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膠観

2013-06-08 09:00:00 | アルケ・ミスト
話が逸脱したが本題へもどろう。

私の信じるかぎりでは、かなり矛盾なく、そして当然のこととして、植物の成長はすべて細胞内細胞のみによって成立していることが実証された。

つぎに根に移ろう。
私は植物のこの部分の説明に寄与するところ多くを有するものではない。
なぜならば私の経験はまだかなり限られた範囲内の研究にとどまっており、満足すべき結果は何ら得られていないからである。

---たとえば幼根の先端で新しい細胞を生成する液体が分泌されているかどうか、この問題が未解決のままである。
----他方、根端には細胞組織(Zellengewebe)の凹凸レンズ状細胞群(Meniscus)があって、その中で、上方に向かって成長する部分におけると同様の方式で、細胞形成の過程が起こっていることは疑いない。

したがって、根の伸長の主原因は次の事実にある。

その細胞群の凸側では既存の細胞の内部でつねに新細胞の形成が起こり、凹側では既成の細胞の主として長軸方向への膨張が一斉に起こる。
かくして根端はたえず前方に向かっておしやられるのである。

第3の場合、植物の不定器官の形成についてのは、私は完全にこれを見逃さざるをえない。
これについては私自身の観察をまったく持ち合わせないからである。

とはいえ、この場合の過程も、前述の若干の場合と同一であろうと想像される。
なぜならば、マイエン(「生理学」第1巻209頁)によって、ランの発芽中の塊茎において細胞芽胞が観察されているからである。

同様の結論は類推によっても導かれる。
すなわち、これら不定器官はすべて、前章ですでに論じたところの諸器官の形態学的変形に他ならないからである。

第4の点は、なお論ずべき点を残している。
それは材茎を形成する(双子葉)植物の肥大の問題である。

カンビウムの起源と意義は、数多くの若い植物学者が骨を折った難問であり、またそれほど多くの植物学者のアレキサンダーたちがほつれをとく代わりに切りすててしまったゴージアスの結び目である。
そしてまた、それは科学のコルフェイたちがほとんどみな、その解決の多少の成功をもたらすために努力した謎である。

私の研究も、樹皮と材の間に新しく形成されるこの形成層(Bildungsschicht)に関しては打ち切られることはない。

しかしながら、この課題に関する私の観察を伝えるに先だって、植物の個体性の問題に再度ふれなければならない。

私は先に、語のもっとも厳密な意味において、個々の細胞のみが1個の個体と称せられるに値するということを指摘した。

さらに一歩を進めるならば、側性器官を伴った各主軸こそが個個の生物であると定義することもできよう。
しかしながら、もし細胞および類似の軸より成る植物のこの構成を無視するならば、また生物界における個体を、全体性の概念の止揚なしに二またはそれ以上の同様のものに分割することの不可能な体と理解するあならば、そしてまた、その生命課程が一定の周期性の中に開始ないしは終止の特定した点をもっているならば、植物界において体とみなすことのできるのは、越年して開花したのち完全に枯死するところの草本性および真の2年性の植物のみということになる。

----個体の生命の概念は、ひとつの特徴として、有機体それ自体の中で個体の死というものが規定されるということをかならず要求する。

しかし、内的必要からの最終的結果としての、つまり内的に予定された組織化能力の終焉としての死に到らないところでは、個体性はまた問題外である。

このことはしかしながら、上に述べた植物の場合に限られる。
したがってまた原型と同様に、植物の本質と生活の研究についてのみいえることである。


膠観

2013-06-07 09:00:00 | アルケ・ミスト
しかしここで、もう一歩立入らなければならない。

それは維管束と表皮の根本的起源について説明を試みるためである。

葉の軸がまだ形成の途上にある時期に、やや透明な一列の細胞群が現れる。
その中では新細胞の形成は皆無である。
この細胞群以外の細胞はたえず崩壊ししだいに縮小してゆくので、それに比べるとこれらの細胞は大きさの点でははるかに勝っている。

----これらの細胞は葉の主脈を形成する将来の維管束である。つまり柔組織細胞はその後のあらゆる方向に向かって拡張するのに対し、これらの細胞は長軸の方向にしか発達しないので、数ははるかに少ないにもかかわらず、他の細胞が葉の長軸の方向に伸びるのに追随することができるからである。

これらの細胞は螺旋紋導管と?皮細胞においては内部の堆積物の差から、おくれて分化してゆく。
---螺旋紋導管はかならず新しくできた部分において出現を開始する。そしてまた芽全体の中でも既成の古い螺旋紋導管のすぐとなりで同様のことが起こる。

こうして、それらは茎から下に、新しい部分へと下降する。したがって、ひとが茎の繊維が芽に由来するとみなすのが、なにを意味するつもりであるのか理解しがたい。それはあたかも河川が大洋から水源に向かって流れるのを考えるに等しい。

類似の過程が葉の支脈の発達に際しても起こる。
最外の細胞層においても新細胞の形成は早い時期に停止してしまう場合が多い。それらの細胞はまもなく透明な液体で満たされ、その下の柔組織の膨張によって、自然に扁平化してひろがる。

維管束および表皮の細胞はこのようにして活力が低下しているかにみえる。
いうなれば柔組織の細胞に比して程度(Dignitat)が低いようにみうけられる。そしておそらく、この生理的な特異性は次の事実と関連をもつものであろう。

