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膠観

2013-05-29 09:00:00 | アルケ・ミスト
さて、本論へ入ろう。

植物には単純な膜(Membran)で包まれた空隙があるので、新しい体制の形成がもっとも容易にそして明瞭に観察される場所が2ヶ所ある。

それは、後に種子の胚乳を蓄えることとなる大型細胞すなわち胚嚢の中と、後にそれから胚を生ずるところの花粉管の末端の中である。

元来胚嚢はけっして澱粉を含んでいることはなく、未熟の莢果や穀類に甘味を与える糖溶液やゴム質を含んでいる場合が多いもののようである。この点で花粉管の末端とは相異なる。

それと反対に、花粉はかならず澱粉あるいは前述のそれに代わる粒状の粘液質を必須の構成部分として含んでいる。
いわゆる植物性精虫(vegetabilische Spermatozoen)はおそらく今後の研究の進展によって、その大部分がこれらの物質はやがて溶解し、糖あるいはゴム質のいずれかに転化する。

いずれへの変化ともしばしば起こり、花粉粒が柱頭上に管を伸ばし始める以前にさえも観察され、花粉管が花柱を通って徐々に胚珠に降下するさいに観察されることもある。

いずれの場合においても、まもなくゴム質中に、上に指摘した微細な粘液性小顆粒(Schleimkornchen)が出現してくる。
そのために、それまで均一であったゴム質の溶液は混濁してくる。あるいは顆粒が多い場合には不透明になる。引き続いて、そのなかにより大型の、そしてより明確に識別できる小顆粒(Kernchen)が一個出現する(図70上部)。

ついでまもなく、チトブラストも現われてくる(図70下)。
それは顆粒をとりまく粒状の凝固物のようにみえる。しかしチトブラストは遊離状態で著しく大きくなる。たとえばFritillaria pyrenaicaでは最後に0.00084から0.001パリ・ツオルまで達するのが観察される。

チトブラストが完全な大きさに達するとまもなく、その表面に微細な透明な小胞がもち上がってくる。
これは若い細胞であって、初めは球のごく薄い切片の形をしており、その平坦な面はチトブラストであり、盛り上がった面があたかも時計のガラスを思わせる形でチトブラスト上に付着している若い細胞なのである。

天然の媒体中では、ほとんどこの様相だけで次のことがわかる。

それはその凸表面とチトブラストとの間の空間はまったく透明であり、水性の液体に満たされていると思われる。
その外周は粘液性顆粒がとり囲んでいて、それはその若い細胞が膨れる結果、圧をうけているのである(図72・73・74はそれを示そうとしたものである)。
しかしもしこの若い細胞を単離したとするならば、スライドガラスをゆり動かすことによって粘液性顆粒はほとんど完全に取り除かれるかもしれない。----しかしながら、この状態を長く観察し続けることはできない。

数分後には蒸留水中に完全に溶けさり、チトブラストを残すだけとなるからである。----しかしその小胞はしだいに膨張し、固定される(図69-b)。
そしてつねにその一部を成すチトブラスト以外は、囲壁(Wandung)はゲラチン質でできているようになる。
ついで細胞全体がしだいにチトブラストの輪郭を越える大きさとなり、しかも急速に大きくなるので、ついにはチトブラストは側面の囲壁の一面に埋もれた小体にすぎないかのように見えるほどになってしまう。

同時に、若い細胞が著しく不規則な突起を出す例が多い(図69-c)。
これは膨張がけっして一点から均一に進むのでないことを示す証拠である。

細胞が成長し続ける間、そして明らかに周囲からの圧力の制約をうけて初めて、形はより均一となり、キーゼルがアプリオリに見事に確認した斜方12面体の形に移行してゆくことも希ではない(図69-b・cを図76と対比されよ)。

チトブラストはかならず細胞の囲壁の中に埋もれており、このような状態でそれが作った細胞の全生命課程をすごす。
あるいは、さらに高度の発展を運命づけられた細胞中にある場合には、その位置で、あるいはあたかも不要のメンバーとして遺棄された後に、細胞の空間内で溶かされ吸収される。----観察しえた細胞では例外なく、細胞壁の内表面上に2次的沈着が開始されるのは、チトブラストの吸収後に限られる。



膠観

2013-05-28 09:00:00 | アルケ・ミスト
以下に披瀝される私の主張を簡潔な、そして難解さのないものにするために、なお二、三言ついやさなければならない第二の点がある。

それは、植物の生活活動で生じ、澱粉と各種木部繊維(Holziaser)にかかわりをもつ、各種の無機物質に関係のあることである。

私はけっして化学的に異なるすべての物質を枚挙しつくす資格を有する者ではない。
また私の用語と私が述べた特質を化学者がすべて是認することをかならずしも必要とはしない(そもそも現時点で完璧を期することは望みえないことであろう)。
もっとも重要な変化、つまり植物の体制の発達の結果とその意義に数言触れて後にくりかえすのを避けようとするにすぎない。

植物では澱粉がほとんど動物の脂油に代わって現れる。
それは将来の利用のために蓄積された余剰の栄養物である。
したがってそれは、通常、短い休止期の後に形式的な過程が再開されようとする個処、あるいは生活が満たされていて栄養物が過剰に生成されたところにみられる。

それは、最近、立ち入った研究の対象になってきている。
しかしその問題に立ち入ることは私にとってまったく不必要である。

マイエンの「生理学」第1巻19頁などにその方面の成果のごく最近の、そして有益な要約があることを読者に紹介することにとどめよう。

澱粉のかわりに、しばしば半ば顆粒化した物質がみられることがある。
たとえば花粉、ある種の植物の胚乳の中に、またしばしば葉の細胞の中に、クロロフィルの礎質としてそれが存在する。それはおもに内部構造のない不規則な粒状を呈している点で判別される。

