しあわせうさぎ♪ 2009-02-21 00:32:38 | ・とにかくラブリ~☆ 今日やってきた おすましもさこ 花びら六つ 大事にしてます いつもと→←ちがうじゃん « 桂華 | トップ | 森へおいでよ »
4 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 うさぎのもさこ (美) 2009-05-06 14:45:46 お目めキラリーン★もさこはね、毛並みがもさもさしてるから・・その名前がついたんだって。なおきくんが教えてくれた。なおきくん、元気かな。 返信する もさこカンゲキ ! 発見 ! (もさこ) 2009-06-23 00:43:47 もさこがね、座ってるこのお花模様は 斉藤与里さんの描いた゛★花模様(大正五年)なの。ママがね、もさこが来たのがちょうどツバキの季節だったから、黒いツバキが粋でステキって、選んでくれたの。それでね、斉藤与里は島村抱月が、大正二年、松井須磨子とともに「芸術座」を興して、劇場を建設しようと計画したときの、舞台装置の背景担当だったのよ。『萬朝報』1913年7月2日が報じてる。与里さんが選ばれたのはなんでだろうって、ママは思ってる、抱月さんとの接点を調べてるところだって。 それでね、この劇場建設の設計には早大建築科主任の佐藤功一さんと同理工科講師今和次郎さん。ここからが大切なのよ、以下、米山勇先生著の「ロマンティストたちの家」から引きます。「芸術座の興行において舞台装置の担当者であった斉藤与里、小林徳三郎、萬鉄五郎ら画家たちの(不十分な)時代考証を、今和次郎が手伝ったことがひとつの契機となり、今はこの後、次々に舞台装置の仕事を手掛けるようになる。そしてその中で培われていく時代考証の認識と人間の動作そのものへの冷厳な注視は、やがて都市の近代における散策の多面的な分析を演技 - 舞台装置の批評という視線によって体系化した「考現学」へ発展していくのである。今和次郎は佐藤武夫より十一歳先輩であり、今もまた佐藤功一を師とした。もし佐藤武夫が今のかわりに芸術座の助手として登用されていたら、また違った人生を歩んでいたかもしれない。あるいは佐藤功一にすれば、愛弟子の武夫を、兄弟子にあたる今和次郎と同じ道に進ませたくなかったのだろうか。」そうなのよ、武夫さんも演劇や舞台に興味があって、芸術座では、有島武郎の『ドモ又の死』を受け持って好評を博して、その気になって、舞台のほうでやっていきたいとその意向を師匠の佐藤先生に告げたら、何を言ってるかーと、ひどく叱られちゃったのです。先生にしてみたら、愛弟子ふたりを同じ道に進ませるのは、いろいろ心配って言おうか、気をまわしたのかもしれないね、才能豊かなお二人だし、武夫さんには建築で頑張ってもらいたいって。でも、米山先生が述べられているように、もしかしたら違った人生があったかもしれないって私も思うけれど、佐藤武夫さんはこちらの道、その歩んだ人生でやっぱりすばらしかったのだと思います。いい建物が残っていますし・・。このもさこの座ってる花模様の黒ツバキからつながって楽しいな~って、カンゲキしました。 返信する また発見したよ (もさこ) 2009-07-28 00:58:06 ★美をもとめて ふくやま美術コレクションへの旅 岸田劉生から横尾忠則までなぜか川越市立美術館での展覧会だったのよ。その中に出てくるのよ、小林徳三郎さん1884~1949福山のご出身なのね。ヒュウザン会の設立に参加。「芸術座」の舞台装飾主任ですって、主任ですよー。1917年まで続ける。うーむ、図録に載っているのは、失礼ながら、よくわからずなんじゃこりゃ、どうもみょーちくりんなような・・舞台衣装案に操人形師、曲馬団のピエロ・・今さんのほうがやっぱセンスあったんじゃないかしら・・。