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膠観

2013-06-18 09:00:00 | アルケ・ミスト


1837年夏、シュヴァンはオタマジャクシの尾の神経末端に関する研究を行っていた。

その時、オタマジャクシの脊索と鰭軟骨が、植物に似た細胞構造を有するとに気付いていた。

その年の10月の「或る日、私はシュライデン氏と食事をしていた。この著名な植物学者は、植物細胞の発展の際に核が演じる重要な役割のことを私に話してくれた。私はすぐに、脊索の細胞で同じようなもの(核)を見たことがあるのを思い出した。

同時に私は、植物細胞の発展の際に植物の核が演じているのと同じ役割を、この核が脊索細胞でも演じていることを証明できた暁には、私の発見は非常に大きな意味を持つことになるだろう、ということを理解したのであった。」

2人はただちにベルリン大学のシュヴァンの研究室におもむき、脊索の核をいっしょに調べ、シュライデンはそれが植物細胞の核と非常によく似ていることを認めた。

シュヴァンの関心事は、単に植物細胞と動物細胞の構造が類似しているという点にとどまるものではなかった。

生理学的に異なる二つの要素的部分が核の役割という点で一致するという事実は、両者の発展原理が同一であることを物語るのではなかろうか。

もしそうであるならば、この発展原理は、外見的にはきわめて多様な、その他の要素的部分にも当てはまるのではなかろうか。

もしかすると、シュライデンのいう細胞形成原理、もっと広汎な、有機物形成の一般原理ではなかろうか、とシュヴァンは考えた。

動物体のさまざまな組織、とくにその発展の様子を観察することによって、共通の発展原理があることを証明しよう、という課題に立ち向かうこととなった。

ここには、器官や組織の種類によってそれぞれ特異的な生命力がある。換言すれば、組織の種類が違えば発展原理も異なる、と考える生気論との訣別の姿勢が見られる。

事実、シュヴァンのその姿勢は、細胞形成を物理学的法則によって説明しようとする彼の「細胞の理論」の展開に至って最高潮に達するものであった。

反面、シュヴァンは「著名な」植物学者シュライデンの細胞形成理論を、かなり性急に受け入れすぎた。
シュライデンは、既存の細胞の内部で新しい細胞が形成されると誤って考えた。

すなわち、粘液中に含まれる顆粒が凝縮して核小体が形成され、これがもとになってチトブラストが、さらにチトブラストから新しい細胞が発展してくる。

老化した細胞では核が消失してしまう、というものであった。
シュヴァンは、この細胞内細胞形成を受け入れ、のちには新しい細胞は主として既存の細胞外で発展する、という修正を行いながらも、シュライデンの細胞形成モデルはそのまま引き継ぎ、これが彼らの理論のいちばん大きな弱点となったのである。

種々の動物細胞の観察結果は、1838年1月から相続いて出された3篇の「予報」によって、まず発表された。
この予報の内容を2部にまとめ、細胞説の概要ならびに彼が「細胞の理論」と呼んだものを第3部として加えた著書「動物および植物の構造と成長の一致に関する顕微鏡的研究」は、1839年3月、ベルリンで刊行された。


膠観

2013-06-17 09:00:00 | アルケ・ミスト
細胞中の核(あるいはそれらしきもの)の記載は、レーウェンフック(1702)の赤血球の図にまでさかのぼることができる。

その後、フォンタナ(F.Fontana、1730-1805)は1781年ウナギの表皮の小球(上皮細胞)中に小体(核)を認め、さらにその内部に「しみ(核小体)」を描いたし、ブルキニエは1830年に鶏卵の「肺胞」を発見した。
しかし、広範囲の植物細胞に核が普遍的に存在することを発見したのは、ブラウン(R.Brown、1773-1853)であった(1833)。

ブルキニエ(1836)、ヴァレンテイン(1836)、ヘレン(1837)は、血球や卵以外の動物細胞でも核を確認した。

シュライデンについては、本書の前半でその論文が紹介され、またシュライデンの意義についても佐藤七郎によって論じられているので、ここで繰り返すことは不要であろう。

しかし、シュヴァンとの脈絡でつぎの点はぜひ述べておかなければならない。

それは、
①シュライデンは、細胞はそれ自身が独立の生命を有する個体であり、同時にまた集合・発展して植物体を構成する単位と考えたこと。
②若い細胞中には必ず核が存在することを証明し、また細胞中における核の独特の位置、核の中に小体が含まれることを明らかにしたこと。
③新しい細胞は既存の細胞の内部で発展する。

すなわち細胞内にまず輪郭の明瞭な顆粒(小体)が現われ、そのまわりに細胞核(チトブラスト---細胞芽)が作られ、さらにその上に微細で透明な小胞すなわち細胞が生じる、という細胞形成理論を考えたこと、以上である。



Antoni van Leeuwenhoekアントニ・ファン・レーウェンフック

当時、微細な昆虫は植物種子などから自然発生するものと考えられていたが、レーウェンフックは観察によりこれらの生物も親の産む卵から孵化することを発見した。また、彼が発見した微生物についても、砂粒との類推からその大きさを計算したり、微生物にも誕生や死があることを確認したりしている。赤血球が毛細血管を通ることを示した。

膠観

2013-06-16 09:00:00 | アルケ・ミスト
しかし、彼らのいう「小球」のすべてが、本当に細胞であったのかどうか。
というのは、当時の球面収差や色収差の多い顕微鏡で、どれだけ正確な観察が行われたか、いささか疑問であり、「小球」という名のもとに、脂肪滴あるいは気泡のことを言っていたのかもしれないし、また分解能の低い顕微鏡を使用した際に生じやすい物体のまわりの回析環であったのかもしれなかった。

最初は屈折望遠鏡の分野で開発されたアクロマート・レンズが、顕微鏡にも用いられるようになったのは、18世紀末のことであった。

アミーチ(J.B.Amici、1786-1868)による反射鏡の改良(1820)、リスター(J.J.Lister、1786-1869)の不遊点の発見による球面収差の除去(1830)などの工夫があって、1820-30年代には、顕微鏡の性能は飛躍的に向上した。

生体物の構造のより詳細な研究が可能となり、従来の細胞観は大きく修正を受けることになった。

すでに1827年には、リスターとホジキン(T.Hodgkin、1798-1866)は、改良された顕微鏡を用いて、横紋筋や血管壁が小球ではなく繊維で構成されているのを見いだした。

ブレスラウのプルキニェ(J.E.Purkinje、1787-1869)は、1830年代の初めより、従来使用していた単顕微鏡に代えてアクロマートの複合顕微鏡を用い、絨毛運動の研究を開始したし、ベルリンのミュラー、およびその一門も、改良された顕微鏡をフルに活用することとなった。

これより先、トレヴィラヌス(G.R.Treviranus、1776-1837)その他は、植物の細胞組織は個別の細胞(小胞)に分離しうること、すなわち、それらは従来考えられていたような繊維の単なる網目ではなく、膜で囲まれた小嚢が集合して細胞組織が構成されていることを確認した(1805)。

小嚢と小嚢のすきま(細胞間隙)という概念も提出された。

以上のように、生物体を構成する要素は、概念上のずれを残しながら、「繊維」、「小球」、「細胞」といったことばで呼ばれていたのである。

この辺の状況を、シュヴァンは本書の278頁で次のように述べている。

「要素的部分を、繊維、細胞、管、球体、等々に分類することも、あるいは可能であった。もちろんこの分けかたは、ひとつの自然誌的な分類でしかなく、生理学的な概念規定ではなかった・・・・」。

従来異質のものと考えられていた動物体の基本構造と植物体のそれを対比させる試みも、19世紀の初め以来、なされてきた。

自然哲学者オーケン(L.Oken、1779-1851)は、1805年、高等生物は滴虫類(Infusoria)の集まったものであると論じ、1809年にはそれを小胞ということばで置きかえているが、多分に思弁的なものであった。

デユトロシェは、腹足類の脳とオジギソウの髄の顕微構造には類似性があると述べ(1832)、ヴァレンティン(G.G.Valentin、1810-1883)は鶏胚の血管葉(中胚葉)(1835)、またミュラーはメクラウナギの脊索(1835)が、おそれぞれ植物の細胞組織に類似していることを見いだした。

動植物の組織の発展様式を比較しようとした1837年のヘレン、テユルバン(P.J.F.Turpin、1775-1840)、の研究については、本書の序文で述べられているとおりである。

だがこれらの研究は、シュヴァンも指摘するように、個別の組織を植物組織と比較しただけであり、原理・原則の確立を目指したものではなかった。



膠観

2013-06-15 09:00:00 | アルケ・ミスト
③細胞研究の歴史

動物と植物は、それらを構成する要素となる部分の構造のみならず、要素的部分の成長のしかたにおいても一致がもられる、ということを確認する研究にシュヴァンが乗り出すに至った動機は、換言すれば、彼が当面した細胞研究上の問題点は、彼自らが著書「顕微鏡的研究」の序文および序論の中で述べているとおりである。

しかしながら、彼の著書の意義を明確にするために、本書の佐藤七郎によるシュライデン論の内容と一部重複することは承知の上で、細胞研究の歴史を簡単に振り返ってみたい。


植物組織の顕微鏡的観察の記録は、1664年にさかのぼる。

ロバート・フック(R.Hooke、1635-1703)は盟友イーヴリン(J.Evelyn、1620-1706)の「Sylva(樹木誌)」に化石化した材の顕微鏡観察について寄稿しているが、それと通常の材との構造上の類似点として、「顕微鏡的な孔」(microscopical pores)という表現を用いている。

翌1665年のフックの「Micrographia(ミクログラフィア)」には、化石化した材、木炭の「孔」の記載に続いて、コルクの「細胞」(cell、小部屋)のことを述べ、さらにニワトコはか数種類の植物の髄も同じような構造を有することを確認している。

「孔」と言い、「小部屋」と言う場合には、当然その壁に目が向きがちではあるが、フック自身は、観察材料によっては細胞が汁液で満たされていることに気付いていた。

17世紀で最良の植物解剖図を描いたグルー(N.Grew、1641-1712)は、材の導管を「孔」、髄や今日で言う柔組織の細胞のことは「袋(bladder)と呼び、柔組織全体の様子は、「泡(bubble)の集まり」に例えている(1672)が、1682年には、「髄の袋を取り囲んでいる側面は単なる薄皮や粗い膜ではなく、きわめて細い糸が並ぶか重なりあったものであり・・・・織物の糸のようにひとつの袋から他の袋へと渡っている」と述べている。

この考え方によると、植物組織に単位があるとすれば、それは繊維であり、細胞とは繊維よりなる壁に囲まれた単なる空間に過ぎぬことになる。

確かに植物組織を検鏡した際にまず目立つのは細胞壁の部分である。細胞壁の連続的なシステムによって植物体が構成されているという考えは、一世紀以上にわたって支配的であった。同じような考得方を人体に適用したのがハラー(A.von Haller、1708-1777)であった。

彼は「Elementa physiologiae corporis humani(人体生理学要項)」(1756-1766)の中で、人体を構成する要素として固形部分と液体部分があり、固形部分のもっとも単純な要素は「繊維(fibra)」であると考えた。

「繊維」は糸状とは限らず、小板、鱗片、被膜の形を取るが、この繊維がいろいろな方向に配列し、小部屋(cellula)や網の目状の空間(areola)をはさみ取ったものが、彼のいう「tela cellulose(細胞組織)」であった。tela(tissue、Gewebe)とは、「織物」の意であり、当然のことながら、繊維がその実体であって、「細胞」は、液体で満たされえた単なる網の目であり、その液体は細胞から細胞へと連続したものであった。

一方、顕微鏡研究の当初より、生物体の構成要素として「小球」(granule、corpuscle、Kornchen)または小胞あるいは小嚢(vesicle、utricle、Blaschen)という表現を取ったが、要するに連続した繊維網の単なる空間としての細胞でなく、個別的な構成単位を言い表したものであった。

グルーと同じ時代のマルビーギ(M.Malpighi、1628-1694)は、1675年、植物の花弁が列状に並んだ小嚢(小球)観がもっともよく展開されたのは、遊離した細胞、すなわち血球の観察の場合であった。

血球の発見はスヴァンメルダム(J.Swammerdam、1637-1680)によって(おそらく1658年に)なされたと思われるが、彼の著書「Biblia naturac(自然の聖書)」が刊行されたのは1737年であった。
その中で彼は血球のことを、「小球状の粒子」と呼んでいる。

動物体のいろいろな組織の観察も、17世紀以来、多くの研究者によってなされてきたが、顕著な細胞壁のない動物細胞の記載は、さらに曖昧さを残していた。

レーウェンフックは、ヘラジカの毛、牛乳、人間の爪、いろいろな動物の脳で、「小球」を記載しているし、ヴォルフ(K.F.Wolff、1733-1794)は、後成説確立の契機となった鶏胚の研究(1759)で、動物体は発生初期には、「小球」で構成されている、と述べている。

小球説は19世紀まで続く。

ミルヌ・エドワール(H.Milne-Edwards、1800-1885)は、動物体を構成する種々の部分、すなわち腹膜、結膜、腸粘膜、随意筋、腱、皮膚、脳の白質や灰白質が、小球で構成されていると主張し(1823)、本来は植物学者であったデユトロシェ(R.J.H.Dutrochet、1776-1847)も、「動物体のすべての器官は、塊状になった小球で成り立っている」と一般化をおこなった(1824)。
 







polarization microscope 偏光顕微鏡
通常の光学顕微鏡では、試料の偏光特性を観察(可視化)できない。これは人間の目に偏光特性がないためである(例外的な現象としてハイディンガーのブラシがある)。
偏光顕微鏡を用いると試料の偏光特性を輝度または色の変化として観察が可能となる。
構造上の最大の特徴は、コンデンサ部および対物レンズと接眼レンズ間の二箇所に配置された2個の偏光板である。コンデンサ部の偏光子によって試料に直線偏光を照射することを可能にしている。
1834年または1845年に英国で発明されたとされる[1]。











膠観

2013-06-14 09:00:00 | アルケ・ミスト
シュヴァンは、ひとつの器官または組織の生理学的諸特性を物理学的に測定しようとする最初の実験を、1835年におこなっている。

それは筋肉秤の実験であった。

いろいろな荷重が加わった筋肉が同一の刺激によってどれだけ収縮するかを測定し、また刺激の強さと収縮の度合いを比較した。

この実験は「生理学教科書」に収められたが、デユ・ボア・レモンが強調したように、「生命力を物理現象として調べ、その力の作用の法則が量的に表現された最初であった。」

筋肉に関する実験と平行して、シュヴァンは、消化のメカニズムに関する実験をおこない、胃液の中にタンパク質を消化する物質を見いだし、ペプシンと命名した(1836年)。

彼にとっては、消化は、アルコール発酵と同様に、少量で作用する物質によって引き起こされる有機物の自発的分解であった。

アルコール発酵ならびに腐敗の研究史を詳述する余裕を、今はもたない。

しかし、シュヴァンを語るさいには、けっして避けて通れない問題である。

18世紀中葉のニーダム(J.T.Needham、1713-1781)とスパランツアーニ(L.Spallanzani、1729-1799)の論争以来、微生物の自然発生の有無をめぐる問題が一方にあった。

また他方では、アルコール発酵の原因となる酵母(発酵素フェルメント)は、含窒素有機物質であるという考え方あった。

1810年、フランスのアベール(Appert、1749-1841)が密閉容器中に入れた食品を沸騰水によって加熱して保存する方法を開発した。

ゲー・リュサク(J.L.Gavlussac、1778-1850)が直ちにこれを調べ、容器中に酸素が存在しないことから、加熱は酸素を不活性にすると考えた。

自然発生説の支持者にとっては、酸素が自然発生の一つの条件と考えられたし、また発酵や腐敗は含窒素有機物質が酸素に触れることによって分解され、この分解産物が発酵基質と接触して発酵を引き起こす、と考えられていた。

シュヴァンは、密封して煮沸した肉エキス中には、腐敗も滴虫やカビの増殖も見られないこと、あらかじめ加熱した空気を通じた場合も、これらの現象は起こらないことを確かめ、加熱によって不活性化されるのは、酸素ではなく、空気中の胚種ではないかと考えた。
さらに、アルコール発酵も腐敗と同様に、空気中の酸素で起こるのではなく、空気中に存在し加熱によって破壊される有機体のしわざであることを確かめた。

1836年1月、シュヴァンは自分の実験ノートに、アルコール発酵は生きている有機体のしわざである、という結論を書きとめた。

また同年2月16日のノートには、酵母細胞の増殖の顕微鏡観察が記録されている。

彼は酵母を、カビの一種と見なした。

「ブドウ酒発酵と腐敗に関する研究の予報」と題するシュヴァンの論文は、1837年に刊行された。

同じ頃、フランスの物理学者、カニャール・ド・ラ・トウール(C.Cagniard de la Tour、1777-1859)ドイツの藻類学者キュッツイング(F.T.Kutzing、1807-1893)によっても、酵母は生物であるという見解が、それぞれ独立に発表された。

彼らの研究は、後にパスツール(L.Pasteur、1822-1895)のかの有名な自然発生否定の実験(1860)へとつながるわけであり、科学史上、不滅の意義を有するものであったが、当時は、発酵は含窒素有機物が原因となって起こる非生物的な過程にすぎない、と主張するリービッヒ(J.liebig、1803-1873)の厳しい反撃を受ける結果となった。

これについては、後に述べることとする。
ただ、ここでぜひ付言しておかなければならないのは、シュヴァンによる発酵の研究は、彼の「細胞の理論」の構築に、重要な役割を果たしている、という点である。

すなわち彼は、生物体の個々の要素的部分(細胞)には、無機界における力と同じように無目的的な必然性の法則に従って働く力---造形力と代謝力----があると考えたが、その代謝力を論じる際に、酵母という細胞を例に挙げているのである。(本書312頁)

以上のように、シュヴァンによる筋収縮の研究、消化のメカニズムの研究、発酵の研究は、いずれもすぐれて還元主義的なものであったが、生気論に対する対決は、次の細胞説および細胞の理論でもってクライマックスに達したのであった。

「化学史研究」最新号では黒田光太郎「電子顕微鏡法の化学物質研究への展開」を興味深く拝読した。
それには背景があって、3月の河田聡「ナノフォトニクス 光でナノを見る」その講演の余韻が残っていたからに違いない。


参考記事
ラマン顕微鏡では、ある振動数の光を入れたときに分子振動により生じる微量の光の散乱(ラマン散乱)を検出して分子を区別する。この分子振動を利用する原理が有機合成化学で構造解析に使う赤外分光法と共通し、「私たちにもなじみやすいという印象を持った」(袖岡主任研究員)。調べてみると、袖岡研究室の隣の建物に河田聡主任研究員(大阪大学大学院工学研究科教授)の河田ナノフォトニクス研究室があり、ラマン顕微鏡の研究者である阪大河田研究室の藤田克昌准教授との共同研究が始まった。微小なタグとラマン顕微鏡を組み合わせ、蛍光物質を用いない分子イメージング手法を開発

膠観

2013-06-13 09:00:00 | アルケ・ミスト
この頃のシュヴァンを、同門のヘレンは、次のように評している。

「彼は小柄な人であった。ひげのないあどけない顔は常に笑いをふくみ、髪の毛は黒褐色で縮れず、毛皮のついた服を着け、二流ともつかない料理屋の2階の暗い部屋に住んでいた。

彼は終日そこを出ようともしなかった。
側には数冊の書物と沢山なガラスの皿やレトルトや瓶や管など、彼の手製の簡単な器具が置いてあった。
さもないときは余の思いはあの暗いかび臭い解剖学教室にとぶ。そこで、吾々は夜まで偉大なる吾々の先生ヨハネス・ミュラーの側で勉強したのだった。吾々は英国風にデイナーを夜にしたから、昼間を存分に利用することができた。」

当時、ミュラーは、「人体生理学教科書(Handbuch der Physiologie des Menschen fur Voriesungen)」(1833-40)の刊行に取りかかっていた。

この書は、彼自身の生命観・研究業績を述べると同時に、その時代の知見を集め、批判検討を加え、体系化したものであった。

シュヴァンにゆだねられた部門は、筋肉の構造、運動神経の末端、筋収縮の法則、毛細血管壁、動脈の収縮性、神経原繊維の分裂、切断した神経の再生、神経伝達、腸間膜中のリンパの移動、等々であった。


ところでミュラーは、生物には生命の本質的な条件である「有機的な創造力」があり、また生物体の活動は、部分が全体の目的に従うという合理的な計画の法則によっておこなわれる、と考えた。

すなわち「その多義な言葉の1つの意味において、彼は明らかに生気論者」であり、目的論を容認する立場を取っていた。

しかしながら、「彼の弟子の1人の言によると、師匠はけっしてドグマを教えず、ただ彼自身の方法を教えただけであり、弟子たちは自分自身の理念を作り上げなければならなかった。」

そして、19世紀初頭の物理学・化学の急速な進歩は、ミュラーの弟子たちをして「化学的・物理的基礎において生理学を確立させ、生理学を物理学と同じ科学的地位におくべき」方向に向かわせた。

生気論と訣別し、機械論の立場を取った人びとの隊列の先頭にシュヴァンがいた。

一方、ミュラーは、生物学から離れて次第に比較解剖学に向かうことになる。

Vitalism生気論
ウィリアム・ハーヴィー(1578 - 1657)や、J.T.ニーダムも生気論的後成論を述べた[7]。
17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトは、自著『情念論』(Passions de l'âme 1649年)において、「松果腺からの動物精気が神経を動かし感情が生じる」とした。
化学者ゲオルク・エルンスト・シュタール(1659 - 1734)は、「無機物から有機物を合成できるのは生物のみであり、それは体内の生気が必要であるからだ」と提唱した。これは生気論の根拠として重要視された。
ブルーメンバッハは『形成衝動』(1781)において、生物の形態が物理・化学的な素材や力学的作用因だけでは生まれないとし、生命特有の因子があるとした。





膠観

2013-06-12 09:00:00 | アルケ・ミスト
②ミュラーのもとで

テオドール・シュヴァン(Schwann、Theodor)は、1810年12月7日、当時ライン同盟下にあったヂュッセルドルフの近くの小さな町、ノイスに生まれた。
父親は書籍商、テオドールは、10人兄弟の3男であった。少年時代の彼を特徴づけるものは、内気な性格、勤勉な学習態度、それに、カトリック教徒としての敬虔な信仰心であった。

学校の成績はどの科目も優秀であったが、とくに興味を示したのは、数学と物理学であったという。
1826年、シュヴァンは初めて生まれ故郷を後にし、ケルンのイエズス会派のギムナジウムに入学した。彼の素質から見て、将来聖職に就くことがふさわしいと思われたからである。だが、この学校で、彼の生涯の最初の転機が訪れる。

一教師の影響により、キリスト教的合理主義に目覚め、デカルトやライプニッツの哲学に傾倒していった。
神学を放棄して医学の道へ進むことが決意された。

1829年、シュヴァンはボン大学の医学進学過程に入学した。
ここでは、彼の人生にとって大きな意味を持つ出来事が彼を迎えることになるJ・ミュラーとの出会いがそれであった。

ダンネマンがその「大自然科学史」で「動物学のあらゆる分野を手あたりしだいに征服し、開拓することのできた最後の学者であった。
彼のあとには、同時に形態学者、解剖学者、および生理学者として、大事業をおこなった者は、だれ一人としてあらわてなかった」と評したミュラーの下で、シュヴァンは生理学を学び、実験を手伝った。

1831年秋から1年半、シュヴァンはヴェルツブルク大学でシェーンラインの臨床講義を受け、1833年にはベルリン大学へ移ったが、そこでシュヴァンは、ミュラーと再会することになる。

ミュラーの指導の下にシュヴァンは学位論文の作成に取りかかるのが、そのテーマは、「抱卵中の卵における鶏胚の発生に対する空気の必要性について」というものであった。

1834年、大学を終えるとすぐに、シュヴァンはミュラーの解剖助手となる。
以後ミュラーの下にあった足掛け6年という短期間に、シュヴァンの主要な研究はほとんど出つくすのである。


Muller、Johannes Peter(1801-185)彼自身の学究生活もボン大学で始まった。
彼は1819年、ボン大学医科に入学した。
当時ボン大学では、19世紀ドイツ自然哲学の影響がまだ顕著であった。1923年、ミュラーは学位を得た後、1年半ほどベルリン大学に遊学し、ルードルフィ(Rudolphi、C.A.、1771-1832)の下で比較解剖学・生理学を学んだ。
ルードルフィはストックホルムで育ち、そこの大学で医学を学び、ドイツ流の自然哲学的思考を拒否した人間であった。
ミュラーは1824年、その師の学風をボン大学に持ち帰り、実験に訴える生理学をそこに広めることになった。
24年、同大学講師、26年、員外教授、30年より正教授となった。
ボン大学におけるミュラーは、比較の方法によって、視覚生理学の研究をおこない、「感覚器官の特異的エネルギー説」を唱え、まあ感覚器官は内的刺激によっても特異的な反応、すなわち幻覚を生じるとした。
脊髄の前根後根に関するベル(英、C.Bell、1774-1842)、マジャンディ(仏、F.Magendie、1783-1855)の研究の追試を試み、カエルを用いての実験的研究に踏み出した。さらに、生殖器官の発生の研究から、ミュラー管を発見した。
1832年、ルードルフィが死去すると、ミュラーは文部大臣宛に自薦状を送り、翌33年、ベルリン大学の解剖学・生理学の教授となった。以後ベルリン大学は医学生達のメッカとなり、シュヴァンをはじめ、ヘンレ(J.Henle、1809-1855)、レマーク(R.Remak、1815-1865)、フィルヒョー(R.Virchow、1821-1902)、ヘルムホルツ(H.L.F.Helmholtz、1821-1865)等を輩出することとなる。


膠観

2013-06-11 09:00:00 | アルケ・ミスト
テオドール・シュヴァンの「細胞説」と「細胞の理論」  檜木田 辰彦

①はじめに
筆者は5年前、わが国の高等学校で当時使用されていたすべての生物教科書(13社28種類)について、それらの中に登場する生物学者の名を調べたことがある。

当時の文部省の学習指導要領によると、生物Ⅰの学習を終えた後に生物Ⅱに段階的に移行する生徒もいるわけであるが、その生物Ⅰの教科書14種類の中で、細胞説の創始者としてシュライデン、シュヴァンの名を挙げているのが11種類もあった。

ということは、たとえ昭和48年度実施のこの学習指導要領が、理科の中で「基礎理科」1科目、または物・化・生・地のうちの2科目の選択必修制を打ち出していたとはいえ、高校生物を学ぶ者の大半が、一度はシュライデン、シュヴァンの名を目にするか耳にするかしていたことになり、90%を越える昨今の高校進学率を考えあわせると、かなりの数の国民が「細胞説」について学んだ、といっても過言ではあるまい。

しかしながら、教科書での細胞説の扱いは、「生物体は細胞が集まって出来ている」とか、、「細胞は、生物体の構造上、機能上の単位である」といった説明に終始し、シュライデン、シュヴァンが本当に主張しようとしたことの全容は、教科書には反映されていない。

あるいはそれは当然かもしれない。
彼らの「細胞説」は、その後の生物学の発展に照らしてみるとき、確かに高く評価されるべき一面と同時に、否定されるに至った側面をも有していたからである。

そのためであろうか。
いままでわが国では、19世紀前半の医学・生物学領域のみならず、思想界にも大きな影響を及ぼしたシュライデン、シュヴァンの論文の全貌が、翻訳として紹介されたことはなかった。

なるほど教科書の記載は、----とくにその頁数に制約がある場合には----確立された事実のみを追いがちであるある。
けれども、科学の真の発展のためには、あるいは特定の人物、特定の学説の正当な評価のためには、当然のことながら、肯定されるべき面と同時、否定的な面をも取り上げて批判考察の対象としなければならない。

歴史を学び、古典を研究する意義は、ここに存する。
今回のシュヴァンの「顕微鏡的研究」の拙訳が、そのための一石として役立つならば、訳者の幸せはこれに過ぎるものはない。


温故知新とは、歴史にみる膠観ともいえるらしい!

膠観

2013-06-10 09:00:00 | アルケ・ミスト
しかしながら、いわゆる木化した根は木化した幹がなお茎であると同様に、少なくも根あることには変わりがない。

しかし両者はともにその概念によれば不可分であり、そしてさらに、その植物にとって一般的にまったく付属的な器官である。
そしてそれは表面に1年生個体を作り出して新しい若い個体のすべてをたった1枚の被膜で結びつけているのである。
----樹木は明らかに群体に相応する。
そして私には、それを植物における型とみなすには根拠のないことのように思われる。

それは動物学者がサンゴを動物の個体性の理想型とするのと同じである。

しかしながら、まさにもっとも発達した植物において材茎がもっともよくみられるからといって、このアナロジーが弱められることはけっしてない。

逆につぎのことが正当化される。
すなわち、動物界がある程度まで植物界の植物的な面をうけいれれば、動物界は最下等な動物によって、最高等の植物に接続する。

一方、たえず個体がより純粋に自律的になることによって、高等動物の生命現象のこの植物的半面自体が同様に、より純化されまた洗練される。

木化した茎(根を含む)のこの説明では、この器官が(あたかもそれが有機化された土壌にすぎないかのように)その表面のあらゆる部分において若い植物個体すなわち芽を創生することができるということが少しも明らかにならない。

それは見かけ上、前の根に相応するにせよ、幹に相応するにせよ、どこかある部分から栄養物をこのような芽に輸送する状態であれば、このことは実現する。

他方、植物のこの洗練された概念は、つぎの法則のみちびく。
それは、植物の通常の過程では、根でも節間部分でもなく葉脈だけが芽すなわち側性器官をもった新しい軸をつくりだすことができるという法則である。

自然は構想をもたない下手な芸のように、極端から極端へと動揺するようなことは決してしないが、自然においてはそれを陳腐ななり方で取り扱おうとすれば信じられないような矛盾とまさに驚きそのものとなるであろう。

しかしそうでなければ、次の見解は今まで述べてきたことを確立するのに決定的な役割を果たすことである。

組織化された塊つまり材が分泌されるとすぐに、われわれは形成法則の影響を見落としてしまう。

この法則というのは、それまでは例外なく植物全体のあらゆる部分における成長を規制してきたものである。
-----現在まで知られているかぎりでは、細胞内細胞はない。
初めの微細な小胞の全面的な拡張がなければ、チトブラストがなく、そこから若い細胞の形成もありえない。

むしろ樹皮と総称される外側の細胞層で、いわば単一の大型な細胞間隙の中に、ある種の形成能ある液体(organisierbare Flussigkeit)がひろがる。
この液は一見したところ、まったく突如として広がり、ことごとく新しいまったく独特に作られた、そして相互に堆積しあっている紡錘組織(Prosenchyma)となる。

さらに、程度の低い細胞からは維管束はけっして形成されない。
なぜならば、あらゆる細胞がいっせいに、しかも成長しきった大きさで生じてくるからである。

そして材の(螺旋紋)導管とよばれてきたものと、草本植物の螺旋紋導管との間には、その発生の点においても、またおそらくその生理的意義においても、絶大な相違があるからである。

そのようにして、螺旋紋導管の機能に関して、ときに激しくたたかわされた議論からはなんらの成果もえられなかったし、えられようもなかった。

それは皆が勝手に草本植物あるいは材の螺旋紋導管を考えていたが、草本植物と材とはすこぶる異質のものである可能性をまったく見失ってしまったからである。

すなわち体制化し始めるごく初期のカンビウムを観察するならば、それは一般的にゲラチン状のまったく同様の紡錘細胞でできているのがわかる。

その後まもなく、これらの細胞の縦列が、それぞれいくらか幅を増したのかのようにみえてくる。それと周囲の物質との違いはこの点だけである。

発生が進むにつれて、この膨張した細胞のうちのあるものの壁の上に、数個の黒い斑点が現れる。
やがてそれはその細胞の壁ととなりの細胞の壁との間に生じた小型の扁平な気泡であることがわかる。

たがいに重なりあって並んでいる幅ひろくなった細胞はすべて、このようにしてしだいに変化する。気泡はしだいにはっきりした円形や卵形の形をとるようになる。そしてその中に、さらに小さな環が現われ、しだいに顕著になる。

それは次のように生じてくる。
細胞の内側の壁の上に新しい物質の堆積が起こるが、そのとき外側の気泡に相対する部分には堆積が起こらず、その結果、新たに堆積した物質を貫通する小さな溝ができる。

こうしていわゆる孔紋導管(porose Gefass)が形成されるに至る。

そのときは上に横たわっている二細胞間の隔壁はいくらか吸収されたようにみえる。これは孔紋導管形成のこの過程ですでにシナノキやヤナギで観察されたと思われるが、これは膜孔(Porencanal)が樹液の流通を促進させる役を果たすという一般的な見解とはいちじるしく反する。

