不老不死elixirという言葉の語源は、伝統的にギリシャ語のxerionからとされ、これは傷の上に振りまく薬効のある粉、または、卑金属を金に変える粉である。
しかし、現在、この言葉は中国語の起源、おそらく薬剤、ないしは液汁からということが、少なくともありそうに見受けられる。
これらの語句の最初の語は、古代の中国の発音ではkで終わっていて、それでiqsirのqが説明できる。
この点がどうであっても、中国の原始化学は、マクロバイオテックな先入観を一貫して強調しているものの中で、ずばぬけた形の最古のものであることは間違いない。
「物質不滅性」、通常の死すべきものの必要や制約に束縛されないで、いつまでも自然の美を地上で楽しみつづけることができるようにする肉体と精神の霊化という概念が中国にのみ存在していた。
ここで二つの点を強調する必要がある。
第一に、冒されることのなに金属である金の精錬とこの世の生活での消滅することのない生命の獲得との結びつきは、われわれになんらかの知識のあるもっとも初期の錬金術(厳密にそう呼んでよい)----中国では紀元2世紀----に始まった。
第二は、何世紀もの間の金と不死との想念の連関から生まれた考えで、さびて腐食するすべての他の金属は、死の定められた人間と同じ病にかかっていて、「賢者の石philosopher’s stone」と呼ばれるようになったものは金属に対してと同じように人にとっても至上の薬であるというものである。
旧世界での化学の誕生前の歴史を簡単に描こうとすると、そのまとめは次のようなものになるであろう。
約半ダースほどの地域的・時期的な段階を区別しなけてばならない。
もっとも起源に近いところから始めて、ギリシャまたはギリシャ・エジプト的な原始化学的な伝承があり、紀元1世紀から始まって、ビザンチンの文化まで続き、11世紀に終わるもので、この時期から現在のもっとも古い写本原本がわれわれに伝わっている。
少なくともこれは哲学的な記述だが、純粋に実際的な化学的・金属学的技術(つまり、金を模倣するうえでの)に関するもっと以前の写本があり、紀元3世紀のパピルスが中心となっている。
この実際的な伝承は、大きな断絶なしに750年頃ラテン語へ翻訳された「着色への合成Compositiones at tringenda」と、1000年のすぐ以前のテオフィルス・プレスビターの技術的な本を通して、11世紀までつづいた。
これらのどれも完全な意味では錬金術ではなく、それはここにはマクロバイオテックな成分が欠けているからである。ひとびとは金を模倣したり、それの人工的な形のものを造ったと信じていた。
しかし旧世界の別の端の方の遠い地域には、不老不死薬または不死への「生化学的」医薬が人工的な金製造と密接に結びつけられている別の伝承があった。
これが中国の錬金術で、これは他のすべてのものの祖先である。
ここで、すべての文明におけるこの主題に関する最初の本、紀元142年の魏伯楊による「参同契」、また後になって848年に、すべての文明における化学的な主題に関する最初の印刷された本、コウカンキの「懸解録」が生まれ、これは重金属による不老不死薬の毒作用に対する植物性の解毒剤に関するものである。
今までのところでは、中国の錬金術とギリシャ・ビザンチンの原始化学との間にある先行や平行関係についてごくわずかのことしか理解されていない。
哲学者のスウエン(B.C.300頃)がデモクリトス学派のメンデスのボルス(B.C.200頃)よりも先行しているのは、紀元前3世紀の「考工記」の金属学的な化学が3世紀の実際的なパピルスよりも先なのとちょうど同じである。
言い換えると、両者の間には密接な平行関係がある。
金と不老不死薬との間の明確な関係を最初に述べたものが李少君(B.C.133)の言葉に認められ、次の世紀の半ばにはラリッサのアナクシラウスとその一群の人たち(ユダヤ女マリア、偽クレオパトラ、コマリウスなど)の著書が現れて、化学的な器械や技術の起源としてもっとも価値が大きいものだが、基本的には無機化学への傾向が強く、「自然学と神秘学(Physika kai Mystika」は、魏伯楊のような基本的に不老不死薬に関する書物ではない。
