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みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-01-20 09:00:00 | アルケ・ミスト
不老不死elixirという言葉の語源は、伝統的にギリシャ語のxerionからとされ、これは傷の上に振りまく薬効のある粉、または、卑金属を金に変える粉である。

しかし、現在、この言葉は中国語の起源、おそらく薬剤、ないしは液汁からということが、少なくともありそうに見受けられる。
これらの語句の最初の語は、古代の中国の発音ではkで終わっていて、それでiqsirのqが説明できる。
この点がどうであっても、中国の原始化学は、マクロバイオテックな先入観を一貫して強調しているものの中で、ずばぬけた形の最古のものであることは間違いない。

「物質不滅性」、通常の死すべきものの必要や制約に束縛されないで、いつまでも自然の美を地上で楽しみつづけることができるようにする肉体と精神の霊化という概念が中国にのみ存在していた。

ここで二つの点を強調する必要がある。
第一に、冒されることのなに金属である金の精錬とこの世の生活での消滅することのない生命の獲得との結びつきは、われわれになんらかの知識のあるもっとも初期の錬金術(厳密にそう呼んでよい)----中国では紀元2世紀----に始まった。
第二は、何世紀もの間の金と不死との想念の連関から生まれた考えで、さびて腐食するすべての他の金属は、死の定められた人間と同じ病にかかっていて、「賢者の石philosopher’s stone」と呼ばれるようになったものは金属に対してと同じように人にとっても至上の薬であるというものである。

旧世界での化学の誕生前の歴史を簡単に描こうとすると、そのまとめは次のようなものになるであろう。

約半ダースほどの地域的・時期的な段階を区別しなけてばならない。
もっとも起源に近いところから始めて、ギリシャまたはギリシャ・エジプト的な原始化学的な伝承があり、紀元1世紀から始まって、ビザンチンの文化まで続き、11世紀に終わるもので、この時期から現在のもっとも古い写本原本がわれわれに伝わっている。
少なくともこれは哲学的な記述だが、純粋に実際的な化学的・金属学的技術(つまり、金を模倣するうえでの)に関するもっと以前の写本があり、紀元3世紀のパピルスが中心となっている。
この実際的な伝承は、大きな断絶なしに750年頃ラテン語へ翻訳された「着色への合成Compositiones at tringenda」と、1000年のすぐ以前のテオフィルス・プレスビターの技術的な本を通して、11世紀までつづいた。
これらのどれも完全な意味では錬金術ではなく、それはここにはマクロバイオテックな成分が欠けているからである。ひとびとは金を模倣したり、それの人工的な形のものを造ったと信じていた。

しかし旧世界の別の端の方の遠い地域には、不老不死薬または不死への「生化学的」医薬が人工的な金製造と密接に結びつけられている別の伝承があった。
これが中国の錬金術で、これは他のすべてのものの祖先である。
ここで、すべての文明におけるこの主題に関する最初の本、紀元142年の魏伯楊による「参同契」、また後になって848年に、すべての文明における化学的な主題に関する最初の印刷された本、コウカンキの「懸解録」が生まれ、これは重金属による不老不死薬の毒作用に対する植物性の解毒剤に関するものである。
今までのところでは、中国の錬金術とギリシャ・ビザンチンの原始化学との間にある先行や平行関係についてごくわずかのことしか理解されていない。

哲学者のスウエン(B.C.300頃)がデモクリトス学派のメンデスのボルス(B.C.200頃)よりも先行しているのは、紀元前3世紀の「考工記」の金属学的な化学が3世紀の実際的なパピルスよりも先なのとちょうど同じである。

言い換えると、両者の間には密接な平行関係がある。

金と不老不死薬との間の明確な関係を最初に述べたものが李少君(B.C.133)の言葉に認められ、次の世紀の半ばにはラリッサのアナクシラウスとその一群の人たち(ユダヤ女マリア、偽クレオパトラ、コマリウスなど)の著書が現れて、化学的な器械や技術の起源としてもっとも価値が大きいものだが、基本的には無機化学への傾向が強く、「自然学と神秘学(Physika kai Mystika」は、魏伯楊のような基本的に不老不死薬に関する書物ではない。

ちょうど同じ対照が、紀元3世紀の二人の体系化した偉大な人、つまりエジプトのパノポリスのゾシモスと中国の葛洪カツコウ(抱朴子)の間にも
成立している。
また、これはその約2ないし3世紀後に活躍した人たちについても例証できることで、新プラトン派のオリンピオドロスとアレキサンドリアのステファノスで、他方は偉大な錬金術医の陶弘景と孫思バクである。

最後に、われわれのギリシャ的な原始化学についての資料が紀元1000頃の日付があるのと同じように、「道蔵」(道教の著述全集)の最初の決定的な集大成で、錬金術の多数の本のもととなるものは1019年にできて、その最初の印刷が1117年であることも、奇妙な一致がみられる。

それでも、中国の錬金術の黄金時代は唐王朝(620-900年頃)の時代に対応している。これは孟? 梅彪 趙耐菴などの人たちが活躍した時代である。
アラビア文化圏の錬金術が中国から強く影響をうけたことは現在きわめて明白なので、以前考えられていたように、7、8世紀に栄えたのではなく、むしろ9、10、11世紀に栄えたという事実にさらに重要さを加えることになる。

900年ごろに、活動が急にさかんになったのは証明できることである。
ジャービル全集の多数の著作が出たのは偉大な錬金術師のアル=ラジー(al-Razi、860-925)の生涯とほぼ同時期だが、これらは彼とはまったく無関係で、むしろシンセリテイーのブレスレン(イクホワン・アル=サファー)として知られているクアルマテイアンの科学者たちに関係がある。

