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膠観

2013-05-19 09:00:00 | アルケ・ミスト
第6章「生化学的変化の経路」 -全体とその部分-

1830年以降に顕微鏡的観察は生物学の主要な研究技術になり、生物質の体制化の問題への主要なアプローチになった。
この発展における決定的な因子になったのはアミチによる色消し複合レンズ顕微鏡の改良であった。
新しい技術の初期の成果の1つはプルキニェ、ブラウン、ミルベルによる細胞核の再発見であり、これに続くシュライデンのやシュワンによる細胞説の確立であった。

この時期にデユジャルダン(1835)は、原生動物に高等動物の臓器に似たもの、特にエーレンベルクが述べたような数多くの胃のようなものは存在せず、体制のある生物質に特有な化学的にアルブメンに似た膠状の物質(サルコウド)から成っていると結論した。

次の10年間にサルコウドはプルキニェとモールによって原形質プロトプラスムと改名され、1861年までにウィルヒョウ、シュルツエ、ブリュッケの研究によって細胞は独立の単位として確立され、原形質は生命過程に関連するものとみなされるようになった。

ブリュッケは次のように書いている。

化学的にこれ以上は分解できない物質を今まで元素と呼んできたのと同じように、私は細胞を基本的な生物と呼ぶ。

元素はこれ以上分解できないことが証明されていないのと同じように、細胞がそれ以上小さい他の生物から成立していて、細胞とこの小さい生物の関係が生物全体と細胞の関係と同じである可能性を否定することはできない。
しかし現在のところそのように仮定する根拠は存在しない。

ブリュッケは原形質が均一であるとみなすことに疑いを持っていた。

生きている生長している細胞が均一の核と均一の膜を持ち、アルブメンの単純な液を含んでいると想像することはできない。
なぜかというと、この蛋白質に生命課程と呼ぶ現象を見出すことはできないからである。
したがって、生きている細胞には構造有機化合物の分子構造のほかに、体制と呼ぶもっと次元の高い複雑な構造を与えなければならない。

しかし細胞構成物質の分子以上レベルの体制に関するこのような予想は、約一世紀後に電子顕微鏡が細胞学の領域を広げるまで実現されなかった。

1868年11月8日T.H.ハクスリーはエデインバラにおいて、「生命の物質的基礎について;オン・ザ・フィジカル・ベイシス・オブ・ライフ」という日曜日の大衆講演を行った。ここで彼は次のことに注意を喚起した。

(注目すべきことは)生物質の物質組成の驚くべき均一性である。・・・・今まで分析されたすべての形の原形質は炭素、水素、酸素、窒素の4種の元素をきわめて複雑な結合で含んでいて、種々の試薬に対して同じように反応する。
まだ充分に正確に決定されてはいないが、この複雑な化合物に蛋白質の名前が与えられている。・・・・生物の物理的基礎である原形質に一般的な均一性が存在することの証明は、どのような生物グループを研究しているにもせよ、充分に述べられているであろう。
しかしこの一般的な均一性は、この基本物質の特異的な修飾を除外するものではないことが理解されるであろう。

ハクスリーにとって「すべての生命作用は原形質が示す分子力の結果」であり、彼は独自の表現で次のように主張した。

すべての将来が過去および現在から生まれるのが確実であるのと同じように、将来の生理学は物質と法則の領域を知識・感情・作用にまで広げるであろう。
この大きな真理を意識すると、今日の知識人はまるで悪夢のように感じるであろうと私は信じている。

ちょうど未開人が日蝕のときに大きな影が太陽の表面にゆっくりと動いてゆくのを眺めるときと同じように、唯物論の進歩を感ずるものを恐れと無力の怒りをもって眺めるであろう。

物質の潮が満ちてゆくことによって彼らの精神が溺れ、彼らの自由が法則の締めつけによって邪魔される。
人間の道徳的本性がその知恵の増加によって低下するのではないかと警告されている。



第一の引用者ともいえる、ハクスリーの講演は人気であったらしい。


膠観

2013-05-18 09:00:00 | アルケ・ミスト
デユジャルダンの造語と言うべきが「Sarcode」であってみれば、エーレンベルクの造語は「Polygastric」である。

フルートンの「生化学史」からデユジャルダンを抜粋引用しておこう。

第3章 「蛋白質の本態」

ミュルダーの仕事を生んだ重要な刺激は、飼料の成分としてのアルブミノイドの重要性の認識が増大したことであった。
1816年に出版されたマジャンデイーの研究は糖と脂肪のみで飼うとイヌが生き続けられないことを示し、1827年にプラウトが提案したように食品を「糖;サツカリナス」「油;オレアジナス」「アルブミン;アルブミナス」の3種のカテゴリーに分けることは広く容認された。
さらに19世紀の残りの時期の間に、アルビノイドが動物と植物の代謝で重要な位置を占めるという確信が育って行った。


1840年以降に細胞学説が興隆するとともに、ゼリー様物質(デユジャルダンの「サルコード;Sarcode」;プルキニエ、コーン、シュルツエ、ネーゲリの「原形質;プロトプラズマ」)が生命現象と関連している細胞内物質を形づくっているという理念は、これらの物質がアルブミンの性質の多くを示すという観察と結びついた。