それは、それらの細胞は特定の化学物質を分泌することが稀であって、多くは壁に新しい植物性繊維物質(より正確にいえば膜物質)を堆積することのみによって肥厚するという事実である。

ここでいささか危険を犯すことになるが、若干の示唆を与えなければならない。

それはおそらくこの覚書の目的とは関連の薄いものであるが、植物全体の理解のためには、おそらく何時かは適切なものとなりうると思われる。

今上にのべたばかりの植物の成長過程の要点をくりかえすことにを許されたい。
単一の細胞である花粉管からすべてが始まる。

この細胞の中に細胞が(複数)が生じ、それらの中にさらに新しい細胞(複数)が発生する。こうして、生きているかぎり、これがくりかえされる。

しかし、柔組織と関連して、上述のような維管束および表皮の起源の様式は次のことを示す。
すなわち、細胞の程度が低いほど、第1にそれが膨張し伸長する可能性が大きく、第2に内部に固有の高級な物質を形成する能力が低い。
----もしいま、細胞(複数)の能力(Potenzierung)がその植物の全成長を通して持続するとすれば、その結果として、器官は分散状態に陥ることなく集合状態に保たれ、また細胞内で生成した諸特性はひきつづき向上してゆく(veredeln)こととなる。

その結果、節間の下部は上部より多く伸び、葉の若い頂端は茎よりも上質(edler)の汁液をもつようにみえる。

植物の上端に近づくにつれて節間は短縮され、葉間は接近し、また細胞の能力がますます増大し、長軸方向における伸長はますます減少し、側性器官がますます近接し、生成された物質はますます高級のものとなり、その結果が、その個性の完結といえる花である。

花はその華麗な色彩、その香り、そしてその汁液によって、個々の細胞をふたたび独立した植物へと発生させ、自らの生涯をふたたび経験すべく運命づける、神秘に満ちた素質を備えている。


膠観

2013-06-06 09:00:00 | アルケ・ミスト
種子は発芽し胚は植物体となる。

ここで当然次の疑問が生じてくる。
この生命の過程はその後節間と葉状器官においても同様に行われるであろうか。

既存器官表面において新細胞の生成が起こることがないことは疑いの余地がない。
表面はつねに平滑で、ごく初期には一種の表皮を被っており、外層は水のように透明である。その表面では新しく形成された細胞の形骸さえもみいだされない。

しかし、かりに胚が植物体全体の前型(Vorbild)であり、そして植物体がその器官の反復以外の何物でもないとすれば、またもしも胚の成長が単に細胞内細胞形成にあることがわかるならば同じ結果が植物体全体の成長の過程においても発見されることが期待されよう。
----それはとくに葉状器官、葯である。

これはこれまで研究され、多くの優れた人々によってその発生が追求されてきた(とくにミルベルが詳細に研究した)。

ここでは細胞の増数は古い細胞の中で起こるということがまったく明らかである。----このさい形成様式が右に述べた様式と一致することは確かである。

R・ブラウンとマイエンはごく若い花粉管の中にチトブラストがみられた例を列挙している。

私はミルベルにしたがってマツ、モミ、Podostemon,ルビナスなどで花粉の発生を完全に追跡した。
細胞芽胞およびそれが細胞中で新たな細胞に発達してゆくのを、Abiesで確認した。
若い細胞でチトブラストが見当たらない例は皆無であった。

さて、かりに花粉粒が葉の柔組織の変形に外ならないとすれば、またしても、葯が葉の変態にすぎないとすれば、逆におそらく次のことが推論される。

すなわち胚と子葉(葉の原型Prototypusとしての)の形成を特徴づけているわれわれが観察した過程は、あらゆる葉状器官においてもまた見出されるであろう。
----胚の発生のその後の段階と同じ理由のために、この場合には実際の観察は決定的に困難である。しかしあえて私はこの点に関して多数の芽を調べた。

そして、たえず伸長しつづける軸の頂端においても、つねにそのやや下方に生じる葉においても、この過程が同一であることはまったく疑問の余地はなくなった。

ロクウイ属やベンケイソウ科などの多肉植物がこの目的に最適である。私にはCrassula Portulacaがもっとも有益に思われる。

なぜならば、内部に若い細胞がすでに生じているが、しかしまた親細胞を満たすには至っていない細胞の接着から細胞を解離することに、この植物で初めて成功したからである。

----しかしいったんこれに精通した後は、他のあらゆる植物においても、外見上ある程度の秩序しか保てない状態からそのような統一性をみつけだすことができるようになった。

----じつは、事態を胚の場合よりも一層困難にしている事情がある。

それは、細胞が微小であるということとは別に、新たに形成された植物体の一部の壁がまだゲラチン質だけでできていて、はなはだ傷つきやすいために、調べようとする部分を、有機的体制(Organisation)を乱すことなく摘出することが極度に困難となるという事実である。(図90-92)

この過程は節毛や先端が多細胞になっている毛のようなところでより容易に認められる。
これらにおいては、若い胚でよくみられたのと同じ現象、そしてミルベルがゼニゴケの芽皿中の無性芽(Gemme)の発生においてみごとに記載したごとき現象が、容易にそして明瞭に観察される。