ちょうど同じ対照が、紀元3世紀の二人の体系化した偉大な人、つまりエジプトのパノポリスのゾシモスと中国の葛洪カツコウ(抱朴子)の間にも
成立している。
また、これはその約2ないし3世紀後に活躍した人たちについても例証できることで、新プラトン派のオリンピオドロスとアレキサンドリアのステファノスで、他方は偉大な錬金術医の陶弘景と孫思バクである。
最後に、われわれのギリシャ的な原始化学についての資料が紀元1000頃の日付があるのと同じように、「道蔵」(道教の著述全集)の最初の決定的な集大成で、錬金術の多数の本のもととなるものは1019年にできて、その最初の印刷が1117年であることも、奇妙な一致がみられる。
それでも、中国の錬金術の黄金時代は唐王朝(620-900年頃)の時代に対応している。これは孟? 梅彪 趙耐菴などの人たちが活躍した時代である。
アラビア文化圏の錬金術が中国から強く影響をうけたことは現在きわめて明白なので、以前考えられていたように、7、8世紀に栄えたのではなく、むしろ9、10、11世紀に栄えたという事実にさらに重要さを加えることになる。
900年ごろに、活動が急にさかんになったのは証明できることである。
ジャービル全集の多数の著作が出たのは偉大な錬金術師のアル=ラジー(al-Razi、860-925)の生涯とほぼ同時期だが、これらは彼とはまったく無関係で、むしろシンセリテイーのブレスレン(イクホワン・アル=サファー)として知られているクアルマテイアンの科学者たちに関係がある。
これは、またイブン・ウマイルの神秘的な錬金術と、ラテン語で、「哲学者の群turba philosophorum」として知られる著作の大成された時代でもある。後の本はソクラテス以前から後の期間ずっとアラビア人が知っていたすべての自然哲学者の意見のいきいきとした叙述の形をとって、空想的な国際的な1種の化学の学会である。
一世紀後に、偉大なイブン・シーナとアル=マジェリテイーの活躍があり、そしてフランク王国やラテン系の西部での真の錬金術の幕が上がる時期に近くなってくる。
しかし、現在、この言葉は中国語の起源、おそらく薬剤、ないしは液汁からということが、少なくともありそうに見受けられる。
これらの語句の最初の語は、古代の中国の発音ではkで終わっていて、それでiqsirのqが説明できる。
この点がどうであっても、中国の原始化学は、マクロバイオテックな先入観を一貫して強調しているものの中で、ずばぬけた形の最古のものであることは間違いない。
「物質不滅性」、通常の死すべきものの必要や制約に束縛されないで、いつまでも自然の美を地上で楽しみつづけることができるようにする肉体と精神の霊化という概念が中国にのみ存在していた。
ここで二つの点を強調する必要がある。
第一に、冒されることのなに金属である金の精錬とこの世の生活での消滅することのない生命の獲得との結びつきは、われわれになんらかの知識のあるもっとも初期の錬金術(厳密にそう呼んでよい)----中国では紀元2世紀----に始まった。
第二は、何世紀もの間の金と不死との想念の連関から生まれた考えで、さびて腐食するすべての他の金属は、死の定められた人間と同じ病にかかっていて、「賢者の石philosopher’s stone」と呼ばれるようになったものは金属に対してと同じように人にとっても至上の薬であるというものである。
旧世界での化学の誕生前の歴史を簡単に描こうとすると、そのまとめは次のようなものになるであろう。
約半ダースほどの地域的・時期的な段階を区別しなけてばならない。
もっとも起源に近いところから始めて、ギリシャまたはギリシャ・エジプト的な原始化学的な伝承があり、紀元1世紀から始まって、ビザンチンの文化まで続き、11世紀に終わるもので、この時期から現在のもっとも古い写本原本がわれわれに伝わっている。
少なくともこれは哲学的な記述だが、純粋に実際的な化学的・金属学的技術(つまり、金を模倣するうえでの)に関するもっと以前の写本があり、紀元3世紀のパピルスが中心となっている。