またヨードチンキによって黄褐色あるいは褐色に着色する点で判別される。
これを私は粘液質と呼びたいと思うが、この物質はチトブラストを作っている物質と、おそらく同一物である。

また後述するところのゴム質(Gummi)の中の微細な粒子と同一物であろう。

第一の推察の可能性はマイエンがすでに指摘したところである(「生理学」第1巻208頁)

しかしこれは澱粉が新たに形成されるさいに溶けて、糖またはゴム質となる。
これがどのようにしておこるかはかは化学ではまだよく知られていないものである。
時にはゴム質が糖に、またその逆に変わることもあるもののようにである。

糖はほとんど水と変わらない完全に透明な液体として現れ、アルコールで濁らず、ヨードチンキ自身の色の濃さ以上に着色することはない。

ゴム質はわずかに黄色味を帯びた、密度の高い、透明度の低い液体として現われ、ヨードチンキで凝固して粒状となり、淡黄色の安定な着色がおこる。

さらに体制化(Organisation)が進むとき、ゴム質がチトブラストに直接先行する最後の液体なのであるが、その中にきわめて微細な顆粒が出現する。

それは多くの場合、たんなる黒点としてしか認められないほど微小で、その場合は、この液体はヨードでやや暗い黄色に着色するようである。しかし目にみえる程度の大きさの顆粒は暗い黄褐色に染まる。

体制化が起こるにはつねにこの物質の中においてである。
そしてもっとも若い構造はもうひとつの、完全に透明な物質でできている。この物質は圧を加えると均質な無色の塊となる。

乾燥状態にあるときには、水を吸わせると膨潤する。ヨードチンキで何らの変化も受けず、それを吸着することもしない。

圧を加えても全く無色のままで、完全に透明であって、周囲に着色物あるいは不透明な物体がないかぎり認めることはできない。

この物質はよく植物体の中に作られる(たとえばランの塊根の異常に大型の細胞中に少量の澱粉とともに多量に作られている)。

便宜上、これを植物性ゲラチン質(Pflanzengallerte)と呼ぶことにする。なお従来の慣わしにごくわずかしかな訂正を加えて、トラガカントゴムの基質であるペクチン(Pectin)および通常植物性粘液質の名のもとに数えられている各種物質を、この呼称のもとに一括したいと考える。

後に化学変化によって細胞膜(Zellemembran)またはそれで構成されて肥厚した構造に転化し最終的に植物性繊維物質(Fasersfoff)に転ずるのは、このゲラチン質(Gallerte)である。




Gallerte ⇒ ゼラチン(gelatin )同義語



膠観

2013-05-27 09:00:00 | アルケ・ミスト
このもののもつ立体的な形態がレンズ形から完全な球形にまで移るに従って、その輪郭は卵形から円形まで多様である。

卵形および扁平なチトブラストは単子葉植物と胚乳、花粉でしばしば見られた。球形のそれは主として双子葉植物と、葉、茎、多細胞性の毛、および類似の構造でみられた。しかしこの点に関して一般的な法則はないものとみうけられた。

チトブラストの色彩は一般に黄色を帯びているが、銀白色に近い場合もある。
ある種の水生植物の胚乳、未成熟の花粉、ある種のラン科植物、さらにCrassula、Bortulacaの葉の退化器官では全く透明であった。
子嚢菌類のある種の胞子ではほとんど発見できないほと透明である。ヨードによる着色は種類によって淡黄色から濃黒褐色まで多様である。

大きさははなはだ不統一である。
一般に単子葉植物と胚乳のそれが最も大型で、双子葉植物の葉、茎およびそれから変態した部分のそれはもっと小型である。
私が測ったうちで最大のものは直径0.0022パリ・ツオル(Fritillaria pyrenaicaの場合)、最小のはLinum pallescensの花粉管の成長先端(Embryonalende)の中のもので0.00009-0.0001パリ・ツオルであった。Abies excelsaの胚乳で同じ大きさと思われる数例の平均をとったところ、0.00034-0.00059-0.00079パリ・ツオルであった。Crassula portulacaの若い葉では0.0003パリ・ツオル、またPimelea drupaceaの胚乳では0.00095-0.001055であった。

ただし、こうした測定は重要ではない場合が多い。
なぜならばチトブラストの大きさには消長があり、測定した時点においてそのチトブラストがどの段階にあるか、断定不可能だからである。

チトブラストの内部構造は一般に粒状である。
しかしそれを構成している個々の顆粒が明瞭に識別されるわけではない。堅さははなはだ不均一で、ほとんど水に溶けるほど柔軟なものから加圧機を用いて強い圧力を加えても変形しないほど堅固なものまである。

---新生のものほど柔軟である。
このことはそれがごく短時間しか存在しない場合にもあてはまる。より密度が高く、より明確に識別されるのは、恒久的組織として植物の全生涯にわたって残った場合である。ラン科植物においてそれがみられる。


これらの特徴はある程度ロバート・ブラウンによって記載されている。
(「ラン科とガガイモ科における生殖の器官と様式」1837、710頁)さらにマイエン(「生理学」第1巻207頁)が言及している。しかしこの2人の最も鋭い観察においても、最も本質的なものの1つと考えざるをえないある1つの現象が見逃されている。

