⑤ ベルギーへ
シュヴァンの評伝を書いたフロルカンは、その著書の中で、1838年を、「テオドール・シュヴァンの人生の転機となった年」と呼んでいる。
その理由として、合理主義の放棄、ベルギーへの移住、そしてリービヒから受けた攻撃を挙げている。
シュヴァンの旺盛な研究活動は、ミュラーの許にあった1834年から1839年にかけての、足掛け4年間に行われた。
だがこの時期に、プロイセンにおけるカトリックとプロテスタントの対立抗争は次第に激化していく。
1837年には、プロテスタント色の強いプロイセン政府によってケルンの大司教が逮捕投獄されるという事件があった。
この事件がドイツのカトリック信徒たちに与えた動揺は大きかった。
シュヴァンが少年時代には敬虔なカトリック信徒であったこと、その後、キリスト教的合理主義に傾斜し、機械論的な見方に活力を与えられ、そしてその頂点ともいうべきものが彼の「細胞の理論」であったことは、すでに見てきたとおりである。
だが、その「細胞の理論」の発表の準備をしていた1838年こそが、彼の精神の新たな転回----合理主義の放棄----の年となったのである。
フロルカンの著した評伝の中には、シュヴァン自身の内面的な回想の1節が紹介されている。それを要約してみると、シュヴァンは、
「・・・・かつては合理主義に拠ってはいたが、カトリック信者ではあり続けた。パスカルの言う「理性における神ではなく、心の中の感性的な神」への回帰は、・・・・細胞の発見を行った1838年のことであった。その発見は、科学から自発的な力を失わせた。
体の構成や本能をも含めたあらゆる自然現象は、もはや、原子的自然の必然性から起こるもの、すなわち創造全体と調和しているとしか理解できなくなった。
そのとき、私は自問自答した。もしも神が、いま突然蜜蜂に、理性的に考えることができる自由な精神原理を与えたらどうなるだろうか。
蜜蜂は、理性的にこう考えるかもしれない。
「私の先祖は、六角形の巣穴を作ってきた。だが私は、円筒形の巣穴のほうがもっと優れていて、より小さな壁面にもっと多量の蜜が収められることを、数学的に証明することができる」と。
もしも蜜蜂がこのような理屈を述べて、彼の本能よりもこの考えに従ったとすればどうなるか。
それは、蜜蜂という種の絶滅を意味するであろう。
私が合理主義を放棄したのは、このように考えたからである。」
シュヴァンの評伝を書いたフロルカンは、その著書の中で、1838年を、「テオドール・シュヴァンの人生の転機となった年」と呼んでいる。
その理由として、合理主義の放棄、ベルギーへの移住、そしてリービヒから受けた攻撃を挙げている。
シュヴァンの旺盛な研究活動は、ミュラーの許にあった1834年から1839年にかけての、足掛け4年間に行われた。
だがこの時期に、プロイセンにおけるカトリックとプロテスタントの対立抗争は次第に激化していく。
1837年には、プロテスタント色の強いプロイセン政府によってケルンの大司教が逮捕投獄されるという事件があった。
この事件がドイツのカトリック信徒たちに与えた動揺は大きかった。
シュヴァンが少年時代には敬虔なカトリック信徒であったこと、その後、キリスト教的合理主義に傾斜し、機械論的な見方に活力を与えられ、そしてその頂点ともいうべきものが彼の「細胞の理論」であったことは、すでに見てきたとおりである。
だが、その「細胞の理論」の発表の準備をしていた1838年こそが、彼の精神の新たな転回----合理主義の放棄----の年となったのである。
フロルカンの著した評伝の中には、シュヴァン自身の内面的な回想の1節が紹介されている。それを要約してみると、シュヴァンは、
「・・・・かつては合理主義に拠ってはいたが、カトリック信者ではあり続けた。パスカルの言う「理性における神ではなく、心の中の感性的な神」への回帰は、・・・・細胞の発見を行った1838年のことであった。その発見は、科学から自発的な力を失わせた。
体の構成や本能をも含めたあらゆる自然現象は、もはや、原子的自然の必然性から起こるもの、すなわち創造全体と調和しているとしか理解できなくなった。
そのとき、私は自問自答した。もしも神が、いま突然蜜蜂に、理性的に考えることができる自由な精神原理を与えたらどうなるだろうか。
蜜蜂は、理性的にこう考えるかもしれない。
「私の先祖は、六角形の巣穴を作ってきた。だが私は、円筒形の巣穴のほうがもっと優れていて、より小さな壁面にもっと多量の蜜が収められることを、数学的に証明することができる」と。
もしも蜜蜂がこのような理屈を述べて、彼の本能よりもこの考えに従ったとすればどうなるか。
それは、蜜蜂という種の絶滅を意味するであろう。
私が合理主義を放棄したのは、このように考えたからである。」