ネーゲリは原形質を「植物の半液体性のネバネバした内容物であり、数多くの可溶性・不溶性のアルブミン酸塩アルブミネイツから成っている」とし、T.H.ハックスリーは1868年の有名な講演で、原形質すなわち「プロテイン様プロテイナシアス」の半流動体は「生命の物理的基礎フイジカル・ベイシス・オブ・ライフ」であるという考えを広めた。

19世紀の末になると、この考えはプリューガーやフェルヴォルンの仮説にもっと極端な表現を見ることができる。
彼らは「生きているアルブミノイド物質リヴィイング・アルブミノイド・サブスタンス」は生体に独特な成分であると書いている。この「生きている蛋白質」という概念は、20世紀の今日まで研究が続いている生体から取り出した蛋白質とは異なるものであった。

例えば、1901年にフェルミは、生きている生物が容易に分解されるのは、「生きている」蛋白質と「死んでいる」蛋白質の違いによるものとした。

アルブミノイドに対するミュルダー、デユーマ、リービッヒの興味は、新しい化学が生理学の問題の決定的な貢献をしうると考えた化学者の態度を反映するものであった。

食物の元素組成についての実用的な価値のある知識が彼らの仕事から生まれた。このことは、1860年に出版されたビブラの「穀物とパンデイー・ゲトライト・デアルデン・ウント・ダス・ブロート」のような影響力ある本に反映されている。

これとともに、「プロテイン」という言葉、植物や動物におけるアルブミノイドの役割と運命についての仮説、この物質の化学的の本態についての残念ながら永続性のなかった考察が生まれた。

このように成果はほとんど無かったが、後に「生理化学」と呼ばれるようになった分野のその後の発展に彼らの仕事は大きく影響し、彼らの失敗はその後100年にわたる蛋白質構造を解明する探求の流れに反映されているので、彼らの仕事に注目しなければならい。





参照事項
自らを“ダーウィンのブルドック”と自称したハックスリーは、多くの問いかけををしながら、「原形質」その用語を言い換え直して「生命の物理(化学)的な基礎」とみなした公演、その冒頭部をきしておく。

In order to make the title of this discourse generally intelligible, I have translated the term "Protoplasm," which is the scientific name of the substance of which I am about to speak, by the words "the physical basis of life." I suppose that, to many, the idea that there is such a thing as a physical basis, or matter, of life may be novel



On the Physical Basis of Life1 (1868)
Professor Huxley, the inventor of Protoplasm ... Men of the Day Vanity Fair, January 28, 1871

膠観

2013-05-17 09:00:00 | アルケ・ミスト
デユジャルダン;Dujardan、Felix(フランス)1801/4.5-1860/8.8 を手軽に調べるには「科学者人名事典」丸善 平成9年がよい。

 デユジャルダンはトウールーズ;Toursで水力学の技術者を皮切りにして転々と生業を変えていく。
司書、幾何学や化学の教師など、その傍らでは、地質学とか植物学さらに光学、はては結晶学のその大半を独学にて学んだ。

それは、1839年のトウールーズでの地質学と鉱物学の教授に選出されることへと結実した。
さらにその翌年にはレンヌで植物学と動物学の教授及び理学部長にも任命されたのだ。

さぞ秀才であったのだろうと思えるが、決してそんなことでもないらし。

そのあたりを窺い知るには次のようなエピソードが記されているのが目に留まる。

Intending to study chemistry in the Laboratories of Thenard and Gay-Lussac at the Ecole Polytechnique.
He persuaded his older brother to join him in these studies - particularly mathmatics - and ther both presented themselves for
the examination in 1818.

His brother succeedeed,but Dujardin failrd.

挫折を味わってからのパリにおける貧乏暮らし等は割愛しるが、「Dictionary of Scientific Biography」が参考になろう。

元へと戻し、顕微鏡の扱いにたけていたデユジャルダンは、腐敗物質に発生する微生物(滴虫)を幅広く研究し、1834年、原生動物の根足虫亜網と呼ばれる新グループを提唱した。

彼は初めて原形質(彼はサルコードと呼んだ)の収縮性を確認し、また不用物質を排出するための液胞の役割を実証した。

そうした研究によって彼はChristian Gottfried Ehrenberg エーレンベルグが再提唱した「微生物」は高等動物と同じ器官を持つ、という仮説に異議を唱えたのだった。


また彼は、扁形動物や渦虫だけでなく棘胞動物(クラゲ イソギンチャク サンゴなど)棘皮動物(ウニ ヒトデなど)の研究も行ったが、これらは後の寄生動物研究の基礎となった。


膠観

2013-05-16 09:00:00 | アルケ・ミスト
薫風の如くあった。

しんあればこそ、友垣からの風聞は、乗松君、重松君、織田君、新家君、そして石河君など。

お世話になった安井先生は幽冥界を異にされたともきく。慎みてご冥福をお祈り申し上げます。

かえりみる軌跡は逆巻きて、相補てきな流動態ともいえる。

それぞれの“こうかん”は民意に対しての、それぞれの自己表現でありその集積が、みちなるモノへの一里塚となっていくことを祈念している。

「一物が、よをかえるのだ!」井口洋夫がそのような事を語った、その記憶はいまだ新しい。



① 「植物発生論」の評価
「植物発生論」ははげしい論争の火だねとなり、広く議論をよんだ。

この「植物発生論」の細胞学史上における意義については、シュライデンが細胞説に着想し、シュバンがこれを動物組織に適用して普遍化するきっかけをつくった、そのいみでシュライデンが細胞説の前衛の役割を果たしとする見解が一般的であり、多くの生物学史家がこの見解をとっている。
ウィルヒョウも同様の記述をしている。(Virchow 1871)

細胞説の19世紀科学史上での位置を高く評価し、位置づけたエンゲルスは「自然弁証法」のなかで、この時代の「決定的に重要だった発見」として、熱の仕事当量の発見、進化論とならべて『シュバンとシュライデンによる生物細胞の発見』をあげ、『この発見によってはじめて生きた有機的な自然産物の研究はしっかりとした土台を獲得することになった。生物の発生、成長、またその構造上の秘密は一掃された。これまでは不可解の謎であったものが、どんな細胞生物にとっても本質的に同等である或る法則にしたがっておこなわれている一過程に解消されたのである』と記していることは有名である。

この評価は基本的な位置づけとして妥当なものと考えるが、この引用のなかで注目される点が2ヶ所ある。
その1つは、エンゲルスが両者の名を通例のように「シュバンとシュライデン」としている事実である。その2は、エンゲルスがかれらの功績を「細胞の発見」としている点である。

ここには細胞学史上の問題が表現されている。
1は、細胞説創始におけるシュライデン、シュバン、あるいはその両者の功績の評価の問題であり、2つはシュライデン、シュバンによってもたらされたものは、生物学史的にみて何であったのか、の問題である。

1の問題は2の問題とふかくかかわっていて、2への正しい答えがなければ1は解けない性格のものであるが、ここでは2への答えを仮に「細胞説の創始」として先にすすみたい。

右に引用したエンゲルスの言は、細胞説創始の栄をシュライデンよりもシュバンにより重く荷した見解の表明とみることができるが、この問題にふれる前に、シュライデン、シュバンともに、同説創始者としての栄をほこるさしたる資格はないとする見解にふれておこう。

それは、シュライデン、シュバン以前に細胞説は成立し、または成立しつつあり、両者はそれらの世論を代弁したにすぎない、とする見方である。

たとえばブラウンとバートケ(Brown & Bertke 1969)はいう、「シュライデン(1839)とシュバン(1839)は細胞説、すなわち構造の単位としての原形質細胞からすべての生物ができているということを正しく示した最初の人とみなされている。

しかし、ていどの差こそあれ、かれらに先んじて細胞の概念を表明した細胞学者は少なくなかった。

ヴォルフ(1774)、オーケン(1805)ミルベル(1808)、ラマルク(1809)、テユルバン(1831)、デユトロシェ(1824)などがそうである。
また同時代人としてはブラウン、デユジャルダン、ミュラー、プルキニェ、フォンモール、ヴァレンテイン、ウンガー、ネーゲリ、ヘンレなどがある。

たとえばモルデンハウアー(1812)は、多細胞の植物をしらべ、組織は細胞からできていること、各細胞には壁があり、たんに基礎物質の均質な塊のなかの空所といったものではなく、個個に独立したものであることを記録した。
したがって、あるいみでは、シュライデンとシュバンは同時代人の代弁である。


そこで注目してみようとおもうのは、デユジャルダンDujardin Felix(1801-1860)。みち草のたのしみである。

膠観

2013-05-15 09:00:00 | アルケ・ミスト
ご近所の大きな電器屋さんへ相談にいったら、担当者を呼び出してくださった。

その小さな部屋(cell)から温厚な表情で出ていらっしゃったのは高齢の男性であった。XP問題への対応をご相談申し上げたところ、平易な語り口で機知に富んだ、お話をしてくだった。その話しぶりは職人さんらしからぬ、scientistのような楽しさを覚えた。

時代と共に失われていくモノと、生き残っていくモノ!あのおおらかな人柄は、小さなcellの中で育まれているのだ!


さて最近読んだ本で記憶に新しいのが細胞(cell)などに関したものであった。

その出会いは意外なものである。
科学の名著「近代生物学集」④ 朝日新聞社 昭和56年初版を手にとったのは少し前になるのだが、黒々と「除籍」印が押してあるのだ。


この幸運な巡り逢わせに預かりながらも問わずにはいられないのは除籍、その除籍の不思議は心地は今も残っている。


それを一読しただけで、あのグレアムでなくても直ちに、そこに宝庫を見たであろとは、彼の教科書の内容から容易に推量できる。


その本には沢山の付箋が既に貼り付けられていることは、コロイド書の比ではない。つまりムチであった証拠でもある。
ましてやシュライデンなんて言われても、教科書で習った記憶も定かではない。
しかし今では座右の書ともいえる。


彼の「植物発生論」は19頁から始まっている。それを転記しておこう。

ここに「植物発生論」として訳出したこの著、「植物の発生(あるいは植物発生学)への寄与」は、シュライデンがMullers Archiv fur Anatomie und Physiologie 誌に発表した、39頁の比較的短い論文である。

当時の第一人者ミュラーの名を冠した解剖学および生理学のこの専門誌は、当時もっとも重んじられていた学術誌であり、国外からもその内容が注目されていただけに、かれのこの論文はただちにフランス語誌(Annales des sciences naturelles。Botanique 11(1839)、242-252、362-370)に、少しおくれて英語誌(Scientific Memoirs 2(1841)、281-312)に訳載された。

そして1844年には短報もまじえた他の2,3論文とともにまとめて、“Beitrage zur Botanik”として再刻された。

今回の訳出は、この1844年版からのものである。(原註)とはこの再刻のさいに付された脚注である。図番号が途中からはじまっているのも、これが再刻のさいに通し番号となっているためである。

この番号は比較的短いので、ここであらためて解説を加えることは、かならずしも必要ではなく、むしろ蛇足になると思われるのでおこなわないが、ただこの論者の評価をめぐる2,3の論点を簡単に紹介したい。





 ここでは蛇足を承知で、注釈などが適宜なされるはずだ。
例えば、身近な「生物小辞典」(第3版)三省堂にある年表を抜書しておけば、

1800;キュビエ
1805;フンボルト
1809;ラマルク
1812;キュビエ
1821;マジャンデイ
1828;フォン=ベア
1831;ロバートーブラウン
1833;J・ミュラー
1835;シュワン⇒       胃液中にペプシンを発見
1838;シュライデン⇒     植物で細胞説を唱える
1839;シュワン⇒       一般細胞説を唱える
1840;リービッヒ
   J.ミュラー
1843;デユー=ボア=レイモン
   ロイカルト
1846;フォン=モール
1851;ヘルムホルツ
1855;クロード=ベルナール
1857;パスツール
1858;ウィルヒョウ
1859;チャールズ=ダーウィン
1861;シュルツエ
   バリ     ⇒原形質説を発表し、近代生物学の基礎をつくる。

   パスツール


Karl Wilhelm von Nägeliネーゲリが見つからないので、「岩波 理化学辞典」第5版にあたったがここにも見つからなかった。


ここで更によくをいえば、あのグレアムの1831年「気体拡散の法則」などを思い起こすことが出来れば・・・・、年表はわたしがつくっていくものらしい。

みち草・・・・ホルモン

2013-04-09 09:00:00 | アルケ・ミスト
動物ホルモンの概念の発展 (F.G.ヤング)は割愛されている。

「Oxford English Dictionary」(Supplement and Bibliograpy、clarendon press 、1933)では、ホルモンのことを「ある器官で合成され、別の器官へ血流で運ばれて、その器官を刺激する物質」と定義されている。
この辞書では、この言葉の起源を1905年とし、ロンドンの王立内科医学会でE.H.スターリングが行ったクルーニアン講演の雑誌への発表にあるとしている。

この4回の講演は、「身体の機能の化学的な相関」という題で雑誌に掲載されたが、その中でスターリングは、以前にベイリスと一緒に発展させてきた、生理学的機能の体液性制御の考えを一般化した。

この考えは、膵臓の分泌の制御についてのこの2人の共同研究の結果生み出されたもので、この研究で「セクレチン」と名づけた物質が発見された。

1905年にスターリングは、「化学的メッセンジャー」----われわれの言い方での「ホルモン」(ギリシャ語の刺激するとかひきおこすという言葉からきている)---は、合成された器官から影響を及ぼす器官へ血流によって送られる必要があり、個体にとって生理的にくりかえされると書かれている。

内分泌器官の機能についての初期の実験的研究

副腎摘出の影響   1855年のアデイソンの著書の刊行による影響は、副腎の機能についての直接的な実験的研究を促したことであった。略

アドレナリンと副腎  ジョージ・オリヴァー博士はハロゲートの医師で、自分の冬の閑な楽しみの期間を、自分で考案した装置を用いてヒトに実験して過ごしていた。
彼の装置の1つは周辺部の動脈の直径を測定するように考案されていて、オリヴァー博士は、その地域の肉屋からの材料で作った副腎の抽出物を自分の息子に投与する前と後とで撓骨ドウコツ動脈の直径を測定した。

この抽出物を経口投与した結果、動脈の収縮を検出できたと考えて、ロンドン・ユニバーシテイ・カレッジの生理学の教授であるE.A.シェーファー教授に、自分が観察したと考えていることを告げにロンドンへ行った。

シェーファー教授がイヌの血圧を測定する実験にかかっているを見出しが、シェーファーは、不自然ではなしに、オリヴァーの話に懐疑的で、おそらく実験の中断に焦っていたのであろう。

しかしオリヴァーはあわてないで、自分のポケットから副腎の抽出物の容器をとり出し、シェーファー教授が自分の実験が終わったときに、イヌの静脈にその一部を注射してみてくれないかと求めた。

それでシェーファー教授が注射し、やがて動脈の圧力計に入っている水銀を眺めていて、その位置を記録するための浮きがほとんど器具の外にまで上昇するまでになるのを見てびっくりした、こうして、きわめて活性の高い昇圧物質のアドレナリンが発見され、これは、死後容易に液化してしまう副腎の内側の部分の、副腎の髄質に存在している。

1901年に、アメリカ合衆国のオールドリッチとアーベルの両者によって、またこの少し前に、以前アーベルの研究所で研究していた日本の高峰によって、副腎からアドレナリンが分離されていた。
分離の最終段階では、抽出物に強いアンモニアを加える操作が含まれていて、この手段でアドレナリンの結晶が得られる。

しかし、ずっと後になって明白となったように、このようにして得られた物質にはアドレナリンが含まれているが、しかし、これも副腎に含まれているノルアドレナリンは含まれなていないので、そのために、このものは何年も見失われていた。


高峰譲吉に言及されているのは、これだけである。

もう一つ目にとまったのが、「脳下垂体」の項であった。
解剖学的、発生学的、生理的に、脳下垂体には三種類の部分があるが、ヒトではこの複雑な器官は全体で1gちょっとでしかない。・・・・

1884年にロイブは、脳下垂体の腫瘍のある患者で真性糖尿病がしばしばみられることを観察し、1886年にマリーは末端巨大症acromegalyの病状を記述したが、これは骨、とくに顔、手、足の骨の過剰生長のある病気である。

ロイブ(Loeb;1859-1924)についての記述はこれだけであるが、別の機会に重要な役割を果たす事となるので記しておく。




みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-01-28 10:31:48 | アルケ・ミスト
ギリシャ時代の原始化学の集大成には、何ものかの少量が、大量のものに作用してこれを貴金属に変えるという考え、後に卑金属から貴金属への変質projectionと呼ばれる過程が、すでに完全に存在していて、少量のもの(後の「賢者の石」に対応する)の作用は、酵母maza、azymonの作用に似ていると考えられる傾向があった。それで、ゾシモス(300年頃)にとっては、この変質の効果は発酵であった。
変質というこの同じ考えが、紀元前1世紀という早い時期に中国で見出せるというのは格別な、しかしほとんど知られていない事実である。
しかし、西方へ伝達されたのか、中間に共通の起源があったと考えるべきかは確かではない。
中国の文献と、ギリシャ・ビザンチンの記録から、冶金の「発酵素」の考えが、アラブの錬金術に伝えられ、そこでは、すべての記録----つまり、ジャービル全集とイブン・ウマイル、また「哲学者の群」と11世紀の「明盤と塩の書」----にこれが示されている。それから、1300年頃にケベルへ、また14世紀初期のヴィラノヴァ全集へと伝えられ、その中でマッサmassaが発酵素としての賢者の石についての普通の表現となり、そこでも金や銀がその組織の中の成分として必要だと考えられていた。
事実、語源の恣意的な解釈によれば、錬金術alchemiaはalchymum(無酵母パン、azymon)から由来するとされ、そのため偽アルベルトウスの14世紀初期のビザンチン・ギリシャの翻訳におけるように、すべての化学は「酵母の技術(maza pragma)」と同義である。
ある一つのことが限りなくそのものの内容を豊かにするようなこの複製の過程は、たしかに奇妙なものだが、自己複製するリボ核タンパク質について現在知られていることの古代での前兆であることはあまり認められていない。

おそらく、「錬金術師は現代の化学とは正反対の道を進んだが、それは、われわれが生物の過程を化学の用語で説明しようと追求しているのに対して、彼らは逆に無機の現象を生物学の用語で説明したからである」という真理を、このことが十分に例示しているのであろう。

しかし、古代および中世初期の人たちは消化と、それがきわだって低い温度で果たす重要な変化について知っていたのだから、発酵素についてもう少し述べておくことがある。
発酵と腐敗に共通したすべての現象は、消化にについてのこの人たちの考えの中に関係づけられている。つまりこの人たちは、賢者の石を熱烈に追求しているときでさえ、ときどき、ある過程を低温でゆっくりと進行させるべきだと確信していた。
発酵中の馬糞を利用して65℃の温度がかなりの期間維持できることが、中世の錬金術師の間で、たびたび利用されたことをこのことで説明できる。
宋代の中国の錬金術師が目当てとする温度に調節できるように冷却用のラセン管というきわだった工夫を思いつかせたのも、同じ先入観である。
さらに奇抜なのは、西欧の錬金術師の中で、とくに7世紀の後半のルル全集の著者たちが自分たちの容器を、身体の器官----胃、子宮、卵、----の形にする傾向で、還流蒸留(蒸留して生じた蒸気を冷却して、もとの蒸留器にもどす)の装置に用いられた当時の一対のランビキ(蒸留器)に、化学結合についての以前からの性的な含意が反映されていることである。
その後の医化学の段階でこれらのナンセンスは放逐され、有機的な生命で生じるすべての反応は、どれか一つの発酵素によって制御されているとファン・ヘルモントが断言した。
彼と彼の後継者は、病気も「なじみのない発酵素」によるものだと考え、これは、この人たちによる生命ある病原体contagium vivumの新しい考え方であった。
ファン・ヘルモントは、身体の中で(消化管内だけではなく)六種類の主要な消化を認めていて、ここでも、中国と西欧の考え方の中での隠れた相似が示されていて、それは、1624年に、ファン・ヘルモントと同時代の張介賓は、中国での当時きわめて古い考えとされていた「三つの煮沸領域」(三焦)の考えを解説した。


このような対応は今後の多くの研究を呼びかけているが、ここではこれ以上述べることはできない。
しかし、有機的な触媒(第1、2、7章)の考えが、何世紀もの間、原始化学時代、錬金術時代のすべての面とからみあって、ずっと古い時代にさかのぼるものだということを理解するのに十分だとわかる。


この国の生化学の創始者で最高位者であるSir Frederick Gowland Hopkinsフレデリック・ゴーランド・ホプキンズの後継者である。


歴史的な関心に値するこの学問に、先生の講義を聞く機会に恵まれた私たちは誰もが記憶している。
醸造工場での「悪性気体wild gas」を明らかにしたファン・ヘルモントの場合とか、壊血病の乗組員をミカンで護ったリンド提督とか、1808年に獲物のシカの筋肉から乳酸を見出したベルセーリウスとか、筋肉労働とタンパク質代謝の関係を確認しようとしてフォールホーンに登った空想的なフィックとヴィスリツエーヌスとか----すべての展望の中に位置づけられ華やかに色づけられていて、われわれの歴史の理解を広めて下さった。

みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-01-28 10:31:07 | アルケ・ミスト
さて、二個の中心となる概念のみが考察の対象として残されている。
それは結合Conjunctionと発酵素Fermentである。

合成反応における、反対物の結合という概念は、すでに簡単には内丹錬金術の目的として触れたが、事実、これはどこの地域でもすべての錬金術師の目的であり、またラテン世界で他のどこよりも熱心に追求された。
もちろんこれは、他の分野におけるのと同様、生化学に基本的な化学的親和性という概念に関する近代的な理念の元祖以外の何ものでもない。それでも、これの根源は、紀元前125年ごろの劉安や彼の先輩のメンデスのボルスや後輩の偽デモクリトスが共通して思い込んでいた共感と反感の概念にまで至るものである。
似たものが似たものと反応しやすいか、異なったものと反応しやすいのかは、ラボアジエの時代の以前2000年の間すべての人を悩ませてきた問題であった。
パラケルスス学派とガレノス学派の人たちは、この問題で反対側の立場をとる傾向があり、アラブの人たちも討論を重ねた。
6世紀ごろ、中国人は、生化学的に関心あるものを含めて、物質をいろいろなカテゴリー(類)に整理し、これらをまた縦に陰陽分類に配列し、その反対側に並んだ成分は必然的に反応するにちがいないと考えて、この点の知的整理に目立った前進を与えた。
しかし、これらが同一のカテゴリーに属していなければ反応はおこらない、このようなものが古代の考えの一例で、もっともいつも性的な意味が含まれていて、それらが徐々に原子価、親和性、空間的障害などのような現在のもっと正確な概念へと変わってきた。

酵素タンパク質の活性係数(第2章参照)、ホルモン分子の促進的か阻害的かは別にした作用点(第5章参照)などにさえ、このことを認めることができよう。
酵素が発酵素として知られていたのは、それほど以前のことではなく、これは、ここで考察する余裕のある最後の中心となる概念である。

生物学では、ごく少量の酵母が大量のものを発酵させるという考えは、単にビールとパンについての人間的な経験的技術からうけつがれたものである。
これは酵母の「飼育化」であり、バビロンの時代までさかのぼらなければならない。ごく初期には、肺の発生も発酵と考えられた。
筋肉、神経、血管などの複雑な器官の出現を伴った形態的な分化は、いずれかといえば単純な考え方で、チーズの熟成のときに現れるいろいろの形、色、つやと類似のものとされた。
アレキサンドリアの生物学派が絶頂に達していたちょうどその頃につくられたユダヤの知恵の書の中で、ヨブ記(第X章10節)に、「あなたは私を乳のように注ぎ出し、チーズのように固め、皮と肉とを私に着せ、骨と筋とで私を編まれたではありませんか」と言わしめている。
アリストテレスは同じことを述べている----彼にとっては、経血は胎児の物質的基盤であり、子牛の胃からの凝乳剤がミルクに作用するように精液がそれに作用して、形を与える。
この考えはそれ以上ほとんど進められることはなかったが、西欧の中世を通じてふつうのこととして残り、たとえばビンゲンのヒルデガルドHildegard of Bingen、1098-1180の考えにはっきりしていて、アルベルトウス・マグヌスが「卵の湿性は酵母の湿性と同じだから、卵が胚に成長する」と言ったときに心に抱いた考えに関連がある。
この考えの流れをさらに追ってゆくと、タンパク質の性質についての最初の研究へと直接につながっている。
アレキサンドリアの原始化学者が1500年以前に卵黄と卵白について魅惑を感じたが、17世紀の半ばにノリッチの化学実験室で、トマス・ブラウンThomas Browne、1605-1682もそれと同じ感激を味わった。驚嘆に値する可能性が具わっていると思われたタンパク質性の物質についてもっと多くのことを見出そうとして、当時の化学設備と器具を用いて、そこで多数の実験を行っていた。
羊水と漿尿液についてこれと平行的な研究が1667年にウオルター・ニーダムによってなされていて、卵のタンパク質の秘密を究明しようとその後の努力が、1732年のヘルマン・ブールハーフェの「化学要論Elementa Chemiae」に長々と論じられている。

しかし、タンパク質の構造を理解するための真の突破口はは、もちろん19世紀に有機化学が発達するまでは可能ではなく、Hermann Emil Fischerエミル・フィッシャーの古典的な研究は、この発達の初めではなく終わりに近いものである。




みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-01-22 09:00:00 | アルケ・ミスト
宋王朝から清王朝の初期(11世紀から17世紀)まで一般的であった中国の医化学的な活動で、とくに医学的な影響のもとに、内丹の物質とでも呼んでよいものに、外丹系の錬金術の方法が適用されはじめたので、ここで円満な解決に達する。

たとえば尿の採取である。今述べた世紀の間に、中国の医化学の研究者が、われわれなら「工業生産の規模で」と呼ぶほど大量の尿を研究したことが、文献的な証拠で示されている。
これを蒸発し、加熱し、沈殿させ(サポニンを用いてすら)、再溶解し、さらに沈殿し、さらに厳密に制御された温度での昇華で終わっている。

このやり方でステロイドを調整し、今日これらが処方されるのと同じ条件で医師がこれらを用いた。
供与者の年齢と性別を選ぶことで、いろいろな結晶系薬品の混合物を得ることができた。これらの手段の全体は、経験的というよりは、準経験的と呼ばなければならないのは、現代科学の理論ではないとはいえ、その基礎にかなり知的な理論がいくつか存在しているからである。
この秋石は中国の医化学の調剤の単なる一例でしかなく、他の多くの素材についても研究がされてきていたからで、それには、胎盤、経血、睾丸、甲状腺などがある。
動物の素材がしばしば用いられた。生化学の誕生前の歴史において、もっとも偉大な成果と呼んでみたいのがこれである。

記述を完全にするために、インドでの業績についてもいくらか述べておかなければならない。
全体としては、いちばん最初からずっと、金作製と不老不死薬ラサ、rasaの考えとを結びつけた、真に錬金術的なものであったように思われる。

他方、現在述べることができるかぎりでは、中国の錬金術のことはいわないまでもギリシャ的な原始化学ほど古くはなく、その端緒には、仏教の開祖であるナーガールジュナという人物が大きく影響を落としていて、後の世代の人たちが考えたように、彼はきわだった錬金術師であったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。

この後の時期は、最初の記録のバウアー写本の頃である。しかし、中世の初期の文献はごくわずかしか残っておらず、7世紀から8世紀と推定される「ラサラトナーカラrasaratnakara」の後になってなって初めて、文献が多くなった。
インドの錬金術の解明は特に困難で、その一部はインド文化でのどの文献の時代決定も不確定だからであり、また他方、インドの図書館において豊富な写本がまだ検討されていないままだからである。
南部のタミルの文献をもっと研究すると、とくに興味深い結果が得られると期待される。
一般的に、現在のところは、インドと中国とアラビア文化圏の間の対照はきわめて密接だが、インドについては、まだこの三者の中でもっとも明確でないままだという以上のことは述べられない。


नागार्जुन Nāgārjuna仏教学者の中村元は、ナーガールジュナの同一性を疑う「複数説」を紹介している[2]。中村によると、以下の六つの人物像がナーガールジュナの名に帰せられている。

講談社発行の「人類の知的遺産⑬」『ナーガールジュナ龍樹」中村元著の「はじめに」“空”思想

大乗仏教は、もろもろの事象が相互依存において成立しているという理論で空クウの観念を基礎づけた。空とはその語源は「膨れあがった」「うつろな」という意味である。

膨れ上がったものは中がうつろ(空)である。
われわれは今日数学においてゼロと呼んでいる小さな楕円形の記号は、サンスクリット語ではシューニヤ(空)と呼ばれる。それが漢訳仏典では「空」と訳されているのである。
ゼロはもともとインド人の発見したものであるが、それが西暦1150年ころにアラビア人を通じて西洋に導き入れられたのである。(アラビア数字はその起源に関するかぎり、インド数学なのであって、アラビア数字ではない)

ついでながら結語からも引用しておく。

かれは一種の錬金術を体得していた。
ところでインドでは錬金術をシヴァ教の一派の水銀派なるものが昔から行っていた。この水銀派の開祖をやはりナーガールジュナに帰せられている水銀派の諸典籍はまだ刊行されていないようであるが、それらとの対照研究は今後の課題である。

名前の由来を記しておく。
ナーガ(龍)というのは次の意味をもっている。その1つが《あたかも実際の龍が海から生まれるように》真理の領域(法界)《という海》から生まれた。

そこをイメージしてみると、海の中のエイチ・ツー・オ、そのランダムなネットワークのダイナミズムな網目からの、物理化学的な止揚としての感官印象が残された、そこのちからである。

最後の言葉「中村は 5 と 6 が、1 と大分色彩を異にしており、別人ではないかと思われると、疑義を呈している。」

それはニーダムの歯切れの悪い言葉遣いと重なり合っている。

これらの読後感は、グルとして受け止められて良いというのが、いまの理解である。


みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-01-21 09:00:00 | アルケ・ミスト
アラビア語からラテン語への最初の翻訳はスペインでなされた。

そこはアル=マジェリテイーが1130年以降に活動していたところで、その後100年間、多数の翻訳がつづけて出された。

ヨーロッパの人たちは、人工的な金の作製とともに長寿の生化学的医術の考えに深い関心を払った。そこで、記録された化学的な知識が進歩したという点で14世紀はきわだった時期となっている。

これはゲルべによるものとされている本とともに始まるが、この本は翻訳ではなく著作で、またジャービル・イブン・ハイヤーンによる著作の以前の全集とは名前のほかには何も共通点はない。

ラテン系の名のもとに隠されている知られざる著者は、それでもアラビア錬金術をよく知っていた。その後ペルトルス・ボヌスPetrus Bonus、1330年頃とルペスキサのジョンJohn of Rupescissa、1345年頃と、またこれらに関係のある写本の重要な2件の収集がつづいた。
それはヴィラノヴァのアーノルドの名にちなんだヴィラノヴァ全集とレイモンド・ルルの名にちなんだルル全集と呼ばれるもので、14世紀後期のものである。

15世紀は在庫しらべと集大成のための独自色の少ない時期だが、16世紀の初頭には、まったく新しい時代が始まったことを見ることになる。


「科学革命」は、一般にはコペルニクス、ケプラー、ガリレオを中心に、自然現象を数学化しようとした彼らの努力とともに生じたとされるが、パラケルススParacelsus、1493-1541の業績がこれらよりも革命的でなくはないという点については、いくつものとらえ方がある。

李少君とその友人たちが紀元前2世紀につくり上げた「金製造」とマクロバイオテックスとの関係を打破したのは彼である。

このことを彼は、「錬金術の使命は金を造ることではなく医薬をつくることだ」という有名な警句で果たしたのである。

パラケルススの死の前年に、最初の近代化学者アンドレアス・リバヴィウスが生まれ、この人の1957年の「錬金術Alchemia」では、以前からの人工的な金や不老長寿薬などへの含みから解放されて、ほぼわれわれが化学物質を理解しているのと同じように、化学的な組み合わせや化学物質の性質の理解が追求されている。

彼よりも若い同時代の人J.B.ファン・ヘルモントについては、すでに述べた。
この時期は近代化学史の範囲内で、ここではこれ以上は進めることはできない。

パラケルススが導入した新しい活動は医化学iatro-chemistryという名をつけられたが、これは医学に応用された化学だからで、したがって、すべての生化学者はこの時代に特別の関心を払っている。

いろいろなものが複雑に混ざり合ったパラケルススの業績の特徴を理解する必要があるが、それは一方ではかたくなまでに新しい実験を求めていて、実際に化学における多数の新しい発見をしているのだが、同時に、それには新プラトン派的、グノーシス派的、ヘルメス的な源から導かれた世界観も含まれているからである。

このことは小宇宙と大宇宙microcosm-macrocosm、遠隔作用の原理、精神的世界と肉体的世界の統一、普遍的な共感と反感による万物の間の相互関連の考え、真の数学とか定量化ではなくて、数秘学numerologyの傾向などの考えが関係した中国の世界観と奇妙に似ている。

今までのところ、英国のパラケルスス学派の一人ロバート・フルッドが「ヴォランテイvolunty」と「ノランテイnolunty」という二つの言葉をつくり出すというところまでこの相似性が進んでいて、彼がもし陽と陰の存在について知っていたなら、容易にこれらを選ぶことができただろう。

時とともにパラケルスス派の人たちまたは「化学者chymists」は、伝統的な植物からの薬物pharmacopoeciaに固執している「ガレノス主義者」とするどく対立し合ったが、これは17世紀の終わり頃の有名な論争である。
東方の文明ではギリシャ医学がラテン時代のヨーロッパに遺贈した金属性または鉱物性の薬品に対して偏見がなかったので、この論争は生じようがなかった。

しかし、われわれにここで関心があるのは、中国でも医化学的な活動があったという事実で、ただずっと早く始まっている。
おそらく生化学の誕生前の歴史のすべての中で、もっとも重要な成果とされるものがつくり出されたのだから、ここで、もう少しこの点を述べておかなければならない。

このことを理解するためには、中国の錬金術が唐代とその後にわたって発展の道を追求していたが、二種類のまったく異なった考え方と活動を発達させたことを知っておく必要がある。

それは「外的不老不死薬=外丹」と「内的不老不死薬=内丹」とである。前者は、動物や植物からの産物ともども金属やその他の無機物質から得られた、長寿のためのすべての調剤のための標準的な用語である。後者は、外側から薬理的に人間の身体に作用しようと試みても何も重要なことは起こさせることができないと述べるようなすべての学派----この学派は多数あり、結局は数のうえでこちらのほうが多数になるのだが---のことを意味している。

この人たちの考えでは、必要とされるのは身体そのものの組織と体液から、不死への真の有機的な不老不死薬をつくり出せるようにするいろいろな特殊な修練を行うことである。
これらの手段は手の込んだものだが、本質的には精神的・生理的なもの、つまり、瞑想的なもの、呼吸の調整に関するもの、身体の鍛錬、光による治療、性的なものであった。これらはすべて「唯一の真の実験室は人間自身の身体である」という信念のもとに行われた----つまり身体とは、「反対物の結合conjunctio oppositorum」がおこる反応容器であるという考えである。

この中国の体系はヨガに似ていることがわかり、インドとの関係を指摘するのは容易だが、この伝達の方向と範囲はまだ明確ではない。
いずれにしても、中国の概念は、インドの人たちの心のどれよりも明確により唯物的で「生化学的」であったが、それは中国の人たちは不老不死薬を「自分の身体でつくられる医薬」として確実に化学的なものとして描いたからである。




備考事項内丹術
外丹には水銀化合物や砒素化合物が含まれ、強い毒性があったと考えられる。煉丹術の流行により水銀や水銀化合物を服用して逆に命を縮める人が後を絶たなかった。そのため宋代には鉱物性の丹薬を作る外丹術は衰退していき、唐代より次第に重んじられるようになった内丹術が主流となっていった。外丹術は不老長生の薬を作るという本来の目的では完全な失敗に終わったが、中国の医薬学と化学の発展に貢献した。