たとえばPhormium tenaxとChamaedorea schiedeanaの形成直後の胚乳(図73参照)のように、きわめて大型のそしてみごとに発達したチトブラストでは、その中に1つの小さな物体が明瞭に認められる(それがチトブラストの内部に沈んでいるのか、それとも表面にあるのかは不明である)。
それは、それが投ずる影から判断すると、太い環あるいは厚い膜をもった中空の球体と思われる。さほど発達していない例では、この環の外周が明瞭にみえるだけである。その中央に1個の暗い点が認められる。たとえばLimnanths Douglaset、Orchis latifplia(図89)、Pimelea drupacea(図82,83)の胚の柄においてそれがみられる。より小型のチトブラストでは、輪郭の明瞭な斑点としかみえない。
これは最もよくみられる例で、たとえばRichardia aethiopicaの花粉、Linum pallescensの若い胚、ほとんどすべてのラン科植物でみられる(図84)。そのほか、最後に、単なる暗い小点として認められるにすぎないものもある。

まだそれが発見されていないのはきわめて小型でごく一時的なチトブラスト(たとえば双子葉植物の葉)の中である。きわめて希に2個みられることもある。
しかしこれは一般原則からは例外であり、大多数では必ず単一の核(Kern)をもっている。たとえばChamaldorea schiedeana(図74,75)、Secale cereale、Pimelea drupacea(図82)、後2者では時に3個の例さえあった(図83)。
形成過程を完全に追跡観察することができた植物では例外なくこの小物体はチトブラストに先んじて形成されると結論された(図69,70)。かくして私は次のような推測に傾いた。

それはこの小体が、フリッチエが澱粉粒(Starkemehl)中に存在することを示した核とかならずしも別個のものではなく、おそらく同一のものではないかという推測である。

この小顆粒の大きさもまたいちじるしく不均一であり、チトブラストの直径の半ばにも達するほど大型のものから、顕微鏡のしぼりの中の線よりはるかに細いために計測不可能のものまである。

Abies excelsaの胚乳では平均0.000045-0.000095パリ・ツオル、Pimelea drupaceaでは0.00029-0.0003パリ・ツオルであった。チトブラストの部分より暗くみえることもあり、逆により明るく見えることもある。
一般的にいえば、チトブラストが圧力によって無定形の粘液質(Schleim)になってしまった後にも明瞭に見える状態が続く。たとえばそれはPimelea drupaceaでみられる。














膠観

2013-05-26 09:00:00 | アルケ・ミスト
シュライデン 「植物発生論」

人間理性の一般的基本法則としての、認識の統一を指向するひたすらな趨勢があることは、科学のあらゆる分野においてあますところなく、絶えず明らかにされてきた。


また、動物界、植物界の二大世界の間の共通性を確立するための努力が繰り返し払われてきた。
この問題に関心を払った人びとは秀でた人達ではあったが、しかし、この観点でこれまでなされてきた試みがすべて、完全に不成功であったと認められるに至っているが、しかしその理由は、かならずしもつねに十分正しく理解されてきたわけでもなければ、完全に詳細にしかも明快に解明されてきたわけでない。

その原因は、動物界の場合の意味における個体の概念が植物の世界にはいかにしても適用できないということにある。
ある種の藻類や菌類のように、体が単一の細胞でできている、きわめて下等な植物の例に限られる。

いくらかでも高水準に発達した植物は、完全に個体性をもって独立した個別的存在であるところの細胞の集合体である。

各細胞は二重の生活をする。
一は独立の生活であり、それ自身の発生(Entwicklung)のみに関わるものである。
他は植物全体の不可欠な一部分となっているという意味で、間接的な生活である。

しかし植物生理学についてみても、また比較生理学一般についてみても、第一義的な、絶対不可欠の基礎をなさなければならないのは、個々の細胞の生命課程である。このことは容易に容認されるところである。したがってまず小型生物であるところの細胞はいかにして形成されるか。

広範な研究さえあればその固有の科学的価値を充分に伝えることが可能であるということを十二分に認識していながら、しかもなお、今ここで以下の観察を公刊する冒険をあえて試みる理由は唯一、この問題がその固有の科学的価値をもっているからに外ならない。

そのうえ、おそらくこれらの観察を通して、このきわめて重要な課題に関心を集めることができるであろう。

自然現象を憶測的に説明しようとする試みから科学における真の進歩が生まれることはありえない。

したがって、以下では少なくとも筋道の通った仮説、すなわち根拠となる事実の選択の条件がすべて満たされているところでなければ歴史的導入はいっさいこれを省くこととする。

私の知る限りでは、今日まで、植物細胞の発生に関する直接の観察は存在しない。

シュプレンゲルが始原的な細胞とみなしたものが澱粉粒(Amylumkomer)であることは、はるか以前から明らかにされている。

ラスパーユの研究にいたっては、それに立入ること自体が科学の権威を損ねることのように思われる。
いささかなりとも立入ることの必要をおぼえる向きは、自らその研究を参照されたい。

この問題と関連ある研究としてミルベルの業績あるのみである。

これはきわめて特色のある研究であるが、これを引用するのは後の機会にゆずる。
彼といえども細胞形成の過程についてはなんら言及するところがなかったからである。

おそらく今日まで、何人にもまして広汎に植物解剖学を研究したと思われる人物はマイエンであるが、彼はほとんど例外なくでき上がった形態の研究の範囲内に留まり、形成の過程それ自体は彼の探求の圏内にもたらされことがいかんながら皆無であった。

----さらに数多くの疑問が残されている。その解決を彼の「生理学」に見出すことを期待したが、それは報いられるところなかった。

包括力のある天性の才能をもち、すでに先人によって観察されながらもなおかつ全体として忘れさられていたある現象の重要さを初めて如実に示してくれたのはロバート・ブラウンであった。

