話が逸脱したが本題へもどろう。
私の信じるかぎりでは、かなり矛盾なく、そして当然のこととして、植物の成長はすべて細胞内細胞のみによって成立していることが実証された。
つぎに根に移ろう。
私は植物のこの部分の説明に寄与するところ多くを有するものではない。
なぜならば私の経験はまだかなり限られた範囲内の研究にとどまっており、満足すべき結果は何ら得られていないからである。
---たとえば幼根の先端で新しい細胞を生成する液体が分泌されているかどうか、この問題が未解決のままである。
----他方、根端には細胞組織(Zellengewebe)の凹凸レンズ状細胞群(Meniscus)があって、その中で、上方に向かって成長する部分におけると同様の方式で、細胞形成の過程が起こっていることは疑いない。
したがって、根の伸長の主原因は次の事実にある。
その細胞群の凸側では既存の細胞の内部でつねに新細胞の形成が起こり、凹側では既成の細胞の主として長軸方向への膨張が一斉に起こる。
かくして根端はたえず前方に向かっておしやられるのである。
第3の場合、植物の不定器官の形成についてのは、私は完全にこれを見逃さざるをえない。
これについては私自身の観察をまったく持ち合わせないからである。
とはいえ、この場合の過程も、前述の若干の場合と同一であろうと想像される。
なぜならば、マイエン(「生理学」第1巻209頁)によって、ランの発芽中の塊茎において細胞芽胞が観察されているからである。
同様の結論は類推によっても導かれる。
すなわち、これら不定器官はすべて、前章ですでに論じたところの諸器官の形態学的変形に他ならないからである。
第4の点は、なお論ずべき点を残している。
それは材茎を形成する(双子葉)植物の肥大の問題である。
カンビウムの起源と意義は、数多くの若い植物学者が骨を折った難問であり、またそれほど多くの植物学者のアレキサンダーたちがほつれをとく代わりに切りすててしまったゴージアスの結び目である。
そしてまた、それは科学のコルフェイたちがほとんどみな、その解決の多少の成功をもたらすために努力した謎である。
私の研究も、樹皮と材の間に新しく形成されるこの形成層(Bildungsschicht)に関しては打ち切られることはない。
しかしながら、この課題に関する私の観察を伝えるに先だって、植物の個体性の問題に再度ふれなければならない。
私は先に、語のもっとも厳密な意味において、個々の細胞のみが1個の個体と称せられるに値するということを指摘した。
さらに一歩を進めるならば、側性器官を伴った各主軸こそが個個の生物であると定義することもできよう。
しかしながら、もし細胞および類似の軸より成る植物のこの構成を無視するならば、また生物界における個体を、全体性の概念の止揚なしに二またはそれ以上の同様のものに分割することの不可能な体と理解するあならば、そしてまた、その生命課程が一定の周期性の中に開始ないしは終止の特定した点をもっているならば、植物界において体とみなすことのできるのは、越年して開花したのち完全に枯死するところの草本性および真の2年性の植物のみということになる。
----個体の生命の概念は、ひとつの特徴として、有機体それ自体の中で個体の死というものが規定されるということをかならず要求する。
しかし、内的必要からの最終的結果としての、つまり内的に予定された組織化能力の終焉としての死に到らないところでは、個体性はまた問題外である。
このことはしかしながら、上に述べた植物の場合に限られる。
したがってまた原型と同様に、植物の本質と生活の研究についてのみいえることである。
私の信じるかぎりでは、かなり矛盾なく、そして当然のこととして、植物の成長はすべて細胞内細胞のみによって成立していることが実証された。
つぎに根に移ろう。
私は植物のこの部分の説明に寄与するところ多くを有するものではない。
なぜならば私の経験はまだかなり限られた範囲内の研究にとどまっており、満足すべき結果は何ら得られていないからである。
---たとえば幼根の先端で新しい細胞を生成する液体が分泌されているかどうか、この問題が未解決のままである。
----他方、根端には細胞組織(Zellengewebe)の凹凸レンズ状細胞群(Meniscus)があって、その中で、上方に向かって成長する部分におけると同様の方式で、細胞形成の過程が起こっていることは疑いない。
したがって、根の伸長の主原因は次の事実にある。
その細胞群の凸側では既存の細胞の内部でつねに新細胞の形成が起こり、凹側では既成の細胞の主として長軸方向への膨張が一斉に起こる。
かくして根端はたえず前方に向かっておしやられるのである。
第3の場合、植物の不定器官の形成についてのは、私は完全にこれを見逃さざるをえない。
これについては私自身の観察をまったく持ち合わせないからである。
とはいえ、この場合の過程も、前述の若干の場合と同一であろうと想像される。
なぜならば、マイエン(「生理学」第1巻209頁)によって、ランの発芽中の塊茎において細胞芽胞が観察されているからである。
同様の結論は類推によっても導かれる。
すなわち、これら不定器官はすべて、前章ですでに論じたところの諸器官の形態学的変形に他ならないからである。
第4の点は、なお論ずべき点を残している。
それは材茎を形成する(双子葉)植物の肥大の問題である。
カンビウムの起源と意義は、数多くの若い植物学者が骨を折った難問であり、またそれほど多くの植物学者のアレキサンダーたちがほつれをとく代わりに切りすててしまったゴージアスの結び目である。
そしてまた、それは科学のコルフェイたちがほとんどみな、その解決の多少の成功をもたらすために努力した謎である。
私の研究も、樹皮と材の間に新しく形成されるこの形成層(Bildungsschicht)に関しては打ち切られることはない。
しかしながら、この課題に関する私の観察を伝えるに先だって、植物の個体性の問題に再度ふれなければならない。
私は先に、語のもっとも厳密な意味において、個々の細胞のみが1個の個体と称せられるに値するということを指摘した。
さらに一歩を進めるならば、側性器官を伴った各主軸こそが個個の生物であると定義することもできよう。
しかしながら、もし細胞および類似の軸より成る植物のこの構成を無視するならば、また生物界における個体を、全体性の概念の止揚なしに二またはそれ以上の同様のものに分割することの不可能な体と理解するあならば、そしてまた、その生命課程が一定の周期性の中に開始ないしは終止の特定した点をもっているならば、植物界において体とみなすことのできるのは、越年して開花したのち完全に枯死するところの草本性および真の2年性の植物のみということになる。
----個体の生命の概念は、ひとつの特徴として、有機体それ自体の中で個体の死というものが規定されるということをかならず要求する。
しかし、内的必要からの最終的結果としての、つまり内的に予定された組織化能力の終焉としての死に到らないところでは、個体性はまた問題外である。
このことはしかしながら、上に述べた植物の場合に限られる。
したがってまた原型と同様に、植物の本質と生活の研究についてのみいえることである。