以上、言っとくけど、もさこの発見ですからねー,ママ 返信する キレイー-☆ (美) 2009-09-12 21:36:21 ちびもさ、ペットボトルの万華鏡の中に入るぅー !チョー キレイー◎この工作材料としては炭酸系よりお茶系のペットボトルボディのほうがいいわね。炭酸系は若者スポーツSF的なイメージでラインが曲線的。各紅茶はボトルもスレンダーでスマート、スタイリッシュ。魅惑の宇宙 もうちょっといろいろ試して見てみるわ。もさちゃーん、もう出ておいでー ! 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
もさこはね、毛並みがもさもさしてるから・・
その名前がついたんだって。
なおきくんが教えてくれた。
なおきくん、元気かな。
それでね、斉藤与里は島村抱月が、大正二年、松井須磨子とともに「芸術座」を興して、劇場を建設しようと計画したときの、舞台装置の背景担当だったのよ。
『萬朝報』1913年7月2日が報じてる。
与里さんが選ばれたのはなんでだろうって、ママは思ってる、抱月さんとの接点を調べてるところだって。
それでね、この劇場建設の設計には早大建築科主任の佐藤功一さんと同理工科講師今和次郎さん。
ここからが大切なのよ、以下、
米山勇先生著の「ロマンティストたちの家」から引きます。
「芸術座の興行において舞台装置の担当者であった斉藤与里、小林徳三郎、萬鉄五郎ら画家たちの(不十分な)時代考証を、今和次郎が手伝ったことがひとつの契機となり、今はこの後、次々に舞台装置の仕事を手掛けるようになる。
そしてその中で培われていく時代考証の認識と人間の動作そのものへの冷厳な注視は、やがて都市の近代における散策の多面的な分析を演技 - 舞台装置の批評という視線によって体系化した「考現学」へ発展していくのである。
今和次郎は佐藤武夫より十一歳先輩であり、今もまた佐藤功一を師とした。もし佐藤武夫が今のかわりに芸術座の助手として登用されていたら、また違った人生を歩んでいたかもしれない。あるいは佐藤功一にすれば、愛弟子の武夫を、兄弟子にあたる今和次郎と同じ道に進ませたくなかったのだろうか。」
そうなのよ、武夫さんも演劇や舞台に興味があって、芸術座では、有島武郎の『ドモ又の死』を受け持って好評を博して、その気になって、舞台のほうでやっていきたいとその意向を師匠の佐藤先生に告げたら、何を言ってるかーと、ひどく叱られちゃったのです。先生にしてみたら、愛弟子ふたりを同じ道に進ませるのは、いろいろ心配って言おうか、気をまわしたのかもしれないね、才能豊かなお二人だし、武夫さんには建築で頑張ってもらいたいって。でも、米山先生が述べられているように、もしかしたら違った人生があったかもしれないって私も思うけれど、佐藤武夫さんは
こちらの道、その歩んだ人生でやっぱりすばらしかったのだと思います。いい建物が残っていますし・・。
このもさこの座ってる花模様の黒ツバキからつながって楽しいな~って、カンゲキしました。
なぜか川越市立美術館での展覧会だったのよ。
その中に出てくるのよ、小林徳三郎さん1884~1949
福山のご出身なのね。
ヒュウザン会の設立に参加。
「芸術座」の舞台装飾主任ですって、主任ですよー。
1917年まで続ける。
うーむ、図録に載っているのは、失礼ながら、よくわからずなんじゃこりゃ、どうもみょーちくりんなような・・舞台衣装案に操人形師、曲馬団のピエロ・・
今さんのほうがやっぱセンスあったんじゃないかしら・・。
以上、言っとくけど、もさこの発見ですからねー,
ママ
チョー キレイー◎
この工作材料としては炭酸系よりお茶系のペットボトルボディのほうがいいわね。
炭酸系は若者スポーツSF的なイメージでラインが曲線的。
各紅茶はボトルもスレンダーでスマート、スタイリッシュ。
魅惑の宇宙 もうちょっといろいろ試して見てみるわ。
もさちゃーん、もう出ておいでー !