彼は初めて、ラン科植物の表皮細胞の非常に多くに、不透明の斑点を発見した。
彼はこれを暈(Areola)または細胞の核(Zellenkern)と呼んだ。

彼はその後、花粉細胞の初期の、若い胚珠(Ovulum)、柱頭の組織(Stigmagewebe)、ラン科その他多くの単子葉植物に、またある種の双子葉植物にさえこれがあることを追認した。

私が胚発生の広汎な探求にかりたてられたのは、この暈が、ごく若い胚と新たに形成された胚乳(Albumen)中につねに存在するという事実を知ったときである。

その多様な現れ方を考察したあげく、この細胞核が細胞それ自体の発生と何らかの密接な関係をもっているに相違ないと考えるに至ったのは当然のなりゆきであった。
その結果として、とくにこの点には注意を向けたのであったが、私の努力が実を結んだのは全く幸運に恵まれていた結果であった。

しかしながら、この観察の公表に先だって、細胞の核についてやや詳細に記述しておく必要がある。ここで特異な、そして植物に普遍的と思われる要素的な器官について述べなければならないので、このものに適確な名称を与えることへの釈明は必要ないものと考える。

以下に述べようとするその機能を考慮して、それをチトブラスト(Cytoblastus-細胞芽由来)と称することにする。



訳注
今日でいう核(細胞核)と同じ細胞内構造体である。
この意味での用法は普及しなかった。アルトマン(Altmann 1890)は生命の窮極的な単位は細胞以下にあると考え、その単位をビオブラスト(Bioblast)とよんだが、このときチトブラストの語も用いた。
ケリカー(Kolliker)では裸の細胞つまりプロトプラスト(protoplast)の意となっている。

細胞核cell nucleus
オーストリアの植物画家フランツ・バウアーによって1802年に発見された。

イギリスの植物学者ロバート・ブラウン(Robert Brown、1773年12月21日 - 1858年6月10日)により1831年に再発見され、ロンドンのリンネ協会に説明された。


余滴
ブラウン運動で知られる彼の発見は1827年とされているが、それ以前にも数多くの観察記録は残されている。
ことに注目されるのは無機物質の記録も含まれているのだが、その一つはJan Inger-Housz(1784)の炭をあげられる。








膠観

2013-05-25 09:00:00 | アルケ・ミスト
3 細胞分裂の発見

当時すでに、細胞の分裂による増殖について、一部で気づかれつつあった。

モールは1835年の学位論文(印刷発表 1837年)で、シオグサ、花粉、ツノゴケ胞子、孔辺細胞などで、細胞が分裂によって増殖する例をはっきりと描写した(Mohl 1837)。

ただ、かれは、細胞の増殖には分裂のほかに細胞内細胞形成によるばあいもあるとし、この点ではミルベルと変わっていない。
かれはきわめて用心ぶかい性格の人物であり、自己主張をひかえた。そのために、かれの研究はシュライデンの目にはとまらなかった。

医師であるとともに植物の組織学者、生理学者であり、そして植物地理学者としても著名であったマイエンも、細胞分裂が藻類、菌類において広くみられることをのべていた(sachs 1875、Sharp 1921、Magderau 1973)。

こうしたなかでシュライデンが打出し、シュヴァンが支持した細胞内細胞形成説は、抵抗をうけるどころか、逆に支持されたもののようにうけとめられる。

これに対して、あるゆる植物細胞について、それが分裂によって形成されたものでることを他に先んじて一般化したのはウンガー(1841)であった(Sachs 1875)。
かれは成長点を観察し、そこの細胞の大きさと位置とから、細胞は分裂によって生じるのであって、シュライデンのような様式ではないと結論した。

同じ年、動物の細胞についても、レマク(1841)が細胞分裂を記載した(Sharp 1921)。それによると、かれはこの時点ですでに、「細胞は先在する細胞からのみ生じる」とのべてシュライデンに反対している。
なお、かれのばあいは、細胞の分裂には核の分裂が先行することも明らかにしたのであった。

1842年にはシュライデンの後輩であり親友であったスイスのネーゲリが、根端の組織の観察から、ウンガーと同じ観察をおこなった。
しかしかれもこのときは、まだ分裂を結論しなかった。

一方、シュライデンは強気であった。
1842年の“Grundzuge”第1版では自説をくりかえし、はげしい口調で論敵を攻めたてていた。ウンガーやネーゲリの声はかきけされてしまっていた。
1844年のBeitrage zur Botanikでも訂正の必要なしと強弁していた。

ところが、この1844年に、シュライデンははじめて、反論の予想外なきびしさに気づくことになる。
ウンガー、モール、ネーゲリが一斉に公然とシュライデン説批判の声をあげたからである(Sharp 1921)。

ウンガーは2篇の論文を発表し、植物の成長点と形成層における細胞の位置、細胞壁の厚さ、細胞の大きさから、細胞が新しい細胞壁の形成によって二分されることによって細胞の増殖がおこることを結論し、みずからの観察はシュライデンの説と一致しないと結論した。

ただしかれは、分裂中の細胞にかならずしも核が不可欠ではないと、核を軽視する発言をおこなって、あとでシュライデンに反撃される。

モールは「植物細胞の構造にかんする若干の考察」と題する一連の論文を発表、このなかで、細胞形成には分裂と細胞内細胞形成の2種類があるとした。

かれはこうもいっている。、「(シュライデンによれば)新しく形成された細胞はかならず親細胞よりはるかに小さく、しだいに膨張して、親細胞の内腔を満たすにいたると、新しい細胞と親細胞との細胞壁は密着するにいたるはずである。