たとえばふつうのバレイショでそれがみられる。

マイエンも同様の観察を行っている。
ただし彼は、まだこの問題について疑問をもっていた。(ヴィーゲマンズ・アルヒーフ1837、第2巻22頁)
その器官を完成するのに必要な数の細胞が形成されると初めて細胞の壁が強化され、既存の細胞の単なる膨張によって器官の発達が開始される。


一般的には「おしべ」といわれ、花粉を入れる袋状の葯(やく)(Anther)と葯を支える花糸(かし)(Filament)という部分で構成される。


膠観

2013-06-05 09:00:00 | アルケ・ミスト
したがってここで、生理学的意味において異なる二つの過程を区別しなければならない。

それは厳密にみれば自然界のもう一つの世界(動物界)で類似を見出すことのほとんどの不可能なものである。

①植物は成長する。すなわち植物はそれにふさわしい細胞数を生成する。

②植物は形成された細胞の膨張と発展によって展開する。
---とくにこれは植物に独特な現象であり、植物が細胞によって構成されているという事実に基づくものである。したがってこの現象は、いかに奇妙な形態の結晶あるいは動物においても起こりえないものである。

③発展をとげた細胞の壁は、物質が新たに層状に推積するために厚くなる。この過程は古いルール「その重要なものより名称は生ず」(a potiori fit denominatio)に従って、その植物の木化と呼ぶのが最適であろう。

植物の成長に関して、もし1で述べた解釈にとどまるならば、さらに次の問題が生じてくるに相違ない。
それは、新細胞の形成されるのはどこか、という問題である。
考えられるすべての解答は次の3例の中に包含される。

それは、新細胞は既存の細胞塊の外表面に形成されるか、あるいはその内側に形成されるか、そして後者のばあい、細胞間の間隙かあるいは細胞自体の内部かである。これですべてである。

ミルベルは1831年と1832年にフランス・アカデミーに送ったゼニゴケに関する精緻を極めた学殖深い2篇の短報の中で、まさにこの3例がいずれも可能性があり実際に植物で起こっているという見解を表明した。
----ここではこれ以上の詳細を避けて、次のことを記さなければならない。
それは彼の直接の観察によって明らかにされるようにみうけられるのは、1例(古い細胞内での新しい細胞の形成)しかないということである。

第二の例は、単なる憶測にすぎず、そして第三例に相当するのはゼニゴケの胞子の発芽の例であるが、これはすでに前述のように、われわれの観察ではまったく異質のものであった。

しかし最後に、器官の相違がわれわれの関心をひく成長の生理的差異の原因となっていはしないかどうかにも注意を向けなければならない。
それには四つの例が区別されよう。
いずれもわれわれによって観察されたものである。

①植物の上方への発生(生長点におけるC・Fr・ヴォルフ)
②下方向への伸長。したがって植物の必須な器官、茎、葉(およびその変態Metamorphose)と根の形成を含む。
③不定器官、たとえば塊茎などの形成。
最後に、④軸性構造の年肥厚、材茎(Holtzstamm)の発達。以上である。

次に新細胞形成の三つの可能性のうちいずれが上記各例にそれぞれ該当するかをみてみよう。

新しい細胞が胚嚢という大型細胞中で発生してくる過程はすでに説明した。
同じ過程が花粉管の先端すなわち著しく伸長した細胞内で起こる。ここで胚のその後の発達の記述に進もう。
----通常ごく少数の始原的な細胞が形成され、その後急速に膨張し、花粉管を満たすに至り、やがて元は花粉管に包まれていたとは認めがたくなる。
しかしまもなく、各細胞内に再び数個のチトブラストが生じて、新細胞を形成する。
それが急速に膨張するにつれて母細胞もみえなくなり吸収される。
----同じ過程がつぎつぎとくりかえされるが、あらたに生じた細胞はしだいに膨張できる空間が狭くなって、縮小する一方である。

そのため内部に新たなチトブラストがつぎつぎに形成されると組織が緻密になり、やがて当初のような透明さを失う。このよにして開始した過程が胚の完成まで続くということは確かな論理的前提によっていえることである。

なぜならば、突如として生命活動の変化をひき起こすということを仮定しなければならない新たな契機はなんら生じないからである。それどころか、まもなくふたたび成長力の発揮をみるに至るのである。






膠観

2013-06-04 09:00:00 | アルケ・ミスト
成長するとはどういうことか?

これはどんな子供でも即答できる質問である。
「お父さんのように大きくなること」と。

この答えには真理があるが、これだけでは科学にとって充分ではない。
言葉というのはいわば鋳貨のようなもの、すなわちそれ自体で価値をもっているのではなく、人々のやりとりを容易にするために作られた---目にみえる形では示すことができない通り相場の----符合にすぎない。

この比喩をもう少しすすめるとこうなる。
すなわち、こういう鋳貨がひとたびその不変の、一定の裏づけを失うときには、知的な財産は不確実なものとなり、しばしば破綻を生じることになる。

ひとことでいえば、科学で使われるあるある表現が役に立つかどうかは、その基礎にある概念が正確に定義されているか否かに関わっているのである。
----不幸なことに、今日の社会諸関係の混乱のために、金銭の本来の意味はことごとく忘れ去られて、その符号が(価値を失った)物そのものになってしまった。