これは、またイブン・ウマイルの神秘的な錬金術と、ラテン語で、「哲学者の群turba philosophorum」として知られる著作の大成された時代でもある。後の本はソクラテス以前から後の期間ずっとアラビア人が知っていたすべての自然哲学者の意見のいきいきとした叙述の形をとって、空想的な国際的な1種の化学の学会である。

一世紀後に、偉大なイブン・シーナとアル=マジェリテイーの活躍があり、そしてフランク王国やラテン系の西部での真の錬金術の幕が上がる時期に近くなってくる。





みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-01-19 09:00:00 | アルケ・ミスト
さて、みずからの努めはサイクル、より正確にはリ・サイクルより精確をきせばリ・ソースにあると見定めた。
それらの多くは取捨選択された結果として、劣化の恐れがある事は広く知られている。
心してまいりたい。


われわれの主題は、境界領域としての魅惑的な関心の的であるが、今までのところ驚くべきことにフリッツ・リーベンによるしっかりした本(Lieben、1935)が一冊あるだけである。
おそらく(ミクラシュ)タイク氏が別の一冊をわれわれに提供してくれることであろう。

ずっと以前の状況にふれることもあるかもしれないが、この本に効果的にとりあげられた主な問題ははぼ1800年以降の事件に関したものである。

それで、以下の中心的な言葉----プネウマ--元素--体液--クラシス--第5元素--不老不死--結合--酵素----について少しずつ述べてみることにしよう。

「生命の息(breath of life)」について、どれほど多くの本が書くことができるであろうか(もちろん、書かれてきている)。
呼吸を生命と、また呼吸の停止を死と結びつけるのは、歴史上のもっとも初期のころ、またそれ以前から伝わってきたもので、身体、そのすべての器官、組織の機能が、見ることのできない多数の息の動きと本性の立場から考えられてきたことは、まったくたやすく理解できることである。

このプラウマ的な原始生理学と原始生化学は、旧世界のすべての文明に共通である。というのは、ギリシャのプラウマ(pneuma)はインドのプラナ(prana)、中国の気、また後代のアラビア語のルー(ruh)に同等であることがくわしく明らかにされてきている。

この概念の普遍性から、今までのところアッシリア学者はそのための十分な証拠を見つけ出すことはできないにしても、それが肥沃な新月状の地帯に起源をもち、あらゆる方向にひろがったとの考えが信頼をもてるようになっている。

古い頃には、インド人は、5種類のプラナを、中国人はもっと多くのものを数え立て、それを定義づけようと努力した。
1500年もの間、ヨーロッパの考えでは、精気spiritについてのガレノスの説が支配的であった。

プネウマ、つまり精気は、周囲の空気から肺を通して入ってきて、肝臓の作用で食物からつくり出されるプネウマ・フュシコンpneuma physikonつまり自然精気と結合して、プネウマ・ゾーテイコンpneuma zotikonつまり生命精気をつくり出す。
自然精気は、潮の干満とともに心臓の右心室から静脈系を通して分散され、生命精気は、左心室から動脈を通してひろめられる。
同様に、脳の作用のもとに、生命精気は、プネウマ・プシュキコンpneuma psychikonつまり精神精気に変えられ、それは神経を通して身体の全部分に分配される。

ここは、もちろんアリストテレスの「霊魂」の理念と関係がある。というのは、自然精気や生命精気は植物霊魂psyche threptikeの水準にあり、動物精気は感覚霊魂psyche aisthetikeの領域にあるのであるが、理性霊魂psyche dianoetikeは、本質的に精神的なものだから、物質的な精気の世界には相当するものが存在しない。

古代中国の理念は、以前に考えられていたよりもギリシャのものにずっと似ている。というのは、アリストテレスとちょうどおなじ頃に、筍卿やその他の人たちが「霊魂の階梯」を考えたからである。
つまり、気、生、知、義が、それぞれよく似た上昇を示している。

われわれの現在の立場からすると、「霊魂」は、生命のいろいろな水準での特定の機能につけた名前でしかないことになる。しかし、今でも、卵の黄味質の極を「植物」極とといい、神経系の部分に「動物」極などという名が保存されている。

ルネッサンスとともに、硝石に似た何かが外気のプラウマとして認められ、パラケルススが推測し、メーヨーが証明した「含窒素空気粒子nitroaerial particles」が、18世紀の「プネウマ」化学の発展へと道をさし示した。
一方、ヤン=バブテイスタ・ファン・ヘルモントJohn-Baptista van Helmont、1579-1644)は、おそらく他の誰よりも近代生化学全体の父であり創始者と呼ばれるに値する人だが、彼は古代のプネウマの概念を自分のガスgasとブラスblasの2つに明確に分けた。


彼が炭酸ガスを確認した後は、道ははっきりとプリーストリー、キャヴェンデイッシュ、ブラック、そして生物体内でのガスの通過と運送、細胞自体の呼吸、その中で進行してエネルギーを供給している酸化-還元反応の本性についてのその他のすべての近代的な発見へと導かれていったのである。


ファン・ヘルモントのブラスは、もっと精神的な精気について話す別のやり方であり、パラケルススと中国人がすべての器官の活性を統括するもの(現代的な工場の大きな広間で自動化された活動を、ガラス箱の中の器械の指示器な並んだ前に座って、高みから調節している人のようなもの)と考えたアルケイarchaeiをも含めたものである。
このようにして、彼らは巧みに、機械論者と生気論者の間の論争という哲学的な循環経路を、物質についての討論から断ち切ったのである。

19世紀初頭の自然哲学の時期、ヴェーラーによる尿素の合成のとき(この後の7章)、リービッヒとパストールの論争(第3章)、あるいはまた、肺に想定されたガス分泌活性によってひき起こされた今世紀での場合など、これらの論争はいろいろな時期に顕著になってきた。

しかし、構造の研究が複雑な分子にまでひろがり、化学的な過程が神経の活動に不可欠な基盤にまで達していいるように(第4章)、いろいろな水準での体制の普遍性が認められとともに、今日まで、この議論には以前のような厳しさはほとんど失われてしまった。



