恋愛至上主義

2006-08-13 22:41:54 | ・読書・新聞・メモノート
今日は、頭の中で何人かの人物を色々とおもいめぐらせていた。

堀口捨己は、その人を理解するためのキーワードが多い人だなぁ、と思う。
オランダ、デ・ステイル、茶室研究に建築と庭の関係、明大教授で歌人で。
とりあえず堀口捨己に関する資料はいくつか図書館で検索して予約をかけた。
昭和15年「利休の茶」で北村透谷賞受賞関連の文献があれば読んでみたい。
島崎藤村の目に留まったらしいが、同時代の建築界と文学界の交わりは興味深い。

なぜにお茶の論文で北村透谷賞なのか。少し不思議に思う。
(太宰治の「女生徒」(1940)がその賞の副賞なのはなんとなく理解できる。)
透谷は藤村より四歳年上で共に銀座の泰明小学校卒業生だ。
校内に「・・・幼き日 ここに学ぶ」の石碑がある。
透谷の本名は門太郎、銀座界隈、数寄屋橋から透き谷となった。
(なるほどそういうの私も好きや。)
藤村の作品『春』(1908年)に透谷は描かれている。
ふたりしての最大の業績は、1893年同人誌『文学界』を創刊したこと。

この『文学界』には樋口一葉の『たけくらべ』も(1895~96)連載された。
ペシミズムの中にこそ女性の美はあるのだと、
はかなく成就されない世界を描くことを一葉に気づかせたのが透谷だった。
樋なっちゃんこと一葉は、指導を受けていた半井桃水に恋していた。
彼に奥様らしき陰を感じたとき、すごく嫉妬したらしい。
24歳の短い生涯で、最期の奇跡の何ヶ月かで作品を次々と書きあげた。

明治の時代、北村透谷は自由民権運動に挫折して、文学に転向。
1888年二十歳のとき、石坂ミナと大恋愛の末にキリスト教式で結婚。
ミナは透谷より三歳年上。
透谷は「恋愛」によって自己再生を体験し、
後に「恋愛」という語を初めて用いた評論活動を展開する。
そして近代的な批評を確立した人物として知られる。
1887年(明治20)横文字「ラブ」表記は透谷によって初めて登場する。


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