神よ、知的生活におけるかかる過ちから、われわれを救い給え。
----ここでわれわれは危険な落とし穴を二つ警戒しなければならない。

第一は、言葉をある学問分野から他の分野に転用するさいに、含意を考えても、その言葉が新たな脈絡の中に全面的に適用されるか否かを最初に正確に吟味することなしに使用してしまう危険である。

第二に、言語の精神とそれぞれが歴史を経るなかで豊かに育まれてきた言葉の意味を勝手にきりすて、単なる副次的な意味しか通用しないような合成語を軽率に作ってしまう危険である。----

かくて、たとえばえE・マイヤー(「リネア」第7巻、454頁)は、デユ・アメルの周知の実験を繰り返したのち、命題を設定する。
「節間の長軸方向への成長の法則は上から下に向かう方向で成長することである。」---かれはかれらの学説のためにこの命題を必要とし、したがってあらゆる機会にこれを擁護した。

しかしかれの説を読んだ者はだれでもこの逆方向への成長を非常識に思うに違いないということはかれ自身が認めていたことである。

動物生理学によってなじみ深くなった「成長する」(“wachsen”)という語を植物に適応することが可能か否かに関して、さらに細かく分析していればこのような命題に陥ることはなかったであろう。

新しい細胞の生成、その限りにおいて植物の実際の成長も、その最外側部分で上向きの方向にたえず起こるということをかれはやがて発見したことであろうし、またボルタ電池の組立てのかれの比喩こそまさにかれ自身への反論に適確にあてはまるということに気づいたことであろう。

デユ・アメルとマイヤーの実験が示したのは節間の下位の、すなわちまさに最初に形成された古い細胞ほど長軸の方向に伸びる能力が大きく、そしてこの能力は若い細胞よりも長く持続するということだけで、それ以上の成果を生み出すには至らなかったであろう。

---第2の点に関しては、最近しきりと表明されている命題中にその優れた例の1つをみることができる。
それは植物の茎は癒着(verwachsen)された葉柄からできているとする命題である。
----しかしながら「癒着する」という語は、以前から日常生活においても科学においても、次のよな意味をもっていた。

それは2個あるいはそれ以上の、初め相離れていた部分が成長の過程を通して、不規則に、あるいはある条件下では規則的に、合着するという意味である。

一方、茎というのは、それが存在するかぎりつねに、どのような形態の外見を現そうと、単一不可分のものであり、植物の起源においてつねに葉柄を伴った葉に先んじて出現するものである。

このような濫用によって科学それ自体は何ものをも得ることができず、それどころかそのような言葉の遊戯を見抜くところの才智・機智にとむ素人の目さえ見失うであろう----。

われわれが胴体を四肢の癒着だとみなしたとしたら動物学者は何というであろうか。


さて、私の疑問に立帰ろう。

成長するとはいったい何を意味するのか。
旧来の慣習によれば、「成長とは一個体の量(Mass)の増大をいう。これは無機界では付加(Juxtapositio)によって、有機界では充填(Intususceptio)によって起こる。」

この解答によって植物生理学に寄与する何ものかが得られるか。
私は得られないと思う。もしかりに、植物は充填によって成長するのだとするならば、植物は個々の独立した有機分子の集合すなわち細胞から成り立っているということになる。

植物は既存の細胞に新しい細胞を積み重ねることによって、すなわち付加によって量をましてゆく。
----ただし個々の細胞は大きさをまし、往々にして当初の大きさと比べて巨大な体積に達することがある。(花粉管を想起していただくだけでよい)。

しかしこのさい、先の膜内の物質もまた増加する。かくして植物体全体の量が増大する。しなわち植物は充填によっても成長するのである。

最後に、一定の時期を経過した細胞はその元来の膜の上に新しい有機物を層状に堆積させる。これも付加の1つの型であるが、やはり植物の生命活動の一部である。
---こうして、科学的植物学に「成長」の概念が適用されてる真実性が保たれるようにするためには、まず新しい基礎づくりがなされなければならなにことが容易に明らかになる。

上に述べた3例のうち、第2、第3の例はむしろ細胞ごとの生命活動のひとつであり、(ある数(1から無限大まで)の細胞からできている一生物体としての)全植物体の概念に関しては第2次的な意味しかない。
----全体としてみた植物の量、すなわちそれを構成している細胞数の増加は第1例の様式に依存するほかない。



備考;
植物成長制御研究室 梅田研究室
根は根端に存在する分裂領域で細胞分裂が起こり、娘細胞が積み上がっていくことにより伸長します(図1)。

膠観

2013-06-03 09:00:00 | アルケ・ミスト
いささか傍道にそれすぎたので本題に立帰るとしよう。

私が詳細にわたって記述すべく取り組んだ細胞形成の過程は、いうまでもなく、私が研究した植物の大多数において直接に観察されたものである。

しかしながら、この過程には少なからぬ異例があり、そのために観察がひどく困難な部分が少なくない。

ときには実際上不可能になる場合さえある。
だが、このような事情があるにもかかわらず、その法則は乱されることなく堅持され普遍的に通用する。
なぜならば、アナロジーがそれを要求するからであり、また直接的観察が不可能な場合、その原因を完全に説明することが可能だからである。

私がここで述べている困難は、中でも、細胞形成に先んずる物質の、物理的、化学的性質に関わっている。
先に引き合いにだした事例は、植物の生活の、われわれにまだまったく不明の、定常的にはたらいている有機化学的過程から任意に拾いあげた要点であって、したがって概観を簡単な特徴づけにするにすぎないのである。