中国においても、時代とともに、気はますます物質的なものとなってゆき、(その表意文字の語源から知られるように)煮えた米から立ちのぼる湯気としてはじまったが、12世紀までに、これはどんなに大きなものも含めて、すべての種類の物質を意味することになってきた。

当時は、中国のスコラ学者たち、新儒学派が科学的な世界観をたった二つの概念にもとづいてつくり上げることができた時代である。

一つは気で、われわれなら物質エネルギーとでも呼ぶべきもの、もう一つは理で、それが現れているならどこででもすべての水準にみられる、有機的なパターンとでもいうようなものである。

気の追求は中国人に紀元1325年ごろの蒙古の医師による欠乏症の発見(第6章)などのすばらしい発見へと導いた。
この人は元の4代の皇帝に仕えた王室栄養士忽思慧コツシケイで、食事だけでどんな薬も用いないで全治できる病気、たとえばビタミンB欠乏症の末期状態などの病気があることを観察している。彼の著書「飲膳正要」は今でも保存されている。

すべてのこれらの精気の考えの遺産は、われわれの言語にも考え方にもぬぐうことのできない痕跡を残した。
こうしてここで私がこれらの言葉を書いているときにも、建築職人は、庭の壁の向う側で「元気を出して(in high spirits)」大声で歌っているし、新聞には、火星上にメタンとアンモニアが存在している----したがっておそらく「生命」も----というマリーナ7号から送られてきた証拠が述べられている。



編者Noel Joseph Terence Montgomery Needhamケンブリッジ大学で医学を専攻。在学中、ノーベル賞受賞者のホプキンス教授との邂逅をきっかけに生化学を志し、発生生化学者の権威となった。1930年代後半より中国における科学発達史に関心を持ち始め、中国に4年間滞在。以後、前人未踏の中国科学史の研究に没頭する。1965年、ニーダムはケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの学寮長に選出された。

みち草・・・・サイクル

2013-01-14 07:17:30 | アルケ・ミスト
わたしの問題点は,身近なテキストに垣間見ることができる。
その1つが「生命物質」(丸山工作 NHKブックス)、その「あとがき」を記しておく。


私事にわたって恐縮であるが、文筆一本で私たちを育ててくれた父丸山義二がこの4月はじめに脳出血で倒れた。
以前、父はいつも私のいたらない文章をぶつぶついいながら直してくれたものだった。
一時快方にむかった父が、私に「NHKの本」はどうなったかなときいた。そのとき、もし親孝行ができるとしたら、この本をかいて父に校正をみてもらうことだと思った。
そこで、教室主任でかつ学生係とあわただしい日を送っていたが、寸暇をさいてなんとかかきあげた。いくぶん知力のおとろえた父は、かさばった原稿を手にとって、「よかった、よかった」と自分のことのようによろこんでくれた。
けれども、まもなく2度目の発作におそわれ、もう校正をみてもらうわけにはゆかなくなった。

本をかくことに生き甲斐をもちつづけた父に、この本を捧げたいと思う。

丸山義二略年表
1903年 2月26日 兵庫県揖保郡誉田村高馱80番地 (自作農家)丸山熊太郎-りくの長男として生まれる。

1916年      父熊太郎の急死、中学校2年で退学し、農業に従事する。その傍ら龍野物産醤油会社の給仕としてつとめる。

1919年      鶏籠詩社をおこし、同人誌「鶏籠」を創刊、発行兼編輯人となる。号を哀花とする。

1921年      上京、神田の外語学校へ通う。

1926年      萬朝報社入社、学芸部に配属。

1927年      佐竹薫三の長女喜美恵と結婚する。

1930年      「農村を語る」随筆集を処女出版。日本プロレタリア作家同盟に加盟する。
         次男工作誕生、6月。

1935年       雑誌「文学案内」の編集にたずさわる。
         四男匠誕生、5月。


1940年      「庄内平野」を出版

1942年      日本文学報国会の創立、農民文学委員会委員、大陸開拓文学委員会委員となる。

1954年      日本農民文学会設立に参加
1957年      日本農民文學会事務局長に就任。
1963年      日本農民文學会会長に就任。

1979年      心不全のため自宅にて死去。76歳。


ところで丸山工作は「父子相伝」という短文を残している。
そこで触れられていることだが、“私の名は、政治工作によって社会主義国家を打ちたてようという当時のスローガンによったとのことである。”と記されている。

その最後にはこう記されている。

生化学の研究に夢中になってからは、英文論文を別として物書きから遠ざかった。
ところが、「大学紛争」で研究が中断され、見回りや会議と新聞の切り抜き作りしかやることがなくなってしまった。しかたなく、尊敬していた生化学者の論文を読んで、人と仕事を自分なりにまとめてみた。

父は「自然」誌に連載した伝記の校正に朱筆を入れてくれた。
「どうにもこうにもなっておらん。科学者でも何をいいたいのか、読者にわかるように書かなくては!上手下手は二の次。書き手だけがわかっているのは下の下だ!」

私は40歳にして文章修行を始めたが、いささか遅きに失した。下手ながらも、せめてわかりやすいようにと努めている。医学者になった息子にも同じことをくりかえしている。


たつの市と言えば「赤とんぼ」がよく知られているけれども、そこには俳句が忍び込ませてあることについては既にふれたので、ここでは割愛する。

 

みち草・・・・サイクル

2013-01-13 09:00:00 | アルケ・ミスト
穏やかな日和に誘われて、総合公園の周縁に至り腰を下ろした時に、鴨たちが一斉に移動を始めたその時、笛を吹くような音がした。
パートナーが珍しくも松山市考古館へ誘ったので立ち寄ってみた。