したがってクロロフィルやデンプン粒のような粒体を含んでいるいる細胞のばあいは、・・・・これらの粒体を除去しないかぎり、(新細胞の形成は)おこりえないはずであるにもかかわらず、事実上、これらの粒体はすべて(新細胞の形成過程を一貫して)保持される。

シュライデンはこの事情を説明するために、細胞胞内のこれらの粒体は新細胞の外でいったん溶解し、そのごに新細胞内にふたたび形成されるのだ、と仮定した。
しかしそのようなことがおこることは、なんら観察されていない。従ってこの事実だけでも、細胞の新形成の説は否定される。」反論の余地のない冷静な論理である。

ネーゲリは、かんじんの観察に他の人びとの報告を加えて手びろく事例をあつめ、そして注意ぶかく比較検討した。
その結果、細胞が分裂によってふえることをみとめざるをえないことに、まず気がついた。その研究を、かれはシュライデンと共同編集で創刊したZeitschrift fur Wissenschaftliche Botanik誌の第1号に掲載した。
しかし、この段階では、シュライデンの説に修正を加えながらも、まだそれを否定しはし
なかった。それでもシュライデンはここで一歩後退を余儀なくされた。

1845年のGrundzuge der Wissenschaftliche Botanik の第2版Die Botanik als Inductive Wissenschaft において、第2の型として、分裂による細胞の形成の存在をみとめた。

第2報(1846)ではネーゲリはもはやシュライデンに対して遠慮しなかった。
シュライデンの誤りを明快に指摘し、批判し、否定する論文を、同じ雑誌の第3号に公表した。そして、例外的に自由細胞形成がおこるばあいが2つだけある。

第1は生殖細胞形成のばあいであり、第2は胚乳形成のばあいである。とのべ、シュライデンの誤がおきたいきさつまで明らかにし、とどめをさした。

ネーゲリの理解はこのあと20年間の、さかんな細胞分裂研究のなかで部分的に補正され完成されていった。
補正の中心は細胞分裂における核の行動にあった。

ネーゲリはムラサキツユクサのおしべの毛において、親細胞の分裂の前に1個の核が2個になる図を描いている。
しかしこれを一般化することには思い及ばなかった。シュライデンが想像したように、核は新生されるものと信じていた。

このあと、細胞分裂の研究は有糸核分裂の発見をいとぐちとして一挙に核分裂の研究へと発展し、発生学と結合して19世紀後半のはなばなしい時代を迎える。

こうして、シュライデンの細胞形成説は完全に否定され、そのことを通して細胞説は完成され不動のものとなったのである。


老婆心ながら、ネーゲリについての一言。立花は「でんぷん粒、セルローズ膜、タンパク質などの有機体の中には光学的に見て小さな結晶性部分があることを観察して、これにミセルと名づけた。
これらの溶液でミセルは小さなミセル粒子として分散するとしてミセル溶液の概念を始めて提出した。(1858)Ostwald Klassiker Nr.227収録


膠観

2013-05-24 09:00:00 | アルケ・ミスト
2 誤解の原因

シュライデンがこのような細胞内細胞形成または自由細胞形成のあやまちを犯した原因として、かれの用いた観察材料の不適をあげる見方もある(Hughes 1959)。
それによると、かれがおもに植物の柔組成を用いたのがかれにとって不運であったという。すなわち、植物の柔組織細胞では、はじめ細胞内を細胞質がみたし、その中央に核が位置しているが、液胞化がすすむにつれて細胞質はうすい層となり、核はその中に包理されて細胞壁に沿うようになる(図84参照)。

ときに核が見失われることも、まれではない。
この事実が、かれを核が細胞になるという解釈にみちびいいた。

つまり、シュライデンは根端などの分裂組織も観察しているが、それよりも胚嚢や花粉粒など柔組織性の細胞の増殖にこだわったのがまちがいのもとだった。というのである。

シュライデンが発生史的方法を重要視した事実があるから、ここからも胚嚢、花粉重視が生まれたということは、ありそうなことではあるが、これはうがちすぎというものではないだろうか。

かれはGrundzuge・・・(1842-1843)にソラマメの胚嚢中での細胞形成なるものの図を示しているが、きわめて不十分なものである。
当時の顕微鏡観察技術からくる制約がきわめてきびしいものであることがわかり、この制約あるかぎり、根端の分裂組織の観察を重視したとしても、成功のみこみはうすかったとしないわけにはいかないであろう。
むしろ、かれの「形成力」による結晶形成のモデルと核、核小体の発見が、かれの思考を束縛したのではないだろうか。

いずれにせよ、シュライデンのこの見解はシュヴァンに、そのままのかたちでうけいれられた。

ヒューズとテイラーは、シュライデンにはもうひとつ不運があった、と示唆している。
それは、かれが受精後の胚嚢中にみられる例を、植物細胞形成の典型例と理解したことである。このばあいには、細胞分裂のない核分裂が先行する、いわゆる自由細胞形成がおこる例があり、これはあるいみで細胞内細胞形成といえるからである。

しかし筆者はこの示唆もあまり有効なものとは思わない。
胚嚢中に、とくに胚乳形成においてしばしば報告せれている自由細胞形成を、当時の顕微鏡観察技術の成約のもとで、シュライデンがどれほど正確に観察しえたか、前に引用した図から判断してそれがおおいに疑問であり、しかも、かりに自由細胞形成を観察しえたとしても、その経験からシュライデンのような核小体→核→細胞という発想のヒントが与えられるとは思わないからである。このヒントはヴォルフからのものと思わざるをえない。


Caspar Friedrich Wolff Finally, in 1767, with help of the mathematician Leonhard Euler he obtained the chairmanship of anatomy at the St.Petersburg Academy of Sciences (now Russian Academy of Sciences). He died in Saint Petersburg.

その多くの仕事をなしえた場所を、ここロシアにえた。

膠観

2013-05-23 09:00:00 | アルケ・ミスト
4 細胞説の完成

①細胞内細胞形成
先に指摘したもんだいの2、すなわちシュライデン、シュヴァンによってもたらされたもの、それは「細胞の発見」であったのか否か、のもんだいにはいろう。
端的にいって、この問いへの答えは、イエスであり、ノーである。いいかえて、細胞の「真の発見」であったといえば、あるいは、まぎらわしさが少ないかのようにかんじられるかもしれない。
シュライデン、シュヴァンの業績を、先ほどからの「細胞説の創始」といういい方で表現してきた。細胞説の「確立」でも「完成」でもない「創始」。
それが「細胞の発見」であり、「細胞の発見」でなかった。そこのところのふくみは、シュライデンが犯し、シュヴァンがそのまま踏襲したあやまちをたどることによって理解されてくる。

シュライデンはその「植物発生論」のなかで大きなあやまちを犯していた。
それは、新細胞の形成の様式についてである。かれは、細胞分裂をしらず、のちに細胞内細胞形成とよばれた方式を唯一の細胞発生の様式と信じ、それを説明するために、細胞内構造の理解において、まったく誤った仮定をおくことになってしまったのであった。

ヒューズはこの事態を、シュライデンは「ふたつの仮説たてたが、そのふたつともが誤りだった」といっている(Hughes 1959)この誤りをふたつともなすことはできないことではないが、それらの誤りは一連のものであるので、ここではひとつのものとみる立場をとる。そしてそれた一連の誤りのつながりをみていきたい。

シュライデンは解剖学から入ったために、細胞内構造についての知識に、当時の水準からもても不足があった。
当時すでに植物細胞内に細胞壁から区別される流動性の内容(いわゆる細胞質)がみとめられる例がしられていた。
しかし「植物発生論」では細胞質と細胞壁との区別はない。そのためにZellwandungあるいはWandungなどといった語で、細胞の、液胞をとりまく部分、すなわち細胞質(核を含める)と細胞壁を一括して表現している。この訳では前後のかんけいをみて囲壁という新語を用いたり、たんに壁と訳したりしなければならなかった。199,200、203頁の記述の不可解さはこの事情にもとづいている。

しかしシュライデンは細胞質について知識をまったくもっていなかったわけではない。
しかしかれの念頭にロバート・ブラウンの核の発見がつよい印象としてあった。
かれがベルリンで学んでいたころ、ちょうどブラウンがベルリンにきていたこと、によるものであろう。
また、各細胞ごとに1つの核があるという事実が、かれを細胞が相対的に独立した生命の単位であるという着想にみちびいたという事情もあったと思われるが、かれの細胞内の核以外のぶぶんにかんする関心は浅いといわなければならない。

かれはこのぶぶんを構成する物質を、たとえばしばしば「原形質」の定義として与えられた「生きている物質」というような、より「高度」な物質、かれの語によれば「高貴な」(Dignitatの高い)物質とはとらえていない。糖質、ゴム質、粘液質の混合物とみなしている。
「生きている物質」といったような形容矛盾は、後の著書においてヘーゲルを否定しカントに還れと強調したかれにとって、ゆるしがたいものであったはずである。


他方でかれは、核のなかに核小体を観察する。ここから、チトブラステムのなかに形成された微小顆粒が凝集して核小体となり、これが結晶の成長と同じ力、つまり形成力によって成長して新しい核(チトブラスト)となる。核が膨張して細胞となるものとかれは確信したのである。図Fはその過程を示す証拠であるとかれはいう。



カントニアンの空間説に留意しておこう。

膠観

2013-05-22 09:00:00 | アルケ・ミスト
④ 唯物論
シュヴァンとの相対におけるシュライデンの位置づけを右のように評定する論理には、それぞれに正当な根拠が認められる。ここではそのことをみとめたうえで、三つのもんだいを補足しておく。

第1は、「植物発生論」の冒頭近い、第2パラグラフの「各細胞は二重の生活をする」以下の部分にあらわれている、シュライデンの細胞観である。この細胞観はメイスン、井上、巴陵などが注目して引用しているが、しかしその意義づけなどはおこなっていないので、たんに、“興味ある表現”といったていどのあつかいにすぎないようにみうけられる。


シュライデン、シュヴァンのあと、細胞分裂の発見、原生動物、卵子、精子などがいずれも単一の細胞であること、受精が細胞の合体であること、核の意義などがひきつづき解明されることによって、細胞は個体の発生、生理、遺伝、病理の単位であることが明らかにされ、こういうかたちで19世紀後半に細胞説は完成をみるのであるが、この歴史のなかで“細胞学の分裂”(佐藤 1973)がおこり、また“単位としての細胞”が強調されるのに比して(個体の)“部分としての細胞”の観点はあまり注目されなかった。
個体の発生、生理、遺伝、病理などがすべて細胞のそれに還元される勢いを示して20世紀の生物学は歩んできた。この勢いに抵抗しようとすることはけっして容易ではなかった。

しかしその果に、細胞研究は1960年代以降、しだいに“細胞関係論”(細胞社会学とも俗称される)の方向を模索するようになり、近年とみにその成果をあきらかにしてきた。

この新しい勢いの指向するものは、“単位としての細胞の、部分としてのありよう”であり、この認識は右に引用したパラグラフでシュライデンがのべていることと、あまりにもよく符合するのにおどろくのは筆者だけであろうか。

細胞学は右にのべたような過程を経過するなかで、単細胞生物を細胞の典型とする立場を支持してきた。これは生物学ではフェルヴォルン(1894)が強調した立場である(柳田 1953)が、この思想の功罪は、筆者の見解では罪の方が大きかったと思う。このもんだいのくわしい論議はいずれ稿をあらためて展開しなければならないが、前世紀から今世紀半ばにかけて、細胞学の裏面史として、いわゆる原生動物は単細胞生物か無細胞生物かという論争が延々とつづいていた事実は、ひとつの示唆を与える。細胞のあらわす現象に、個体レベルと細胞レベルのちがいを意識する必要があることを指摘した(佐藤 1975)のは、このもんだいと関わりをもつ。

第2の補足は、シュライデンの哲学的な立場についてである。
かれが「生命力」(Lebenskraft)なるものを否定し、生物界、無生物界をとわず自然界で生起する現象はすべてただひとつの力を原因としておこると主張していたことは、かれが自然発生説に反対し、また結晶と同じ原理で生物の成長を説明しようとしたことからも納得できる。
これは疑いなく唯物論の立場である。

しかしクラインによれば、かれら唯物論者のラベルをはられることを拒否してカントの立場をまもろうとした(Klein 1975)。また巴陵は、かれがカントにしたがって物質と精神との両者の実在を信じていたかったために当時一元論をとなえていた神学者から非難をうけた、とかいている。(巴陵 1941)。
シュライデンの立場が唯物論の立場にあったことは明白であると思われるし、またそれは、自然哲学を克服しようとした以上、そうならなければならない必然性があったことと理解される。

第3の補足はこのことと関連する。
それは、かれの唯物論はいわゆる自然発生的唯物論であって、自覚的な唯物論ではなかった。ということである。
右のクライン、巴陵の記述はそのことをのべているものである。そのように、自然科学者としてのかれが自覚的な唯物論の立場にすすまなかった原因には、いうまでもなく、自然科学の当時の水準からくる制約がはたらいていたもと思われる。
かれが生命力に代わるものとして、生物界、無生物界に共通する唯一の力としてみとめたものを「形成力」(Formbildende Kraft)とよぶことに矛盾を感じなかったのは、その制約の存在、というよりもそのつよさを示している。このような概念は、かれが敵視し激しくたたかった当の自然哲学のえいきょうから、かれじしんがぬけきれていなかったことを証明している。

「植物発生論」のなかで、細胞のDignitat(高貴さ、気品)、Bildmgsflussigkeit、Organisierbare Flussigkeit(形成力)といった語を用い、またpotenzierte Zellenとかedler Safteなどという表現をとっているのも自然科学のえいきょうとみることができる。





ここでも除籍された本からの引用となる。

世界の名著32「カント」中央公論社 付録61
野田;ニュートン力学に対するカントの理解が、はじめの宇宙論を書いたときには、ニュートン力学の三つの法則と万有引力の法則がいっしょくたになっている。これがある意味でしまいまでカントのニュートン解釈の特色だったともいえるかもしれません。



膠観

2013-05-21 09:00:00 | アルケ・ミスト
③ シュヴァン
つぎに、シュライデン、シュヴァンに細胞説創始者の功をみとめるとして、通説に反して、シュライデンよりもシュヴァンの功績をより高く評価する見方がある。先のエンゲルスの言はこれをあらわしている。

この見解を強調するのはコンクリン、テイラーなどである。

コンクリンはつぎのように辛辣にいう(Conklin 1940)。
科学の歴史のなかでもっとも驚くべき事実のひとつは、生物学の教科書の多くにおいて、イエナ大学教授シュライデン(1838)が細胞説の創始者であって、あたかもかれが、あらゆる植物組織が細胞からできていることをはじめて発見したかのようにかかれていることである」と。

この点ではテイラーもきびしい(Taylor 1963);「細胞が生物の単位として普遍的なものであることを立証した功績を主張した人がいるとすれば、それはシュヴァンであってシュライデンではない。ところが、シュライデンは自分のことを自慢し、他人を論難するやり方で、より大きい功績を世間から認められた。それはシュヴァンの謙虚さのおかげであった。」

これほど露骨ではないが、さりげなくシュヴァンとシュライデンの上に位置づける例は少なくない。

ルンデゴールドは「植物体のあらゆる部分が細胞から由来することはすでに知られていたが、シュヴァンはこれを動物にも敷衍しただけでなく、細胞形成の普遍性は個体発生の現象を一つの原理に還元することを可能にするものであると明言した。かれは形態形成の因果分析にすすむために、細胞形成を機構論的(mechanisch)に説明しようとした。こうしてあらゆる個体発生の原因としての形成原理を定立しようとしたのである」とのべている(Lundegardh、1922)

ルックも「テオドール・シュヴァンとマチアス・シュライデンがこの重要な業績における協働者とみなされる。」とシュヴァンの名をさきにあげ、また「シュライデンは1838年に発表し、二つの主要な結論にたっした。かれは植物は細胞とその変形でできていること、および植物の胚は単一の細胞から生じてくることを発表した。シュヴァンはそれ以上に包括的な研究をおこない、細胞説という語をはじめて用いた。」とかいている(Rook 1964)

ウィルソンは名著「細胞」の序章「細胞説の歴史」の長い脚注で、その歴史のなかでのシュライデンとシュヴァンの業績を位置づけたあと、こうかいている。

「シュライデンの業績、とくにシュヴァンの業績の重要性は、問題を追求するやり方の究極で徹底的であること、結論をひきだす哲学の広さ、そして、そのごの研究に与えた遠大なえいきょうにある。