それらの物質はほとんどすべて、生きている植物の中に、つねに存在している。
そして、細胞が澱粉やゴム質のようなものを含むといえるのは、それらの物質がある程度優位を占めるからにすぎない。

細胞を満たしている物質の種類は、細胞の生命が終わろうとする頃には減少してくる。

揮発性の油を含む細胞では1種類しかみられないが、これが唯一の例外であろう。----

今、細胞が透明な糖溶液で充満されていて、その糖溶液中で大量のゴム質が急速に生じ、ゲラチン質に変換することによって急速にうすい細胞壁を形成しつつあるが、それの内容と周囲の媒液の屈折率が等しいために、その存在を顕微鏡で判別することがほとんど不可能であると仮定しよう。
そのような形成過程の中には、われわれの観察から逃れ続けてしまうものがあることは確実で、その場合は、親細胞が吸収された後に突如として2個の新細胞の存在を発見するまで、その結果を知ることがないであろう。

これに反して、この過程に初めから注目しているならば、或る形成過程を予察した上で、試薬を、なかでも生理学的植物学者にとって絶対不可欠であるところのヨードを使用することによって、それを可視化する方法が数々あることはいうまでもない。
----まったく目にみえない過程へと徐々に移行する例が総合的な研究によって容易に見出されている。

私が遭遇したもっとも困難な場合の1例をあげよう。

それはゼニゴケの胞子の発芽のさいにみられる。
----細胞形成にあずかるのは胞子中にみられる少数の、多くの場合2ないし4個の、細胞芽胞(Zellenkeim)に限られる。
それ以外の細胞芽胞は急速にクロロフィルに包まれて、生命課程から除外されてしまう。
しかしこれらの各チトプラストを浮かべている透明な液体は、それ以後の段階を経過して、細胞壁へと変形する。
これが起こるのは細胞壁の境界面に限られ、しかも急速に経過するので、極度にもろい若い細胞は次の場合以外は識別できない。
それは微小な粒、通常ごく小型の黒い粒が断続的につながっている輪によって、または新生の細胞の内容と親細胞の内容とのあいだのごくわずかな透明度の差によって、そして最後に、もっとも幸運にめぐまれた場合、新生の細胞が接触し、その結合点が親細胞の膜によってまだ包まれているような点によってである。(図86-88)

これはおそらく隠花植物とくに水生植物に一般的と思われる。
モールがみたConferva属植物の細胞の分裂はおそらくこのように説明されるであろう。

ここで次の仮定を考えてみよう。
第一はチトブラストがこの上なく微小であり透明であるがために、少なくとも今までのところまったく見逃されている菌類や鞭毛藻(infusorielle Algen)のような植物が多いのではないか、という仮定である。
第二は、細胞芽胞の中の小顆粒がたいへん小さく、大きめのチトブラストの中でさえも計測不可能で、時に最高の拡大率でも目にとまらないことが多いのではないか、という仮定である。
そして最後に、それにもかかわらず、目にもみえないこの粒子が、適当な媒液中では、細胞の全形成過程へと導く役を果たすところのチトブラスト形成のためのおそらく充分な原因となると上に述べたことから結論づけられるのではないか、とする仮定である。

もしこれらの仮定が正しいとすると、自然発生(Deux ex Machina、Generatio spontanea)の助けをかりずに鞭毛藻体の発生を説明するために、これらの空想が役にたつ広い余地があることを認めざるをえないであろう。
----しかし今は事実とその直後の帰結のみを報告するのが目的であって、夢をみているときではない。
よって、植物の成長についてさえさらに2,3の観察例をつけ加えることをしたい。

 



膠観

2013-06-02 09:00:00 | アルケ・ミスト
発生の時期に完全に依存しているのは次の二つの場合のいずれかのである。

一つは螺旋繊維が形成されて細胞中に遊離してくるのが非常に遅い場合である。他は、細胞中に浮遊してくるのが非常に遅い場合である。

他は、細胞がまだはなはだ柔軟なゲラチン状で、したがって同じゲラチン質状である繊維に密着できる時期に螺旋繊維の発生が始まるので、それが細胞の膜から離れられない場合である。

これはモクマオウ、クスノキ、トチカガミ、Trichochine、ランなどの場合である

しかしながら多くの場合は、細胞壁は形成が進みすぎており、繊維はそれと結合することができず、細胞内に遊離した状態になっている。
----そのさい、ごく稀に素材がほとんど完全に繊維の形成に充当される場合がある(繊維が壁に覆われる時にはかならずである)。

たとえば、Salvia Spielmanni、Momordica clateriumの場合がその例である。
そのためにその後は空気だけを運ぶようになるものと推測する根拠がある。

---そのさいに、1本あるいはそれ以上の繊維が形成されることが多い。しかしこの場合はゲラチン質の大部分がまだ消費しつくされないで残っている。

そのゲラチン質は、細胞が水を吸うとふくれて繊維の上に広がり、繊維を被うように見えてくる。
これはアキギリ属とハナシノブ科のたいていのもの、Senecie flaccidus、Ocymum polystachyumおよびpolycladium(Lumnityera jacq.)において見られる例である。
----これと前述の型との中間型がある。