干支展にはあの上黒岩陰遺跡から犬の骨が展示されていた。8000年前のものである。

森閑とした館内を巡って、その奥深くひそと壁際に展示されているレプリカに見入った。

「瀬戸風峠遺跡」である。
見入ったのは木炭床。その発掘成果の報告書を開架図書に探したが見当たらなかったので、案内を乞うた。

まもなくして学芸員が現れて、絶版となった資料は県立図書館など2箇所にあると案内した上で、その概要を説明してくださった。

2、3の質問に答えるかのようにコピーサービスを申し出てくださったので有り難く、お受けさせていただいた。

驚いたことには、化学の領域に関してもコピーしておきましたと分厚い史料を作成してくださった。

その詳細はおくが、知れば知るほど、しんかして謎は深まるばかりとの感想を抱いた。


概要を記しておく。

木炭床  直径0.5~3.0センチ   長さ2~9センチ  厚さ5~8センチ
     コナラ属 クヌギ節  (クヌギ アベマキ)
     酸-アルカリ-酸洗浄 ベンゼン合成
     暦年代  630-770
植物珪酸体分析  微化石(プラントオパール)
     稲藁 ヨシ属などの茎葉などを、持ち込まれた可能性がある。

注意するべきことは、追葬がなされていたらしい。
それがプロの直感というものか。つまり羨道の入口付近の有様から推察して、その遺骸は消えてなくなっているというわけである。

勿論そこには木炭床があるわけでもないのだから、偶然というよりも必然ともいうべき比較対象実験の結果ともいえる。

まだまだこの遺跡からは多くの情報が得られるものと期待できるが、それには先立つものが必要でもある。
伸君のこぼした心境を察して余りがあったのはこの瞬間であった。

学芸員さん並びにそこに従事されたボランティアの皆さん、有難う御座いました。
  

人骨   頭蓋骨 西  焼いた形跡なし  大腿部 上腕部 前腕部これらは一箇所に集骨  そして歯
     若い男性(田中良之)追送者不明

副葬品  須恵器 土師器 耳管 勾玉など






芭蕉や蕪村の俳画などを観覧してきた。

当日は“Music in Museum by 出光”「心の風景」そこではピアノ上杉春雄による《心と行いと生活で》に含まれている演奏曲目などの熱演が印象深かった。
最後はギター鈴木大介、チェロ木越洋とともに、「いい日旅立ち」、今日のバージョンをもって締めくくられた。 

    初しらべ すみにじみいる 文人画
    


お悔やみ
韓国俳句研究院 院長 文学博士 郭 大基先生の御母堂様が昨年の末に亡くなられました。


 初しらべ みなよをさりてさびし月

みち草・・・・サイクル

2013-01-12 09:59:49 | アルケ・ミスト
わたしのテキストは問題の書である。
その一つは「俳句の世界」発生から現代まで;小西甚一著 研究社出版 1981年3月20日

専攻は日本中世文学、比較文学で、飯尾宗祇の連歌や世阿弥の能等。また、俳句研究にも造詣があり、松尾芭蕉に関するものも多い。


日本の文化について外国の人と話すとき、俳句のことを抜きにしては動きのとれない場面が、しばしば出てくる。
専門の研究者を相手にするときは、むしろ必須の話題といってよろしい。
いま欧米の大学で博士論文に取組む人たちの間でいちばん多い題目は連歌、その次が「源氏物語」、その次が能、さらにその次が俳句といったところらしいけれど、およそ日本文学を専攻しようとする人であれば、論文の題目がなんであれ、俳句についてひとわたりの知識をもつことは、むしろ当然の要件であって、こちらはどうしてもそれを上廻る知識がないとお恥ずかしい次第なのである。



昭和22年度の東京高等師範学校で講義した「俳諧史概説」であった。
昭和21年にはじめて教師となったわたくしは、その年には「万葉集」と「奥の細道」だけの担当だったが、第一時間に「月日は百代の過客にして、行きかふ人もまた旅人なり」が李白の「春夜宴諸従弟桃李園序」に基づく文章だ・・・・と説明したところ、学生が「先生!芭蕉ほどの俳人が李白の文章を横取りするとは、けしからん事ではありませんか」と質問した。
わたくしは返答に困った。それは3年生のクラスであったが、戦時中は勤労動員のため授業がなく、1年生も4年生も同じ程度の学力だったのである。
これでは話にならなにと思ったので、次の学年には、俳諧のそもそもの起こりから、馬鹿ていねいに講釈した。その講義ノートが学生文庫の原稿になったわけである。
話しことばで念を押しながら説得していく口調をところどころ入れたのは、そのときの講義の記憶をいくらかでも残したかったからである。



既に触れた芭蕉、元禄2年のことに関しては、次のように記されている。
61) 閑かさや岩にしみ入る蝉の声    芭蕉
を得た。
この寺は、全山が岩であり、その上に松柏が茂ったところである。どこの院も扉を閉して、もの音ひとつ無い。その静かさは、鳴きだしたひとつの蝉声によって、いっそう静かである。その声が澄みきるとき、いつしかあたりの静寂に触けことみ(ママ)、蝉の声としては聞えない。
全山の岩も、この声でない声のなかで、大きい静寂のひとつになってゆく-----。
名句中の名句である。

芭蕉は、発句に両様の表現技法があることを述べた。
ひとつは、配合の技法。他のひとつは、黄金を打ち延べたるごとき技法である。この句は、黄金うちのべ式の代表的好例だといってよい。
さきにも引いたドナルド・キーン教授の「日本文学史」近世篇上(162ペイジ)では、この句にイの響きが6回も使用され、特殊な効果を挙げた実験的な試みだと指摘する。

さて、、芭蕉は6月3日、羽黒山にのぼる。
このとき、圖司左吉(呂丸)に会った。かれは、たいへん熱心な俳人で、芭蕉にいろいろ質問し指導を受けた。
その俳談がもとになって、呂丸は、のちに「聞書7日草」を書いた。

