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「漱石と寅彦」

2014-01-13 13:51:27 | colloidナノ
「夏目漱石の「文学論」のなかの科学観について」そのキーワード的な言葉を拾えば、そこの要約にもある通り、“how”“why”そして「K.Pearson’s“The Grammar of Science(科学の文法)”を巡るお話である。


漱石が留学していた頃のピアソンは「分割表の適合度カイ二乗検定」つまりデータを用いて反証的に仮説の実証を行う方法を確立し、統計的な方法の応用を切り開いたと言われている。
彼はそのような話をUniversity Collegeにて聞いていた可能はある。



ここでの主題となる「科学の文法」は、1891年から1893年までの3年たらずのあいだに行われた38回に及ぶ一般大衆向けの最初の8回分の講義録が基となっている。



「科学の文法」は日本では1930年に『科学概論』として春秋社から世界大思想全集㊶として発行されたが何故か非売品であった。
現在、世界各国で基本的な文献とされてはいるが、閑却されているといえよう。


マッハ自身「感覚の分析」の第2版の序文で、第1版がピアソンに与えた影響を語っているが、ピアソンの面白いところは、この種の科学哲学を統計的方法という体系に基づいて実学化したところであると椿広計は語っている。


同じ頃にアインシュタインも1902年に友人ら4名とこの第2版を読んでいる。

漱石自身の反応は複雑であった。数ヶ月間自分が考えてきたことと同じだ!「Pearsonを巡る、忌々敷」と独白されるわけである。
立花論文ではこのような記述となっている。

漱石がピアソンの「科学の文法」を克明に読んで、そこから多くのことを学んだのに「文学論」にはピアソンの名は出ていない。漱石がピアソンから学んだものは思想ではなく、思想を表す表現であったからであろう。


自分の考えにも似ていたと感じている。それがこともあろう事か、池田菊苗が留学先のオストヴァルトからの感化でもありかつ、彼自身に芽生えていた意識でもあったのだから、期せずして時分の花でもあったのであろうか、つまりマッハ的な思潮の時代背景をそこに感じ取れる。


池田の後輩として後に東大の無機化学の教授となった柴田勇次の回想の中にも、「先生は学生時代の私にマッハ哲学の興味について語られたことがある。(中略)またあるときはオストヴァルトのエネルギー観についても語られた」と記されている。


それはともかくとして漱石は池田を契機にしてピアソンを読み込んだのであるが、注目すべきことはその数年後にはあの酔歩、つまりランダムウォークへと結実していくその道程でもあった。つまり統計科学の勃興期をも漱石は味読していることとなる。



「漱石と寅彦」を暫くは離れて「科学概論」へと視座を転じてみよう。










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