それはゲラチン質自体が螺旋状に巻いた広い帯となり、この帯の表面が無数の微細な繊維でできているようにみえる場合である。

これは、Perdicium taraxaciとZiziphoraで大変美しくみえる。
----まだ形成があまり進んでいない段階では、細胞の内部にはゲラチン質の円筒または円錐体が見られるにすぎないが、表面には微細な螺旋がみられる。

----これはシソ科のある種、たとえばS.verticillataとLeptosiphon androsaceumで見られる。
最後に、最低の形成段階は次のような段階である。
それは、螺旋の帯模様を備えたゲラチン質の筒の中に腔所があり、その中にまだ分解されていない澱粉粒が含まれている段階である。
この意味深長な現象はDracocephalum moldovica、Ocymum basilieumおよびその近縁のいくつかの種でみいだされてりる。
----以上すべてについて図94-100とその説明を参照されよ。----

螺旋繊維の問題を終える前に、一つの事を書き加えよう。
それは、ほとんどすべてのすぐれた観察者によって最近になって承認されたことである。
それは、螺旋細胞と螺旋紋導管との間の唯一の相違は、かならず中間的なものがみられるにしても、鞍皮部と組織細胞の間の相違と同様に、大きさの違いであるということである。

したがって、少なくともこの学説に関する限り、硬直した高級な理想型をめぐる自然哲学的幻想やそれに類した空論の余地は、少しも残されていない。

丸い細胞から鞍皮部細胞ができること、つまり一つの器官が縦方向にとくに伸びることは、また螺旋状細胞(いも虫の形をした細胞)が螺旋紋導管に変形することでもある。

---- しかしながら螺旋繊維の機能は、現在のところわれわれには何もわかっていない。
そのことは、まじめな植物生理学者であれば誰しも承認するところであるに相違ない。

確実なことは、生きている植物では螺旋紋導管と螺旋細胞は空気に満たされている場合もある(充分な大きさに達した若くない器官)が、また液汁で満たされて場合もある(成長しつつある若い部分)ということがである。

著者たちに見解の相違をいだかせてきたのはこの事情である。

同じ事情はある条件のもとに置かれた全ての細胞で生じる。
その際の螺旋繊維の影響はまったく不明瞭で未解決のままである。
細胞の発生のある一定の段階で、その独自の個性を捨てて、全植物という複合体の中に統合された一部分として組込まれざるを得なくなる。
そのかぎりにおいて、上述のことから、細胞の生命活動のあるもう一つの方向を通して、おそらく次のことが明らかになる。

それは、螺旋はどこでも単に細胞の生命力の生産物(繊維物質Faser-stoff)の二次的な変形であるにすぎないということである。

また上述の事実から、螺旋形成においてみられるすべての現象が、それが単純な細胞壁とはもはや何の関わりもなくなったということをもっともよく証明しているという結論を導くことができるように思われる。



膠観

2013-06-01 09:00:00 | アルケ・ミスト
それは多くのシソ科植物の果皮の表皮にある。

Ziziphora,Ocymum, など、そしてまたHorminum pyrenaieumにもみられる。
叔父のホルケルはすでに数年前いらいこれらを全てについて知っており、バクスターはそれがSalvia verbenaceaのいてのみ現れることに注目し公表していた。
私はさらにDracocephalum moldavicaをつけ加えることができる。

R・ブラウンはモクマオウ類の果皮の柔組織(Parenchyma)にこれを発見し、私はPicridium vulgareの、多孔質の、空気でふくらんだ細胞組織で発見した。
ここではたいていは網状構造をとっていて、美しい外観を現している。

ホルケルはまた、リンドレイがCollomia linearisにそれがあることを公表する以前に、ハナシノブ科の種自体の表皮にそれを発見した。

それはイワノリ、Gilia、Ipomopsis、ハチシノブ、Canua、Caldosiaにあり、おそらく、最初にそれが示されたLeptosiphonの近縁であるPhloxを除けば、繊維細胞はこの科全体にあると思われる。

ホルスケはまたニース・フォン・エゼンベックがその事実を公表するよりはるか前にトチカガミの種でもそれを研究していた。

トチカガミでは最高度に発達している。

ロバート・ブラウンはそれらの事実をラン科植物で指摘し、私はこの見解が、わが国内のほとんどすべてのランの種に適用しうることを知った。

私はまた、Momordica elateriumの種子の表皮できわめて精巧な螺旋状繊維細胞を発見した。

また、Lanaria vulgris、Datura stramonium、その他数種のシソ科植物で、繊維がきわめて美しい網目模様をなしているのを発見した。おそらくこの事はこの科全体に固有であろう。---

最後に、ホルケルの発見によれば、それはクスノキとザクロの種子の珠皮の柔組織に認められるという。
これらの形成の研究は、ある1つの種で、その個々の個体発生において研究するにせよ、また、近縁の一連の植物でしだいに完成に近づく段階を追って研究するにせよ、いずれの場合にも、この上なく興味深い普遍的な結果を少なからずもたらすであろう。

われわれがまず第一に到達する普遍的かつ絶対的な事実は、繊維はけっして遊離状態で形成されることはなく、細胞の内部で形成されるものだということである。
そして若い状態にある細胞の壁は単純であり、一般にははなはだ脆弱であるということである。----膜にとり囲まれていない特殊な細胞に関するコルダの見解(「特殊繊維などについて」」7,8頁)は不完全な観察に基づいたものである。

普通これらの細胞は、当初は澱粉で満たされている。まれに粘液質またはゴム質で満たされていることもある。

この粘液質とゴム質は、発生の進行中つねに澱粉からできてくる。
しかもこれらは、外側から内側へとしだいにゲラチン質の表面は螺旋の方向に従って変わり、最後に植物性繊維になる。この螺旋の巻は緻密なものも荒いものもある。
----これらの構造を、異なった発生の段階で、また異なった条件下で観察すると、螺旋形式は、細胞壁に沿って螺旋状に流動する結果であると無意識のうちに考えてしまう。
ホルケルも一度、トチカガミで、作られつつある繊維のコイルの間を小型の顆粒が移動するのを実際に観察したことがる。

繊維が著しく多様な様相を呈するのは、主としてその発生の時期と構成成分の化学変化の差に基づくものと思われる。


 

膠観

2013-05-31 09:00:00 | アルケ・ミスト
マイエンなる人物は解剖学の問題に関してはかならず考慮に入れらるべき人であろうが、彼の自著「生理学」第1巻45頁以下で完成した細胞における構造の関係についての、洞察力のある方法で行った彼自身のすばらしい観察に基づいて、細胞は密着している螺旋状繊維(Spiralfibern)でできているという見解を確立しようとした。


私は何人にも容易に追試することの可能な直接的観察を行って、まったく異なった形成様式があることを明らかにした。
しかしながら、ここに見られる1つの矛盾を未解決のまま残すことを避けるために、マイエンの記載した事実を私の発見と調和させなければならない。

マイエン自身は、そのきわめて細い繊維が相互に密接し合っている例の螺旋管(Spiralrohr)を扱うさいに、包んでいる膜は実際に観察できないこと、しかしこのことはけっして、それが存在しないことを結論づけるものではないことを、正当にも見ている。
----その理由は次のとおりである。

脂肪壁の肥厚というのはたいていの場合、おそらくすべての場合、螺旋状に形成されるものである。

しかし、最初の細胞壁自体がまだできたてで柔らかいうちに肥厚してくるような場合には、肥厚が既存の細胞壁と堅く結合するに至り、螺旋状繊維の個々のコイルが完全に相互に密接していて、われわれの顕微鏡ではその間に間隙を認めることができないとすれば、当然のこととして、膜全体をひきちぎるとき(螺旋状導管の撚りをもどす)、われわれの顕微鏡では切口の凹凸がわからないほど膜の切れ方が繊維のコイルの方向にみごとに一致しているはずである。

最初の細胞膜は、とくに長い毛細胞のそれは、しばしばいちじるしく伸長し、最後に無限に繊細になってしまう。
したがって、たとえもっとも薄い、そして明らかにもっとも単純な細胞壁といえども、それが第一次膜と二次沈着からできている可能性を避けることはできないことも同時に想起されるのであろう。
---そこで、もしも、コイルが相互にたいへん離れていて、外側に包む膜の存在が疑いの余地ないような螺旋細胞(Spiralzelle)および螺旋紋導管からみていくとすれば、そしてまたもしも、ますます接近する繊維のコイルなら、どのようなコイルにもこの膜があることを、われわれの光学装置が弱いためにそれ以上の直接的観察が不可能になるまで追求するとすれば、そのような場合には同様の膜の存在が許容されることを正当なアナロジーの法則は要求している。

しかしなお、より直接的な証明の方法がある。それはすなわち、発生過程の研究である。---

いかなる細胞も(今はカンビウムは別とする)初めはきわめて微細な小胞の形をとって出現し、ついで徐々に大きくなり、さいごに一定の大きさに達して発生を終える。

これは例外のまったくない法則である。

細胞は決して、成長の完了に先だって、換言すれば細胞がチトブラストを吸収する以前は、まるのまま見てもあるいは引きさいてみても螺旋状の構造の痕跡を作らないということが、この形成過程を広範に研究したさいにおいて、つねにえられる結論である。
---あらゆる螺旋形細胞の壁、とくに離れた繊維をもったものでは、成長した細胞が初めのうちはまったく単純であることに気づく。たとえば私は全ての気根の外側の羊皮紙状の層でこのことを観察したことがある。

マイエンはOrchidium altissimum、Acropera hoddigesu、Brassavola cordate、Cyrtopodium speciasum、Aerides odorata Epideudron elongatum、Cattleya Forfesu、Colax Harrisonu、Pothos crassineriaで螺旋状繊維を発見した。

これらの気根の真性皮膚においてこれが顕著である。
その中でColax、Cyrtopodium Acroperaで私も幅の広いみごとな螺旋状繊維(Spiralfaser)を発見したことがある。

ごく若い気根ではその痕跡を認められない。そしてその形成はまちがいなく木質化過程に属する。

さらに、モクマオウ類の果皮の細胞は、受精の直前あるいは直後には螺旋状繊維の痕跡を示さず、その後の時期になって初めて現れるという証拠がある。

マイエンは「生理学」の中で、各種種子の種皮中のこれら繊維状細胞(Faserzelle)に対して、より多くの注意を払うべきであった。このことは惜しまれるべきである。

なぜならば、これらの興味深い、そして一部はきわめて些細なものが、細胞の生理について若干の説明を提供するからである。
とくに、もし若干の種についてその個々の発生を詳しく観察する機会があればである。この課題について2,3の観察を述べることを許されたい。


膠観

2013-05-30 09:00:00 | アルケ・ミスト
普遍的な法則として、チトブラストが自ら形成した細胞にその全生命過程を通して付随しているというのはまれである。にもかかわらず。

①ラン科とシャボテン科では、細胞組織(Zellgewebe)の一部が全生涯にわたって発生の低い段階に留まっているのが特徴である。
②各種の植物で、一時的な意義しかもたない細胞組織が完全には形成されることなくチトブラストとともに吸収されてしまう例がある。
さらに注目されることは、チトブラストは消失する前に、輪郭の明瞭さと鋭さを大きく失うことである。
ただし、吸収が始まる時には輪郭はふたたび明らかとなった。
たとえばAbies excelsa、Tulipa sylvestris、およびDaphne alpinaの胚珠の中心部(Nucleus)でこのことが認められた。
----ある植物生理学者たちは、植物で吸収の現象が起こるという事実を否定できると断定しているが、これほど不可解なことはない。
なぜならば、たとえば胚珠(Eichen)の中心の細胞組織のきわめて重要な部分においてさえも、ふたたび完全に液状になり、汁液一般へと吸収されるのであるからである。
これが起こるのはたしかに細胞がまだもとの単純な膜でできていて、その個体発生が2次的沈着によって肥厚するまでには進んでいない場合に限られる。
③まれな例としては、花粉粒の中にまでチトブラストが保持されていることがある。
二、三のモミ類にその例が見られる。実際はおそらくモミ類のすべてがその例であろう。凸レンズ状のチトブラストはすでにフリッチェがLarix europaeaで見ている。しかしその重要性は認められなかった。
④最後に多くの毛、とくに内部で液が動きを示している細胞がチトブラストを保持している(図93参照)。
多くの場合壁全体に網のように広がっている小さな流れが、つねにチトブラストから出発し、そしてそれにかえってゆく。
そして(若い状態では)流れを伴わないチトブラストは皆無である。(図93)この事実もまた同時に関心をひく事実であり、チトブラストが細胞の全生命活動に対して緊密な関係を負っている証左である。

上に述べた細胞発生の全過程は左記の植物の胚乳において一貫して観察された。Chamaedorea shiedeana、Phormium tenax、Fritillaria pyrenacica、Tulipa sylvestris、Elymus arenarius、Secale cereale、Leueoji spec.、Abies excelsa、Larix europaea、Euphorbia cereale、Leucoji spec.、Abies excelsa、Larix europaea、Euphorbia pallida、Ricinus leucocarpa、Momordica elaterium. またHinum pallescens、Oenothera crassipes.その他多くの植物の花粉管の成長先端においても観察された。
----マメ科の植物はごく普通に研究され、植物発生史の図解にはいたるところで用いられている材料であるが、私がこの植物を調べ始めて、今日まであるゆる観察者の目を逃れてきたこの過程の研究のために、これがもっともすぐれて便利な材料であることに気づいて驚いたのは、1837年の夏で、この論説を書きおえたのはその後のことであった。
----もちろん、それまで胚嚢中に含まれている甘味ある液体を調べる価値はなかったのであるが。

私は細胞形成の全過程を追求し尽くすまでもなくきわめて多くの植物で、細胞の出現に先だって、その体液の中に細胞核が浮遊してるのを発見した。
結局、私は、新たに発生した細胞組成には一例も出会わなかった。
唯一の例外はカンビウム(Cambium)で、この中にはチトブラストが存在しなかった。-----そこで私は、上に述べた過程が顕花植物における植物性細胞組織の形成の普及的法則であると仮定するのが正当であると考えた。----

隠花植物に関しては、私の観察は、はるかに限られたものとなっている。
とはいえ、子嚢菌類ノ胞子でチトブラストを発見した。ただしこの場合には、透明度が高いために、きわめて高い倍率で、しかも視野をさらに暗くしなければならず確認することができなかった。
Chara vulgarsではいわゆる葯の内室中の黄色を帯びた大型の細胞にそれが見られた。ゼニゴケ(Marchantia polymorpha)の胞子の中ではこれが発展して細胞になるのがみられた。その細胞の一つは元来の胞子壁を圧迫しているが、それが長い仮根となった(図86-88)


以上述べたことから、次のことが明らかになる。

チトブラストはけっして細胞の内部に遊離して存在することはありえず、つねに細胞壁(Zelleenwand)中に包まれている。そしてこの困難な研究が可能なほど大型のチトブラストの観察によれば、細胞の囲壁は二枚の薄膜に裂けて、一つはチトブラストの外側になり、一つは内側となってゆく。ふつう内側にある薄膜はより脆弱で多くの場合ゲラチン状にすぎず、チトブラストとともにすみやかに吸収される(図76・84・89参照)。
切片を作るさい、チトブラストはしばしば離れてスライドガラスの上に広がっていくことがある。これはチトブラストが遊離して存在しいることを思わせる。したがって、吸収が始まる際に、チトブラストは細胞壁との結合から解放されるのであり、その位置からチトブラストを放すには軽く突くだけで充分であろう。
細胞の殻はチトブラストの近くでいちじるしく厚くなることが多い。
チトブラストが球状をなしている場合にとくにそうだ。たとえばある種のランで、複数の細胞になった花粉管の中にそれがみられる(図84・88)。