これは山崎喜好氏がはじめて学界に示されたもので、おもしろい資料である。
なぜなら、そのなかに、有名な不易流行説の原形になる思想が見えるからである。

呂丸によると、芭蕉は、このとき「天地固有の俳諧」とか「天地流行の俳諧」とかを説いたらしい。
山崎氏は、その「天地固有の俳諧」が不易に「天地流行の俳諧」が流行にあたるのだと解釈された。
これに対し、わたくしは、両方とも同じもので、不易にあたるのではないかと異論を提出した。

どちらが正しいかは、その後およそ30年をへたけれど、まだ学界が裁定をくだしてくれないので、わたしにもわからない。
とにかく、重要な資料であることは、確かである。
鶴岡から酒田におもむいた芭蕉は、象潟にあそび、鼠の關をこえて越後に入り、新潟を経て、7月4日、出雲崎に来た。




みち草に過ぎた。
さいげんもない芭蕉を離れるに際して記しておきたい事は、松山と言うよりは伊予にゆかりの芭蕉像である。
それが芭蕉めざめる「芭蕉はなぜ隠密になってしまったのか?「奥の細道」というミステリーが始まる。これは俗説に挑戦した、芭蕉の専門家のその嚆矢である。








みち草・・・・サイクル

2013-01-06 11:09:30 | アルケ・ミスト
お正月の楽しみも終わったけれども、楽しかった思いが反芻されてくるのは否めない。

それらの1つは茶の間のできごとであり、ともに見たテレビ番組でもあった。

「和食」を世界遺産へと意気込む、その舞台裏を垣間見た。
中でも縄文文化文明が息づいている奥松島縄文村などのからの発掘史料をもとにしての時代考証は、豊かな食材のみならずその交易を伺わせる。
海の幸と山の幸との交歓、文化文明の奥ぶかさが透けて見えてくると感じさせられた。

さらには小山修三先生自らが調理してみせた「縄文鍋」には、あの縄文土器の複製品が使われていたのだが、そこに漆加工された土器も登場した。

調理用具は煮沸用の大型甕(かめ)、個人用の小型椀。木製の漆塗り皿、杓子、スプーン(もちろん、地元の陶芸家やボランテイアが作った復元品である)。次に食材としてクリ、ナラタケ、ナメコ、ミズ(ウワバミソウ)、タケノコ(ネマガリタケ)、ヤマブドウ、アサリ、カキ(牡蠣)を用意した。これらは今も青森の市場で手に入るもので、森や草原でも注意すれば普通にある野生食である。「縄文鍋 」


我が国には、多様で豊富な旬の食材や食品、栄養バランスの取れた食事構成、食事と年中行事・人生儀礼との密接な結びつきなどといった特徴を持つ素晴らしい食文化があり、諸外国からも高い評価を受けています。

一方で、世界では自国の食に関する分野をユネスコの無形文化遺産として登録する動きがあり、フランス美食術、地中海料理、メキシコ、トルコの伝統料理が社会的慣習としてすでに登録されております。
日本の食文化については、世界的に見ても特徴的であり、これが無形文化遺産と認められることは世界の文化的多様性を豊かにすることともなり、非常に大きな意義を持ちます。
このようなことから、我が国においても日本食文化の無形文化遺産登録を目指し調査・検討を重ね、本年3月にユネスコへ登録の提案を行いました。
今後は、ユネスコの検討・審査を経て、最短で平成25年秋に可否が決定される予定です。
「日本食文化の世界遺産化プロジェクト」

ところで松島を過ぎたあたりからの芭蕉の俳句が変わったのではないかとも言われている。

そもそも、ことふりたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭ドウテイ、西湖を恥じず。

云々と続けて「松島や鶴に身を借れほととぎす 曽良」

余は口を閉じて眠らんとしていねられず。
旧庵を別るる時、素堂、松島の詩あり。原安適、松が浦島の和歌を贈らる。袋を解きてこよいの友とす。かつ、杉風サンプウ・濁子ジョクシが発句あり。「おくのほそ道」(角川文庫426)

芭蕉が詠んだのは平泉

夏草や兵ツワモノどもが夢の跡

さて、問題は立石寺である。

山形領に立石寺という山寺あり。
慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとって返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麓の坊に宿借り置きて、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉じて物の音聞こえず。岸を巡り、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ。

         閑シズかさや岩にしみ入る蝉の声


そこでは音感から読み解かれた鬼怒先生の、ローマ字表記によるアイ、i音が特別な効果を演じているとの指摘が話題となっていた。
断るまでもないけれども鬼怒先生とは鬼怒鳴門(きーん どなるど)にほかならない。


何時の事であったかは思い出せないが、この遺産に関して拡散・浸透させた私案を投稿したので、ここではその思考停止状態をくどくどとは申し述べないでおくが、音感を大切にした芭蕉ならば「岩」をishiと読まれることを拒まないのではないか?

そのことはiの連続音効果がさらに増してくるのみならず、彼の大転換点となった蝉吟の追悼句としての色彩さえも帯びてくる事となる。

つまり、外なる世界と内なる世界の拮抗した緊張の、「内外ウチトの境内」で“さまざまなこと思い出す桜哉”とも、響きあえるような「俳句の世界」を変えてゆくように想えたのだ。

              zyukasaya shiiru semnokoe



みち草・・・・サイクル

2013-01-05 11:49:10 | アルケ・ミスト
 事始めがわりに自転車をこぎ少し遠出をしてみた。

国道11号線は自動車道路のようなものなので、それを嫌って田園風景というよりも、雪を頂いた尾根を横目にして走ったのが、いけなかった。

 方向感覚が違っていると気がついてから多くの人に、道案内を乞う事となったが、だれ一人として厭うことなく精一杯の説明をして頂いたけれども、地図もなくそれを的確に語り伝える事は至難の業である。
 皆様有難う御座いました。

 整備された一直線は農道専用道路であったり、ジグザグ道は道標もなく頼りにできるのは四国の屋根、雪を頂いた石鎚だけである。
小一時間もさまよった挙句に元の11号線へと戻ってきたようなわけで、生きた地図が私の脳裏に刻み込まれることとなったのは幸いであった。

その事を実感したのは旧街道を帰る道すがら、父から幾度となく聞かされた話。

それは宗教の時代でもあったのであろうか、彼の父親は生業を宗教に求め家庭を支えたのだった。
その教えを秘めて彼は生業を化学工業に従事しかつ先兵としての務めをも果たした。



ソ連の捕虜となったある雨降る夜、意を決しての必死の脱走に成功した彼は、私と妻を朝鮮から脱出させることにも辛うじて成功したと言わねばならない。

その人に学歴こそなかったが侮れぬ教養があったことは確かである。
ささやかな楽しみとなった俳句でも佳句を残してくれているのはその一つの現れと思える。

その人柄が焼き付いたのは長島温泉の巨大な滑り台を滑走してくる彼が、歓声をあげながら大きな子供と化した瞬間であった。

温かい東の人、いわば東温というわけである。



小さな小さな蜜柑はバランスの良い味が楽しめた。無料サービス



「ふるさと館」のさくらの湯に浸かっていて、しみじみ思い起こされた事である。



             七転び みずから脱ぎし去年今年

みち草・・・・「化学史研究」

2012-12-17 09:00:00 | アルケ・ミスト
 化学史学会「化学史研究」第39巻 第4号 2012年。その表紙はトマス・グレアム(1805-1869)
 スコットランドの裕福な工場主の家庭に生まれた。父は、息子を聖職者にするつもりだった。
1819年(14歳)にグラスゴー大学に入学したグレアムはトマス・トムソンやウィリアム・マイクラムの指導の下熱心に化学や物理を勉強し、自然科学の研究をしたいと主張するようになった。
 父は、学費の支援を差し止める強硬手段にでた。
だが、グレアムは、化学の研究を続けるために、教壇に立ったり原稿を書いて生計を維持した。また、兄を尊敬していた妹のマーガレットが貯金や小遣いを兄のために役立てた。

 1829年職工学校の教師、1830年アンダーソンカレッジの化学教授に就いた。しかし、父子の関係は不和のままであった。
グレアムの重要な研究業績の一つは、気体の拡散の法則を定式化したことである(1829)。
 また、液体の拡散の研究から、コロイド(膠質)とクリスタロイド(結晶質)を区別した。
グレアムが「コロイド」という言葉と概念を発表したのは1861年である。コロイド概念の発展系譜に関しては前号に掲載された北原文雄氏の論文が詳しい。
 写真の出典は、ホフマン「グレーアム伝」立入明「コロイドの発見」(高分子化学協会出版部、1949年)pp.255-298


 本号には興味深い記事が数多く収められている。

 その一つは川島慶子「山田延男と湯浅年子:キュリー家の人々に師事したふたりの日本人科学者」
① 山田延男、ラジウム研究所で学んだ最初の日本人科学者
1896年(明治21年)生まれの山田延男は、放射性元素の中でも、特にポロニウムからの放射線障害で早世した科学者である。享年31歳、そのために日本でも山田を知る人は少ない。略


② 湯浅年子、フランスで正規の職を得た最初の日本人科学者
 山田延男とは違い、湯浅年子については日仏双方に豊富な史料が残っている。
というのも、湯浅はパリ郊外オルセーの原子核研究所で、CNRS(フランス国立中央科学研究所)の主任研究員として長期にわたる科学研究を行ったからである。
 湯浅の母校である御茶ノ水女子大学のジェンダー研究センターは、日本人女性で最初に国際的な活躍をした科学者であるこの女性の資料を多数保管している。略



 化学史学会のホームページから、動画をご覧下さい。
⇒13:15~14:45 川島慶子(名古屋工業大学大学院准教授):マリー・キュリーと放射能―ジェンダーと科学をめぐる問題
→立ち位置の異なる日本ならではの読みかえを期待したい。それが「否認する性」などを巡る、質疑応答に現れているときいた。

関連事項 NHKザ・プロファイラー『マリー・キュリー 科学愛こそ私のプライド』ゲスト川島慶子ら。ここでは父母から受け継いだ誇り。共同研究の実験ノート。詳細な育児ノート。不倫スキャンダルなどが色彩豊かに語られている。

ご案内化学史にご関心のある方は、どなたでも会員になることができます。

みち草・・・・「Complexity」

2012-12-16 09:00:00 | アルケ・ミスト
 コンプレクシテイあるいは複雑性の科学とは、どういう性格と意義をもつものなのだろうか。

それが物理学、数学、計算機科学、生物学、地球科学、さらには先史社会の構造から心理学や心身問題をめぐる哲学まで、驚くほど幅広い分野を横断するものだということがわかる。

 だから、この新しい科学のメッカともいうべきサンタフェ研究所で出している論文集などでも、コンプレックス・システムズ(複雑系)といったふうに必ず複数系になっている。

 そういう一種の科学の意識革命ともいえる流れが、冷戦構造崩壊期のロスアラモス研究所で芽生えたというのは、なにやら意味深長だ。
周知のとおり、ロスアラモス研究所は、原爆開発のマンハッタン計画とともにスタートした、米国最大の軍事研究の拠点である。

 複雑系の研究グループが胚胎しつつあった1980年代前半には、レールガン(超電磁砲)だのX線レーザーだのビーム兵器といったSDI研究もさかんに行われていたはずだ。
 と同時に、ロスアラモスの歴史には、オッペンハイマー、ファインマン、ガモフ、フォン=ノイマン、ベーテといった巨星たちの名前が、数限りなく登場する。
 
 今世紀科学の光と影を、ここほど象徴的に体現する舞台はない。
もうひとつ、ロスアラモスには非線形数学の解析という分野で、強力な研究を推進してきた伝統がある。
 1950年代にここで行われた「フェルミ、パスタ、ウラムの計算機実験」は非線形力学の先駆的研究として有名だし、ファイゲンバウムはじめカオス理論のスターたちも生んでいる。


 科学技術による制御と支配の極限を追求したロスアラモスが、同時に制御も支配も不可能な自然界を視野にいれたカオスや複雑性の科学をも胚胎させたという逆説。
 
 時あたかも世紀の変わり目を迎えようとしており、ソ連邦の崩壊、旧ユーゴをはじめとする民族地域紛争の頻発、ロス人種暴動、エイズ、地球環境危機と生物種の大量絶滅・・・・ただ一つの原理にもとづく「大文字の秩序」がにわかには信じられない時代に突入していた。

 〈複雑性の科学〉が注目されるようになった背景として、そうした時代状況があったことは否定できまい。
「カオスの淵に立つ秩序」というイメージが、おそらく「歴史の終焉」よりは魅力的で、説得力をもって感じられるであろう時代・・・・ロスアラモスから、〈複雑性の科学〉の一つの中心となったサンタフェまでは、地図上ではわずかな距離である。
 
 しかし、科学の歴史の上では、きわめて大きな転換を暗示しているよに思われる。(沼田 寛;解説)


 記憶は、それとついをなすかのような「科学の終焉」とむすびついた、それが「歴史の終焉」であった。

 1992年にフランシス・フクヤマが、未来についてのこれとは違った見解を「歴史の終わり」(The End of History)と題する著書で発表した。
 ブッシュ政権の時に、国務省の仕事をしていた政治学者のフクヤマは、歴史を〈最もまともな、あるいは最も害にならない政治体制を見出すための、人間の戦い〉と定義した。

 20世紀までは、フクヤマによれば、常に最善の選択とされていた資本主義的な自由民主主義には、唯一のまともな競争相手がいた!
それがマルクス的社会主義だった。
 1980年代の終わりに、ソビエト連邦が崩壊した後では、資本主義的自由主義は、リングの中にただ1人立っていた。打たれはしたが勝ったのだ。歴史は終わった。

 フクヤマは、自らの主張から生じた奥深い数々の疑問点について考え続けた。

 政治的な闘いの時代が終わったとして、次に我々は何をすればよいのか?
我々は何のためにここにいるのか?
人類の目的は何なのか?
 
 フクヤマは、これに対する回答にはあまり触れずに、言葉のあやで肩をすくめてみせているだけだった。

 彼が悩んだのは、自由と繁栄だけでは、我々のニーチェ的な力への意志と、尽きることのない「克己心」を満たすには十分ではないと思われる点だった。

 我々を虜にする、大きなイデオロギー的な争いがなくては、我々人類は、退屈しのぎに戦争を起こすかもしれないのだ。

 フクヤマがこの点を省略した理由を聞きたいと思って、1994年の1月に、ランド・コーポレーションに電話をかけた。

 彼は「歴史の終わり」がベストセラーになってから、ここで仕事をしていた。

 彼は、今さら変人(僕!)になど興味がない、というような調子で不承不承答えはじめた。
初め、彼は僕の質問の意味を取り違えた。
 僕が、科学はそれ自体が一つの目的(end)になるというよりも、歴史が終わった時代のモラルをつくり、政治的選択をするのに役立つのではないかと訊いている、と彼は勘違いした。

 フクヤマが、僕に厳しい調子で講義を始めた。
現代哲学の教えによると、科学はせいぜいよく考えても、道徳的には中立だということだった。
 事実、科学的進歩も、もし社会や個人の間の道徳的な面の進歩を伴わなければ「進歩がなかった時よりも、さらに始末の負えないものになる」というのだ。

 ようやく、僕が言っていることは「科学は、文明のためのある意味での統一的なテーマや目的をもたらすのではないか?」という意味だと判ると、彼の言葉の調子は、前にも増して慇懃無礼な感じになった。

 彼は、さも軽蔑したようにもう一度ちょっと笑った。
それで、あなたはこうした予測を真剣に取り上げないんですか?と僕は質問した。
「全く問題になりませんな」と彼はあきあきとしたように答えた。

 僕は、彼からもっと何かをひっぱり出そうとして、スタートレックのファンだけでなく、多くの著名な科学者や哲学者たちが、純粋な知識を探求する科学が人類の運命を決めると信じている事実を知らせた。

 「ふ~む」とフクヤマは答えた。
それはまるで、もう僕の言うことなど興味がなく、僕が電話をかけるまで彼が読み耽っていたとおぼしきヘーゲルの本のほうへ関心が戻ってしまったような感じだった。
 
 僕はインタビューを打ち切った。


 十分考えもしないで、フクヤマは、ステントが「来るべき黄金時代」で示したのと同じ結論に達していたのだ。

 全く違う観点から、この二人は、科学は「知識への意志」というよりは、「力への意志」の副産物だと考えていたのだ。

 科学に捧げられた未来を否定するフクヤマの退屈そうな態度が、多くを語っていた。

 ほとんどの人間は、無知な大衆だけでなく、フクヤマのような物知りタイプも含めて、科学的な知識には、ほどほどの興味しか示していないし、ましてや、それが全人類の目標を定めるために大切な役割を果たすなどとは考えてもいないのだ。

 ホモサピエンスの長い目で見た運命がどうなるにせよ・・・・フクヤマの永遠の戦争、あるいはステントの永遠の快楽、あるいはもっとありそうなこの二つの中間に落ち着くにせよ・・・・それはどうやら、科学的な知識の探求ではなさそうだ。




参考事項
Brian David Josephson
⇒物理学者らは自然の複雑さを単一の統一理論で表そうとし、中でも成功した理論が量子論で、いくつかのノーベル賞がその分野に与えられている。
 例えばポール・ディラックやヴェルナー・ハイゼンベルクが挙げられる。
マックス・プランクは100年前に熱い物体からのエネルギー放射の量を正確に説明しようとして量子論の基礎を築き、そこからレーザーやトランジスタが生まれた。
  量子論は情報理論や計算理論と結び付けられ、大きな成果をあげている。
そこから発展していけば、従来の科学では解明されていない(イギリスで研究が進んでいる)テレパシーなども説明できるかもしれない。

物理学者もようやく、アルケミストに寄り添うことが出来たのだと思える。


みち草・・・・「complexity」

2012-12-15 09:00:00 | アルケ・ミスト
推薦にかえて----新しい科学のあけぼの     糸川英夫

 本書の原題は「コンプレクシテイ」。
日本語でいえば「複雑さ」「複雑性」といったところだろうが、テーマはむしろ「混乱」「混沌」に近い。

 著者のロジャー・リューインは、考察の対象である「コンプレクシテイ」を「カオスの縁フチ」という新語を駆使して解釈しようと務める。
それこそが著者および著者と志を同じくする科学者グループの「発明」であり、かつ新しい概念といえるだろう。

 「複雑さ」と「混沌」。
この二つは、しかしながら概念の中身がちがう。複雑さは「多くの要素」を意味し、混沌は「無規則、無法則」を指す。

 社会現象でも、宇宙を構成する科学的現象においても、法則性を持つもの、そうでないものの二つの世界に分けて考えることができる。
「カオス」は無法則を意味し、科学者にとっては未知の世界なのだ。

 その未知の世界から法則性を見いだすことが、本来の科学者の使命だったとすると、本書のテーマは、隠れた、未知の科学的法則における「あけぼの」か、「あけぼのへの憧れ」なのである。

 本書はアメリカで出版された。
ギリシャのアテネやエジプトのカイロではない。
 さらに、このコンプレクシテイの研究の中心地はニューメキシコ州のサンタフェという一地方都市である。
いわば「サンタフェ学派」ともいうべき存在だが、もちろんテーマの性質から国境を越え、フランス、イギリスの科学者も深く研究にかかわっている。
 (本書では日本や中国、インドなどアジア系の科学者は登場しない。かといって、この分野でアジア系の学者が沈黙しているわけではない。日本でも、同様の問題意識を持っている研究者は少なからずいる。が、この本の中では言及されていない。このことはそれ自体、新しい問題を私たち日本人に提起しているといえる。本論とは直接関わりはないが、ここに一応触れておく)。

 この本で考察の対象となっている分野は生物学、人類学、そしてこれらの科学と急速に接近しつつある物理学、数学、さらにコンピュータ科学である。

 生物学、人類学の分野では「ダーウィンの自然淘汰説」が、すでにわれわれ現代人が手に入れている一つの法則であり、わたワトソン、クリックの「ケンブリッジ学派」が発見したDNAの理論も、すでにわれわれが入手した法則、すなわち武器である。

今年(一九九三年)ブームとなった恐竜は現代人の「科学的アイドル」だ。が、実はこの恐竜は地球の歴史における五度の「種のExtinction event大量絶滅」という異常な事実を現代科学に提供しているのである。

 一方、コンピュータ科学は、人間の脳に限りなく近づくことを目標にしている。
もしコンピュータ・ウィルスが自己複製する能力を持つに至ったならば、「新しい種」として地球上に生き続けるのであろうか。

 そもそも、生命はいかにして地球上に誕生したのか。
リチャード・ドーキンスが生命誕生と進化の謎に迫った著「盲目の時計製作者」も、本書に一度ならず引用される。

 サンタフェを拠点としながら、さまざまな科学者のあいだを遍歴する。
その中には筆者(糸川)の親友であるジェームズ・ラブロックも登場する。1993年の5月に、筆者がハウスジャックしていたコーム・ミルの家屋もだ。

筆者にとってJames Lovelockジェームズ・ラブロックは自他共に認める親友だ。
それもあって、彼がいちばん嫌っている「ガイア仮説目的論」のテーマにここで彼が悩まされているのが、いささか気の毒でもあった。

 ガイア仮説も「コンプレクシテイ」の理論でまとめるならば、別の「部品」になり得るのか、というのが正直な感想である。

本書は独特のスタイルをとっている。
第1章ではニューメキシコ州のチャコ峡谷の不思議な遺跡の発見、およびその謎への考察がつづられ、終章で再びチャコ峡谷に戻る。第1章に示されたテーマの謎を解く重大なカギを暗示しながら・・・・。

 この本は科学、ことに現代科学に関心を寄せる人々に、快い“知的刺激”をもたらす書物としておすすめしたい。「コンプレクシテイ」の理論は、これからの日本にとって、重要な一つの概念となるであろう。

 「曖昧性」をベースにしていたのは本来、われわれが住む日本なのである。ところが現実に「ファジー理論」を確立したのはアメリカであった。
そしてまたファジー理論を応用し、多くの家電製品をつくり上げたのが日本という歴史的事実が、ふと筆者の胸をよぎるのである。

 最後に、この本がアメリカで書かれたこと、それが日本語に翻訳・出版されることへの歴史的意味に特別な感慨を抱いていることを付記したい。


備考
Christopher Langtonラングトンは、1990年にカオスの縁 (Edge of Chaos) という用語を生み出した。

参考記事Gaia hypothesis
「ガイア理論から生態学への継承」
多くの初期の批評の後、改訂され、理論面でも強化されたガイア理論は、現在、基礎生態学上の研究の究極の目的である地球化学と同一の生態学のひとつとして論議されている。