい人々が嫌がらせを依頼され、参加することで居場所を見つけることができる。

ニートや心に問題を抱える人々が使命感を持ち、自分の存在意義を感じられる場が与えられる。

被害者たちは、多くの人たちが救われるためのスケープゴートのような役割をしているのかもしれない。福を招いている。これを福と言ってよいのかどうか分からないが。

冗談のような話だが、そういうこともあるような気がする。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

共産党はむしろ味方

2015年04月16日 | 集団ストーカーについて
私の嫌がらせには共産党の広報車両も参加することがある。しかし共産党は集団ストーカー被害者にとってはむしろ味方のはずだと思う。

加害者たちは、被害者に親しい人や味方である人・グループがあたかも加害に参加していると被害者に思わせるような工作をする。共産党はむしろ私たちに味方してくれる可能性のほうが強い。

なぜ加害に参加しているように見えるのか。いろいろからくりを考えた方が良い。

私の知人には何人かの共産党員がいる。その中のある人が言っていたのは、○○○(教団名)会の若者たちで最近共産党活動に参加する人が多い、ということだ。公明党にだんだん失望してきた、ということらしい。理想を掲げ、邁進している共産党に希望を見出しているのかもしれない。それならそれでよいことだ。

しかし意地の悪い見方をすると、共産党に紛れ込んでいる○○○(教団名)会員が多い、というふうにも言える。この人々が広報車の動きをうまく利用するのだろう。

集団ストーカーの被害者たちに関わってくれる組織が仮にあるとすれば、わたしは3つの団体の可能性を考える。共産党、プロテスタント教会、カトリック教会。仏教系はよく分からない。

この団体に共通するのは、利害を度外視して理念や信念を追求すること、人権侵害を受けている人のために闘う人が多いということ、死をかけても闘うこと。この3つの中でも共産党の可能性が大きいように思える。

共産党は地道な活動をしている。若く理想に燃える純粋な人も多い。貧しい人や苦しむ人と本気で関わっている。

また共産党は公明党と敵対している。かつて公明党が共産党幹部の盗聴をして問題となった。町会・自治会、商店会、老人会、PTAの三役クラスなどに入り込むという、○○○(教団名)会が推進している「地域友好」運動は怪しいと指摘したのも、共産党広報誌「しんぶん赤旗」だ。

私は始めて集団ストーカーの被害者の相談を受けたとき、共産党市議の事務所に相談に行ったことがある。秘書の方が聞いてくれた。全面的に信じてくれたわけではなかったが。しかしこういった訴えが共産党事務所や関連施設に多く寄せられると面白い気がする。特に、若い共産党員のミーティングなどでこの話題を投げかけると乗ってくる可能性があるような気がしている。

共産党がもしその理念を保持しているならば、集団ストーカーに参加するはずがない。



(後日注:中国やロシア、旧東ドイツのように共産党が権力化しているところでは違うかもしれません)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする