goo blog サービス終了のお知らせ 

マックス・プランク⑤

2011-05-08 07:24:50 | Brownナノ
1944年7月以降は、米英軍の空爆を前に完全に無力化していくドイツ。

「ハイゼンベルグの追憶」非政治的人間の政治的生産(エリザベート・ハイゼンベルグ著)
山崎和夫訳


1944年7月18日 水曜会はハイゼンベルグの当番でダーレムのハーナックハウスも集まりました。その後ハイゼンベルグはヘッヒンゲンの彼の研究室へ帰ることにしていましたが、その前に週末をウワフェルドの家族の所で過ごすことにしました。
7月20日、私たちはラジオでヒトラーを暗殺する計画が失敗し、そして指導的人物全員が死亡するか逮捕されたことを知りました。・・・
ハイゼンベルグのように自分が革命に参与せず、ただ接触人物であったに過ぎないシュプラングラーも逮捕されました。しかしハイゼンベルグは免れることができました。
山崎氏の注釈は本当に素晴らしい

「日本で幸い好評を博している『部分と全体』と共に、ある意味でそれを相補的な関係にある本書によって、愛する夫、ハイゼンベルグの人間像を日本の皆さんにも知ってもらいたい」との伝言である。


「ハイゼンベルクとゲーテ」 山崎和夫 モルフォロギア: ゲーテと自然科学 Vol.2004 , No.26(2004)pp.15-25
ハイゼンベルク先生と私
当時ハイゼンベルク先生が所長を勤めておられたマックス・プランク物理学研究所(当時はゲッティンゲンにあった) へ、私がフンボルト奨学生として留学したのは、一九五七年一〇月のことだった。
翌週から翌年の二月頃までが最初のハイゼンベルク先生との濃密な出会いであり、その頃、宇宙方程式の名で一時世に知られるようになったハイゼンベルク・パウリの「素粒子の統一場理論」に、幸運なことに私は早々からその最も有力な一員として深く協力することができた。それが一〇年以上に及ぶものになろうとは、当初は全く思ってもいなかったが。
私がはじめの頃下宿していたF ・ナンゼン・ハウスとハイゼンベルク先生のご自宅とが近かったので、研究所長室での対話以外にも研究所からの帰路で何度か偶然同道して物理学についての突っ込んだ話をしながら、三〇分足らずの距離を歩いたことがあった。そのころはまだ言葉はもちろん英語であった。一二月頃であったか、素粒子の統一場理論にひとつのかなり本質的な点で寄与することができ、そのためハイゼンベルク先生の信用を獲得することができた。
彼はいつも対話によって研究を進めるが、その協力者のプラス面を努めて評価し、マイナス面にはほとんど目をつぶられるという、指導者として本当にありがたい方であった。

マックス・プランクは正しく「量子力学の父」と呼ばれるに相応しい人格者であった。
それがドイツ教養市民を代表するものなのであろうと思う。
「法を敬い、体制的制度を信じ、義務を遵守し、絶対的誠実で、ときに遠慮しすぎる。これがマックス・プランクの性格の顕著な特徴」
そして同じ鋳型とされるのがハイゼンベルグであった。



マックス・プランクの別なる後継者はエルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガーである。
彼はプランクの後を受けてベルリン大学の理論物理学教授に就任した。