この実際的な伝承は、大きな断絶なしに750年頃ラテン語へ翻訳された「着色への合成Compositiones at tringenda」と、1000年のすぐ以前のテオフィルス・プレスビターの技術的な本を通して、11世紀までつづいた。
これらのどれも完全な意味では錬金術ではなく、それはここにはマクロバイオテックな成分が欠けているからである。ひとびとは金を模倣したり、それの人工的な形のものを造ったと信じていた。
しかし旧世界の別の端の方の遠い地域には、不老不死薬または不死への「生化学的」医薬が人工的な金製造と密接に結びつけられている別の伝承があった。
これが中国の錬金術で、これは他のすべてのものの祖先である。
ここで、すべての文明におけるこの主題に関する最初の本、紀元142年の魏伯楊による「参同契」、また後になって848年に、すべての文明における化学的な主題に関する最初の印刷された本、コウカンキの「懸解録」が生まれ、これは重金属による不老不死薬の毒作用に対する植物性の解毒剤に関するものである。
今までのところでは、中国の錬金術とギリシャ・ビザンチンの原始化学との間にある先行や平行関係についてごくわずかのことしか理解されていない。
哲学者のスウエン(B.C.300頃)がデモクリトス学派のメンデスのボルス(B.C.200頃)よりも先行しているのは、紀元前3世紀の「考工記」の金属学的な化学が3世紀の実際的なパピルスよりも先なのとちょうど同じである。
言い換えると、両者の間には密接な平行関係がある。
金と不老不死薬との間の明確な関係を最初に述べたものが李少君(B.C.133)の言葉に認められ、次の世紀の半ばにはラリッサのアナクシラウスとその一群の人たち(ユダヤ女マリア、偽クレオパトラ、コマリウスなど)の著書が現れて、化学的な器械や技術の起源としてもっとも価値が大きいものだが、基本的には無機化学への傾向が強く、「自然学と神秘学(Physika kai Mystika」は、魏伯楊のような基本的に不老不死薬に関する書物ではない。
ちょうど同じ対照が、紀元3世紀の二人の体系化した偉大な人、つまりエジプトのパノポリスのゾシモスと中国の葛洪カツコウ(抱朴子)の間にも
成立している。
また、これはその約2ないし3世紀後に活躍した人たちについても例証できることで、新プラトン派のオリンピオドロスとアレキサンドリアのステファノスで、他方は偉大な錬金術医の陶弘景と孫思バクである。
最後に、われわれのギリシャ的な原始化学についての資料が紀元1000頃の日付があるのと同じように、「道蔵」(道教の著述全集)の最初の決定的な集大成で、錬金術の多数の本のもととなるものは1019年にできて、その最初の印刷が1117年であることも、奇妙な一致がみられる。
それでも、中国の錬金術の黄金時代は唐王朝(620-900年頃)の時代に対応している。これは孟? 梅彪 趙耐菴などの人たちが活躍した時代である。
アラビア文化圏の錬金術が中国から強く影響をうけたことは現在きわめて明白なので、以前考えられていたように、7、8世紀に栄えたのではなく、むしろ9、10、11世紀に栄えたという事実にさらに重要さを加えることになる。
900年ごろに、活動が急にさかんになったのは証明できることである。
ジャービル全集の多数の著作が出たのは偉大な錬金術師のアル=ラジー(al-Razi、860-925)の生涯とほぼ同時期だが、これらは彼とはまったく無関係で、むしろシンセリテイーのブレスレン(イクホワン・アル=サファー)として知られているクアルマテイアンの科学者たちに関係がある。
これは、またイブン・ウマイルの神秘的な錬金術と、ラテン語で、「哲学者の群turba philosophorum」として知られる著作の大成された時代でもある。後の本はソクラテス以前から後の期間ずっとアラビア人が知っていたすべての自然哲学者の意見のいきいきとした叙述の形をとって、空想的な国際的な1種の化学の学会である。
一世紀後に、偉大なイブン・シーナとアル=マジェリテイーの活躍があり、そしてフランク王国やラテン系の西部での真の錬金術の幕が上がる時期に近くなってくる。