気泡が先に壁の外側にできれば、その地点における樹液の通過は不可能となる。したがって膜孔の起原は細胞壁の局所的な萎縮と説明するのがもっとも簡潔で合理的な説明にほかならない。

同時にこのことから、広葉樹と針葉樹の間の解剖学的構造に関する差異はそれほど大きな生理学的意義を有するのものはありえないことがわかる。この場合、差異は同様の要素と発生をもっていて、じつは多孔性の構造となる細胞数の多寡にのみ基づいているのである。

しかしながら、まだ埋めなければならない溝がひじょうに多い。
とくに射出髄(Markstrahl)の起原と材との関係、新しい樹皮の形成、最後に材部(Holzkorper)における芽の発生、これらはさらに広汎な研究を要する問題である。

しかしながら、それら研究の実施のために、遠くない将来、とくにわれわれの同時代人によって、植物の解剖学と生理学の正確な科学的な研究に、喚起し陶酔にみちた熱意が注がれるのが期待されよう。

私はこの覚書で、全力をあげて植物生理学上の興味ある諸問題をより正確に明示することによって将来の解決に一歩でも近づくことを試みた。
これらの観察がドイツの植物生理学者諸氏によって好意的に認められ、かつ速やかに補訂され敷衍されることを望む。



膠観

2013-06-09 09:00:00 | アルケ・ミスト
つぎのことに移るために、ここで2種類の相異なる繁殖様式の説明に入ろう。

繁殖は、植物においても、いままで受精と称されてきた過程、または分裂によって行われる。

受精は性分化の原因とされてきたものであり(ヴィーゲマンズ・アルヒーフ1837、第1巻290頁、その他)、分裂は植物それ自体の上に完全に同一の個体を発生させ、その後、特定の時期にそれを切り離す方式である。

----後者は、いわゆる球根などの形成であり、前者同様、限られた植物においてのみ起こる。

しかしながら、われわれは或る程度これについて心得ておかなければならない。
----この創造は、必ずしも親植物から完全に離れ、ばらばらに散布されるといったぐあいにして行われるのではない。

最も多いのはむしろ、その個体自体の死以前に特殊な器官を形成して、子孫を生きたまま相互に特定の様式で連結しておく例である。

この器官は同時にある量の栄養物質を貯蔵し、この栄養物質によって幼個体の初期の発育を扶助するのである。
しかしこの器官は、たとえば幹や根、あるいはバレイショにおける腋芽(Axillarknospen)などのような、周知の異なる器官の変態にすぎない場合が多い。

科学では次のことを認めるのをためらう者は一人もいなかった。
それは、これから、親個体の死後にも若い個体の結びつけているものとして存続する単なる植物体の部分とみなすことである。

一方これとは異なる解釈もなされた。
それは、幹と根が同時に、したがって植物体の全体性があますところなくこの形成にかかわっている場合である。

そしてこの場合の結果が、おそらく植物の既知の部分の異形成(Heteromorphie)であることは疑問の余地のないところである。

しかしながら、それでもなお、この部分はその前後における意義の生理学的な同一性が確定されたことはない。
そのために不明確になっている。

成書はほとんどすべてこの問題を無視して、あたかも樹木は完全な植物とみなされるべきであるということが、まったく自明のことでもあるかのようにみなしている。

植物生理学がまだまだ誤りにみちている以上この見解は完全に誤りである。

このことを明らかにするのに困難はないと確信する----。

二つの根本的に異なる概念が混同されてきているのである。

それは植物の生命が到達することができる発生の最高の段階と、個体の概念の基礎となるべき型(Typus)とである。

そこで、樹木に関してもし第1の概念が抱かれるときには、第2の概念の適用はいかなる観点からしても完全に破綻する。

そのことはすでにE・マイヤー(「リネア」第7巻、424頁)によってまったく正当に主張されてきたことであった----。

幹上における葉状器官の形式ということは、植物という概念を抱く以上避けられない。
にもかかわらず葉をもっている樹木は存在しない。
----これは逆説的にきこえるかもしれないが、じつはまったく真である。

植物の木化した部分で、たとえそれは第2年目に初めて現れるとしても、葉を形成することはできないというには事実であり、この事実を知らない植物学者はいない。

しかし直接の結論は、一般的にはけっして承認されてはおらず、それゆえに木化した幹が植物の概念に含まれうることはない。

樹木を単一の植物とみなす誤りは、われわれの生理学に数多くの混乱をもたらしている。
またこれらの部分の機能に関して激しい論争がなされてきたが、成果を生むに到らなかった。

それは一方がこういえば他方がああいい、一方が茎について他方は幹について論じ、片方が根の繊維(Wurzelfaser)について語るとき他は木化した根自体(holzige Wuzelkorper)をあげつらっているからである。