この観点で「顕微鏡的研究」は「種の起源」と比肩してもけっして劣るものではない。」(Wilson 1922)明らかにシュヴァンの業績をシュライデンのそれの上に位置づけている。
真船(1950)が、19世紀初頭における細胞説成立の歴史的意識を論じる目的で、シュライデンでなくシュヴァンをとりあげた理由も同一であろう。
ダイネマン、コロドニィ、井上も同様である(Colodny 1970、井上清恒 1978)。



面白くてためになるおはなし、その史観はいろいろに分化する!こともある。

膠観

2013-05-20 09:00:00 | アルケ・ミスト
みち草から帰ってくると、②デユトロシエ

細胞説の先行者としては、なかでもデユトロシュの評価が高い。
彼は前述1824年の著のなかで、動物植物ともそのからだがきわめて多様な形と構造をもった極端に小さな細胞からできていることを示した。

1842年の著では「個々の細胞にきわだった個体性がある。そしてこれに植物の概念がもっとも普遍的に表現されている。したがって、この細胞を植物界の基礎として研究することが、なによりも優先されなければならない。吾人が植物細胞の研究を公表した理由はここにある」とのべている。

ここに表明された、細胞が(植物体の)単位であるという観点、これがシュライデンに先がけた細胞説の提唱であるとみなす立場がありうるわけである(Gabriel & Fogel 1955、Rook 1964)。とくにリッチ(1926)がこの立場を強調した(Hughes 1959)。

デユトロシエの1824年の論文を英訳し解説した編者(ガブリエルとフォーゲル)は、つぎのように評価する:

「細胞説のための功績をだれか単一の個人に帰せしめようとすることは科学的発見の本質を誤解させやすいことはわかっている。そのうえで、デユトロシエが他のどの研究者よりも優先して、細胞概念を・・・・定式化した名誉をになうべきだといえる。かれは核の存在を認識したわけではないし、各細胞がそれじしんの生活史をもっていることを発見したわけでもない。しかしかれは、細胞と生物体の構造、機能とのかんけいに関心をよびおこしたと同様に、細胞の個体性と独立性につよい関心をよせた。
この考えを全生物の形態と構造のもんだいに適用して、かれは指摘した:
“成長は細胞の体積の増大の結果であると同時に、新しい細胞の付加の結果でもある。すなわち、新しい未完成な細胞が形成され、これが大きさをまし、ついにその外観、発達とも先行する細胞と同様になるのである。”こんにちでも成長の本質についてのこれ以上のわかりやすい記述はめずらしい。」

教科書「細胞生物学」の著者アンブロースとイースティもデユトロシエを評価して、つぎのように記している(Ambrose & Easty 1970):「19世紀に入るとともに、動物の各器官はすべて筋肉、骨、軟骨、脂肪などのような組織でつくられていることがわかってきた。同様に、高等植物の茎、根、葉、その他の器官も種々の組織でつくられていることがわかった。19世紀の初期、デユトロシエは、植物および動物の材料の注意深い研究にもとづいて、組織の構成にかんする統一的な説を提唱した。
かれの結論は、これら組織はすべて、その形と構造には多様性がありうるが、“極端に小型の球状の細胞”からなりたっている、というものであった。
かれはさらに、かれの観察した細胞は、“たんなる粘着だけで”付着しあって組織となっているのである、と示唆した。
デユトロシエのアイデアは重要な先見であった。それは組織内の細胞の編制についての今日の考えとまったく合致するものである。」

クラインはかれの1842年の言(右引用)について、「この言は植物細胞学の誕生の明快な宣言である。この学問分野はこれ以降のすべての植物学教科書の巻頭をかざることとなった」と位置づけている。(Klein 1975)

リードも、ミルベルとラマルクが生物の構造と発生における細胞的なつくりの重要さを認識していたが、細胞の個体性をはじめて強調したのは
デユトロシエであったとして、つぎの文を引用する:「植物体の組織にあるものがすべて細胞に由来することは明らかである。このことは動物においても、観察によって明らかにされている。」(Reed 1942)

ルックは、「デユトロシエはレーウェンフック、スワンメルダム、マルピギー、グリュー、ブラウンなどの先行者たちをはるかに追いこして、生体がすべて細胞からなりたっていることを、はじめて明言した。・・・・かれはまた、成長は細胞の体積の増加と小さな新しい細胞の付加の結果としておこることも知った。これは成長の本質の新たな、そして十分な表現である。」(Rook 1964)

以上のような高い評価に対しては反論もありうる。たとえばヒューズはそのひとりである(Hughes1959)。また川喜田(1980)は「その記載がかなり不明瞭で、1824年というその日付を考慮するならば、ウィルヒョウもつとに批評しているように、彼ら(オーケンとデユトロシエ----引用者)が顕微鏡術の不備に基づく正体不明の小球をみていたのではあるまいかという疑義の出るのももっともである」とのべている。
ヒューズが拠っているのは、デユトロシエとシュヴァンの図を比較検討したというウィルソン(1947)の研究であるが、川喜田の根拠とするところもこれと同一と推察されている。だがここでデユトロシエ論に深入りする余裕はない。近代生物学成立史の残された課題として保留しておきたい。



René Joachim Henri Dutrochet デユトロシエは発生学のみならず幅広い活躍がみてとれるけれども、注目するべきは物理化学的な視座を持ち続けている点である。


詳細はあのグレアムとともに、考察することにしたい。